第14話 虹色デビューライブ

 衣装の試着を終えた後、今日のイベントの流れをもう一度確認してから、十一時半にみんなで揃って事務所を出発した。それから一時間後には、由里佳は一週間ぶりの秋葉原に立っていた。

 五島と岡田の二人は駅を出てすぐに、打ち合わせ通り先に会場の方へ顔を出す、と言って三人と別れた。残された三人は、十三時半の集合予定時刻までにどこかでお昼を済ませる計画である。

「由里佳さんはお弁当があるし、わたし達も何か買って会場の控室で食べない?」

 ここに来るまでに由里佳は持参した弁当のことを話していたので、椎奈はそれを加味して真以子に提案した。

「それが良いと思う」

 時間もあまりないし、と真以子はこっくりと頷いた。

「うん、じゃそういうことで。由里佳さんも良い?」

  

 そういうわけで、そういうことになった。

 途中でコンビニに寄って二人のお昼を買うと、そのまま会場があるビルまで向かった。大きなエレベーターに乗って、上へ。イベント出演者の控室は、屋上にあるステージの真下の、三十階にある。つまり、最上階。

 そのフロアは、どうやら全体が楽屋として使われているらしい。由里佳達に割り当てられた部屋は、広々として十人以上が裕に入れる大きさだ。

 その室内を興味深げに見渡して、三人だけのわたし達には、ちょっと大き過ぎるよね、と由里佳は心の中で呟いた。

「じゃあ、ちゃちゃっとご飯食べちゃお」

 荷物を置くなり、椎奈は買ってきたお握りやらパンやらを袋から取り出して、テーブルの上に広げ始めた。

 由里佳もそれに倣って、カバンからお弁当の包みを取り出す。

 布の包みを解いて、白色の小ぶりで可愛らしい弁当箱を開けてみると、色とりどりのおかずが綺麗に並べられて収まっている。

 中でも目を引くのは、黄色い卵焼き。

 唯一、由里佳が調理に挑戦した一品である。

 もちろん、織部に手取り足取り教えてもらって。

 ――本当はオムレツが作りたかったんだけど。

 これなら由里佳にもうまく出来るよと言って、織部が取り出したのが卵焼き用のフライパンだった。結果的に、形は若干崩れてしまったけれど。味付けの方は教えてもらった通りにやったから、多分美味しいはず。初めてにしては上出来だと褒めてもらえたし。

「美味しそう」

 隣に座った真以子が、由里佳の弁当を見て言った。

「お姉さんが作ってくれたんだっけ? いいなあ――」

 向かい側に座った椎奈も釣られて覗き込み、とても羨ましそうに言う。

 ――お姉さん。織部のことは、そう説明してある。他に良い説明が思い浮かばなかったし、似たようなものだし、実際そう見えると思うから。

 それを聞いて「由里佳さんはやっぱり妹だったんだね。そんな気がしてたんだよ」と椎奈は笑って言った。同じことを最初に会った日にも言われた気がする。

 そんなに妹っぽいのかなわたし、と由里佳は思う。自分では良くわからない。

 姉っぽくはないかなと思うけれど。

「――良かったら、二人にも少し分けてあげようか」

「ほんとに? 良いの? どれでも?」

 由里佳はこくこくと頷いて見せる。

「やった。――じゃあ、わたしは卵焼きが良いな」 

「わたしも」

 ――――、

 そうきたか――。

 それはダメと言うわけにもいかず、

 由里佳は少し緊張しながら、一切れずつ二人に差し出そうとして、

 そういえば、二人ともお箸持ってないけど、どうやって食べるんだろう、と思った。

 手づかみ?

