第2章 兄のスペシャル焼き
家に帰ると、兄の健太が台所で遅めの昼食を作っていた。竹中家では普段当番制で食事を作るが、家族が揃いにくい休日の昼食は各自で済ませることになっている。美春は待ち合わせの前に軽く食べていたし、さっきのもやもや感が残っていて食欲はなかったが、何となく人恋しい気分だったので、台所に入っていって兄に話しかけた。
「何作ってんの?」
「お好み焼き」
兄はテンポ良くキャベツを刻みながら答えた。雑誌の写真を見て、無性に食べたくなったのだという。美春は椅子に腰を降ろすと食卓の上で頬杖をついた。兄の背中をぼんやり眺める。
美春が内心“ミスター親切君”と呼んでいるくらい、健太は人に優しい。おそらく幼い頃は、兄も交番に落とし物を放り込んでいくような子どもだっただろうし、そんな雰囲気を残したまま17歳になったようなところがある。
人に親切にすることが多い分、今日の美春のような思いも人一倍経験していることだろう。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「人に何かしてあげてさ、後悔したことない?」
健太は手を動かしながらうーんと唸ったが、すぐに続けた。
「最近は、あんまねえな」
「ほんと?」
「例えばさ」
重そうな荷物を抱えていて歩きづらそうな老人に、持ちましょうかと声をかけた時、警戒心を露わにした目で見られることがある。
「そういう時は、少しへこむけど」
声をかけたこと自体は後悔しないと言う。
「どうしようかな、って迷って、やんなかった時って、あとで腹ん中がすげーもやもやすっからさ」
そっちの方が嫌なんだと兄は言った。なるほど。お兄ちゃんらしいなあ。
「何だよ。何かあったのか?」
山芋をすりおろしながら、顔だけ振り向けるようにして尋ねてきた。
「うん。聞いてくれる?」
美春は同姓同名の診察券の件と、顔合わせをすっぽかされたことを話して聞かせた。
「ふうん」
それはちょっとやな感じだな、と大きなボールの中身をぐりぐりかきまぜながら兄は言った。すごい量みたいだけど、あれ全部一人で食べるつもりなのかな。
「時間とか日にち、どっちかが間違えたんじゃねえの?」
「そうかなあ」
相手が提示してきた日時の選択肢はそれほど多くなかったから、それは考えにくい。美春が言うと、
「じゃあ連絡できないくらいの大事件が起こった、ってことにしといてやれば?」
「そだね」
それが事実なら気の毒なことだが、無理にでもそんな風に思わないと、気持ちの落としどころがない。
「同姓同名だから、余計へこむのかもな」
兄がガスレンジの火をつけた。
「やっぱ、同じ名前の人は、いい感じの人であって欲しいって思わねえ?」
自分のことは置いといてさ、と少し恥ずかしそうだ。
「こないだ銀行強盗やって捕まった奴が、何とか健太でさ」
全然関係ねえんだけど、でもちょっと嫌だったなあ、としみじみ言った。
兄の言うことは分かる。さっき喫茶店で見かけたカップルの片割れが自分の待ち人でなくて何となくほっとしたのを美春は思い出した。
そう。相手が連絡もなしに待ち合わせ場所に来なかったのも残念だが、それが“竹中美春さん”だから、もやもや感が増しているのだと思う。もちろん、自分だってそんなたいした人間じゃないけど。
「あ~あ。何でこんな気持ちにさせられなきゃなんないんだろ」
損した気分、とため息とともに、本音が口をついて出た。
「美春」
顔をあげると、火加減を調節してフライパンに蓋をした兄が、振り返った。
「親父の代わりに、とりあえずオレがやってやるよ」
「なあに?」
こほん、と咳払いをすると、兄は食卓の向こうから手を伸ばしてきて、美春の頭に掌を載せた。
「美春、えらかった。さすがはオレの妹」
母親似の優しい眼差しが美春をとらえたかと思ったら、ぽんぽん、と頭の上の手が弾んだ。
「オレの誇りだ」
「お兄ちゃん」
そう言えば、落ち込んだ時はたいてい父親がこんな風にしてくれる。兄にやってもらうのは初めてだ。
「ありがと」
診察券を届けただけで“オレの誇り”とはずいぶん大げさだが、美春は嬉しかった。
「オレのは、親父みたいな威力ねえからさ」
もの足んなかったらあとでやってもらって、と兄は言い、注意をフライパンに戻した。
「ううん。今ので充分」
元気になったよ、と言うと、美春は兄の背中に微笑みかけた。
* * *
少し気が晴れたら、急に小腹が減ってきた。
