第26話 牧野新太郎は静かに祭りを楽しみたい

 翌日、ヴェルヌイユさんに「市長さんとの話し合いの場を作って欲しい」とお願いし、俺は教会の応接室で一人長椅子に座って話し合いの時を待っていた。急な事だからすぐには無理かなと覚悟していたのだが、市庁舎から戻って来たヴェルヌイユさんに「今日の昼以降に時間を作れるので、教会で待っていて欲しいそうです」と伝えられたのだ。


 どうやら向こうさんも早い事「神の眷属」と対面したかったみたいだな。もしくは眷属からの頼みを断る勇気が無かった、とかかな。まぁ、こっちとしても早めに会っておきたかったから願ったり叶ったりだ。上手いこと話が進めばいいんだが。


 そんなことを考えつつ、開かれた鎧戸から見える外の景色をぼーっと眺めていると、ふいに横の壁の方から「ギギ、ギギギ」と鈍い音が聞こえた。何の音だろうと顔を向けると――壁の一部分が回転し、出来た隙間から人がのそりと這い出てきた。うおっ、何だ!? 異世界の忍者か!?


 思わず驚きの声を上げそうになるのを堪え、壁から現れた初老くらいの男性を凝視していると、その男性は壁を元に戻しつつ「や、眷属様ですかな?」と穏やかな声を漏らした。


「はじめまして、このエルンストの市長をやっております、ミラー・ソーントンと申します。お目にかかれて光栄です、眷属様」


 差し出された右手を握り返しながら、俺も「ど、どうも、エルカ・リリカ様の眷属をやっております、シンタロウ・マキノと言います」と自己紹介を返した。昨日会ったギルドの親方たちに比べると随分ほっそりした体付きで、いかにも文官という感じの温厚な印象だ。


「突然、このような場所から現れて申し訳ありません。重要な話をする時などは余計な邪魔の入らぬよう、こういう仕掛けのある部屋を用いておるのですよ。表向きは感謝祭の打ち合わせという事で教会を訪れておりますので……ご気分を害してしまったでしょうか?」

「い、いえ、ちょっと驚きはしましたけど、私のいた世界にもこういう仕掛けはあったので……問題ありませんよ」


 俺の言葉を聞いたソーントンさんは「それは良かった! 話に聞いた通り、寛大なお方のようだ」と笑顔を見せる。俺の人となりについて、ヴェルヌイユさんや親方たち辺りから既に少し情報を得ているみたいだ。やっぱ早めに会う判断をして正解だな。


 俺とソーントンさんは向かい合う形で長椅子に腰を下ろすと、ソーントンさんの方から「さて」と話の口火を切った。


「眷属様から私めの方へお話があると伺ったのですが……現在の待遇へのご不満でしょうか? エルカ・リリカ様の眷属様を出迎えるのであれば、都市を挙げて盛大にお出迎えするのが当然だとは承知しているのですが――」

「いや、今の待遇に不満はありませんよ。教会の方々には良くしてもらってますし、それに感謝祭の準備等で皆さんもお忙しいでしょうから……」


 言葉を遮ってそう言うと、ソーントンさんは「ご配慮いただき、誠にありがとうございます」と恐縮した様子を見せる。でも、派遣官に知られたくないから出来るだけ大々的には出迎えたくない、って気持ちも多分あるんだろうな……ひょっとしたら、王都と交渉するつもりも。


 さぁ、お祭りを平穏に楽しむため、一つ踏ん張って交渉するか――俺は気を引き締め、口を開いた。


「そう、話したいというのは感謝祭の事なんですよ。私はこの世界に来てから日が浅く、この祭りを見るのも初めてなんですが、たまたま郊外で殴道宗のセツカという人間に出会い、この都市で感謝祭を見る事を強くお勧めされましてね……そこまではご存知でしょうか?」

「はい、殴道宗のセツカさんの案内でこの街に来たという事は存じております」


 それも把握してるか。でも、セツカとどれだけ親しいかまでは知られていないはずだ。ヴェルヌイユさんやサラとも既にかなり打ち解けている、ってことも。


「私としてはクレメンタイン地方の都市ならどこでも良かったんですが、そこまで強く勧めるなら一度訪れてみるか、ということでこの街へ来たんです。すると殊の外見事な街並みで、人々も活気に満ち溢れているこの街を、私は非常に気に入りましてね」

