第三章 莱江山編

第34話 辺境の黙示録

 朝の羊羹の匂いは格別だ。


 普通の人間の嗅覚では羊羹の匂いを堪能することは難しいだろう。しかし、エルカさんによって強化された今の俺のエルカノーズであれば――そう、可能である。鼻から一気に息を吸い込むと、鼻元に寄せた羊羹から濃厚な小豆の匂いが頭へと抜け、まるで脳をガツンと殴られたような衝撃を感じる。


「んほぉ……」


 堪らず、小さな声が漏れる。脳裏に浮かぶのは雄々しい北海道の大地だ。もはや俺が立っているのは異世界の草原などではなく、十勝の小豆畑だと言っても過言ではないだろう。写真でしか見た事ないけど。


 そのまましばらく夢ごこちで朝日を眺めていたが、ふと思い出し、足元の地面の窪みへ左手を向けた。そして口を開き、ゆっくりと言葉をつむぐ。


「左手に封じられし異形の力よ、呼びかけに応じ、今こそ力を示せ……『お湯』」


 渾身の詠唱を終えると、左手から湯気と共にじょぼじょぼとお湯が流れ始め、瞬く間に足元の窪みを満たしていく。満杯になった所でお湯を止めて素足をゆっくりと差し込んでいくと、じわりと蕩けるような温かさが足元から広がった。


「んほほぉ……」


 また、小さな声が漏れた。最近はこうやって朝日を眺めながら羊羹の匂いを堪能し、足湯で身体を癒すのがマイブームとなっている。郷に入っては郷に従え、だ。周りに何も無い草原なら、むしろその何も無いのを活かせば良いだけなのだ。自然、良いよね……。


 ほうっと嘆息しつつ、そばにいる京四郎に「京四郎も足をいれてごらん?」と促すと、京四郎も足をお湯にひたしてジャブジャブとお湯を蹴り上げ始めた。うんうん、京四郎も足湯を満喫してるみたいだな。さて、朝日を眺めつつ羊羹の匂いをもう一度――


「んぐぇッ!?」

「ぎゃぼっ!」


 鼻元に羊羹を寄せた瞬間、突如「バコッ!」という音と共に後頭部を衝撃が襲い、俺は鼻元の羊羹に思いっきり鼻を突っ込んでしまった。何事かと周囲を窺うと、少し離れた地面の上でピクピクと痙攣しているマリーが目に飛び込んでくる。こいつ、また俺への嫌がらせかよ……!


「おいこら! 妖精の本能から嫌がらせしたい衝動に駆られるのは仕方がないとしてな、せめて俺の貴重な癒しの時間は邪魔してくれるなよ!」

「嫌がらせのために自分からあんたの頭に突撃するわけないでしょ! あたしは被害者じゃ! セツカに殴り飛ばされてぶつかっただけよ!」

「セツカに殴られただぁ? どうせまたお前が余計な事したんだろ?」


 地面から「被害者つってるでしょうが!」と吠えてくるマリーを横目に、マリーが飛んできたであろう方向を見やるとセツカが小走りでこちらへ向かって来ていた。


「おいセツカ、どうせくだらん事だろうけど何があった?」

「ちょっと聞いてよシンタロー! マリーってば、ピーちゃんのお腹を壊そうと自らピーちゃんの体内に飛び込んだんだよ! さっきのピーちゃんの苦しみようと来たらかわいそすぎて涙が零れそうだったよ……!」

「誰が好き好んで食われるか! 妖精汁でもあげようかと思って近寄ったら、何をとち狂ったのかあの間抜け植物があたしを飲み込んだのよ! あんた飼うなら飼うでちゃんとしつけときなさいよ!」


 案の定くだらない理由で喧嘩しており、セツカとマリーは呆れ顔の俺などお構いなしに目の前でぎゃあぎゃあと言い争いを始めた。朝羊羹と足湯でストレス取り除いてたそばからこれかよ。


