第12話 冴えたやり方

 カチャリとフォークを置いて、紅茶を一口飲んでから、ふうと一息ついた。

 強面の店長が作るオムレツは、本当に美味しかった。

 ほっぺたが落ちる機能が実装されていなくて、本当に良かった。

 まあ流石にそんなのありえないけど。

 ――いやもしかしたら、あり得ないとは言えないかも? いやいやまさか。

 今度五島を問い質して、そのあたりのことを洗いざらい話してもらおうか。そんな益体もないことを由里佳が考えていると、

「あー、お腹いっぱい」

 椎名である。

 見ると彼女の前に置いてあるパンケーキの皿は、いつの間にか空になっている。どうやらすべて食べきったらしい。店長おすすめのそれは、五枚重ねという大ボリュームの業物であった。三人で分けてもかなりの量だ。由里佳と真以子の二人で三枚を食べ、残りを椎名が食べた。

 バターとメイプルソースをかけて食べるオーソドックスなスタイルで、素朴な味わいがとても美味しかった。由里佳の頭の中の〝好きなものリスト〟にパンケーキが加わったのは言うまでもない。でもやっぱり、どちらか選べと言われたら、由里佳はオムレツを選ぶ。

 だってあのふわとろ具合ときたら――。

 味付けは、織部が作ってくれたものとも少し違くて、どちらも甲乙つけがたいと由里佳は思う。

 どうしよう、思い出したらもっと食べたくなってきた。

 いっちゃうか、もう一皿。

 いっちゃう? 本当にいっちゃうのかわたし――。

 ええい、ままよ――――。

 由里佳がまた暴走し始めるその寸前に、それを思いとどまらせたのはやっぱり椎奈だった。

「――来週はいよいよデビューライブだね」

 椎奈の一言で、由里佳は夢の国オムレツから現実に引き戻された。

「今日ステージで合わせたでしょ、あれ結構良かったと思う」

 その言葉に同意するように、真以子がこっくりと頷く。

 彼女はあの後、注文を取るなりまたどこかへ消えて、戻ってきた時にはもうエプロンを脱いでいた。本当に、ただ由里佳と椎奈を驚かせたかっただけらしい。それからはもうただの客として、一緒に食べたり飲んだりしているのだった。

真以子はまだ食べている途中の例のパンケーキをもぐもぐと咀嚼し、飲み込んでから言う。

「手応えあった」

 左手の親指を立てて見せる。

「うん。今日の調子でいけば、本番も絶対成功するよね。ね、由里佳さんはどうだった?」

 話を振られて、由里佳は少し迷ってから口を開く。

「――えっと、わたしは、ステージの上に立ったら少し緊張しちゃって」

「あー、そういえば」

 あれ緊張してたせいだったんだね、と椎名は納得顔をした。

「――でも、ダンスはちゃんと踊れてたじゃない」

「うん。でもね、本番はお客さんが目の前にいると思うと、ちゃんとできるかどうか心配で」

 由里佳のダンスは目下のところ、岡田の組んだプログラムによる自動制御である。しかしそれは、いつも判で押したように同じパフォーマンスを発揮するということを意味するわけではない。例えば過度の緊張などは筋繊維の制御に遅延を生じさせ、その動きを阻害してしまう。

「うーん、由里佳さんは本物のステージに立つのは今日が初めてだったんだよね。あそこはかなり大きい方だし、気圧されちゃうのも仕方ないよ」

 椎名が右手を顎に当てて少し考えてから言った。

「うん。あんなに大きなステージに立つとは思わなかったから」

「そうだね、わたしも最初はもっと小さなステージでやるかと思ってた。びっくりだよね」

 あはは、と笑いながら椎名が言う。

「わたしと真以子はあの会場でライブをしたことも何度かあるけど、やっぱり最初は少し緊張したかな」

「でもすぐ慣れる」

「うんうん。それにほら、大丈夫、わたし達がついてるから。――ね?」

 そう言って、椎名はとびきりの笑顔を見せた。

「――うん、ふたりとも、ありがとう」

 そして由里佳は、

 このふたりとならきっと平気。

 大丈夫、ちゃんとやれる、と、そう思いを新たにするのだった。 


 紅茶を飲みながら他愛もない話に花を咲かせていると、あっという間に入店してから一時間以上が経過していた。店内から見える外はまだ明るいが、ほんの少しだけ夕暮れの気配を感じる。