「おお、素晴らしい! そこまでこの街を絶賛していただけるとは、市民を代表してお礼を申し上げます」

「……ですが、過去に神の眷属が訪れた街ではちょっとしたごたごたが起こった、ということはソーントンさんも良くご存じだと思います。勿論、この素晴らしいエルンストの街ではそのような事は起こらないと信じていますが……」


 ソーントンさんが息を呑む気配が伝わる。俺は意識的に真剣な表情を作り、言葉を続けた。


「私の目的は、静かに、心穏やかに感謝祭を楽しみたい。ただ、これだけです。万が一、この目的が果たせないような状況になれば、私は他所の都市へ移ります。エルカ・リリカ様が顕現する際に依代となれる巫女は他にもいますしね」


 これはサラに確認を取った情報だ。銀髪になるのは霊力が高い証で、この辺ではサラが一番霊力が高い聖職者らしいのだが、他所にもそれなりに霊力の高い人間はいるらしい。


「こちらのヴェルヌイユさんやサラさんにはとても良くしてもらっていますから、私は出来れば、住んでいる人間も素晴らしいこの都市でお祭りを最後まで楽しみたい。そうすれば私はこの街をもっと気に入り、今後は拠点としてここを度々訪れることになると思います。そうなると、この街にも今よりもっと愛着が湧くことでしょう。そして、もし……今後、愛着のある都市が困るような事が起これば、私はその都市のために力を尽くすでしょうね。それが情ってもんです。私の情の深さはエルカ・リリカ様のお墨付きなんですよ」


 そこで一度言葉を区切り、少し間を空けてから「私のお話したいことは、以上です」と締めくくった。ソーントンさんは神妙な面持ちで少し黙り込んでいたが、「……仰りたいこと、良く分かりました」と、表情を和らげた。


「このお祭りの第一の目的は、エルカ・リリカ様に感謝を捧げることですからね。もとより、眷属であるマキノ様にも祭りを楽しんで頂くために全力を尽くす所存です」


 俺は内心、ほっと胸を撫で下ろしながら「お心遣い、ありがとうございます」と表情を緩めた。良かった、どうやらこっちの意図はちゃんと伝わったみたいだな。


「ただ……一つだけ、よろしいでしょうか」


 ソーントンさんが顔を少し引き締め、右手の人差し指を立てる。俺も緩んだ顔を軽く引き締め直して「はい、何でしょうか」と返事をした。


「エルカ・リリカ様の眷属様が街に滞在していることは、この街の市参事会やギルドの親方衆には知れ渡っています。もちろん、彼らは無暗に部外者には漏らしませんし、マキノ様が穏やかに祭りをお楽しみ頂けるようにこちらからも通達は出しますが、不逞の輩が現われないとも限りません。万一そんなことになれば面目が立ちませんし、都市の存亡にかかわります。そこで、こちらで護衛の者を用意させて頂きたいのですが……」

「護衛、ですか」

「はい。有能な者を派遣しますので、祭りを楽しむ一助にもなれるかと」


 俺は腕を組んで、「ふむ」と考える仕草を取った。正直な所、護衛というよりも監視役、だろうな。確かエルカさんは俺の実力を「この世界のヒエラルキーで上の下くらい」と言っていたから、多分、その辺の暴漢が束になって襲ってきても負けはしないだろう。ぶっちゃけ、セツカの方が暴漢よりよっぽど怖いし……。


 でも、ここで断ったとしてもこっそり監視の人間は付けるんだろうな。どうせ監視されるなら、堂々と近くに居てもらった方がマシかもしれない。上手くいけばセツカやマリーの世話を押し付けられるかもしれんし。


「……分かりました、それくらいなら構いませんよ」


 その言葉を聞いたソーントンさんは「おおっ、ありがとうございます!」と笑顔をこぼし、「では、後ほど選りすぐりの者を教会へ寄越しますね」と言葉を続けた。


「はい、お願いします。いや、今日は有意義なお話が出来て本当に良かったです」

「ええ、本当に。また何かありましたら、ヴェルヌイユ先生か、後ほど寄越す護衛の者にお伝え下さい」


 俺とソーントンさんは立ち上がって握手を交わし、それからソーントンさんは入室して来た時のように壁を回転させ、「では、失礼します」と隣室へと姿を消した。壁がピタッと元の位置に戻るのを確認してから、俺はどすんと長椅子に腰を下ろし、大きな息を吐いた。