 ――それはどうなんだろう。アイドルとして。

「食べさせてよ」

 その時、椎奈が驚くべきことを口にした。

 心を読まれたようなタイミングもそうだが、それよりも何よりも、その言葉の意味するところを理解するのに数秒掛かって、

「――え?」

 由里佳はお箸で卵焼きを摘まんだまま、間抜けな声を上げた。 

「わたしも」

 真以子が追い打ちをかけた。卵焼きが落ちなかったのは奇跡である。

「だって、まさか女の子に手づかみで食べさせようなんて思ってないよね。ね、早く、冷めちゃうよ」

 そんなもの、作って数時間も経っているのだからとっくに冷めている。

 けれど、そんな単純な事実に気付けるほど、由里佳の思考回路は正常な状態にはなかったので、結局は椎名に押し切られる形になった。

 さもありなん、というやつである。

「――う、うん。ええと、じゃあ椎奈さんから」

 お箸に摘まんだままの卵焼きを、恐る恐る椎奈の方へ近づけると、

 椎奈は自分で、あーん、と可愛らしく言いながら、身を乗り出すようにしてぱくりと一口でそれを食べた。もぐもぐと咀嚼してごくんと飲み込んでから、

「うん、すっごく美味しい」

 満面の笑みである。

 こうなると由里佳は、もう自分が何を恥ずかしがっているのかも良くわからずに、顔を赤くしたまま、もうどうにでもなれという気持ちで、

「――はい、真以子さんも」 

 と言って、隣で期待に目を輝かせている女の子の方へ、摘まみ上げた卵焼きを差し出した。

 ぱくん。もぐもぐ。

 ごくん。

「おいしい――」

 真以子はまじめ腐った顔で重々しく頷いた。

 それを見届けて一仕事を終えた由里佳は、肩から力を抜いて、ふう、と息を吐いた。何だか、ライブの前なのにどっと疲れてしまった気がする。

 気疲れというやつである。

 でも、嫌な疲れではない。

「うんうん、やっぱり由里佳さんのお姉さんが作った卵料理は美味しいね。由里佳さんがオムレツを好きなのも、お姉さんに作ってもらったからなんでしょ?」

 その話は確か、先週あの喫茶店で二人に聞かせたのだった。 

「う、うん。――でも、」

「? でも?」

「その卵焼きは、わたしが作ったの。――姉に教えてもらいながらだけど」

 由里佳はいよいよますます顔を赤くしながら、その事実を二人に告げた。

「え、そうだったの?」

 椎奈は割と本気で驚いているらしい。満足そうな顔から一転して、口をぽかんと開けている。

「――由里佳さんて、お料理できるの」

 真以子も真以子で、意外そうな口ぶりを隠しもしない。

「ううん、ちゃんと作ったのはこの卵焼きが初めて」

「へえ……。初めてなんて、全然わからなかったよ。すっかり騙されちゃった。ね」

 一本取られた、と椎名が笑いながら言って、真以子が頷いた。

 別に騙すつもりはなかったんだけど、と由里佳は赤い顔のまま苦笑する。

「よく見ると形がちょっと歪だし、味が美味しいのは、姉の教え方が良かったからだと思う」

「――まあ言われてみれば。でも、それでもすごいと思うよ」

「そう、かな……?」

「うん、すごい。わたしはこれ好き」

 だって、と真以子は続ける。

「また食べたいと思うから」 

 その言葉に、一瞬ドキッとした。

 治まりかけていた頬の熱が、にわかにぶり返してくる。

「わたしも、わたしもまた食べたい!」

 椎奈が、はいっ、と右手を上げながら言う。

 由里佳は思う。

 可愛い女の子にここまで言わせておいて、期待に応えない人がいるとしたら、それは人間ではない。恐らく、ロボットですらない。

 だから他に選択肢はなかった。少なくとも、由里佳には。

「――えっと、じゃあ、今度二人の分も作ってくるね」

 俯きがちにそう言ってから恐々顔を上げると、

 やったあ、と顔を見合わせて喜ぶ、二人の姿が目に入った。

 そんな二人の姿を見ながら、

 卵焼きだけを作っていくっていうのも、なんだよね――、と由里佳は思った。

 うん、そうだ。

 だから、他にも色々作れるようになろう。

 ――二人が喜んでくれる料理を。

 その時、由里佳はそう心に決めた。


 三人がお昼を食べ終えると、上の方が何だか騒がしくなった。ズシンとお腹に響くような音が、途切れ途切れに聞こえてくる。

 時刻は丁度十三時半。イベント開始の予定時刻である。

 「お、始まったみたいだね。えーと、最初のステージは……」

 椎奈が携帯端末を取り出してRe‐CASを起動して、イベントの情報を改めてチェックした。

 それによると、オープニングステージは今流行りのアニメの主題歌を歌う声優ユニットのライブらしい。その名前を聞いても、由里佳はピンと来なかったが、椎名はもちろん、真以子も知っているらしかった。