「そろそろ出よっか」

 と椎名が提案したのは、由里佳が真以子に教えてもらいながらあのRe-CASというSNSのアカウントを作り終えて、一息ついたところだった。

 反対する声はなかった。

 だから、今しかない、と由里佳は思った。

「――あのね、良かったら、また三人でここに来ようよ。そういえば、ほら、この前東雲さんとは一緒にカラオケ行けなかったし。あの時も、今度三人で行こうねって話してたの」

 噛まずに言えた。

 まるで用意していたように、由里佳は一息で言い切った。

 まるでも何も、実際用意していたのである。

 切り出すタイミングを計っていたのである。

 真以子に手取り足取り教えてもらっている間もずっと。そのせいでうっかり話を聞き流して、もう一度説明してもらうということも度々だった。

 真以子には悪いことをしたなと思う。

 そして、言い出せずにいるうちに、もう後がなくなってしまったというだけのことだった。

 つまり背水の陣である。

 決死の覚悟なのである。

「ね、どうかな。東雲さん」

 勢いに任せて由里佳はぐいぐい押す。一度口に出したが最後、もうとことんまでやってやるという意気込みは伊達ではないのだ。

 真以子は思わず目を白黒させて、

 助けを求めるように椎名に視線をやるが、彼女は何も言わず、面白そうな顔をして二人の様子を見ているだけ。

「オムレツはすごく美味しかったし。東雲さんのエプロン姿は可愛かったし、また食べたいし、もう一度見たいの」

 由里佳はずいと顔を近づけるようにしながら息せき切って口走った。

「だから、あのね――」

 ずずい。

 その時、「もうそのぐらいにしてあげて」と椎名の苦笑交じりの声が掛けられた。

「そういう熱烈なのは、真以子もあまり慣れてないみたいだから」

 言われてふと気づくと、真以子は俯いて顔を赤くしている。

 ――なにそれ、可愛い。

 危うく、変なスイッチが入るところだった。

 あぶない、あぶない。

 恥ずかしがっている真以子というのはとても新鮮で可愛くて、いつまでも愛でていたいと由里佳は思う。よっぽどそうしようかと思ったのだが、けれど、今は別の目的があるのだ、と考えてようやく思いとどまった。