 よ、良かった、上手く話が付いたぞ……。本当に大人しくしていてくれるかの保証は無いけど、俺が都市を去るリスクを考えれば、多分余計な事はしないだろう。これで、ヴェルヌイユさんやサラへの負担もいくらか減らせるはずだ。


 緊張から解放されて気の抜けた俺は、長椅子に座ったまま、しばらくぼけっと虚空を見つめる。ええと、次にやらなきゃいけない事は……そうだ、サラに京四郎たちの面倒を見てもらってるんだったな。様子でも見に行くか。


 俺は立ち上がり、部屋を出て廊下を進むも、そういえば皆がどこにいるのか分からないことに気づく。何人かのシスターさんとすれ違いながら適当にぶらぶら歩いていると、中庭の方から子供たちの遊んでいるような声が聞こえ、そちらへと向かった。覗いてみると、走り回っている子供たちと――京四郎に話しかけているサラが目に入った。京四郎は棒のような物を手に持ち、地面に絵でも描いているようだ。


 二人の方へ近づいていくと、サラも気づいたのか「おう、牧野」と顔を上げる。


「市長との話し合いはどうだった?」

「たぶん、上手くいったと思うよ。ただ、後で護衛の人をここへ派遣してくるらしい。実際は監視のためだろうと思うけどな。そっちは何してたの?」

「ああ、ちょっとキョウシロウ君に読み書きを教えてたんだよ。この子、飲み込みがはえーわ」


 サラはそう言って、京四郎の頭を軽くぽんぽんと叩いた。あれっ、京四郎って読み書き出来ないのか。出発前に土の壁に書いた俺の文字を読んでた気がするけど……でもそうか、翻訳機能が働いて意味が伝わったか、セツカやマリーの発音を真似しただけだったのかもな。考えてみれば、今は人型でも元々魔物だもんな。


 京四郎が棒でガリガリ書きつけている地面を覗き込んでみると、書かれているのは見覚えのない文字だが、「虫」という意味であることが感覚的に分かる。うん、こっちの世界の文字にもちゃんと翻訳機能が働いてるみたいだ。


「ところで、セツカやマリーはどこにいるんだ?」

「セッちゃんはまたギルドに顔出しに行って、マリーはなんか他のシスターに樽を何個か玄関の方へ運ばせてたな。中身はただの水みたいだったけど、あの水はお前が出したって聞いたぞ?」

「ああ、話し合いの前にマリーに頼まれたんだよ。てっきり飲み水用かなと思って、何に使うかまでは聞かなかったけど……」


 水くらいなら大したことにならないだろうし、別にいいかと思って安請け合いしたんだけど……考えてみれば、石ころ使って恐喝するような奴だしな。後で様子を見に行くか。


 ああ、早く護衛の人が来てマリーの面倒見てくれないかな……と気落ちしていると、何人かの子供がこちらへ駆け寄り、「サラせんせー、キョーシロー君と遊んでいい?」と声をかけてきた。


「ええ、構いませんよ」


 サラが穏やかに返事をすると、子供たちは京四郎を連れ、わっと駆け出して行った。うんうん、子供同士で遊ぶのも京四郎の教育に重要だな。あれ、でも京四郎って何歳なんだ……? 見た目は子供だけど……ま、まぁ、実質子供だろ。


「……サラも子供たちには『先生』って呼ばれてるんだな」

「ん? ああ、オレもあいつらに読み書きや学問を教えてるからな……おい、なんか言いたげだな。文句でもあんのか?」

「い、いや、文句じゃないけど……さっきの喋り方とか物腰がヴェルヌイユさんみたいだったな、と思ってな。同僚のシスターさんに素を隠すのはまあ分かるけど、子供たちにはちょっとくらい『素』を見せてもいいんじゃないのかな、ってさ」

「……オレみたいなガサツな振る舞いを真似したら困るだろ」

「そうか? 俺は別に嫌いじゃないけどな……ぐえっ!」


 サラから鋭い肘鉄が脇腹に叩き込まれ、俺は思わず呻き声を上げた。サラは「適当な事言ってんじゃねえよ」と、ぷいっと横を向いてしまう。いかん、怒らせちゃったか……肘鉄痛い……。


