第11話 猫と女の子と

 由里佳は今、清々しく晴れ晴れとした顔をしている。

 それはまあ、ほんの少し、ちょっとだけ落ち込んだりもしたけれど。

 でもそんなのはもう過ぎたことだ。

 そもそも、椎奈に言われるまでは考えたこともなかった。

 だって体重計にも乗ったことないし。

 ――わたしって重いんだ。

  確かにそれは由里佳にとって、衝撃の事実だった。

 考えたこともなかったけれど――、

 それが年頃の女の子としては看過できない、しちゃいけない、一大事だと言うことは当然わかる。

 それはもう、ロボットのダイエットについて書かれた論文(そんなものがあるとすればだが)を片っ端から読み漁るのもやぶさかではない。

 けれど、それはまあ帰ってからやればいいよね。


 あの後、初めて本物のステージで、三人で合わせてダンスを踊った。

 すると、もやもやとした気分はいつのまにか晴れていた。

 なぜって、前に合わせたときよりも断然良くなっていたから。

 といっても、それはわたしの技量が上がったからというわけではきっとない。

 前にもまして自然に踊れるようになったけれど、多分そういうことじゃない。

 椎奈も真以子も前に見たときよりまた一段と上手になっていた、と由里佳は思う。

 けれど、恐らくそれもちょっと違う。それもあるけど、それだけじゃない。

 多分、グループとしての完成度が上がったのだ。そしてそれは技量の問題というよりも、三人の信頼感というか結束みたいなものが高まった結果なのだろうと思う。

少しずつ、メンバーの一員になれているのかなと思うと由里佳はかつてない満足感を覚えた。

 そんなわけで一仕事終えた由里佳は上機嫌なのである。

 何しろこの後は、待ちに待ったオムレツが待っている。

 気を抜けば、オッムレッツオッムレッツ、という歓喜の歌が口から洩れそうだ。

 

 ――あぶない、あぶない。


 三人でダンスを終えた後は、当日のリハーサルを兼ねて、ステージへの登場から退場までの流れを一通り打ち合わせした。どうやら当日はスケジュール的にリハの時間を取るのが難しいということだったので、この次はもう本番かと思えば俄然やる気も沸いて、由里佳は熱心に取り組んだ。

