第9話 暴走機関車ゆりか号
十二時四十六分の、京浜東北線大崎行きに乗った。
由里佳と椎奈と真以子の三人は、この日予定されていたメインイベント、つまり〝ライブ会場の下見〟のために、揃って電車に揺られている。休日のこの時間、車内はあまり混雑していなかったので、三人は乗車するとすぐに空いている席を見つけてそこに並んで腰掛けた。暑い中を駅まで歩いてきたせいでへとへとだった。事務所のソファに座っていた時と同じく、椎奈、由里佳、真以子の順番である。特に深い理由があるわけではなかったが、誰からともなく自然とそうなった。
一見して仲良くお出かけという風であるが、残念ながらこれも仕事の一環である。それが証拠に、五島と岡田もしっかりとついてきている。ふたりは反対側の座席の端っこに並んで腰掛けて、時折こちらの様子をちらちらと窺っているのだった。
――確かに仕事の一環ではある。それでも、こうして三人で揃って他所へ出掛けるというのは初めてのことだから、由里佳のどきどきとわくわくと、それに比例していや増す緊張はいかばかりのものか。そのせいか先ほどから、由里佳はやけにテンションが高い。
「現場を確認し終わったらさ、三人でどこか行かない?」
と言ったのは、椎奈である。
「賛成! わたしも行きたい」
渡りに船の提案である。
ここぞとばかりに、右手を挙げて由里佳が宣言するように言う。
真以子が少し気圧されたように、
「どこか行きたいとこがあるの」
「うーん、わたしは特にこれと決めてるわけじゃないんだけど、由里佳さんは?」
「よくぞ聞いてくれました」
えっへん。
由里佳は得意気に胸を張った。真以子が、急にどうしたの、と怪訝な顔をするのもお構いなしに、
「えっと、実は昨日、こんなこともあろうかとあの辺りのお店とかを調べたんだけど――、」
ふんすと自信ありげにそう言いながら、携帯端末を取り出して、ネットで検索した履歴を確認する。
その様子を見て、おっ、準備が良いね、と椎奈が感心した声を上げる。
画面をスクロールすると、数々のお店の名前がずらりと並べてリストアップされている。正直、名前を見てもどんなお店かピンとこないものばっかりだ。
それは、昨晩ああでもないこうでもないと頭を捻った名残である。
そして、そこではたと思い出す。
――結局、色々と目移りしちゃって、どこのお店にするか決まってなかったんだった。それでもう、流れでどこか適当なとこに決めちゃうつもりだったんだ。
由里佳の計画は、その第一歩からしてすでに行き当たりばったりであった。
「あ、でもね――、実はどこのお店が良いかよくわからなくって……」
先ほど自信満々に言い出した手前、無性に恥ずかしくなって最後の方は尻すぼみに小さくなった。
そんな由里佳の様子を見て、真以子がくすっと笑ったような気がした。
意外なものを見た気がして思わず見返すと、真以子はもう、笑ってなんかいませんよ、という風に澄ました顔をしている。
「――あらら。まああそこは、初めての人には勝手がよくわからないよね。――えっと、それでどんなところに行きたいの? わたしに心当たりがありそうな場所なら案内するよ」
椎奈はやっぱり優しかった。
そういえば、このふたりは元々あそこでアイドル活動をしていたのだから、当然詳しいはずである。無い知恵を絞らずに、はじめからふたりの意見を仰げば良かったのだとようやく由里佳は気が付いた。
――どんなところが良いのか。
わたしは、このふたりとどういう場所へ行きたかったのか。
少し考えてから、口を開く。
「落ち着いて三人で話したりできるところが良い、かな」
「ふむふむ。それなら喫茶店とかかな。……ってそれだけ? 他には何かない?」
他? 他ってええと――。
「何か食べたいものとか」
由里佳が黙り込むのを見て、真以子が助け舟を出すように言った。
「あー、そういえば、まだお昼ご飯食べてないよね。さっきアイス食べたからしばらくは平気だけど」
椎奈が、すっかり忘れてたよ、と言って笑う。
「えっと、食べたいもの――」
真以子がこっくりと頷いて、先を促す。
食べたいもの。
わたしの好きな食べもの、と言えばあれだ――。
「――オムレツ。わたし、オムレツが食べたい」
「オムレツ? 由里佳さん、オムレツ好きなの?」
由里佳はこくこくと頷いてから、
「食べられそうな場所ない、かな」
「……うーんと、むしろ候補はいっぱいあるかも」
――いっぱいあるんだ。
予想外の返事に由里佳は思わずきょとんとする。