 今日は、言わずもがな由里佳達『STAR&LINEミ☆☆☆』スタートラインにとっての初ステージで、正真正銘のデビューライブである。

 けれど、分不相応とも言えるこの会場の大きなステージで、何も単独のライブをやろうというわけではない。複数の歌手やアイドルが出演する歌ありダンスありトークショーありの複合型イベント、その中のワンステージに出演させてもらうという形である。

 この秋葉原においても、今となってはアイドルは日陰の存在らしく、出演者はほとんどが今を時めく声優や歌手ばかりだ。必然、それが目当ての観客が多いわけで、

 一言で言えば、アウェイである。

 けれど、五島に言われせれば、アイドルが好きな人以外にも存在をアピールできる良いチャンスということらしい。

 言いたいことは分かるけど、そんなにうまくいくかなと由里佳は思う。

 少なくとも、多くの人に見てもらえるのは確かだろう。単独のライブをやるよりもそれは確実。そもそも、無名のアイドルグループの単独ライブなんて、お客さん全然来てくれなさそうだし。

 問題は――、

 今日来てくれている人達の印象に残って、アイドルという存在に再び目を向ける切っ掛けになるような、そんなパフォーマンスができるかどうか、ということ。

 それはひとえに、由里佳達の頑張り次第である。

 うまくいくかな、じゃなくて、

 うまくいくように、するんだ。

 ――そう考えて、由里佳は改めて気合を入れた。

  

 「いまRe-CASの予報を確認してみたんだけど、もしかしたらこの後、雨が降るかもしれないんだって」

 椎名が端末から顔を上げて言った。

「――え、でも、朝確認した時は晴れになるって」

「あくまで予報だから、それはまあ変わることもあるよね」

「だけど、雨が降ったらイベントはどうなるの? もしかして中止……?」

「それは大丈夫じゃないかな」

「でも、お客さんがずぶ濡れになっちゃう」

「そっか、由里佳さん知らないのか。――ここはね、雨天でもイベントができるように、開閉式の屋根がついてるんだよ」

「開閉式の屋根……」

「そう、ドームの屋根みたいのがね、こう、両側からニョキニョキって生えてくる」

「屋根が、生えてくる……」

 椎奈は真面目な顔で手ぶりを交えて説明してくれるが、由里佳には正直いまいちピンと来ない。

 難しい顔をして考え込んでいると、

「椎奈の表現が悪いんじゃない」

 真以子の辛辣な意見に、ええー、と落胆した声を上げて、椎奈はくたっとテーブルに突っ伏すようにする。

 かと思いきや、すぐに顔を上げて、

「まあ、見ればわかるよ。百聞は一見に如かず、ってね! いつ降ってきても良いように、今頃もう閉めてるんじゃないかな。――まあそういうわけで、とりあえずイベントの続行には支障ないと思う」

