第18話 恐怖の報酬(尻)
「ム、ムツメッ!?」
『ムツメノカミ殿!』
うん? ムツメノカミ殿? と、ドラゴンの方へ目線を戻すと、ドラゴンの方も「おや?」という表情で俺の方を見つめていた。今のドラゴンの言葉って、明らかにムツメの事を指してたよな……。
「今、ムツメノカミって言った!?」
胸ポケットの中で縮こまっていたマリーが、驚きの声を上げながらがばっと身を乗り出してきた。なんだ、マリーもドラゴンの喋ってる内容が分かるのか。腐っても魔物か、と思いつつ、俺はマリーに問い返した。
「知っているのかマリー!?」
「ム、ムツメノカミって言ったら、王家が過去何度も何度も精鋭を差し向けて討伐しようと試みてるものの、全部返り討ちにしてるっていう大妖よ。王家が父神オルディグナスの加護を得て、今みたいに勢力を拡大する前から生きてるって言われてて、齢千は優に超えてるとか……」
「せ、千!? お前と違ってマジもんの大物じゃねぇか!」
マリーが「あたしと違ってってどういう意味じゃ!」と胸ポケットから吠えてくるが、俺はそれを無視してもう一度ムツメの方を見やった。ち、ちょっと顔が広いだけの尻好きのド変態だと思ってたら、まさかそこまでの大物だったとはな……。
「情報通のあたしでも実物を見るのは初めてね……あんた、ムツメノカミと面識あるの?」
「ああ、ちょっとな……って、あっ! やべぇッ!」
マリーの方へ視線を戻そうとした時、付近にいたセツカが「強者ッ!?」と言うや地面をダンッと強く蹴り、ムツメの方へと大きく跳躍するのが目に入った。俺とマリーを会話を聞いていたらしい。あ、あの馬鹿! ドラゴンよりヤバそうなやつに喧嘩売る気かよ!
「げえっ! セツカ! ちょっとあんた早くアイツ止めなさいよ!!」
『お、おい人間! あの殴道宗の馬鹿女を止めろ!』
マリーだけでなく、ドラゴンまでもが血相を変えて俺に怒鳴りかかってきた。俺は慌てて駆け出そうとするも、目線を戻した時には、セツカは既に遥か前方に位置していた。
「えっ、もうあんなとこ!? あいつの動き早すぎだろ!」
セツカが再びダンッと地面を蹴ったかと思うと、恐るべき速さで低くかつ長く跳躍し、あっという間にムツメとの距離を詰めていく。対するムツメは編笠を手でくいと持ち上げ、「おっ?」という顔をしていた。
頼むからこれ以上事態をややこしくするんじゃねえ! と天に祈っていると、突如、セツカとムツメの間あたりの地面が盛り上がり――跳躍中だったセツカの足先が隆起した地面に思いっきり引っかかった。
滞空状態だったセツカはバランスを立て直せず、「びゃあああああああ!」という悲鳴と共にゴロゴロゴロと盛大に地面を転がっていく。やがてセツカは転がる勢いを無くし、ムツメのやや前方あたりの地面で突っ伏した格好になってピクピクとしていた。
「いっ、今のは……京四郎か!?」
足元に目をやると、案の定、京四郎がセツカの方へ向かって両手を突き出しており、俺は「うおお! 流石だぞ京四郎ッ!」と喜びの声と共に京四郎を抱き上げた。マリーも「ま、また寿命が縮んだわよ、ほんと……」と安堵の息を漏らし、ドラゴンまで『良くやったチビ助! 我を埋めただけのことはある!』と喜びの声を上げていた。
京四郎を地面へ下ろしてやってから再びムツメの方へ目をやると、ムツメはセツカを軽々と担ぎ上げ、こちらへ向かってトコトコと歩いてきていた。俺は小走りでムツメの方へと駆け寄って、「ム、ムツメッ!」と声をかけた。
「おう、シンタロウ、数日ぶりじゃの。ちょっと見ん間になんぞ連れが増えたようじゃな」
ムツメはそう言うと、担ぎ上げていたセツカをひょいと地面へと下ろした。セツカはまだ伸びたままのようだ。すると、マリーが恐る恐る胸ポケットから顔を出し、「あ、あんたって本当にムツメノカミと知り合いなのね……」とぼそりと呟いた。
「ん? なんじゃ、そこにおるのは……虫……? いや、妖精か?」
ムツメが俺の胸ポケットあたりを凝視しながらそんな言葉を漏らした。マリーまで虫扱いされていつもみたいにキレ出すんじゃなかろうな、と一瞬どきりとしたが、
「へへぇーっ! ムツメノカミ様から見ればわたくしなどは虫同然に御座りまするッ! ご尊顔を拝し奉り、身に余る光栄ッ! 恐悦至極に存じまするッ! 以後お見知りおきを!」
と、マリーはポケットの中から揉み手でへこへこと小さな頭を下げていた。こ、こいつ……何て見事な小物っぷりなんだ……!