「でも、味は特別美味しいかっていうと、どうだろ――。わざわざオムレツが食べたいって理由で行くのはちょっと違う気がするんだよね。それによく考えたら、ああいうお店で出てくるのはオムライスか……」
椎奈はぶつぶつと呟きながら何やら考え込んでいる。
「わたし良いお店知ってる」
と、真以子が小さく手を挙げながら。
「お、どこどこ。わたしも行ったことある場所?」
「たぶん、ないと思う。あんまり有名じゃないから」
「へええ、真以子がそんなお店を知ってるなんてちょっと意外かも」
「そこなら、落ち着いて話もできるし、美味しいオムレツも食べられる」
どうかな、と真以子は由里佳の目を覗き込むようにして答えを促す。
もちろん異論があろうはずもない。東雲さんが案内してくれるお店ってどんなところだろう、と期待を膨らませながら由里佳は答えた。
「そこ、行ってみたい、です」
「わかった、案内する」
真以子はまたこっくりと頷いて了承した。
本当はわたしが東雲さんを連れて行くつもりだったんだけど――。
でもまさか東雲さんの方から、お店を紹介してくれるなんて――。
昨日の夜には考えもしなかった展開である。
これはこれで結果オーライだよね、と由里佳は思わず小さな笑みを浮かべた。
一行は四十分ほど電車に揺られて、目的地へと辿り着いた。
比較的すいていた車内はいつのまにか混み合っていて、同じ駅でそこそこの人数の乗客が一緒に降りた。由里佳と椎奈と真以子の三人は先頭に立って電車を降りると、邪魔にならない場所に避けて五島と岡田が降りて来るのを待つ。しかしなかなか姿を見せない。今にも電車が発車するという時になって、ようやく二人が現れた。
発車のベルが鳴り、電車が音もなくスルスルと動き出す。
「もう、二人とも遅いですよ」
合流するなり、由里佳は詰るように言った。
「おまえらが早すぎるんだよ。気づいたらどこにもいないから、どうしたのかと思ったぜ」
「――でも、よく間に合ったよね。わたしはもうダメかと思った」
椎奈がさらっと口にした。笑っている。
「何だって?」
五島が聞き捨てならんと声を上げる。
「だって、二人とも居眠りしてたから」
真以子が澄まし顔でズバリと指摘した。
「――知ってたなら起こしてほしかったよ」
と、情けない声を上げたのは岡田である。
「二人が降りる前に電車が発車しちゃったら、このまま三人でデートでもしようかなって」
それに対して、椎奈が冗談めかして言う。悪戯な笑みだ。
「一応仕事しに来たんだっての……。まったくお前らは――」
そして、五島は呆れ果てたと言わんばかりに肩を竦めた。
そんなやりとりを聞くともなしに耳にしながら、
由里佳は周囲の光景に目を奪われていた。
そのホームは、一見して特異な空間である。
線路を挟んだ向こう側、壁になっている部分には幅が三メートルほどもある大きなデジタルサイネージが並べて設置されていて、流行りのアニメやゲームの広告が表示されている。ホームから駅の構内へと至る下り階段の壁面にも、そうした電子広告が所狭しと並べられている。その全てに同じアニメのキャラクターが映し出されて、寸分違わずに動き回る様は圧巻だった。
由里佳がきょろきょろと興味深そうにしているのに気づいて、
「しかし、ここは相変わらずだな」
五島も釣られて辺りを見回しながら言った。
「駅に着いただけなのに、なんだかもう別世界に来たって感じがしますよね」
と、岡田が同意する。
「ほらほら、こんなところで驚いてる場合じゃないよ。外はもっとすごいから。ね、いこ。由里佳さん!」
椎奈がぼけっとしている由里佳の手を軽く引いて、構内に通じる階段へと導いた。
見て見て、これ、と言われなくても目に入るあの電子広告の一群を指さして、椎奈がはしゃいだ声を上げる。
「この作品、アニメ化する前から好きだったんだ。だから今から放送開始がすごく楽しみでね。――あ、でもちゃんと原作通りにやってくれるのかがちょっと心配。この前最新刊が出たんだけど、それがまた本当に面白くて――」
「多分そこまではアニメでやらないと思う」
と、熱に浮かされたように早口でまくし立てる椎奈に、真以子が冷静なツッコミを入れた。
「! ああ――! それもそうだよね……!」
椎奈の首が電流に打たれたように小さくのけぞった。少し虚空を見つめるようにしてから、がっくんと力なく項垂れる。
すると彼女は階段の途中で足を止めて、急に萎れた花のように壁に寄り掛かってぐったりとしてしまった。
――え、え? そこまでショックなことなの?