「――そっか、良かった」

 由里佳は、謎の屋根の生態についてはひとまず置くことにして、ほっと胸を撫で下ろした。

「それに、もしかすると悪い事だけじゃないかも」

 椎奈は顎に手を当てて、少し考えるようにしてから言った。

「――どういうこと?」

「あ、うん。それはまあ見てのお楽しみってことで」

 と椎名は悪戯めいた笑みを浮かべてから、

「ほら、そろそろ準備しないとだよ」

「そっか。着替えもあるんだもんね」

 椎奈がカバンから例の包みを取り出しながら、嬉しそうに言う。

「そうだよー。このステージ衣装、やっぱり可愛いよね」

「――うん、わたしもそう思う」

 正直、衣装については複雑な思いがある由里佳である。けれど、可愛いのは素直に認める。それは間違いない。

 それに、衣装に罪はないし。

「由里佳さん、似合ってた」

 真以子がこっくりと頷いて言う。

 お得意の不意討ちである。

 彼女は多分、何らかの特殊な訓練を受けていると由里佳は思う。

「え、えっと。真以子さんの方が似合ってるんじゃないかな」

 由里佳は自分の衣装を取り出しながら慌てて言った。

「二人とも似合ってたよ!」

 と言って、椎奈は物欲しそうな視線を由里佳に向けた。

 顔が熱いのは、多分じっと見つめられたせいだ。

「――椎奈さんも似合ってた。すごく」

 それはもちろん、本心である。

「本当? 由里佳さんにそう言ってもらえるなんて嬉しい!」

「そう言って欲しそうにしてたくせに」

 真以子が鋭く指摘した。  

「――ばれたか」

あはは、と笑ってから、少し真面目な顔に切り替えて言う。

「とりあえず、着替えよっか」


 控室の扉が控えめにノックされた。

 ついで岡田の声で、

「みんな、ちゃんと揃ってるか?」

「揃ってまーす。入っていいですよ」

 椎奈がそれに答ると、

「開けるぞ。――、」

 ガチャリとドアを開けて、岡田が入ってくる。かと思いきや、足を一歩だけ部屋の中へ踏み入れて、ドアノブに手を掛けたままの姿勢で、少し驚いたような表情をしている。

「? どうしたんですか?」

 由里佳は首を傾げるようにして聞いた。

「――いや、なんか本物のアイドルみたいだなって」

「本物ですよう」

「今を時めくトップアイドルを捕まえて、その言い草はどうかと思いまーす」

 真以子がこっくりと頷いて同意する。

「お前ら、今日がデビューライブだろうが。威勢がいいのは良いが、あまり調子に乗るなよな」

 岡田を押しのけるようにして、五島が控室へ入ってくる。

「プロデューサーには言われたくないですけどね」

 椎奈が、ふふん、と挑むような笑みを浮かべて言う。

「ほーん、良いのかそんなこと言って。これやらないぞ?」

 五島が懐に隠し持っていた缶ジュースをちらつかせた。

「えっ、くれるんですか?」

 呆気にとられるほどの変わり身の早さである。椎奈にしっぽが生えていたら、おそらくぶんぶんと振り回しているに違いない、と由里佳は思う。

「いやだから、お前らの態度次第だって話をだな――」

「やったー。プロデューサー、たまには気が利きますね。わたし、見直しました!」

「人の話を聞けよ! ったく、仕方ねーな。ほら、好きなもん選べ」

「わーい! ――ってこれ全部、ドクターペッパーじゃないですかっ!」

「そりゃお前、秋葉原って言ったら、これだろ?」

「知りませんよ、そんなの――!」

 椎奈は軽く目に涙まで浮かべて、抗議の声を上げた。

「わたしは嫌いじゃない」

 そう言う真以子は、心なしか目が輝いている。

「へえ。――わたしは飲んだことないや」

 その強烈な赤色をしたデザインの缶ジュースは、由里佳にはまったく見覚えもないものだ。

「おう、飲んでみろ飲んでみろ。何事も経験だからな」

 そう言って、五島は由里佳に一本差し出して見せる。

「――美味しいんですか?」

 椎奈の反応にただならぬものを感じた由里佳は、恐る恐る受け取りながら聞いた。

「それは、まあ、人の好みは色々だからな」

 歯に物が挟まったような言い方である。

 五島が答えをはぐらかそうとしていることぐらい、由里佳にもわかる。

 けれど、少なくとも、評価が分かれる味だということは察しがついた。後はもう、実際に飲んでみるのが早いだろう。――百聞は一見に如かず、いや、一飲に如かず、と思って、

 由里佳は一つ深呼吸をすると、カシュッとプルタブを引いて勢いよくぐいと呷った。思わぬ飲みっぷりに驚いたのか、五島が、おっ、という声を上げる。

 そのまま一気に三分の一ほど飲み干して、ぷはっと息を吐いた。