「お、お前……」
「は? 何? これがあたしの生き方よ。何か文句あるわけ?」
マリーがポケットから俺をぎろりと睨みつける。その余りに潔い小物っぷりに、俺は「な、無いです……」としか言うことが出来なかった。お前は確かに大物だわ……小物界のな。
「ほっほ、面白い妖精じゃな。そう畏まらんで良いぞ」
「へへぇーっ! 有難き幸せ! ちなみに私めはマリーと申しまする!」
畏まらないで良いと言われているにもかかわらず、マリーは未だに猛烈にペコペコしていたが、俺はもう何も言わなかった。マリー、お前が小物界ナンバーワンだ……。
マリーの処世術に呆れ果てていると、京四郎がたたっと俺の足元に駆け寄って来た。焦っていたからか、思ったよりも早足になって置き去りにしてしまっていたらしい。
「む? そっちの小さいのは……ほおお、こりゃ珍しい。迷宮土竜が地表に出てくるとはのう」
「へっ、迷宮土竜?」
ムツメの言葉を聞き、俺は驚きながら京四郎に目を向けるが、京四郎はきょとんとした顔をしていた。迷宮土竜って確か、セツカが言ってた「瘴気を糧にダンジョンを発展させていく」っていうダンジョンを造る魔物のこと、だよな? 京四郎が迷宮土竜だとしたら、数日前に行ったダンジョンを造ったのが京四郎ってことか? でも、マリーもそのダンジョンの中にいたんだから、京四郎を見かけた事があってもいいはずだが……と、疑問に思っていると、
「えっ!? でもあたし、迷宮土竜なら色んなダンジョンで何度か見かけたけど、もっと分厚い皮膚とか鱗やらに覆われてたり、牙や翼が生えてたりとかおどろおどろしい感じだったような……」
と、マリーもポケットから戸惑ったような声を漏らした。迷宮土竜がそんな如何にも魔物らしい見た目をしてるんなら、京四郎は当てはまらないんじゃ……。
「ああ、迷宮土竜はダンジョンに棲み着いた魔物の瘴気によって姿形を変えるからのぉ。どのダンジョンも棲み付く魔物の種類は大体同じじゃから、必然的に外見も似通ってくるんじゃが、お主が何度か見た迷宮土竜もそれぞれ微妙に見た目が違っておったはずじゃぞ。ふむ、この魔力……シンタロウ、お主もしや、こ奴にヨウカンを与えなんだか?」
「羊羹? そういえば……初めて京四郎と会った時、ダンジョン内に置いてきた羊羹の欠片を手に持ってたけど……」
「おそらくはそのせいじゃな。ヨウカンの凄まじい魔力に影響されて、ヨウカンを生み出したシンタロウに近い外見、つまり人間のような見た目になったんじゃろうよ」
「ま、マジか……」
俺はそう呟きながら、京四郎に目線を戻した。京四郎は相変わらず良く分かっていないといった様子で、くりっと無垢な瞳を俺に向けていた。そうか、京四郎は迷宮土竜なのかぁ……まっ、でもこんだけ愛くるしいんだから正体が何だろうと関係は無いな、うん!