椎奈のテンションの乱高下に着いていけずに、由里佳は目を白黒させる。何か言った方が良いのだろうけれど、どうすれば良いかわからない。しかし、そのまま放って置くわけにはいかないので、今度は由里佳が椎奈の手を引いて歩き出させた。自分から手を握るのはちょっと、いやかなりどきどきした。
椎奈さん大丈夫?、と当たり障りのない言葉を選んで声を掛けると、うぅん、というどっちつかずの曖昧な返事が返ってくる。かなり重症らしい。しかし、由里佳が手を引くと特に抵抗も見せず、ちゃんとそれに合わせて再び歩き始めた。
それにしても、されるがままの椎奈というのも新鮮で、これはこれでありかもしれないとふと思う。何が〝あり〟なのかは自分でもよくわからない。しかし、何かぞくぞくとする感じがして、にわかにまた動悸が激しくなった。
――よくわからないけど、このままじゃいけない気がする。自分でも気づかぬうちに、何かとんでもないことをしでかしてしまうのでは、という気がして仕方ない。
だから気を紛らわせるために、由里佳は自分から話題を振ってみることにした。
「椎奈さんってこういうのが好きなんだね」
一拍おいて椎奈が答える。
「――えーと、うん、そう。由里佳さんはアニメとか見るの?」
「ううん、あまり詳しくはないかな。でも興味はあるかも」
椎奈が好きという作品なら、自分も見てみたい。それは本当だ。
「じゃあさ、今度さっきのアニメの原作、貸してあげよっか」
「本当? ――うん、読みたい。椎奈さんがそこまで言うならきっと面白いだろうし」
「うんうん、それで気に入ったら、アニメも一緒に見ようよ」
今度持ってくるからね、約束、と言って椎奈は笑った。
すっかりいつもの椎奈である。
良かった。椎奈さん元気が出たみたい、と由里佳は胸を撫で下ろした。
もう少しだけあのままでも良かったかも、と思うのは多分気のせいだ。
――気のせいだと思うことにする。
すると、由里佳さんと約束しちゃった、と満面の笑みを浮かべる椎奈に向けて、
「あまりがっついて布教すると、また引かれちゃうんじゃない」
狙い澄ましたかのようなタイミングで、再び椎奈の心を砕こうとする者がいた。
「! ああ――! それはいわないで……!」
心当たりがあるのか、椎奈は身悶えするようにしてから、真以子の意地悪、と恨めしそうに呟いている。少し涙目だ。可愛い。いや、違う。そうじゃない。
「もう、東雲さん。椎奈さんせっかく元気出したんだから。しばらくそっとしてあげてよ」
由里佳は真以子の方に振り向いて、ちょっと怒ったような顔を作って見せた。
「ごめん。椎奈の反応がちょっと面白くて、つい」
と悪びれもせずに真以子が言う。澄ましているが、笑みが隠せないような顔だ。
「えっと、その気持ちは、すっごいわかるけど」
由里佳は思わず同意してしまった。
「え、ええ――、ちょっと二人ともそれってどういう、」
ふたりの会話を聞いて、椎奈がにわかに気勢を上げて、抗議の声を上げるが、
「あれ、椎奈さん、これどっち行けばいいのかな」
由里佳はそんなことにはお構いなしに、椎奈に道を尋ねた。
階段を降り切ると構内は左右に広がっていて、その先にはどちらも同じように改札が設置されている。初めて訪れた由里佳としては、当然どちらへ行けばいいのかわからない。
「え、えっと、右の方、かな」
「あ、ほら椎奈さん、定期出さないと」
「う、うん――」
「みて、椎奈さん。何だろアレ。何か変なのがいる」
「え、え――?」
矢継ぎ早に言葉を掛けて、椎奈を煙に巻くようにしながら、あ、やっぱりこれ癖になりそうと由里佳は思った。だって、目を白黒させながらあたふたする椎奈さんて、なんだか子犬みたいで、すごく可愛いし。
思いがけず、新たな自分を発見してしまう由里佳だった。
構内の明るさに慣らされた目に、夏もかくやという日差しがとても眩しい。
改札を抜けるとそこは、ちょっとした広場の様になっていた。
小洒落た感じの照明や植え込みがあって、それに溶け込むようにデザインされたデジタルサイネージが点々と設置されている。端の方にはベンチなんかも置いてあったりして、ちょっとした、モダンな都会の公園といった趣である。