 最後にまた何度か歌とダンスを合わせ、きっかり一時間掛けてやるべきことを終えてビルのロビーまで戻ったところで、

「とりあえず、これで今日の予定は終了だな。お疲れさん」

と岡田が言った。続けて、

「来週のライブについては、何か変更があれば改めてこっちから連絡するから、今日はもうこの場で解散、」

 で、いいですよね、と岡田は五島を伺った。

 おう、と頷いてから、

「よし、岡田、ラーメン食いに行くぞラーメン」

 五島は岡田の肩に手を回して、有無を言わさず連れていこうとする。

「――奢ってもらえるんですか?」

「仕方ねえ、今日は特別だぞ。――おい、お前らはどうする?」

 五島はぐいぐいと岡田を引っ張りながら数歩踏み出して、そこでふと気が付いたように振り向いて尋ねた。

「わたし達は、他に行くところを決めてあるので」

 椎奈がやんわりと断る。

「何だよ、人が奢ってやろうってのに。――まあいい、それならお前らはお前らで気をつけて帰れよ」

「はい、わかりました」

 三人は五島達に手を振って別れを告げ、別行動を開始した。


 それから十分ほどが経って、

 由里佳は真以子の先導で、中央通りから横手に伸びる小さな路地を分け入って、さらにその先を歩いていた。

 てくてくてくてく。

 ――一体どこまで行くのかな、と由里佳は真以子の後ろ姿をちらと見る。

 真以子は、数歩先を猫のように身軽な足取りですたすた行く。

 その歩みにはまったく淀みがない。

 少し前から、中央通りの喧騒は嘘のように消え、辺りはしんと静まり返っている。

 この辺りまで来ると、同じ秋葉原でも随分雰囲気が違うな、と由里佳は思った。

 てくてくてくてく。

 三人が道を行くその足音だけが耳に聞こえる。この周囲の空間だけが切り取られて、その中で音が反響しているような、そんな不思議な感覚。

 まだ高い位置にある太陽が、僅かに西に傾いて正面から日差しを照り付ける。それがあたかも、気だるい午後の一時を演出している様に思える。

「――ねえ、真以子の知ってるお店ってこんな場所にあるの?」

 由里佳と肩を並べて歩く椎奈が、前を行く後ろ姿に声を掛けた。

「うん、もうすぐ」

 真以子は振り返りもせずに答える。こっくりと頷くのが後ろからでも見えた。

「でも、こんなところあまり人が来なさそうだし、まわりには同じようなお店全然ないよね」

「だから、あまり有名じゃない」

「ふーん。それで、どんなところなの? 喫茶店だよね?」

「それは着いてのお楽しみ」

 えーー、という声を挙げながらも、椎奈は随分楽しそうだ。

 ツインテ―ルを弾ませるようにぱたぱたと真以子に近づき、ねーねー教えてよー、と食い下がっては軽くあしらわれている。

 そんな二人の様子を見るともなしに見ていると、

「ねえ、由里佳さんはどんなお店だと思う?」

 急に話を振られた。

「え、えっと、どうかな。――ほら、あの猫がいっぱいいる喫茶店みたいな」

「猫カフェ?」

 そうそれ、と由里佳はこくこく頷いた。

 昨日調べているときに、そういうものがあると知って由里佳は少し興味を惹かれた。けれど、その時は真以子が猫好きだとは知らなかったから、特に候補には入れなかったのだ。それを今思い出したのである。

「真以子猫好きだもんね。うん、いい線行ってると思う」

 ふーむと考えてから頷いた椎奈に、由里佳は逆に問う。

「椎奈さんの予想は?」

「うーんと、やっぱりあれかな。可愛い衣装を着た女の子がお出迎えしてくれるようなとこ」

「――メイド喫茶?」

 ぽつりと、その単語が口ついて出た。これも昨日調べて知ったことだが、秋葉原にはどうやらそう呼ばれる、可愛らしい衣装の女の子が給仕をしてくれるお店がたくさんあるらしい。具体的にどんなサービスをするのかは、正直よくわからない。由里佳がどんなお店が良いのか決められなかった理由のひとつである。

「お、良く知ってるね」

 椎奈はちょっと意外そうな顔をしてから続ける。

「前にね。別のお店だけど、真以子と行ったことがあってね。真以子は最初はあまり乗り気じゃなかったんだけど、行ったら行ったで満更でもない感じだったし、」

そこでまた真以子の方を向いて、 

「実はああいうの好きだよね真以子は」

 ね、とまた性懲りもせずに声を掛けるが、真以子は知らんぷりを決め込んでいる。

「まあ、わたしは猫も、可愛い女の子も好きだからどちらに転んでも大歓迎だよ」

 スルーされたことなど気にもせずに、どんとこい、と胸を叩くようにして笑った。

 その直後、

「着いたよ」 

 それまで一定のペースを保っていた真以子の歩みがぴたりと止まり、一メートルほど前方の道路の脇に置かれた看板を指差した。

 木製と思しきその看板は猫のシルエットを模していて、そこに可愛らしい文字で、

 『夏への扉』

 と書いてある。

 確かに、真以子が好きそうである。

 お店の入り口に近づいてよく見ると、こじんまりとして、お洒落だがどこか落ち着いた感じのある佇まいだ。真鍮製と思しきノブの付いた、少し古ぼけた古風なドアがはまっている。

