第13話 お揃いのワンピース
六月二十二日、日曜日。曇りのち晴れ。
天気予報によれば、朝から続く曇り空はお昼頃から晴れ間へと変わり、連日の夏日に比べて少しだけ過ごしやすい日になるだろうということだった。
デビューライブの当日である。
由里佳はこの日、朝六時に起床した。
覚醒しきらない頭で、枕元の時計で時刻を確認して、うん、と頷いてから、違和感に気付いてもう一度確認した。やっぱり六時。正確に言えば午前六時三分。
あれ――、と由里佳は思った。
昨晩の就寝前に、明朝八時に自動的に起動するようにブートスケジュールを設定したのだが、それよりも二時間も早く目が覚めたことになる。
やろうと思えば自分で自由に起床時間を設定できる由里佳は、寝坊とはおよそ無縁のはずである。けれど、設定時間よりも早く起きることがあるのなら、もしかするとその逆もあるかもしれない。その可能性に気付いて由里佳は、
寝坊するロボットってどうなんだろう――。
朝から哲学的な問いに頭を悩ませることになった。
ありかなしかで言えば、多分なし。
だけど、
でもまあ個性的という意味では、ありかもしれない。
そんな風に自分を納得させて、ベッドから起き上がる。
寝直すという選択肢もあったが、今度こそ本当に寝坊するかもしれないと考えてやめた。最悪、織部が起こしてくれるだろうとは思うが、寝坊した上、保護者(のようなものであるが)に起こされるロボットなんて、ありなし以前に格好がつかないことこの上ない。
由里佳は立ち上がって、窓際まで来るとそこにかかっている淡いパステル調のカーテンをシャッと勢いよく引いた。普段なら途端に明るくなる日当たりのよい室内が、今日はまだ薄暗い。窓の外に目をやると、いつも通りの街並みの上に、いつもとは違う鈍色の空がどこまでも広がっている。
何のことはない、天気予報通りの曇り空である。
けれど、青空に慣れた目にはそれがとても新鮮で、見慣れたはずの景色が、どこか遠い国の風景のようにも見える。
一面の曇り空というのはもしかしたら初めて見るかもしれない。
わたしが起動してからずっとお天気続きだったけど、どうかな、一度くらいは曇りもあったかもしれない、と由里佳は思い出そうとして、思い直してやっぱりやめた。
新しいことが始まるはずの今日という日には、目新しいこの景色が相応しく思えたから。
その新鮮さをそのままにしておこうと思った。
たとえそれが曇り空であったとしても、由里佳はそんなことは気にしない。
それに今日は、お昼頃から晴れて来るらしいし、丁度ライブをやる時間には良いお天気に変わっているはず、と前向きに考えている。
由里佳は、窓の外を見ながら、よし、と小さく気合を入れた。
姿見の前に立って、乱れた黒髪を櫛で数回ブラッシングする。なかなか取れない頑固な寝ぐせは後に回すことに決めた。
そうして、軽く身支度を整えると自室を出て居間へ向かった。
『由里佳、もう起きたんだ』
やはり薄暗い居間に足を踏み入れると、片隅に置いてある平べったい円型の物体が口を聞いた。
同居人(ロボット)でヒエラルキー的には由里佳の上位に位置するところの『イコ』である。
口を聞いた、とは言っても、彼には音声による発話機能は搭載されていないので、代わりに標準装備されている無線による電波を使って、由里佳と〝会話〟している。
「おはよう、イコ。電気着けて」
イコには外部の音声を認識する入力装置が備えられているので、由里佳は普通に言葉を返した。やろうと思えば、由里佳自身も電波を飛ばして、音声によらず会話することも可能ではある。しかし、二台のロボットが向かい合って無言で会話しているというのは、同居人の織部にとってあまり気味の良い光景ではないだろうという配慮から、普段は行わないようにしている。
一瞬だけ間が空いて、部屋がパッと明るくなった。イコが照明を遠隔操作したのである。
「あ、あとテレビも」
今度は、一瞬の沈黙の後に電波が返ってきた。
『由里佳は本当にロボ使いが荒い』
「だってそれが君の役目でしょ」
『――――――――』
イコはわざと、無言の電波を送りつけてきたらしい。せめてもの意思表示だろうか。味なことをするなあと由里佳は思った。彼は何かにつけて、由里佳に突っ掛かるようにする。初めて会った時からそうだった。最初は面食らったものだが、慣れた今では、その素っ気ないツンケンとした態度が、何だか可愛く思える由里佳である。
たぶん素直じゃないだけなんだと思う。
それが証拠に、数秒してテレビが着いた。
イコは何も言わず、身じろぎ一つしない。
何か言い忘れていることはないか、という風に由里佳をじっと見ている(イコにはそれとわかる目というものが存在しないので、そんな気がするだけだ)。
あ、そうそう――。