 俺はため息を漏らしつつも、両手を「パンッ!」と軽快に叩き、「はいっ、注目!」と二人の口喧嘩を中断させて口を開いた。


「先生が話を聞いたところ、どうやらどちらにも非があるようです。セツカは早とちりしすぎだし、マリーは勝手に妖精汁あげようとしたから後で天の裁き一回な。だが、この揉め事の根はもっと深いところにあると俺は考えます。そもそもこんな揉め事が起こるのは何故だろうか? そう、ピーちゃんがこの世に存在しているのが悪い! というわけでピーちゃんを地面から引っこ抜くのに賛成の人は手を上げて――おいセツカやめろッ! 『手を上げろ』ってのはそっちの意味じゃねえ! 冗談! 場を和ます冗談だから!」


 どさくさに紛れてピーちゃん撲滅を提案してみたが、セツカが鬼のような形相でこぶしを振り上げたため、俺は慌てて詫びを入れた。くそ、すっかりピーちゃんに情が移ってやがるな……物騒だからさっさと始末したいんだけど、この様子じゃ勝手に引っこ抜こうもんなら俺に腹パンかますかもしれんな……。


 ピーちゃんが突如また凶暴化しないか心配する日々はまだ続くのか、と肩を落としていると、俺のそばで滞空していたマリーが遠くを見ながら「あら、あれムツメじゃない?」と声を上げた。


「ん? 本当だな、ちょっと前にも来たばっかりなのに」


 マリーの視線の先を見ると、遠くの方からムツメがトコトコと歩いて来ているのが目に入った。大きく手を振ってみると、ムツメも右手を上げてひらひらと振り返してくる。なんだろ、また植物の種でも持って来てくれたのかな。


「おーい、ムツメ! この前帰ったとこなのに、随分とまた来るのが早いな。なんか忘れ物でもしたか?」

「おう、シンタロウ。忘れ物というわけではないんじゃがな……この前、帰り際にヨウカンをいくらか分けてもらったじゃろ? あれが見当たらなくなってしもうてなぁ」

「は? まさか落としたのか? おい、食べ物を粗末にすると罰が当たんぞ! しかもよりによって羊羹をなくすなんて……!」

「すまんすまん、莱江山らいこうざんに戻った時はちゃんと手元にあったんじゃが、昼寝しとる間に消えてしまってのう……山に棲み付いておる魔物あたりが食べたのかもしれん。食べ損ねたと思うと無性に食べたくなってな」


 ムツメは申し訳なさそうにぽりぽりと頭をかいていたかと思うと、「というわけで、それを分けてくれ」と右手を差し出してきた。ちょうど分配前だったし、羊羹を欲しがってくれるのはまぁ良いんだけど、こいつも大分遠慮が無くなってきてんな……いや、最初からそんなもん無かったか。


「全く、道端とかに落としたわけじゃないならまぁいいけど、お前はもっと羊羹の有難みってもんを理解しろよ? 今度また同じ事をしたら羊羹道違反者講習を受けてもらうからな。ほれ、ちゃんと味わえよ」


 手元の羊羹を適当にちぎって手渡しすると、ムツメは「おお、すまんのう」と受け取り、そのままひょいっと口へ放り込んだ。ついでにセツカ達にもその場で分配する。京四郎のはちょっと大きめだ。


「あらやだちょっと、なんかキョウシロウの分だけ露骨に大きくない?」

「ほんとだ! ちょっとシンタロー、仲間内で差別するなんて良くないよ! 私たちの固く結ばれた絆を台無しにするつもり!?」

「この程度で台無しになる絆なんか最初からいらんわ! 一応は仲間と呼べない事も無いから、温情でお前らにも分けてやってるんだからな? なんか文句があるって言うんなら今すぐそれを没収してもいいんだぞ!」


 脅しをかけるとセツカとマリーは素早く口に羊羹を放り込み、もぐもぐと頬張りながら「ブーブー!」と不満げにしていた。こいつら、食っておきながらきっちり文句は言うのかよ……。


 ブーイングを飛ばしてくる二人を尻目に、俺も自分の分の羊羹にかじりついていると、ふとどこかからゴロゴロと遠雷のような音が耳に届いた。珍しく雨でも降るのか? と音がした方に顔を向けてみるが、空には雨雲らしきものは一つも無く、いつも通り綺麗に晴れ渡った青空が視界いっぱいに広がっているだけだった。


 聞き間違いかな、と朝日の方に視線を戻そうかと思ったその時、遠くの空の中に何やら小さな影が浮かんでいる事に気が付いた。「お、今回こそ鳥さんかな?」と目を凝らしてみると、ピントが合ったかのように細部が鮮明に浮かび上がっていく。だが目に映る「それ」は、鳥というよりも人が両腕を広げて滞空しているように見えた。なんだ? 鳥人間か何かか?