 謝った方が良いかなと思案していると、サラが顔の向きを戻し、「……昔はオレ、こういう性格じゃなかったんだよ」と口を開いた。


「オレも教会でヴェルヌイユ先生とかに面倒見てもらって育ったんだけどな、昔はもっと気が小さくて、おどおどした性格だったんだよ。でもある日、殴道宗の師範に連れられて教会に来たセッちゃんと出会ってさ。セッちゃんは『鍛えてあげるよ!』って稽古をつけてくれたり、ラオールの群れにオレをぶち込んだりしたんだよな……普段は温厚なラオールも、オレの霊力の高さに当てられたのか暴れ出しちゃって、そりゃあもうとんでもない目にあったよ……」


 サラは光を失った焦点の合わない目で、ぼんやりと遠くを見つめた。セ、セツカの奴、サラにまでトラウマを刻み込んでたのか……まさかサラが魔物苦手なのって、ラオールに酷い目に合わされたのが原因なんじゃ……。


「ま、まぁでも、セッちゃんには感謝してんだ。おかげでちょっとやそっとの事では物怖じしなくなって、セッちゃんの代わりに謝ってる内に波風が立たないよう外面を作る事も覚えたし、腕っぷしも強くなったしな」


 サラは右手で握りこぶしを作り、左の手のひらにパンッとぶつける。ああ、妙に肘鉄にキレがあると思ったらセツカ仕込みだったのか。そりゃ痛いはずだわ。


 俺は少しニヤついた顔をしながら、「仲、良いんだな」とサラに言葉を投げると、サラは「まあ、そりゃな」と言ってまたぷいっと横を向いた。そうか、横を向くのは照れ隠しか。俺も段々とサラのことが分かって来たぞ、と思っていると、


「サラせんせー! キョーシロー君、尻尾があるよー!」


 と、子供の叫び声が耳に届いた。目を向けると、一人の男の子が京四郎の服の裾をぺろっとめくっており、そこから小さな灰色の尻尾がちょろりと覗いていた。


「えっ、キョウシロウ君に尻尾……? えっ、ということは、まさかキョウシロウ君って魔物……? えっ、あれ……?」


 サラは戸惑った声を漏らしたかと思うと、京四郎の尻尾を凝視したまま固まり、やがてプルプルと震え出してしまった。ま、まずい、結局言い出すタイミングが無いまま魔物だってバレちまったぞ! マリーの二の舞だけは絶対に避けねば……!


「お、落ち着くんだサラ! 確かに京四郎は魔物だけどな、実は乱れた異世界に調和をもたらす選ばれし魔物なんだ! だから大丈夫、ノーカウント! ノーカウントなんだ! 羊羹と共にあれ!」

「そ、そうか! 選ばれし魔物か! 確かにそれならキョウシロウ君は問題無いな! 羊羹と共にあれ!」


 よし、混乱してるからか勢いで乗り切ったぞ……! マリーみたいに京四郎まで浄化されたら溜まったもんじゃないしな。


 ほっと安堵していると、「あれ? でも選ばれし魔物でも魔物には変わりないんじゃ……?」とサラが感づきそうだったので、俺は慌てて「そうだ、マリーの様子を見に玄関へ行こう! さぁさぁ!」とサラの背中をぐいぐい押した。こういう時のためのマリーだ。妖精の里スケープゴート選手権とかあったら優勝間違いなしだろうな。


 ぶつぶつと何か呟いているサラを玄関まで引っ張っていくと、水が注がれた樽を挟む形で、マリーと体格の良い男性数人が何やら押し問答を繰り広げていた。あれって、昨日押し寄せてきた親方たちだよな?


「妖精の嬢ちゃんよぉ、いくら何でも水一杯が百マルセルってのは高すぎだろ?」

「あら、あたしは何も別に強制はしていないのよ? 確かに、このエルンストは魔法協会と水利ギルドが作り上げた見事な水路が整備されている美しい街よ。ただ水が欲しいだけなら、その辺の噴水や井戸からでも取ってくれば済む話だわ。でもね、何を隠そうこの水は、神の眷属が直接出したそれはもう有難~い水なのよ? その名もずばり『妖精水』! その辺のただの水と一緒にしたら罰が当たるってものよ」


 あ、あいつ、俺に水を出させたのはギルドの親方たちに高値で売りさばくためだったのかよ……よくもまぁ次から次へと悪知恵が働くもんだ……。


「そうね、『水を買う』と思うからいけないのよ。これは『お布施』だと考えなさい。あなたたちの神の眷属に対する熱意、ひいてはエルカ・リリカ様への信仰心がどれほどのものか試されているってわけね」

