第10話 秋葉原にて
椎奈が飴ちゃんをくれた。
いつも持ち歩いているらしいそれを鞄から取り出して、「ほら、甘くて美味しいよ」と笑いながら手渡してきた。
それを受け取って少しだけ考える。
これぐらいなら、良いかなと思う。
おそらく、オムレツへの裏切りには当たらないだろう、という意味だ。
オムレツはたぶん笑って許してくれる。
オムレツはきっと心が広いのだ。
なぜってあんなに美味しいのだから、そうに決まっている。
包みをほどいて、小さくて丸くて綺麗で、おまけに乳白色の飴玉を口に含む。
バターの味がする。
甘くて、おいしい。
小さな至福を舌の上で転がしながら、由里佳は椎奈に笑顔を返した。椎奈は親指を立てて応じる。
そんな二人の様子を見て真以子が、わたしも欲しい、と言ってねだった。口では、しかたないなぁ、と言いながらも椎奈は嬉しそうで、まるで用意していたように、手際良くもう一つを取り出すと、真以子の差し出した手のひらにポンと置いた。
真以子がそれを口に含んで、
「うん、あまい」
こっくりと頷いて言うのが可笑しくて、由里佳は椎奈と顔を見合わせて笑った。
モヤモヤとした気分はいつの間にかどこかに行ってしまった。念のために言うと、一時的に食欲が満たされたせいではない。そこは勘違いしないで欲しいと思う。少なくとも、それだけではない。
――うん、まあそれもちょっとあるかもだけど。
駅前から続く、そこそこ広さのある路地を通り抜けると視界が急に左右に開けた。
その瞬間、うだるような暑さとは別の〝熱〟を孕んだ一陣の風が、由里佳を通り越して右から左へ、ざあっと吹き抜けていったような気がした。
そこは街並みを南北に貫く大通りになっている。
大通りの両側には、目にも鮮やかな街路樹が植えられ、大小様々なビルが所狭しと立ち並び、それらのビルの壁面には、ぴかぴかと目を惹く大きな電子看板が掲げられている。一言で言えば、とても賑やかな光景。
つまり、『秋葉原』である。
噂通りの街並みを目で見て、肌に感じて由里佳は、ここはまさしく秋葉原だなと、そんな至極当然のことを思った。
――外はもっとすごいから、と椎奈は言った。
確かにすごい、と思う。街並みもそうだが、人々の熱気というか活気というか、そういうギラギラとしたものが、ここに立っているだけでひしひしと伝わってくるようだ。その視覚的および感覚的な情報量の多さに、由里佳は圧倒されていた。
そして何より由里佳の目を惹いたのが、ざわざわとひしめくように通りを行く人の波である。
ただ人が多いからという理由ではもちろんない。
秋葉原の代名詞ともいえるその〝中央通り〟の、本来であれば車が行き交う筈の幅広い道路の上を、たくさんの人が我が物で闊歩しているのだ。
その異様とも言える光景に、由里佳が驚いたのも無理はない。
思わず立ち止まっていると椎奈が横に立って、
「そういえば、今日は歩行者天国だね」
「ホコウシャテンゴク」
由里佳には、『聞きなれない単語を耳にしたらとりあえず繰り返す機能』が付いているのかもしれない。
「由里佳さん知らないの? ほらあれだよ。永遠に好きなだけ歩き続けられる、そんな素敵な道路がある天国のこと。ただし立ち止まった瞬間に地獄行きだけど」
「えっと、それは本当に天国なの? ってそうじゃなくて、どういうものかは知ってるけど、見るのは初めてだったから、ちょっとびっくりして」
「毎週日曜日の十三時から十八時の間だけやってる」
と、真以子が説明してくれる。そうそう、と椎奈は頷いて同意する。
「――へえ、そうだったんだ。いつも休みの日はこんなに人がいるの?」
「うん、大体同じぐらいかな。むしろ今日はちょっと少ないぐらいかも」