 不思議に思いながら遠方の影をじっと見つめていると、ムツメもその方向に顔を向けながら眉根を寄せ、「む、この気配は……」と何やら意味深な事を呟いていた。


「おいムツメ、どうかしたか? あ、さてはジェシカの時みたいに思わせぶりな態度で俺をびびらせるつもりだな? もうその手には乗らんからな!」

「それは別に良いが……お主とマリーのおる辺り、ちょいと危ないぞ」

「へ? 危ないって一体ぬわアアア――――――ッ!?」

「ギエエ――――――――――――――――ッ!!」


 ムツメが警告した次の瞬間、俺とマリーのちょうど中間あたりの地面を「ズドォン!」と爆ぜるような衝撃が襲った。土埃が猛烈に舞い上がり、俺とマリーは衝撃で突き飛ばされるようにして地面へと倒れ込んでしまう。いっ、一体何事だ!?


 衝撃波で耳の奥がキンとし、頭がくらくらしつつも無理矢理に体を起こして爆発の起点であろう場所を見据える。砂煙がもうもうと舞う中、次第に小さな人影らしきものが浮かび上がってきていた。そして見えたのは――ぎらりと鋭く光る、二つの金色の瞳だ。


「見つけたぞ、ムツメっ!」


 その瞳の主は、活発な少年のような声を発した。土煙が収まるにつれて姿がはっきりと見えてくる。背丈はムツメと同じぐらいで、ツンツンとはねる白い長髪に褐色の肌をしており、その顔は整っているが中性的で美少年とも美少女とも取れた。袖の無い着物のような上着と、ひざ下くらいまでの半袴を身に着け、腰には細い縄で月漣丹とそっくりな物をぶら下げている。まるで若い頃の織田信長みたいな格好だ。


「ライタ……やはり、お主か」


 ムツメはしかめ顔のまま、ぽつりと漏らすようにその人物の名を呼んだ。どことなくムツメに似てるなと思ったら、やっぱり知り合いなのか。同郷とかなのか? あんまり嬉しくは無さそうだけど……って、ムツメと同郷ってことは強者狂いのセツカがまた後先考えず殴りかかるんじゃねえだろうな!?


「セツカ待て! ステイッ! ハウス……って、あれ?」


 俺は反射的にセツカの方へ向き直ってけん制の言葉を投げたが、セツカは目を煌々と輝かせてはいたものの殴りかかる事はなく、何故かその場に留まっていた。


「おいセツカ、お前が殴りかからないなんて珍しいな。あっ、さてはなんか変な物でも拾って食べて腹壊したか? だから拾い食いはやめろって言ったのに」

「ちょっと失礼だよっ! ムツメの知り合いみたいだからギリギリのところで何とか思い留まったのに! ちゃんと褒めてよねっ!」

「ギリギリなのかよ……」


 いや、こいつにしては進歩した方だと前向きに考える事にしよう。ひと先ずセツカは置いておいて、今は目の前のライタさんとやらを紹介してもらうか。


「なぁムツメ、こちらのライタさん? ってムツメの知り合いなんだろ? 俺らに紹介してくれよ」

「まぁ知り合いではあるが……おいライタよ、一体何をしにここへ来たんじゃ?」


 ムツメが疑問を投げかけると、ライタは子供のようにパッと顔を輝かせた。


「昔みたいに遊ぼうと思って誘いに来たんだ! さぁ、一緒に遊ぶぞっ!」

「断る! わしはもうあのような遊びは卒業したんでな」


 辛辣な言葉に驚いてムツメの顔を窺うと、先ほどよりも一段と不機嫌そうに眉間に深いしわを寄せていた。むげなく断られたライタの方も「むぅっ」と膨れっ面をしている。何だか険悪なムードだ。