「そっちの一回り小さい樽に入ってるのは何なんだい?」

「こっちは妖精汁配合妖精水、通称『超妖精水』よ。数量限定で、一杯当たり千マルセルね」

「たっ、たけえ!」

「ぼったくりじゃねえのか!?」

「上辺だけに囚われていては駄目よ! 物事っていうのはね、本質を見なきゃ駄目なの。確かに、普通の妖精水の十倍の値段がついてはいるけどね、効能を考えれば十分に元は取れるし、何より『超妖精水』を買うほどの熱意を見せれば、神の眷属はきっと大変感動するでしょうね……。ただ、ここは勘違いしないで欲しいけど、最初に言った通り、あたしは決して強制はしないわ。買うかどうかを決めるのはあくまであなたたちよ。さぁ……どうするのかしら?」

「お、俺は『超妖精水』を買うぞ!」

「じ、じゃあ俺もだ!」

「俺は二杯もらうぞ!」

「はいはい、押さないで押さないで! 数量限定といってもまだ数には余裕が御座います! 一列に並んで、慌てずゆっくりお買い求めください!」


 にわかにロビーがぎゃあぎゃあと賑やかになる。俺は呆れ顔で固まっていたが、せっかく水がある事だし、室内だけどまたファイヤーフライにでもしてやろうかと思っていると、横にいるサラがすっと右手を上げ――クンッと指先を上へ向けた。


「ブゲアアア――――――――――――――――――――――ッ!」


 マリーは汚い叫び声と共に光の柱に包まれ、そのまま樽の水の中へ落下し、焼け石に水を浴びせた時のような「ジュワッ」と小気味よい音をロビーに響かせた。サラはそれを確認してから、呆気に取られた顔をしている親方たちの前へと素早く躍り出た。


「どうも親方、ご機嫌麗しゅう! どうやらこちらの商品に異物が混入してしまったみたいですね。商品の品質管理に重大な問題があるようですので、恐れながら今日はもう店仕舞いさせていただきます。今後の販売再開の予定は未定となっておりますので、悪しからず。お問い合わせは市庁舎の方へお願いいたします。それでは皆様、また会う日まで御機嫌よう!」


 サラは早口にそう言うと、マリーの沈んでいる樽をひょいっと両手で持ち上げてスタスタと俺の方へ戻って来た。えっ、あの樽って水が優に百リットルは入ってるよな……? それを軽々と持ち上げるって……さ、流石はセツカに鍛え上げられただけの事はあるな……サラも怒らせないようにしよっと。


 サラはそのまま俺の横を通過して廊下を奥へと歩いて行き、俺もその背中を追った。樽の中の水が揺れてちゃぽちゃぽと音を立てるのを聞いていると、ざばっという音と共に「おいゴルァ! 浄化はやめて下さいって言ったでしょうが!」とマリーが浮き上がって来た。


「おうこら虫! よりにもよって教会の入口で詐欺を働くたあ良い度胸じゃねえか! この水を聖水に変えてその中に漬け込んでやろうか!?」

「ちょっ、本当にやめて下さい! でも、昨日大人しくしてろって言われたのに今日も来てる親方たちだって悪いでしょ!? あたしは親方たちを追い返すだけじゃなく、ついでにお金もたんまり稼げるっていう素晴らしい計画を実行しただけよ! 果たしてあたしに責任はあるのかしら!? いや無い!」

「おい牧野、お前確か手から冷気を出せるはずだよな? ちょっとこの虫ごと樽の水を凍らせてくれねえか」

「おう、お安い御用だ。『性悪妖精ここに凍る』って書いて道にでも晒すか」

「すみませんでしたァッ! 妖精の里水泳大会第三位の華麗な泳ぎをご覧になってどうか機嫌を直してくださいッ!」


 マリーはそう叫ぶや、樽の中でジャブジャブと泳ぎ始め、シンクロナイズドスイミングのような動きを始めた。自分で華麗な泳ぎって言うか、普通。


 そうこうする内に中庭へ到着し、サラは樽をどすんと地面へ下ろした。その様子を見ていた子供たちが興味津々といった顔で樽へと駆け寄ってくる。


「あらあら? あたしの華麗な泳ぎを見物したいのかしら? 仕方ないわね。まだ子供だし、初回だから無料で披露してあげるわ。言っておくけど、次からは有料ですからね? 妖精の里の半魚人と呼ばれた実力、しかとその目に焼き付けなさい! ハァッ!」