「いいにおい、してきたね」
「いいだろ。オレスペシャル」
豚コマ、ネギ、キムチに、イカ、チーズ、餅と、いつの間に入れたのか、健太は指を折って列挙した。
「お餅って、お正月の残り?」
「んなわけねーだろ。買ってきたんだよ」
「ふうん」
7月でもお餅売ってるとこ、あるんだ。
「お兄ちゃん、ほんとマメだね」
半分呆れて言ったら、リビングの電話が鳴った。もしかしたら歯医者さんかな。待ち合わせの場所に行けなかった、あるいは遅れたお詫びの伝言電話かもしれない。
「はい、竹中です」
美春が受話器を取ると、
「美春?」
聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
うげ! 叩きつけるように受話器を置くと、美春は受話器を当てていた方の耳を手で払いながら台所に戻った。
「ああ、気持ちわる」
身を縮めながらつぶやくと、兄が心配そうに言った。
「何、イタ電?」
「うん――ううん」
美春にとってはそれに近い不快感があるが、かけてきた方にそのつもりがないのは分かっている。
「たぶん、お兄ちゃんにかけてきたんじゃないかな」
「オレに?」
誰からだよ、と聞くので仕方なく答えた。
「お兄ちゃんの、従兄から」
もちろん美春にとってもただ一人の従兄だが、もうその存在を認めていないから、この言い方でいいのだ。
「従兄って、けん兄だろ。なんて言ってた?」
「知らない」
「お前なあ」
勝手に切るなよ、と一瞬怒ったようだったが、すぐに諦めたような顔でため息をついた。
「今度から家の電話じゃなくて、携帯にかけるように言っといて」
美春が言うと、健太は哀しそうな顔でうなずいた。この件については責任の一端が自分にあると思っているから美春に対して強く出られないのだ。兄に哀しい思いをさせるのは本意ではないが、こればかりは仕方がない。
「美春さ」
兄が焼きたての大きなお好み焼きに削り節を撒きながら、おずおずと言った。
「そろそろけん兄のこと、許してやんない?」
「やだ。っていうか、無理だよ」
今でも思い出すと吐き気がしたり、じんましんが出たりすることがある。
「生理的にだめなんだもん」
美春が言うと、
「ああ、オレなんでお前にしゃべっちゃったんだろ」
これで何度目かになる嘆きのセリフを口にして、兄はソースとマヨネーズを搾り出した。
「わたしはお兄ちゃんに感謝してるよ。おかげで真実が分かったんだから」
2か月前まで、従兄の健司は美春にとって完全無欠の憧れの存在だった。自分がもう少し歳をとったら、12歳上の従兄と結婚しようと本気で思うくらい、心酔しきっていた。
それがだ。
せめて心に決めた人がいるというなら、美春も大失恋を乗り越えて、従兄を応援しただろう。なのに、あろうことか生真面目でクールな従兄の裏の顔は“身内以外なら誰でもいい”レベルの女ったらしだった。従来の従兄とのあまりのギャップに、健司自身の口から真実だと聞くまでは、従兄への想いを美春に諦めさせるために、兄が慣れない嘘をついていると思ったくらいだ。
好きとも可愛いとも思わない、どこの誰とも分からない人となんて、不潔で不純で、最低最悪だ。
信じられないことに、なぜ美春が態度を急変させたのか、健司はいまだによく分かっていないらしい。“法に触れることは絶対してないよ”って、そういう問題じゃないのに!
自分の行いがいかに恥ずべきものか、中学2年生の少女にどれだけ嫌悪感をもたらしたか、徹底的に思い知らせてやるんだから。
ただ、この件では一つだけいいことがあった。美春がある真理を悟ったことだ。
“男は、見かけじゃない!”
「あ~、またじんましんが出そう」
美春が腕をさすりだしたのを見て、健太は一瞬咀嚼を止めた後、最後の一切れをごくりと飲み込んだ。
「まったく、オレの人生最大の失態だよ」
ぼやきながら立ち上がる。ちょうど二枚目が焼き上がったらしい。
「ねえ、わたしにもちょうだい」
「お前、食ってねえの?」
「少し食べたけど、すっごくおいしそうなんだもん」
一枚くらい、いいじゃんとねだったら、
「別に、いいけどさ」
期待通りOKが出た。
「あ、チーズとお餅、いっぱいのがいいな」
「ったく、しょーがねえなあ」
これがまさにそれだよ、と特大の焼き立てを美春に渡してくれた。
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