暑いからかな、と椎奈は空を見上げるようにした。由里佳もつられて上を見る。雲一つない青い空と、じりじりと照り付ける真っ赤な太陽。季節を二ケ月も先取りしたような空がそこにある。
「――でも、じめじめしているよりは気分も良いよね」
と言って椎奈が爽やかに笑った。青空がよく似合う、ひまわりの花を添えたくなるような、そんな笑み。
今年はこのまま夏になったら良いのにね、と椎奈が言うと、
「でもきっと、梅雨入りが遅れているだけ」
遅れているだけで、梅雨はそのうちやってくる、と真以子は言いたいらしい。
「また真以子はそういう意地悪なことを言う」
「事実を言っているだけ。それに、期待し過ぎるのは良くないと思う」
口を尖らせる椎奈に、真以子は至って真面目な顔で言い返した。
「そう、なのかな――」
ふいに、そんな疑問の声が口をついた。
それが何に対するものなのかは、自分でもよくわからない。
「そう、って何が? 由里佳さんもやっぱり梅雨になると思う?」
「ううん、どうかな――、」
答えに迷っていると、
「おーい、三人とも何してんだ」
岡田が少し先の人混みの中から、振り向いて呼び掛けている。
いつの間にか追い抜かされてしまっていたらしい。
「――おっと、いけない。話はまた後だね。行こう、二人とも」
椎奈がとことこと小走りに先へ行くのに合わせて、真以子と由里佳もその人いきれの中へと分け入った。
道路を横断した向かい側が、イベント会場のある目的のビルだった。駅前にあったビルと負けず劣らずの威容を誇る、全面ガラス張りの外観が特徴的な巨大なビルである。つまり、とても目立つ。
すなわち、迷うほどの距離ではないし、場所ではなかった。
それなのに由里佳は、岡田と五島が先に立ってそのビルの中へ入るのを目にするまで、そこが目的の場所だとは夢にも思わなかった。
また大きなビルがあるなあ、と呑気に考えていたほどである。
この中にはいったい何があるんだろうなあ、と想像を広げていたほどである。
それというのも、今の今まで、ライブを行う場所を知らされていなかったからだ。
それが、まさかこんな大きなビルの中にあるとは。
本当にそうなのかな――、と由里佳は思う。だって、〝無名〟のわたし達のデビューライブだよ? こんな立派なところでやっていいものなのかな。
――もしかしたら道草でちょっと寄っただけとか。
――それとも、実はわたしをからかっているとか。
それにしては、椎奈と真以子は特に何の疑問も抱いていないように見える。ということ、はやっぱり本当に――。
ぐるぐると考えるも答えが出ないまま、由里佳は半信半疑で殿をとぼとぼ行く。
広いロビーの奥には何台ものエレベーターがずらりと並べて設置されていて、ビルの規模の大きさを物語っていた。一行は向かって右から二番目に乗り込んだ。がらんとしている。裕に三十人は乗れそうな大きなエレベーターである。
扉の横に取り付けられている操作盤の表示によると、ビルはどうやら地上三十階建てらしい。道理で大きいわけである。地下も二階まであるようだ。何階まで行くのかな、と由里佳が見ていると、その近くに立っていた岡田が押したのは一番上の最上階、ではなく『R』という表示のボタン。つまり〝屋上〟である。
動き出したエレベーターは、一度も止まることなく一息に屋上へと辿り着いた。
エレベーターを降りると、屋上全体が一面ぶち抜きの広大な縦長の空間になっていた。そして今いる位置の丁度反対側に、大きなステージがあるのが見える。屋上なので当然屋根はなく、とても開放的な場所である。これも野外ステージと言うのかなと由里佳は思った。
ステージの方に向かって歩く途中、広場の中ほどで足を止める。ここまで来るとステージの大きさがよく分かった。想像していたよりも何倍も大きい。
――本当にこんな大きなステージでデビューライブをするの?