 マリーは適当な事をぐだぐだ喋ったかと思うと、樽の中で器用に泳ぎ始め、それを見た子供たちがきゃっきゃと歓声を上げた。やれやれ、子供たちへの見世物にでもするのが羽虫マリーの一番効果的な活用方法なのかもしれないな。今度、頑張って丈夫な虫かごみたいなのでも作ってみるか。


 無邪気に喜ぶ子供たちを傍らから眺めていると、横の廊下からシスターさんがやって来るのが目に入った。その背後には金髪碧眼の見慣れぬ女性が連れられており、「おや?」と思っていると、近づいてきたシスターさんが「こちら、市庁舎からお出でになったそうです」と女性を紹介した。いかにも仕事が出来そうな感じのすきっとした美人さんだ。


「はじめまして、マキノ様。市長に言われて参りました、クララ・マクベインと申します。お目にかかることができ光栄です。どうぞ、クララとお呼び下さい」


 歳は二十代半ばくらいか、短めの髪が良く似合うきりっとした顔立ちに穏和な笑顔を浮かべている。この人が護衛の人か、随分と早いな。ひょっとしたら、既に近場で監視してたのかな。任務が監視から護衛に切り替わってそのままやって来た、とか。


 俺も「どうもはじめまして。護衛、よろしくお願いします」とクララさんに言葉を返す。しかし、護衛が女性とはな……しかも美人さんだし。てっきり、ギルドの親方みたいな筋肉モリモリマッチョマンが来るもんだと思ってたんだが。俺の心証を良くするためかな。


 会話が聞こえていたのか、マリーが「あら、護衛ですって?」と水滴を振りまきながら樽から飛び出してきて言葉を続けた。


「あらあらまあまあ。見た目は悪くないけど、果たしてこんな貧相な体格で神の眷属とその偉大な仲間であるこの私を守る事が出来るのかしら? 万が一、クレメンタイン地方の至宝であるこのあたしに傷でもつこうもんなら、国際問題に発展しかねないわよ?」

「妖精のマリー様ですね、お噂はかねがね伺っております。こちら、つまらないものですが、お近づきの印として持参いたしました。どうぞお納め下さい」


 クララさんが手提げから何かの木の実を差し出すと、マリーは「こ、これはまさか、ボーセージの実!?」と目を見開いた。なんだ、貴重な物なのか?


「はい、美味しい食べ物がお好きだと伺いましたので、伝手を頼って用意致しました。お口に合えばよろしいのですが……」


 マリーはクララさんが手に持っているボーセージの実にがばっと抱き着くと、そのままむしゃむしゃと貪り始めた。びちゃびちゃと果汁が周囲に飛び散り、見るに堪えない光景に思わず眉をひそめる。な、なんて品が無いんだ、こいつ……。


 マリーはひとしきり食い散らかすと、「げふっ」と息を漏らし、


「ふん……まぁまぁといった所かしらね。ま、悪くはなかったわ。でも、あなたの護衛にかける熱意はしっかりと伝わったわよ! その熱意に負けたわ! そばに侍る事を許す、苦しゅうない!」


 と、偉そうな言葉を言い放った。あんなに貪りついておいて、何が「まぁまぁ」なんだよ。しかも護衛されるのはマリーじゃなくて俺だし……ばっちり買収されやがって。


 そんなマリーの醜い振る舞いを目の当たりにしても、クララさんは「お気に召していただけたようで幸いです」と終始笑顔のまま丁寧な対応を取っていた。ははあ、これが仕事とはいえ、大したもんだなこの人。神の眷属の監視役なんてものを任されるだけのことはあるわ。


 感心した目をクララさんへ向けていると、ふいに背後からゴスッと小突かれ、思わず「いでっ」と声を漏らした。振り向くと、サラが不機嫌そうな顔で俺を睨んでいた。


「おい、あいつ監視のために送り込まれたんだろ? 美人だからって油断すんなよ、ったく……鼻の下伸ばしやがって。眷属様はいい気なもんだよな、全く」

「お、おいっ、鼻の下なんか伸ばしてないし、油断だってしてないって!」


 小声で抗議するも、サラは「はっ、どーだか」と言ってぷいっと横を向いてしまった。さっきみたいに照れている……わけじゃないよな、もちろん。市長さんと上手く話がついて、「これでもう安心だ」と思ってたんだけどな……問題が全て解決とはいかないか。


 俺はサラの方へ向き直り、なんとか機嫌を直してもらおうとあれこれと話しかけ続けた。

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