 一呼吸分の間があって、

「――どうだ?」

 五島が、ごくりと唾をのむようにして聞いた。

 気づけば、その場の誰もが由里佳の言葉を待っている。その雰囲気に由里佳は気圧されそうになった。

 何だか前にもこんなことがあったような気がする。

「ええと、」

由里佳は首を傾げて、少し考えるようにして、

――何とも表現の仕様がない味であったので、思ったままを素直に口にした。

「わたしはこれ――、結構、好き……かも」




「――聞いたか? お前ら、いよいよ出番だぞ」

五島の言葉に、三人は同時に頷いた。

イベントのスタッフが控室まで来て、『STAR&LINEミ☆☆☆スタートライン』の皆さんはそろそろ移動を始めてください、と伝えた時のことである。

「準備は良いよな? ――じゃあ皆、ステージの方へ行こう」

岡田が先導して控室を出る。真以子がそれに続き、由里佳も動き出そうとして、

「由里佳さん、ちょっと良い?」

 後ろから引き留められた。

「――えっと、何? 椎奈さん」

「うん、実はね。ちょっと提案があって――」


 由里佳は今、舞台袖に立って、自分たちの出番の一つ前のステージを後ろから見ている。その心は、波紋一つない鏡のような水面の如く、どこまでも落ち着いている。

 明鏡止水というやつだ。

 嘘である。

 それは、由里佳の想像の中にいる理想の由里佳の姿であって、現実の由里佳とは全くの別人だ。

 つまり、由里佳は今、

 滅茶苦茶に緊張している。

 心の防波堤は決壊寸前である。

 何とかして、そのもう一人の由里佳に代わってもらう方法はないかと考えている。

 そんなもの、あるわけがない。

 少し前までは、ある程度の緊張を感じながらも、由里佳は比較的落ち着いていた筈である。それが今は見る影もなく、取り乱すというよりもむしろ、不気味なほどに静かに押し黙っている。極度の緊張のせいで、言葉を発する余裕もないのが見て明らかなほどだ。ステージを目の前にして、にわかに緊張が増大したというのも、もちろんある。しかし、ここまではなるまい。

 それというのも、直前に椎奈が持ち掛けた〝提案〟のせいに他ならない。

「――由里佳さん、やっぱりさっきのはなしにしようか」

見かねた椎奈が、そう囁きかけた。

 ううん、と由里佳は首を振る。

 つい先ほど、椎奈の口から唐突にそれを聞かされた時は、

 そんなこと、わたしにはできるわけないと思った。

 でももしできるのなら、やってみたいとも思った。

 だから迷ったけれど、最終的には自分の意思で引き受けたのだ。さっきの今で、やっぱりできない、なんて言いたくはなかった。

「――そっか。ごめんね。急にこんなこと言い出して」

 由里佳はもう一度、ううん、と首を振る。

 確かに急な話で、正直心の準備なんてできてないし、できそうもないけど、それは多分、時間があっても同じだったと由里佳は思う。むしろ時間の余裕があればこそ、考えた後で、由里佳は結局辞退しただろう。

 きっと、椎奈にもそれがわかっていたんじゃないかと思う。だから、あえて土壇場になるまで言わなかった。

 全部由里佳の想像だけれど、恐らくきっと、多分そういうことだろう。

「さっきも言ったけど、もしものときはちゃんとフォローするから大丈夫。そこは安心してね」

 椎奈はやっぱり、とても優しい。

 でも、その優しさに甘えてばかりじゃだめだと思うから、

「――うん、ありがとう。でもわたし、ひとりでできるように頑張るよ」

 一歩間違えれば口から出まかせなその言葉は、不思議と由里佳の覚悟を決めた。

「由里佳さんは平気。だって――」

 黙って二人のやり取りを見ていた真以子が、スッと由里佳に近づいて、手を握った。思いがけない温かで柔らかな感触に、由里佳は驚いてピクッとしてから、やがてその手を握り返した。

「うん、そうだね。わたし達がついてるんだから、由里佳さんは大丈夫だね」

 そう言って椎奈が笑顔を見せた。見ているだけで緊張が解れる様な、そんな笑み。

 ほら、という感じで、椎奈は由里佳の空いている左手の方へ手を差し出す。由里佳がおずおずと手を伸ばしてその手に触れて、握った。すると椎奈はしっかりと握り返した。

 少しだけ違う感触の、けれど同じ温かさが由里佳の両手にある。

 手を繋いだまま、三人は顔を見合わせた。真以子が何故かまじめ腐った顔をして見せて、それが面白くて、由里佳と椎奈も真似をしてみる。まじめな顔で見交わして、やがて誰からともなくぷふっと吹き出した。思い出したようにくすくすと笑って、お互いに笑顔を見せ合う。