由里佳は言い忘れていたことを思い出して口にした。
「天気予報が見たいな」
『――、――――――――!!』
何やら言葉にならないような叫びが電波に乗って来た。
すると、ぱっぱっぱっと、やけくそのようにチャンネルが高速で切り替わった。
この時間に放送されているいくつかの天気予報が、次々に表示されては消える。
『――どれが良い?』
イコが意地悪く言った。画面は未だに目まぐるしく入れ替わっている。
由里佳は、その常人よりも優れた動体視力で一瞬だけ映る映像を見て取って、
「えっと、じゃあそれ。そのお天気お姉さんが一輪車に乗りながらジャグリングしてるやつ」
『そんな天気予報ないよ!』
イコの鋭いツッコミを受けた。
『――もう、これでいい?』
丁度良く関東近辺の予報を流していた番組を表示させて、イコが呆れた風に聞いてきた。
「うん、だいじょうぶ」
由里佳は頷いてから、イコに笑いかけた。
「ありがとう、イコ」
すると、イコは、
『別に、これが僕の役目だから』
ぶっきらぼうにそう言って黙りこくった。心なしかそっぽを向いているような気がする(やっぱり気がするだけだが)。
その様子に思わず頬を緩ませていると、由里佳の後ろで居間の扉が開けられた。
ガチャという音がして、
「あれ、のの。もう起きたんだ」
扉を開けたまま足を止めて、意外そうな目を向けているのは、同居人で由里佳の保護者役の織部だ。
「おはよう、織部さん。うん、ちょっとね。」
由里佳は振り向いてそう言ってから、くすりと笑う。
「そっか。うん、おはよう。――どうしたの急に笑ったりして」
「あ、ううん。織部さん、言ってることがおんなじだと思って」
「? 誰と?」
由里佳は、壁際で不貞腐れているロボットを目で示した。
「――ああ。仲良いよねふたりとも。わたしはイコの言ってることがわからないから、そんな感じがするだけだけど」
織部は部屋に入ってドアを閉めると台所の方へ向かった。
「うーん、それはどうかな?」
由里佳はイコの方をちらっと見た。
イコは知らぬ存ぜぬと、まったく無言を貫いている。
「ノーコメントだって」
由里佳が言うと、織部が、なにそれ、とさも愉快そうに笑った。
それから、
「昨日も確認してなかったっけ?」
居間と台所を隔てるカウンターから顔を出し、織部はテレビの方を向いて言った。
――あ、そうだ、天気予報。
「もしかしたら変わってるかもって思ったら、気になっちゃって。えっと、――東京の天気は曇り後晴れ。うん、昨日とおんなじだ」
「ののって心配性?」
「そういうのじゃない、と思うけど――」
由里佳は少し自信なさそうに言う。
「ふうん、そっか。まあでも、気持ちはわかるよ。いよいよだもんね」
そう言いながら、カチャリと冷蔵庫を開ける音がする。
「――織部さん、なんか作るの? 朝ご飯、にしてはちょっと早いような気がするけど」
「うん。のののお昼用に、お弁当作ってあげようかと思って」
「わたしの?」
「そうだよー。他に誰もいないもん」
「やった、嬉しいな。――早起きしたから時間もあるし、わたしも何か手伝いたい」
「――そう? じゃあ一緒に作ろ」
それから一時間ほど掛けて、由里佳は織部を手伝い、一人分のお弁当と二人分の朝食を作った。とはいえ、由里佳が任されたのは主に食材を切ることで、調理はほとんど織部がやった。由里佳が指をくわえて、慣れた手つきでフライパンやお玉を振るう織部を見ていると、また今度時間があるときに、ちゃんと教えてあげるね、と言ってくれた。
だから由里佳は、それだけで満足だった。
お弁当を作り終えた後で、二人で一緒に朝食を食べた。由里佳が切った味噌汁の具は、大きさが不揃いで不恰好だったけれど、味は美味しかった。それから余裕をもって身支度を済ませて、今、時刻はもう少しで九時になるというところ。
「それじゃあ、そろそろ行ってくるね」
居間のテーブルに座って織部が淹れてくれた紅茶を飲んでいた由里佳は、時間を確認して、紅茶の残りを飲み干すと椅子を引いた。
立ち上がった由里佳を見て織部が、
「あ、のの。ちょっと待って。後ろ向いてみて」
「? えっと、こう?」
何だろう、と思いながらも由里佳はその言葉に従った。
「後ろ、ちょっと寝ぐせが残ってる」
「え、ほんとう?」
「櫛持ってる? 貸して。直してあげる」
由里佳が頷いて、肩掛けのカバンから櫛を取り出して渡すと、織部は由里佳の髪を梳った。
「――なんだかくすぐったい」
織部に背を向けたままもぞもぞとすると、ほら動かないで、と後ろから声がした。
誰かに髪を触られるのは初めての経験だったから、初めは違和感が大きかった。けれど、それもすぐに気にならなくなった。慣れてしまえば、織部の細い指がスッと髪の間に入り込む感触は、何とも言えず気持ちが良い。