駅の中とはまた少し雰囲気が違うな、と由里佳は思った。
「ここはまたやたらと洒落た感じになってるな」
五島が再び辺りを見回しながら言った。
すると何かに目を止めて、ほらあれ、と指さしたのは、
正面、少し左手に見える大きなビル。
「あのビルがどうかしたんですか?」
五島の言わんとすることがわからずに由里佳は首を傾げてそう聞いた。
「――ここからじゃよくわからんな。どれ、ちょっと近づいてみるか」
言うが早いか、五島はズンズンと一人で先に行ってしまった。
振り返って、――どういうこと? と目顔で椎奈に聞いてみると、
「うーんと、多分見た方が早いかな。とりあえず行ってみようよ」
それを合図にして、椎奈と真以子と岡田の三人は五島の後を追って歩き出した。由里佳も置いて行かれないように慌ててついていく。
駅のすぐ近くから、あの大きなビルの方に向かって階段が設置されている。その階段を上った先は、ビルの入り口まで続く幅の広い遊歩道になっていた。そしてそこまで来ると、五島が何を指差していたのか由里佳にも大体わかった。ビルの正面、その少し高い位置にとても目を惹く大きなモニタが設置されているのだ。
果たして五島はそのモニタを指差しながら、
「今度のライブのときはな、あそこでリアルタイムの映像を流してもらえるんだぞ」
とても得意気である。
「本当ですか?」
由里佳は、わあ、と思わず声を上げた。
「すごいじゃないですか」
「――まあ、今度使う予定のイベントスペースでは、何かしらのイベントがあるときはいつも、ここにも同時に配信されることになっているってだけどね」
と、無情にも椎奈がそのカラクリを暴露した。
五島が、余計なことを言うなよ、という顔で椎奈を見る。
――なあんだ、と思う。
別に五島さんが何かしたからってわけじゃないのか。
でも、
だけど、それってやっぱりすごいかも。
「会場には来ない人達にも私達のステージを見てもらえるってことだよね」
「うん。まあそう上手くいくとは限らないけどね」
でも、ここなら駅のすぐ近くだし、目立つし、結構効果があったりするんじゃないかな、と由里佳は思う。実際に今も、十人ちょっとの人が遊歩道からモニタを見上げている。
道行く人々が見上げる大きな画面に、自分がステージに立って歌い踊る映像が映し出される、その様子を頭に思い描いて、由里佳は少しどきどきした。
そこでふと、今日は何かイベントをやってたりしないのかな、と思った。
――今流れているのは何だろ。たぶん何かのアニメみたい。
少なくとも、イベントの映像ではないだろうと思う。
「今日はこの後、何かイベントがあったりするのかな」
と、由里佳は誰にともなく呟くように言った。
「うーんとね、」
椎奈が携帯端末を取り出し、ちょいちょいと画面を操作しながら、
「――Re‐CASには何も情報ないね。イベントスペースの運営会社のサイト見た方が早いかな」
「りーきゃす、って何?」
聞きなれない単語に思わず疑問が口をついて出た。
「リアルタイムキャストっていう、SNSだよ。特定の地域の情報をリアルタイムで共有できるから、その場所で何が起きているのかっていうのが一目でわかるんだ」
岡田が、ほら、と自分の携帯端末の画面を見せてくれた。
「――へえ、こんなのがあるんだ」
すると真以子が少し驚いたように、
「野々川さん知らないの」
「東雲さんも知ってるんだ」
真以子はこっくりと頷いて、
「色々調べられたりもして結構べんり」
「そうなんだ……、へえ、」
もしかしてこれはまた、現役高校生としての沽券に関わる案件だったのかもしれないと、にわかに気づいて少し焦る。けれどやっぱり今更どうしようもない。
「――わ、わたし、そういうのあんまり詳しくなくて。でも皆やってるなら試してみようかな」
すると五島が、
「俺もやってるぞ」
と、わざわざ端末を取り出して見せる。若者アピールだろうか。――いや、別に五島さんには聞いてないんだけど、と由里佳は思う。