未だに信じられない由里佳は、
「えっと、本当にこんな大きなステージでライブをするんですか?」
疑問がほとんどそのまま口に出た。
「――あれ、言ってなかったか?」
二歩先で立ち止まった五島が振り返って、わざとらしくとぼけた顔をした。
「聞いてませんよう」
「まあ聞かれなかったしな」
と五島は全く悪びれない。
しかし、他のことに気を取られてばかりで、肝心のライブについて詳しい話を聞こうとしなかったのは事実だから、由里佳としてはそれ以上何も言えない。せめてもの意思表示として、恨みがましい視線を向けてみる。
「おいおい、そんなに気にするとこか? どこだってやることは同じだろ?」
「それはそうですけど。でもそれとこれとは違うんです」
五島は「何が」という目で先を促す。
「――何というか、〝心の準備〟的なものが」
「――つまりあれか。もっとこうこじんまりとした場所で、学芸会のお遊戯みたいなものを想像してたってのか?」
学芸会のお遊戯は流石に言い過ぎだと思う。そもそも由里佳にそんな経験はない。けれどニュアンスとしては似たようなものかもしれない。それは否定できない。
「蓋を開けてみれば、のっけからこんな大舞台でビビっちまったと」
揶揄するような言い方に、由里佳は少しだけムッとする。けれど言い返せないのは、それが図星だからだろうか。
すると五島は、聞き分けの悪い子供に言い聞かせるようにずいと顔を寄せて言う。
「いいか、由里佳。来週ここでやるのは、お前達の記念すべきデビューライブなんだ。それも、ゆくゆくは、低迷するアイドルの人気を取り戻してやろうっていう意気込みで、だ。だったらな、初っ端からドカンと盛大にぶちかましてやらないとダメだろうが。ほら、――初めが肝心、って言うだろ」
淀みのない、五島にしてはやけに真面目な口ぶりである。
意表を突かれて、思いがけないほどすんなりと頷きそうになった。
だけど「はい、そうですか」と素直に聞き分けるのも、何だかバツが悪い。
だから由里佳は横を向いて、ちょっとだけ口を尖らせるようにして、
「五島さんがそんなこと言うなんて意外です」
「――あ? どこが意外なんだよ」
「初めが肝心、――って。わたし、五島さんは〝終わり良ければすべて良し〟って人だと思ってました。
「ばかいえ。それはな、俺にとってはどっちも大事なんだよ。始まりも終わりも手を抜かない、いつも全身全霊全力でことに臨む。それが俺、五島という男だ」
先ほどにも増して大真面目な口調である。もしかしたら、本気なのかもしれない。
「それ笑うところですか?」
「お前もう笑ってんじゃねーか」
「笑ってないです全然、ほんとに」
「顔こっちに向けて言えよ! ――はぁ、いいよいいよ。好きなだけ笑ってろ。知らないからな。後になってこの五島さんのすごさに気づいても、遅いんだからな」
五島が真に迫って拗ねたような声を出す。もしかしたら、本気なのかもしれない。
すると、
「あの――。二人とも、」
もういいですか、と岡田がおずおずと割り込んで言った。
「今スタッフの人に聞いたら、あと一時間ぐらいしたら次のイベントの準備を始めるらしいですけど、それまでなら自由に見て回って良いそうですよ」
岡田は先にステージの近くまで行ってから戻ってきたらしい。
ふと見ると、いつの間にか椎奈と真以子もステージのすぐ下の辺りにいて、スタッフの一人と思しき男性と何やら話し込んでいるようだ。
「おう、助かる。――さて、じゃあお仕事しますかね。ほら急がないと置いてくぞ、由里佳」
そう言って五島はのっしのっしと大股で歩き出した。
なぜかやたらと気合を入れている。さっきのがそんなに効いているのだろうか。
残された二人はその後ろ姿をしばし見送った。
岡田が、何かあったの、という目で由里佳を見る。
由里佳は、さあ――、という仕草でそれに答えた。
ステージは思ったよりも大きくて、思ったよりも高かった。
「え、えっと、この上でダンスするんだよね。落ちたりとかしないかな」
由里佳は今、ステージの端に立って恐々と下を覗きこんでいる。心なしか、ふるふると震えているように見える。
「そんなところまで行かないから大丈夫だよー」
ステージの真ん中あたりに立っている椎奈の声が、やけに間延びして聞こえた。
「小さいところだとたまに落ちる人もいる」
隣に立って、やはり下を覗いていた真以子が顔を上げて言う。
「やっぱり落ちるんだ……」
ふるふる。
「むしろ割と日常茶飯事。ステージから落ちて一人前、という言葉があるくらい」
「そんなに――」