「由里佳さん開けてみて」

 と椎奈が扉を目で示す。

 わたし? と真以子の方を見ると、こっくりと頷き返された。 

 さて猫が出るか、女の子が出るか。

 ――両方という可能性もあり得る。

 どきどきとしながら扉を開けると、

「いらっしゃい」

〝野太い声〟が、由里佳を出迎えた。

 扉に付いた鐘が、チリンと情緒ある音を奏でる中、

 店の奥の方から声を掛けてきたのは、四十代と思しき男性だった。

 いかつい顔立ちである。

 むくつけき大男である。

 

 入る店を間違えたと思った。

 ごめんなさい、間違えました――、もう少しでその言葉を口に出すところだった。

 思わず扉を閉めなかったことは、褒められるべきかもしれない。

 慌てて振り向いて、真以子と目が合う。

「野々川さん、面白い顔してる」

「え、だ、だって、ここ、ほんとに――」

「大丈夫。ここであってる」

 ほら、平気だから。入って、と真以子は由里佳の背を押す。

「わ、わ。えっと、し、失礼します」

 由里佳は後ろからぐいぐい押されて、客であることも忘れ恐縮しながら店内に足を踏み入れた。

 やはりこじんまりとした店内には、他の客の姿は見当たらない。

 アンティーク調の家具や小物でまとめられた内装が由里佳の目を惹く。

 その調和のとれた空間にあって、唯一つ異様なのが――、

 ふと奥を見ると、カウンターの向こうにあの男性の姿がある。由里佳の奇行を気にした様子もなく、手にしたグラスを磨いている。

 無言である。

 思わず足が竦んだ。

 入り口から数歩入ったところではたと足を止めた由里佳に、真以子が言う。

「適当に空いてる席に座って」

「――う、うん」

 少し悩んでから、由里佳は中央に二つ並んだ丸テーブルの右側を選んだ。木製の四人掛け。

 ええと、じゃあここ、と由里佳は椅子に手を掛けた。

「なかなか良いお店だね」

 内装を見回しながら、椎名が由里佳の右隣の椅子を引いて腰を掛ける。

一息ついてから、声を潜めて耳打ちするように、

「真以子好みの猫も女の子もいないなんて、正直意外だったけどね」

 ――そうだね、とまだ先ほどの驚きも冷めやらぬ由里佳は苦笑した。

 聞こえているのかいないのか、真以子は澄ました顔で由里佳の左側の席に着くと、

「はい、これ。先に選んでて」 

 そう言って、テーブルの端に立てて置いてあったメニューを広げて見せた。やおらに立ち上がって荷物を椅子に置く。

「どしたの、真以子? 先にって?」

「ちょっとお手洗いに」

「――あ、そっか。わかった、行ってらっしゃい」

 真以子はこっくりと頷くと、カウンターの方へ歩いていき、

「店長、奥使わせてもらいますね」

 と、そこにいる男性に声を掛けた。店長と呼ばれた男性は、やはり無言のまま軽く頷きを返す。すると、それ以上の返事を待たずに、真以子はカウンターの横手にある扉を開けて奥へ消えた。

 その後ろ姿を見送ってから、

「――店長?」

 椎名が訝し気に呟いた。

「なんか、随分と親しげだね。そんなに何度も来てるのかな、このお店」

「ふーむ、そういうことか」

と椎名が顎に手を当てて言う。

「そういうことって?」

 つまりね、と前置きしてから、

「真以子はここに来る途中、しばらく前からトイレを我慢していた。それも割とのっぴきならない状況にあった。だから口数が少なくて、借りてきた猫みたいに大人しかった、と」