「あとでアカウントの作り方教えてあげる」
真以子は五島を完全にスルーした。
「本当? ありがとう、東雲さん」
真以子は、こっくりと頷いて見せてから、
「――椎奈、そろそろ何かわかったの」
先ほどから画面に食い入るようにしていた椎奈が、はたと気づいて顔上げた。
「……あ、ごめん。ちょっと気になる情報見つけて、それに気が取られちゃってた」
「またさっきのアニメの話じゃないの」
真以子が呆れたように言うと、図星なのか、あはは、とわざとらしく笑ってから、
「えっと、なんだっけ。――そうそう、……あ、待って。十七時から何かあるみたい。これもアニメのイベントかな。声優さんが出るみたい」
「椎奈さんが知ってるやつ?」
「ううん、知らないやつ」
「そっか。ってことはしばらくは何もないんだね」
「うん、そういうことかな」
「そりゃお前、イベントやってたら、下見つっても遠目から見ることしかできんだろうが。今日はちゃんと、空いてる時間を狙って来てるんだよ」
と、五島がさも当然という風に言った。
確かに、言われてみればその通りだと由里佳は思う。
「でもあまり悠長にしていると、十七時からのイベントの準備が始まっちゃいますよ。その前に済ませないと」
岡田が時計を見ながら言った。由里佳も携帯端末で時刻を確認する。十三時五十二分。もうすぐ十四時。――なんだか、急にお腹が空いたような気がする。気がした途端、ぐう、とお腹が鳴った。自分でも驚くぐらいに大きな音だった。現役女子高生の女の子としては、沽券に関わる音だった。
一瞬、時が止まったような気がした。
本当に止まってくれたら良かったのに、と思った。
「――え、いまの、由里佳さん?」
椎奈がちょっと呆気に取られたような顔で言う。その顔が次第に笑みを隠しきれない顔になり、やがて満面の笑みになった。
「あはは、由里佳さん。真っ赤になっちゃって、可愛いなぁ」
ほっぺたをツンツンされて、由里佳はたまらず顔を俯かせる。
「そんなにお腹空いてたの」
と、真以子が問う。顔は見えない(というか見れない)が、やはり笑っている気配がする。
「お前、たらふくアイス食ったくせに」
そう言う五島はやっぱりデリカシーがない。
――よりにもよって、
――よりにもよって。
誰だこんな〝機能〟まで付けたのは。責任者を出せ、と由里佳は思う。それに一番近いのはおそらくそこにいるミスターノーデリカシーだ。どうしてくれよう。どうしてくれよう――、
すると見かねた岡田が、
「どうする、先になんか食べていこうか? あまり時間はないけど、出店とかファストフードぐらいなら、」
「いいです」
由里佳はふるふると震えながら俯いたまま、しかしキッパリと食い気味に、否定の言葉を口にした。
「おい、本当に大丈夫か――、」
「平気です全然、ほんとに。というか、別にお腹空いてませんし」
由里佳はいきなり顔を上げると、岡田を見据えて一息にまくし立てた。
見え透いた嘘である。
見え透いていようが関係ないのである。
だって、わたしにはオムレツが待っているから。もう少しぐらい我慢できる。
少しぐらいお腹が鳴ったってなんだ。
美味しくオムレツが食べられるなら安いものだ。
「――ほら、時間なくなっちゃいますし、早く行きましょうよ」
言うが早いか、由里佳はズンズンと歩き出す。ズンズンというより、ズドズドと言った方が近いかもしれない。行く手に五島が倒れていたら、轢き殺しそうな勢いだ。
「おいちょっと――、」
岡田が呼び止める声がするが、そんなのは耳に入らない。今のわたしはブレーキのないイカレた暴走機関車なのだ。上気した顔から蒸気が出そうなのも、つまりはそういうことなのだ。
ズドズドズドズド。
「待てって、由里佳」
ズドズドズドズド。
「お前、道わかるのか――?」
ズ、
「――、――――、」
プシュー。
由里佳の行き足が瞬く間に遅くなり、急停車した。
それはまるで反発力を失ったリニアモーターカーの様だったと人は言う。
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