「そんな言葉ないよー」
もう、真以子嘘教えないの、と椎奈が呆れた声を上げる。
「なんだ、お前やっぱりビビってるんじゃねーか」
下に立っている五島が由里佳を見上げて意地悪く笑った。
聞こえない聞こえない。
ステージに立っても良い、と聞いたときは、正直に言うと少しだけわくわくした。なぜって、やっぱりそれが初めての経験だからだと思う。けれど、実際に立ってみたらこんなに心許なくて、不安になる様な場所だったんなんて、知らなかった。
多分気のせいだと思うけど、足元がぐらぐらするような気もする。
絶対気のせいだと思うけど、何かが後ろでわたしを突き落とそうとしてるような、
「えい」
「うわあ」
気のせいじゃなかった。
由里佳は驚きのあまり、その場にへたり込みそうになった。
慌てて、真以子が由里佳の手を引いた。勢い余って、二人一緒にどすんと後ろへ倒れこんで尻もちをつく。
「――ごめん、そんなに驚くとは思わなくて」
真以子が、むしろ由里佳の驚きぶりに驚いた顔で言う。
実際さっきのそれは、背中にぺちと手が当たった程度の、他愛ない悪戯である。
誰がどう見ても、由里佳が過剰反応し過ぎただけである。
だから、
それについて、
由里佳は、別に気にしていなかった。
というよりも、
気にしていられる状況ではなかった。
それもそのはず、
由里佳は今、もつれて倒れこんだままの姿勢で真以子と密着している。座り込んだ真以子に上半身を半ば預けるような恰好でしがみ付いている。触れている体から指先から、薄い布越しに真以子の柔らかい感触が伝わり、その鼓動と体温までが手に取るように感じられた。
すう、すうという小さな息遣いに合わせて、控えめな膨らみが微かに上下する。首元が少し汗ばんでいるように見えるのは、暑さのせいか、それとも、
それとも、
それとも、ってなんだ――――!
「もー、何やってるのー。はやくダンス合わせよーよー」
その声で、はっと我に帰ると、真以子が不思議そうな顔で由里佳を見つめている。
「野々川さん、大丈夫。痛いところとかない」
と少し首を傾げるようにして問う。
「あ、ううん。へいき。東雲さんも怪我してない? ごめんね、わたしがふらふらしてるばっかりに」
何かを取り繕うように、早口で一息に喋った。
「大丈夫。それに、元はと言えばわたしのせいだから」
真以子はふるふると首を振って言う。
「そっか、それなら――、怪我がないなら良かった」
あはは、びっくりしたね、とぎこちなく笑う由里佳を見て、真以子が怪訝な顔をしてまた首を傾げる。
「野々川さん、なんだか顔赤くない。ほんとうに大丈夫」
「え、全然、そんなことないよ。やだな。あはは。あは――――そんなに赤い?」
真以子はこっくりと頷く。
熱でもあるんじゃない、と真以子の手が由里佳の額に触れられる。
止める間もなかった。
その瞬間、由里佳の顔から湯気が立ち上ったように思われた。あるいは本当に湯気が出たのかもしれない。そういう機能が付いている可能性も、なくはない。
「えっ、えええっ――――――――――――?」
プシューーーーーーー。
あわや暴走機関車ゆりか号発進かと思われた矢先、
「もー二人とも、いい加減にしないと怒るよ。何時まで座ってるの」
それを未然に防ぐ、ひとりの
すぐ近くから聞こえた声の方に顔を向けると、
『あきれ1/2、いらだち大さじ一杯、おかしさ少々』というレシピから作ったような顔で、二人を見下ろす椎奈の姿がそこにあった。
少しだけ睨むように二人の顔を順に見てから、もう、と小さくため息を吐くと、
「ほら、立って立って」
と手を差し伸べる。
由里佳がおずおずとその手を握ると、椎奈がしっかと握り返しぐいと引っ張る。
あれ?
もう一度ぐいっと。
あれれ――?
「――えっと、由里佳さんって、もしかして」
一語一語区切るように椎奈が言う。
手を握ったまま、由里佳は椎奈を見上げて「?」という顔をする。
「その、見かけによらず、おも――」
「――――――――――――――――!!!!」
それは間違いなく、禁断の一言だった。由里佳に搭載された暴走機関を再起動するための、〝秘密の暗号〟であった。たとえその身体の構造ゆえに、同じ年頃の女の子に比べてちょっとばかり重いという事実があったとしても、そこは見て見ぬふりをしてあげるべきだったのだ。しかし椎奈は、真に残念なことにそんな〝事情〟は知る由もなかった。彼女が失言に気付いた時は、もう遅かった。
かくして
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