「水つけなくても平気?」
「ちょっとだけだから多分平気」
最後に数回櫛で梳いてから、うん、これで大丈夫、と言って織部は櫛を返した。
ありがとう、と由里佳はその櫛を受け取ってまたカバンにしまった。
正直、少し物足りない気分である。もう少しだけ、織部に髪を梳いていてもらいたかったと思う。けれど、そろそろ出発しないと、折角早起きしたのに意味がなくなってしまう。
「忘れ物とかない?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、気を付けて行ってきてね。ライブ応援してるから」
「織部さんも後で見に来てくれるんだよね?」
少し考えてから織部が答える。
「ののが嫌じゃないなら」
「嫌なわけないよ」
由里佳は即答して笑顔を見せた。
すると、織部も嬉しそうな顔をして、
「そっか。それなら、お言葉に甘えて観に行こうかな。のの達のステージは三時からだよね」
「うん、そう。絶対来てね、待ってるから。――、っとそろそろ本当に行かなきゃ」
「いってらっしゃい」
いってきます、と居間のドアを開けて玄関へ続く廊下に出る。
玄関で靴を履いて立ち上がり、ドアのロックを解除しようとして、気配を感じて後ろを振り向いた。
果たしてそこには、平べったくて円型のロボットが所在なさげに佇んでいる。
「――あれ、イコがお見送りしてくれるなんて珍しいね」
少し待ってみたが、返事はなかった。
由里佳はふふ、と微笑みを浮かべてドアを開くと、
「ばいばい」
小さく手を振って、外へと踏み出した。
目の前には、自室の窓から見たのと同じ白と灰色の中間ぐらいの空が、遥か遠くの彼方まで、どこまでも続いていた。
事務所に着くと、珍しいこともあるもので、朝から五島と岡田が揃って由里佳を出迎えた。
少しして、椎奈と真以子も到着した。
この日、初めて揃った三人の前に、これが今日の最初の仕事だ、と言って岡田が包みを取り出して渡した。
何だろうと、包みを開けてみると、出てきたのは一着の洋服だった。チェック柄で控えめなデザインの、ハイウエストのワンピース。
「わあ、ステージ衣装、ちゃんと間に合ったんですね」
椎名がはしゃいだ声を上げる。
――ステージ衣装。
そんなものが用意されていようとは、今の今まで、由里佳は思いもよらなかった。
由里佳は傍目に見てもぽかんとした顔をして、取り出したままの衣装に目を注いでいる。
「多分問題はないと思うけど、一応袖を通して確認して欲しいんだ」
岡田がそう言うのも、まったく全然聞いちゃいない。
「どうした由里佳、ハトが豆鉄砲を食らったような顔して。お前、まさかそのままの恰好でステージに立つつもりだったのか?」
由里佳の様子に気づいた五島が、いつもの調子で揶揄する。
「――だって、全然聞かされてなかったから。二人は知ってたの?」
「それはまあ、アイドルって言ったらやっぱり衣装は重要だし。それにほら、ちゃんと採寸もしたしね」
「――え、いつの話?」
由里佳は思わず声を上げた。
「いつって、このグループに入って、すぐの頃かな。だよね」
真以子がこっくりと頷く。
「――由里佳さんもしたんじゃないの?」
椎名が怪訝な顔で問う。
「え、ええと、そういえばそんなこともあった、ような――」
嘘である。
由里佳にはまったく、そんな覚えはこれっぽっちもない。けれど、その理由はすぐに思い当たった。つまり、由里佳に関しては、採寸なんてする必要がなかったのである。なぜって、由里佳の身体が製造された『製品』である以上、必要な情報はすべて、カタログスペックとして一から十まで把握されているから。
おそらくそこには、〝それ以上〟のことも載っているに違いない。どこまで知られているのかなんて、正直考えたくもない。
今更ながらに、自分でも知らないようなプライベートな情報まで握られているという、十五歳の女の子としては衝撃的かつ致命的な事実を認識して、この時由里佳は打ちのめされそうになった。
おまけに五島は、おいおい、しっかりしてくれよ、なんて嘯いている。
由里佳は無言で、五島をじっと睨みつけた。視線の出力を変更する機能が付いていたら、今すぐリミッターを解除するのに、と忸怩たる思いで。
その殺気すら籠った様な視線に気づいた椎奈が、その意味までは悟れずに、やはり不思議そうな顔をしながら、
「? ――とりあえず着てみようよ。奥使わせてもらって良いですよね」
「――ああ、もちろん。皺つけたりしないように気をつけてな」
そして――、
初めて袖を通したステージ衣装は、思いがけないほどに可愛らしくて、悔しいほどに由里佳にぴったりだった。
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