「――ええと、その、急にごめんね」

 内心を包み隠して、由里佳はひとまず己の狼藉を詫びることにした。

「ちょっと、驚いただけ」

 ううん、と首を振ってから由里佳を見て言う。その顔はまだ少し赤いまま。

「でも、そこまで言ってくれるなら、わたしもまた一緒に来たい、かな」

「! 本当に?」

 由里佳の耳がぴょこんと跳ねたような気がした。そんな機能は付いていない筈だが、確かにそう見えた。

「うん、本当」

「一緒にカラオケも行ってくれる?」

「うん」

「どこか他の場所でも良い?」

「うん」

「ええと、それならどこがいいかな。三人一緒に楽しめるところ……。――ね、椎奈さんはどこがいいと思う?」

 わあ、と胸の前で両手を組むようにしながら、また成り行きを見守っている椎名に問いかけた。

 思いがけずトントン拍子な成り行きに、由里佳は完全に舞い上がっている。  

「――うーんと、そうだね。それについては、またおいおい考えるとして。とりあえず、来週のライブが終わったら、またここに来るってのはどうかな?」

「それはだめ」

「? どうして?」

「このお店、営業が不定期だから。来週の日曜はやってない」

「えええ……。そっか、そうなんだ――」

 こんな辺鄙な場所にあって、営業も不定期、そりゃお客さんもいないわけだよね、と椎名は納得せざるを得ないという顔をした。

「それじゃ、次にわたし達が来れそうな日はいつやってるの」

 気を取り直して椎名が聞くと、見てみる、と真以子は携帯端末を取り出して何やら確認し始めた。

 ――〝いま〟だ。

 ロボットもを受け取ることがあるとしたら、おそらくこれがそうに違いないと由里佳は思った。だから、行動に移そうとした時には既に口が開いていた。 

「あのね、わたしも二人の予定が合う日とか知りたいし、そしたらお互いに便利だと思うし、……その、連絡先、教えてもらえたり、しないかな」

 語尾の方は恐る恐ると言った風で、椎名と真以子の顔をちらちらと窺いながら、由里佳はついにその言葉を口にした。  

「え、うん、もちろん。――っていうか、まだ交換してなかったんだっけ?」

 虚を突かれたような顔をした後で、果たして椎奈は、ごめん、すっかり忘れてた、と頭をかいて笑った。

「わたしも野々川さんの知りたい」

 真以子の言葉は反則だった。

 手に持った携帯端末をこちらに向けて、野々川さんのは? と首を傾げている。由里佳は慌てて自分の端末を取り出すと、真以子の持っているそれに近づけて、通信開始のボタンを押した。ピコン、という可愛らしい音がして、連絡先が無事に交換されたことを示すメッセージが表示される。

 すると、わたしもわたしも、と言って椎名が取り出した端末を由里佳の方に差し出した。

 同じようにして、もう一度ボタンを押す。

 ピコン。

 呆気ないほど簡単に、その〝儀式〟は終わった。

 由里佳は表示されたメッセージを見て、ほう、と小さくため息を吐く。何だか達成感がすごい。

「ふふ、これで由里佳さんに悪戯電話も掛け放題だね。由里佳さんが寝てる時とか、お風呂入ってる時とか」

 椎奈が悪戯な笑みを浮かべて言う。

「うん、いいよ。お風呂にも端末持って入るから。掛けて掛けて」

「ええっ、冗談だよー!? 本気にしないで」

「わたしも冗談」

そう言って、由里佳は今日一番の笑顔を返した。

 それを見て椎奈は、思いがけないものを見た、という顔をした。

 そんなことには気づかずに、由里佳は端末の画面に表示された『東雲真以子』という文字を目で追って、指でなぞって、唇で形作る様にした。

 もうひと頑張りかな、と思う。

 ――決めた。やろう。

画面から顔を上げると、同じように端末を見ている真以子に声を掛けた。

「あのね、東雲さん」

 どうしたの、と顔を上げた真以子が、小首を傾げて続きを促す。

「真以子さんって呼んでもいい?」

 直球である。

 真以子は、一瞬だけ驚いた顔を見せた後でこっくりと頷いて、それから由里佳の目を見て言った。

「わたしにも由里佳さんって呼ばせて」

 良い? と首を傾げた後で、少しはにかんだような笑みを浮かべた。

 答えは考えるまでもない。

 だから、

 うん――! と、 由里佳はもう一度、今日一番の笑顔をして見せた。




 さっきから、由里佳は何度も携帯端末の画面を見ては、気を抜くとにやけそうになる顔を必死に引き締めている。正直なところ、努力をしているのは分かるのだが、引き締める方が少し遅れ気味である。

 もう穴が開いてもおかしくないその画面には、既に見慣れた文字列が並んでいる。

 『万木ゆるぎ椎奈』と『東雲真以子』。その二つの連絡先が由里佳の端末に登録されてから、まだ一時間も経っていない。そして今のところ、少し前に別れたばかりのふたりに、特に連絡を取る必要があるわけでもない。そもそも、そこに表示された番号もアドレスも、由里佳はもうとっくに何も見ずに空で言うことができる。じゃあ何のために見ているのかと言えば、そこはそれ。本人に聞いたからと言って必ずしもわかるというものばかりではない。何しろ声を掛けたとして、それに気づいてもらえるかどうかすら怪しいぐらいなのだから。 

 あの後、連絡先を交換し終えた三人は、かねてよりの内決め通りに割り勘で支払いを済ませ、喫茶店を後にした。強面の店長はやはり終始無言で、最後に一言だけ、またのお越しを、と言って三人を見送った。そして、その後は寄り道もせずに来た道を駅まで戻り、そこで椎奈と真以子に別れを告げて、由里佳は一人だけ別の方向の電車に乗った。十六時四十一分発の見慣れた黄緑色の電車に乗って揺られること十五分。