「お、おい、お前らの間に何があったのか知らないけど、ちょっと遊ぶくらいなら良いんじゃないのか?」

「……こやつの言う『遊び』というのは、守りの固い領主や貴族やらの屋敷や城に一人で殴り込みをかけ、家宝を奪って帰って来るというものじゃぞ」

「は? 殴り込み?」

「うむ。わしらは長命な上、力もとびきり強いからのう。昔は仲間内で『誰がより危険な真似を出来るか』を競い合って暇を潰しておったのよ。いやはや、若気の至りというやつじゃなぁ……」


 ムツメはしみじみと言い、懐かしむように目を細めていた。な、なんだその物騒なチキンレースは……セツカと同レベル、いや下手したらセツカよりたちが悪いんじゃねーか? そりゃ王家も精鋭を差し向けてくるわな。


「まぁ、そんな事ばかりしておった上に、王家による結界術が広まったのもあって仲間もどんどん減っていってしもうてな。ライタも深手を負って莱江山で眠っておったはずなんじゃが……お主、一体いつ目覚めた?」

「なんか急にドカカッて感じのすごい魔力がギュワワッと流れ込んできて、それでズガガンッて一気に目が覚めたんだ! あれ、そこの人間の魔力がなんか似てるような……? それにお前、良い尻してるな……」


 唐突に金色の瞳に見据えられ、俺は尻にひやりとしたものを感じ、すすすっと横に動いてムツメの背後に身を隠した。まさかムツメの仲間ってみんな変態尻魔神なんじゃねえだろうな……。


「そうか、ヨウカンの魔力で目覚めたんじゃな! 魔物が食ったのではなく莱江山が吸収しておったのか。道理で見当たらなかったわけじゃ」

「や、山が羊羹を吸収した……?」


 ムツメは謎が解けたと言わんばかりに満足気な顔をしていたが、俺は異世界の山の不気味さにぞっとしていた。い、いや、ここは前向きに考えよう。異世界の山は羊羹の美味さを理解出来ると考えるんだ……あっ駄目だ、やっぱ気色悪いわ。


「そうだ、遊ぶのがダメなら『つがい』になろう! つがいはずっと一緒にいるものだって聞いたぞっ!」

「それも断る。大体、わしらに雌雄はないじゃろうが」


 突然の求婚もあっさり却下され、ライタは膨れっ面を更に大きく膨らませた。場に気まずい沈黙が流れる中、ふと、ライタの体の周りを青白い筋のようなものが不規則に現れては消えていく事に気づいた。同時にぱちっ、ぱちっ、と小さく何かが弾けるような音も耳に届く。目を凝らしてみると、また一つ青白い筋がパチッと迸る。火花、いや、電流か?


 と、それまでムツメを睨みつけていたライタの瞳が横にずれ、俺をジロリと射抜くように見据えた。そして次の瞬間、ライタの体全体が青白く発光したかと思うと、「バチッ!」とひと際大きな音と共にその姿が消え――


「こいつ、ムツメの今のお気に入りだろ? 良い尻してるからな、すぐに分かったぞ」


 俺の真後ろから、今の今まで目の前にいたはずのライタの声が聞こえた。


 ぎょっとして振り向こうとするが、それよりも速く俺の腰あたりにライタの手が滑り込み、そのまま俺の体は軽々と担ぎ上げられてしまう。自分の意思に反した体勢の変化に思わず全身に力が入るが、ライタの腕はがっちりと俺を抑え込んでおり、担がれた俺の体はビタッと見事に安定していた。


 おお、流石ムツメの仲間だけあって力があるな……って感心してる場合じゃねえ!


「ちょっ、ちょっとちょっと! 突然何なんだ!?」

「おいライタよ、一体何をするつもりじゃ?」

「こいつの身柄はおれが預かる! 返してほしかったら追いかけて来い! 追いかけっこだっ!」


 ライタはそう宣言するや、少し体を屈め――思いっ切り強く地面を蹴った。途端、ぐんっと横に強く引っ張られるような感覚と共に俺とライタの体は地面から離れて飛び上がり、瞬く間にムツメ達から遠ざかっていく。猛烈な風が体に吹きつけ、服がばたばたと音を立ててはためく。凄まじい跳躍だ。


「おっ、俺がさらわれるんか――――――――いッ!」


 たまらず空中で叫んだが、俺の叫び声はびゅうびゅうと唸る風切り音であっという間に掻き消されてしまったのだった。

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