 どうだこの名推理、とばかりに椎名は胸を張る。

「えっと、それはどうかな。東雲さんが口数少なくて大人しいのはいつものことだと思うし……」

 借りてきた猫、という表現はぴったりだけど、と由里佳はまた苦笑して答えた。


「椎名さんどう、決まりそう?」

 由里佳は椎名の手元をのぞき込むようにして聞いた。

 椎名は手に取ったメニューを睨んだまま、顎に手を当てて考え込んでいる。もう五分ほどそうしている。

 彼女が何かを決めかねて悩む姿というのも珍しい、と由里佳は思う。

「――うーんと、まだ。由里佳さんはやっぱりオムレツ?」

 由里佳はこくこくと頷いた。

「だよね。真以子のおすすめみたいだし、私も食べてみたいんだけどさ、オムレツ。でもそれだけじゃちょっと物足りない様な気がして――」

 そう言ってまたメニューの上に視線を彷徨わせる。

「お昼食べてないんだもんね。――何か他に食べたいものがあるの?」

「うん、この店長のおすすめパンケーキっていうのがどうにも気になって」

「店長の、おすすめ……」

 あの強面の店長がおすすめするパンケーキって、一体どんなのだろう……。

「ね。想像できないよね。だから余計気になっちゃって」

 と言って椎名は笑った。

「いっそ両方頼んじゃうか。ううん、でもそれだと食べ過ぎかな……」

 また考え込む椎名に、由里佳は思いついたことをそのまま口にした。

「みんなで分けたらどうかな? パンケーキ、わたしもちょっと食べてみたいし」

 それは由里佳にしては積極的な提案だった。

 すると少しの間を開けて、

 それだ、と椎名がポンと手を打った。

「――そういえば、その手があったか。うんうん、そうしよ」

 由里佳さん、冴えてる、と椎名は満面の笑みを浮かべている。本当に楽しそうだ。

 それが何だか面映ゆくて、由里佳は少し俯いてから、

「でも、東雲さんにも聞いてみないと、だよね」

「食べたがるよきっと。パンケーキ好きそうだし。うん、たしか好きだった」

 適当なことを言いつつ、椎奈がうんうんと頷いていると、

 二人の座るテーブルのすぐ近くから声が掛けられた。

「ご注文はお決まりですか」

「あ、ええとまだ――」

 と、顔を上げかけて、その声の主に気づく。

 真以子である。

 見慣れない、黄色と白のチェックのエプロンをしている。

 ギンガムチェックというやつだろうか。派手さはないが、控えめで可愛らしいデザインが真以子に良く似合っている。

 由里佳が呆気に取られていると、真以子は小首を傾げるようにして見せた。

 その人形のような立ち振る舞いに、由里佳は言葉を忘れて見入ってしまった。

 だから、

「え――、」

 と声を上げかけたのは、由里佳ではなく椎名である。

 ふと見れば、どういうこと、と目を丸くして真以子のエプロン姿を見つめている。

 当の真以子はと言えば、二人の驚きもどこ吹く風で、

「似合う?」

 と、首を少し傾けたまま問う。

 うん、可愛い。

 由里佳は心の中で即答した。

 ちなみに、言葉を忘れていることにはまだ気づいていない。

「うん、似合ってる。――じゃなくて、それどうしたの?」

 椎名がようやくその疑問を口にする。

 真以子は少し考えて、

「このお店の制服。――みたいなもの?」

「いや、みたいなもの? って聞かれても。……え、ってことはつまり、」

「ここでバイトしてる」

「へえ、そうなんだ……。――って、えっ? いつから!?」

「半年ぐらい前から」

「――全然知らなかった。何で教えてくれなかったの」

「言う機会がなかったから」

「えー、そういうもの?」

 真以子は、そういうもの、とこっくり頷く。

 そういうものかあそっかあ、うん真以子だしね、と椎名はやけに物分かりが良い。

 かと思えば、にわかにテーブルに身を乗り出す様にして、真以子の方にずいと顔を寄せながら、

「――でも、今日は明らかに隠してたよね? わざとだよね?」

 椎名の言葉に由里佳はまた驚いて、そうなの? という視線を真以子に送る。もしかすると、一時的に音声を発する機能が故障しているのかもしれない。

 ところが、二人から追及するような視線を浴びせられても、真以子は澄ました顔を崩さなかった。

 椎名の問いに答える代わりに、


「二人の驚いた顔、面白かった」

 

 そう言って、くすくすと、普段あまり見せない笑顔をするのだった。

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