第3章 父のお客さん

 5日後、週末を迎えた。結局ナミナミの竹中美春からは何も連絡がなかった。少し寂しい気もしたが、美春は兄とのやりとりを思い出して自分を慰めた。

 今夜の夕食は美春が当番だ。そろそろ準備をしようと自室から一階に降りたら、電話が鳴った。一瞬不快な気分が胸をかすめたが、さすがに健司がもうこの電話にかけてくることはないだろう。

 出てみると、父親からだった。これからお客さんを連れて帰ると言う。

「お茶の準備だけ、しといてくれ」

「うん。分かった」 

「お菓子はお客さんが持ってきてくれるから」

 必要ないらしい。竹中家では客に手作り菓子を振舞うことが多いが、さすがにこれからでは用意するのが大変なので、少しほっとした。

「晩メシ、美春の当番だよな?」

 そうだと答えると、

「じゃあ、今日はずっと家にいるな」

「いるけど、どうかしたの?」

 父は明るい声で、

「帰ってからのお楽しみだ」

 それだけ言って、電話を切った。


* * *


 それから1時間ほどで父親は帰ってきた。父の孝志はいつでもハイテンションだが、今日はいつも以上に機嫌がいいらしい。

 父親と一緒にリビングに入ってきたのは、ころんとした小柄なおじさんだった。半袖のワイシャツにネクタイをしている。ぺこりと下げてきた頭は天辺がつるんとしていて、後ろと横に残った黒髪がそこだけ海苔を巻いたように見えるので、ふと“おむすびころりん”という言葉が浮かんだ。

 ひとまず、いらっしゃいませ、と声をかけて、すぐに台所にお茶を淹れに行った。

お父さんの仕事関係の人かな。頭や格好はおじさんぽいけど顔はわりと若く見えた。不思議な感じの人だ。

 美春がお茶を持って戻ると、リビングでは父親が、客人が持参したらしきシュークリームをさっそく頬張っていた。父親の大好物だから、リクエストしたに違いない。まったくもう。

 お茶を配り終わると、父親は美春に自分の隣に座るように言った。では改めて、とやたら嬉しそうだ。

「娘の美春でーす!」

 父親の紹介に、おむすびのおじさんは、ああ、と小さく声を漏らすと、ひどく哀しそうな表情を浮かべた後、その顔をうつむけた。 

 それから、突然がばりと腰を折ると、言った。

「ごめんなさい!」

 何なのいきなり。戸惑っていると、

「美春にも渡してやってもらえますか?」

 父親は笑顔を浮かべている。おむすびさんがしょんぼりしたままうなずいた。

「あの。僕」

 こういうものです、と差し出されたのは、名刺だった。

“レインボーペイント株式会社 営業三課 竹中美春”

 わ、また同姓同名。

「たけなか、よしはる、です」

 へえ。読み方違いなんだ。

「歯医者の診察券、ありがとう」

 え? ってことは、このおじさんがナミナミの美春さん?

「日曜日、せっかく来てくれたのに、お礼言えなくて」

 本当にすいませんでした、と再びおむすび頭をぺこりと下げた。

「実はあの日、15分前から喫茶店にいたんだけど」

 そういえば、男性客が何人かいた。その一人が、よしはるさんだったんだ。

 よしはる氏は、拾った診察券をわざわざ届けてくれるくらいだからと、美春を自分より年上の女性か男性だろうと思っていたらしい。

 しばらく待った後、そっと店内を見渡して、中学生らしき少女のテーブルに、見覚えのある診察券が置いてあるのを見て驚いた、とよしはる氏は語った。

「まさか、待ち合わせの相手が若いお嬢さんだとは思ってなくて」

 美春が始めはナミナミさんを若い女性だと思い込んでいたのと同じだ。でも相手が女子中学生だから声をかけなかったというのは、ちょっと納得できない。

「これ、竹中さん――孝志さんにはお話したんですが」

 よしはる氏が、小さな体を縮めるようにして頭に手をやった。

「僕、見かけがこんなだからかもしれませんが」

 普段、中学生や高校生の年頃の女の子からあからさまに嫌悪、軽侮の目を向けられることが多いのだという。すれ違いざまに失笑されたり気持ち悪いと言われたりすることもあるらしい。

「変な誤解をされたこともありますし」

 だからなるべく女の子の方は見ないようにしてるんです、と自分の膝に視線を落としながら言った。

 ひどい話だ。容姿だけで人をばかにするなんて。その女の子達は“男は見かけじゃない”という、重大な真理を知らないに違いない。そういう女がああいうナンパ野郎についてっちゃうのよ!

 ほとんど“若い女性恐怖症”と言ってもいいよしはる氏は、同姓同名だと名乗り出た瞬間の美春の反応を思うと、怖くてとても声がかけられなかったと告白した。

「時計を何度も見ながら、美春さんは一時間も待ってくれたのに」

 カウンターから見ていて、本当に申し訳なかったし辛かったけど、と声が小さくなった。

「どうしても勇気が出なくて」

 せめて電話でお詫びをと思ったが、待ち合わせについて決める時に、一度歯医者の受付を煩わせていることを思うと、自分がすっぽかした待ち合わせの詫びまで伝えてもらうことはできなかった。そう、よしはる氏は話した。

「本当にすみませんでした」

「もう、気にしないでください」

 実際は来てくれていたわけだし、事情が分かった今は、多少残っていた後味の悪さもほとんど薄れてしまった。

「いやあ、すごい縁だよな」

 父親が笑った。今日よしはる氏が、孝志のもとに現れたのは偶然で、いつもの営業担当者が来られなくなってしまったため、その代理としてやって来て、名刺交換したらしい。

 孝志はまずお互いが竹中姓だと知って喜び、その後、もらった名刺の名前を見てひどく面白がったそうだ。

「“うちの娘と同じですよ!”って、ずいぶん楽しそうなので」

 はしゃぐ孝志に、この人ならと安心感を抱いたよしはる氏は“娘さんは、かも歯科クリニックに通院されてませんか”と尋ねてみた。果たして、自分が待ちぼうけをくわせた女子中学生と、取引先の塗装屋の娘とが同一人物であることが判明したというわけだ。

 診察券の件と喫茶店で名乗れなかったことを孝志に話すと、

 “よかったら家に来て、娘と話してみませんか?”

 孝志は満面の笑みを浮かべて言ったらしい。

 “美春がよしはるさんに不愉快な思いをさせることは絶対にありませんから”

「賭けてもいい、とおっしゃるし」

 よしはる氏自身、喫茶店でのことをずっと後ろめたく思っていたので、美春の父親に出会ったのも何かの縁、礼と詫びを言う好機だと、孝志についてきたのだと言う。

「そうだったんですか」

 お父さん、人を乗せるのうまいからなあ。美春が微笑むと、孝志がよしはる氏に向かって得意そうに言った。

「おれが言ったの、嘘じゃなかったでしょ」

「はい」

 お邪魔して良かった、とおむすび顔が少しほころんだ。

「レインボーさんとしては、取引十倍の話がなくなって残念だろうけど」

「お父さんたら、そんな賭けしてたの?」

 呆れた。

「いえ、別にお取引を増やしていただきたくて、乗ったわけじゃないですよ」

 本当に謝りたくて、とよしはる氏は恥ずかしそうだ。いい人そうで良かった。

「あの、聞いてもいいですか」

 美春が身を乗り出すと、よしはる氏は一瞬ぎくりとしたが、うなずいた。

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