第4章 うちの飼い犬

「なんでしょう」

 実は待ち合わせを決めた時から、“美春さん”に会ったら名前の由来を尋ねよう、と楽しみにしていたのだ。

「由来ですか。僕、春生まれですから」

 誕生日は4月10日だそうだ。

「ほら、やっぱり。美しい春って書くんだから、普通は春生まれなんだよ」

 美春が父親に言うと、父は微笑み、よしはる氏はきょとんとした目を向けてきた。

「美春さんは違うんですか?」

「わたしは10月10日生まれ。思いっきり秋なんです」

 昔アイドルだった母の芸名を漢字にしたのだと説明すると、よしはる氏は、いろいろコメントしたそうだったが、結局、そうですかとだけ言った。

「今思えば、美しく晴れる、でも良かったかもな」

 美春が生まれた日はいい天気だったから、と父親がいい加減なことを言っている。

「いいの。わたしこの名前すごく気に入ってるから」

 美春がにっこり笑うと、

「僕も、今日少し自分の名前が好きになりました」

 今までは女の人と間違えられて困ることが多かったけど、と頭を掻いて、よしはる氏は微笑んだ。

その時、

「ただいま~」

 兄の声がした。おかえりい、と父と声を揃えて叫ぶ。

 玄関の靴を見れば来客中だと分かる。リビングのドアを開けて顔を出した兄が、客に向かって、こんばんは、いらっしゃい。と頭を下げた。誰のお客に対しても、まず挨拶。我が家のルールだ。

「息子の健太です」

 父親が紹介した。どうも、とお辞儀を返すよしはる氏を指して、ゆっくりとそのフルネームを口にする。

「え、たけなか、さん?」

「美春とまったく同じ字を書くんだよ」

 へえ、と兄はそれしか言わなかったが、一瞬美春に向けてきた顔から察するに “お前の同姓同名ってけっこう多いのな”と考えていそうな気がした。

「すいません、オレこれからまた用があって出ちゃうんで」

 失礼します、ごゆっくり。と一礼すると、兄は二階に上がって行った。

 よしはる氏は閉まったドアをしばらく見つめていたが、その顔が妙な具合に歪んだかと思ったら、ふと顔を伏せた。

「どうかしましたか?」

 いえ、すいませんとあげた顔は、明らかに笑いを堪えている。

「同じ名前、美春さんだけじゃありませんでした」

「え?」

「うちにも、健太君と同じ名前の子がいるんです」

「ほんとですか?」

 思わず父と顔を見合わせた。

「といっても、うちのケンタは柴犬ですけど」

 父親が先に爆笑した。

「どうか、怒らないでいただきたいんですが」

 さっきの優しそうな顔というか雰囲気までうちの子によく似てたので、ついおかしくなって、と両の目を押さえて震えている。

 確かにお兄ちゃん、どっちかと言うと犬っぽいかも。忠犬って言葉がすごく似合いそう。

「お父さん、笑いすぎだよ」

 孝志も美春と似たようなことを考えたらしい。足をばたばたさせて笑うので、つられて美春も笑いが止まらなくなってしまった。

 孝志が腹を抱えながら言った。

「よしはるさん、ケンタ君にお手、とかやるんですよね」

「やりますよ」

 エサや散歩の時とか。よしはる氏の答えに、父親は何を想像したのか、まだ笑っている。

「わたし、ケンタ君に会ってみたいな」

「あ、おれも」

 今度お邪魔していいですか? と孝志が言うと、よしはる氏は戸惑いながらもうなずいた。

「その時はうちの健太も連れて行こう」

 同名同士いい友達になるよ、と嬉しそうだ。

「も~、お父さんたら」

「何だよ、美春も想像してたろ。健太がケンタ君と遊んでるとこ」

 ずばり指摘されてしまった。

「いやあ、面白えな」 

 他にねえかな、孝志が目尻を押さえながら言った。

「ケイコやタカシはいませんかね」

「残念ながら」

「じゃあ、ケンジはどうです?」

 あ、とよしはる氏が眉を上げた。どうやら思い当たる節があるらしい。

「ケンタの、父親がケンです」

 再びリビングに父親の高笑いが響き渡った。頭の中で、無愛想な甥に犬の耳と尻尾をつけているに違いない。

 けん兄には似合わないよ。ふと従兄の顔を思い出しそうになり、美春はぶんぶん頭を振った。よしはる氏は、と見ると、何ともいえない妙な表情をしている。

「そのお顔から察するに」

 愉快そうに孝志が言った。

「そちらのケンちゃんも問題アリ?」

「ええ。実は」

 家の近所で産まれた仔犬はほとんどケンの子なんです、とよしはる氏がため息をついた。

「本当は、なるべく繋いだり閉じ込めたり、したくなかったんですけど」

 飼い主なりに対策を講じたが、

「杭は引っこ抜くし、いつの間にか檻から出ちゃうしで」

 大変な犬だ。

「ご近所の手前もあることだし、もう最終手段しかない、と親に言われまして」

 よしはる氏が顔を引き締めた。

「手術、ですか」

 父親も笑いを収める。

「ええ。でもその前にと、ダメもとで」

 よしはる氏は一度だけチャンスをくれと家族に頼むと、ケンと一対一で向かい合ったという。そして、真剣勝負の面持ちで飼い犬を諭した。

 “これ以上よそ様の犬にちょっかいを出すようなら、オスをやめてもらうよ”

 なんと去勢手術が意味するところまで、懇切丁寧に説明したらしい。

「で、どうなったんですか?」

 飼い主の思いは通じたのだろうか。

「ちゃんと分かってくれました」

 しばらくふてくされていたケンだったが、その後、近所からの苦情がぴたりと止まったと言う。

「たぶん、今は “本妻”だけだと思います」

「すごい!」

 感心した。言葉と真心で説得したよしはるさんもすごいけど、理解した犬もたいしたものだ。

「そういうの、本能でしょうにねえ」

「ええ、不思議ですね」

 まあ、結果オーライです、とよしはる氏は嬉しそうに言った。

「お父さん、人間の場合はどうなのかな」

「ん?」

「“こっちのケン”にも、その話聞かせてあげれば?」

 美春が言うと、父親が笑顔のまま固まった。

「よしはるさん」

 そのまま客の方に向き直って、すがるように手を伸ばす。

「よしはるさんが言う通りだ」

「え?」

「中学生女子って、怖いな……」

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Dragon-Jack Co. 同姓同盟 千葉 琉 @kingyohakase

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