 つまり、由里佳は今電車に乗っていて、自宅の最寄り駅はもうすぐそこというところである。

「次会うのは、ライブの当日になるかな?」

 椎奈が別れ際にそう言った。

「うん。多分、そうなるのかな」

 由里佳は少し考えてから答えた。

 もちろん、その前に会おうと思えば会うことはできるかもしれないけれど、それは何か違う気がした。ライブの前にやっておきたかったことは、今日、全部やり終えることができたから。だからこの次はライブを終えた後で、三人一緒に、また思う存分仲良く遊んだり、おしゃべりしたりしたいな、と由里佳は思った。

 ほら、それに、今のうちにどこに遊びに行くかとか、色々と考えておかなきゃいけないし。

「ライブ頑張ろうね」

 別れ際に椎名が、由里佳と真以子を順に見て言った。

 由里佳は、うん、と返し、真以子がこっくりと頷く。

「由里佳さん」

 真以子が由里佳の名前を呼ぶ。そう呼ばれるのはまだ慣れない。

「うん? 何、真以子さん」

 そう呼ぶのも、やっぱりまだ慣れない。 

「今度、一緒に出掛けるの楽しみにしてる」

「――うん、わたしも」 

「さて、そろそろ電車が来るからわたし達は行くね」

 椎名が携帯端末で時間を確認してから言った。

「ばいばい、由里佳さん」

「またね、二人とも――」

 そうして、もう少しだけ一緒にいたいな、と後ろ髪を引かれる思いを残しながらも、由里佳は歩き出して、エスカレーターでホームへと上がり、この電車に乗った。

  

  端末の画面を見ながら、ふと、二人は今頃どうしてるかな、と由里佳は思った。

  やっぱり電車に揺られているんだろうか。きっと、二人とも同じ電車の、同じ車両の同じ場所に、寄り添って立っているに違いない。もしかしたら、丁度良く座席が空いて、隣同士で座っているかもしれない。

 自分がそこにいない光景を思い浮かべる。

 由里佳はにわかに、切ない様な焦がれる様な、そんな名状し難い気分に襲われた。こんな気持ちは、初めてだった。

 二人でどんなことを話しているのかな。

 わたしのことも、話したりするのかな。

 由里佳の頭脳に搭載された、量子プロセッサの演算能力をもってしても、それは答えの出ない問いだった。

 そんなことは、考えるまでもなくわかっている。

 由里佳は画面から顔を上げて、窓の外を流れる景色に目をやった。

 まだ明るくて、ちょっとだけ黄色っぽい、夕方の色を一滴だけ落として薄めたような空を背景に、見慣れた街並みが流れていく。  

 知っているけど、知らなかったことが段々わかってきて、

 知らないことすら知らなかったことが、少しずつ増えた。

 ただの知識だったものが経験に変わるのは、とても楽しいことだけど、

 わからないことが増えていくのはそれ以上に楽しくて、どきどきする。

 来週はいよいよ、デビューライブの日。

 それを経験したら、きっと、もっと沢山のことがわかって、またわからないことが増えるだろう。

 何だか矛盾したような話だけれど、それで良いんだ、と由里佳は思った。

 ううん、それが良いんだ。

 なぜって、今はただ、それがとても楽しみで、待ち遠しいから。

 由里佳がもう一度、携帯端末の画面に目を落とした時、ピコンという可愛らしい音がしてメッセージの着信を知らせた。

 予感を覚えて、どきどきしながら確認する。

 果たしてそれは、

 「今日は楽しかったね!」

 という椎奈からのメッセージと、真以子からの、

 ――何だろうこれ、画像ファイル?

 開いてみると目に飛び込んできたのは、あの強面の店長がまるまると大きな猫を抱いている写真だった。一人と一匹はどちらも憮然とした顔をしていて、それが何だか無性に可笑しい。 

 由里佳がくすっと笑みをこぼして、何て返信しようかな、と考えた丁度その時、

 車内に、目的の駅へ着いたことを知らせるアナウンスが流れた。

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