 その様子を見ていた五島が、

「お前らなあ、もう少し緊張感ってものをだな――」

 と呆れて言った。

 きんちょうかん。

 何だろうそれは、と由里佳は思った。

 さっきまで十年来の親友みたいな顔で傍にいた、あいつの名前だろうか。

 あいつなら、いつの間にかどこかへ行ってしまった。

 多分そのうち忘れた頃に、いそいそと戻ってくるのだろう。

 だから今は、別に探しに行く必要はないよね、と由里佳は思った。

「もうすぐ前のステージが終わるぞ、すぐ出られる準備しといてな」

 岡田が舞台袖からステージを確認して言った。

「遂に出番だね――!」

 椎奈がとても嬉しそうに言って、真以子がこっくりと頷く。

 由里佳はもう一度二人の顔を見てから、両手に少しだけ力を込めた。

 深呼吸をひとつ。


「――行こう、二人とも!」




 昼頃からじとじとと降り続いていた雨がぱたりと止んだのは、由里佳達の初ステージが終わるのとほとんど同時だった。

 それから程なくして、イベント会場のあるビルから少し離れた路地の一角、トルコ料理の屋台の前で。場にそぐわない恰好の奇妙な取り合わせのふたりが、屋台の主人が設置したと思しき簡易なテーブルとイスに腰かけて、遅い昼食を摂っていた。

 唐突にケバブが食べたいと言い出したのは、もちろん五島である。

 折角だから他のステージを観ていきたい、と客席側に回った由里佳達を会場に残して、五島と岡田が連れ立って外に出たのは三十分ほど前のことだ。

 値段の割に大きく食べ応えのあるケバブを平らげて、一息ついた岡田が言う。

「ようやく一段落って感じですかね。色々と反省するところはありましたけど」

「――まあ結果オーライなんじゃねーか」

 ほぼ同じタイミングで最後のひと口を飲み込んだ五島は、肩の力を抜くようにして言った。

「さっきまで降ってた予報外れの雨のおかげで、観客もほとんど減らなかったしな。今日はツイてたぜ」

「――どういうことです?」

 五島はそんなこともわからんのかという顔をしてから、

「つまりだな。由里佳達の前のステージまでで、イベント前半の目玉は全部終わりだったんだよ。その後は、言ってしまえば余興みたいなステージが続くわけだ。それなら、一時間かそこら会場を離れて、後半の盛り上がるステージまではどこか別の場所で息抜きでもしようと考える観客がいても、不思議はないだろ?」

「――あの会場は、チケットがあれば出入りは自由ですもんね。ところが、雨が降っているせいで外へ出るのを控えた人が多かったと」

 そういうこった、と五島がつまらなそうに言う。

 なるほど、と納得した顔で頷いてから、

「それにしても、由里佳が始めたときはどうなることかと――」

 岡田が思い出したように苦笑する。

「ぶっつけ本番のくせに、意外と様になってたしな」

「しかも〝あれ〟、一体何ですか? いきなり過ぎて唖然としましたよ」

「傑作だったな、〝あれ〟は。――俺はてっきり、お前の仕込みかと思ったぞ」

 五島が、くっくっ、と笑いながら言った。

「わざわざあんなプログラムを組んだって? そんなわけないですよ。――よくわからないですけど、なんか評判良かったみたいで、ほら、ネットでもちょっと話題になってるんですよ」

 岡田は取り出した携帯端末を操作して、Re-CASの画面を五島に見せた。

「ほおう。なかなかどうして――」

 画面に映る由里佳の姿を見ながら、

 持ってるかもな、あいつ、と五島は呟いた。

「? 持ってるって、何をです?」

 聞き咎めた岡田が怪訝な顔で問うと、そのぐらいわかれよという顔をしてから、

 五島は視線を上にあげて、少し眩しそうにしながら言う。

「――そりゃお前、」

 

「アイドルの素質、ってやつをだよ」


 五島が似合わない顔で見上げた空の向こうに、雲の切れ間から覗く青を背景にして、うっすらと大きな虹が掛かっている。

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