くしゃくしゃと京四郎の頭を撫でてやっていると、ムツメが視線を横にずらし、
「で……サイモンともいつの間にか知り合いになっておったのか?」
と、言葉を漏らした。「サイモン?」と思いながらムツメの視線の先に目をやると、いつの間にやらドラゴンが俺たちのそばまで近寄ってきていた。こ、このドラゴンさん、サイモンって名前なんだ……。
「さっきは遠目からでも何やら険悪な雰囲気じゃったからな。とりあえず近くにあった岩を放り投げてみたんじゃが、それで良かったか?」
「あっ! そうだすっかり忘れてた! な、なあムツメ、このサイモンさんとは知り合いなのか?」
「おお、知り合いじゃぞ。初めてお主に会った日に『顔見知りの者に様子を見てきてくれと頼まれた』と言ったじゃろ? それがこのサイモンじゃ」
「えっ、そうだったの!?」
「うむ。この周辺に急に結界が現われ、棲み付いておった魔物が追いやられたとかで、サイモンの所へ相談が急増したらしくてのぉ。サイモンも結界には入れんかったから、わしが代わりに様子を見に来ておった、というわけよ」
「結界? それって、もしかして……エルカさんの……?」
「おう、お主の家あたりを中心として邪悪な魔物の類が入って来れんようになる結界が張られておる。王家が各都市に施してあるのと似たような奴じゃな。まっ、わしぐらいになると、ちょっと力は制限されるものの自由に出入り出来るがのう」
ムツメが「ふふん」とちょっと自慢げな顔をした。あれっ、でも邪悪な魔物が出入り出来ないんなら、何でマリーは結界内に入れてるんだ……? こいつなんて、真っ先に弾き出されそうなもんだが……。それに、そこのサイモンも結局入ってきちゃってるよな……。
俺が怪訝な顔で胸ポケットの方を見つめていると、マリーがそれに気づいて「あ? 何よ、何か言いたい事でもあるわけ?」と喋りかけてきた。
「いや、お前なんか邪悪な魔物の代表格なのに、なんで結界内に入ってきてんの? 小物すぎて結界が認識してないのか?」
「誰が邪悪な魔物で小物じゃ! あたしは純粋で美しい妖精よ!? そう、純粋だったわ……ただし純粋な保身だがなァ! ぶひゃひゃひゃひゃ!」
「おいムツメ! こいつどう考えても結界に入っちゃいけない奴なんだけど!? 結界ほんとに機能してんのか!?」
「ふむ……おそらく、こやつもヨウカンを食ったんじゃろ? こやつの魔力も微妙にシンタロウ寄りに変化しておるぞ。そのせいで結界が作用しとらんのじゃろうな」
俺はその言葉を聞き、愕然とした。た、確かに、道中でこいつに羊羹を分け与えた記憶がある……。なんということだ、俺は自らこいつを結界内に招き入れていたというのか……。がくっと肩を落とす俺を尻目に、マリーは「勝ったな! ぶひゃひゃひゃ!」と汚く笑い続けていた。
はぁ、とため息をついて気落ちしている俺を横目に、ムツメが再び喋り始めた。
「それで、お主と別れた後、サイモンの所に立ち寄って『心配はいらんから安心せい』と伝えておったはずなんじゃがな……サイモンよ、お主なんでここにおるんじゃ?」
ムツメがサイモンをぎろっと睨みつける。睨みつけられたサイモンはわたわたと慌て、巨体を揺らしながら口を開いた。
『し、しかしムツメノカミ殿! 我がいくら詳細を尋ねても、とにかく心配はいらんから、の一言だけではいくら何でも納得しかねるというものです!』
「えっ、ムツメお前、大雑把すぎだろ! もうちょっとちゃんと俺の安全性を伝えておいてくれよ!」
「いやぁ~、お主とドンチャン騒ぎした翌日に朝一で出発して、それからサイモンの所までずっと歩きっぱなしじゃったから流石に体がだるくてのぉ~。あんなに月漣丹の酒を酌み交わしたのは久々じゃったし、面倒くさくて『まっ、別にええか』と思っちゃったというか……それに実際、シンタロウがサイモンと揉め事を起こすとは到底思えんかったしのう。一体、何がどうなってこうなったんじゃ?」
ムツメが不思議そうな顔をして首を傾げた。俺は、地面の上で伸びたままのセツカにちらりと目をやってから説明を始めた。
「えっとその……そこの、寝転がってる殴道宗のセツカって奴がドラゴン……サイモンさんを見つけて、その、何度殴りかかったっていうか……」
こちらから喧嘩を吹っかけた形なので、俺はもごもごと歯切れの悪い喋り方となってしまった。ムツメも伸びているセツカにちらっと目を向けてから、「ははぁ」と小さく声を漏らした。
「まぁ……殴道宗じゃからなぁ。しかし、サイモンの住んでおる場所はここから割と距離がある上に、見つけにくい場所のはずじゃぞ。いくらとんでもなくしつこい殴道宗とは言え、おいそれと見つけられるとは思わんが」
ムツメが今度はサイモンの方へ疑問の視線を向けた。それを受け、サイモンがおずおずと口を開く。
『その、ムツメノカミ殿に心配いらんと言われて、ちゃんと引っ込んではおったのですが、実は近くにあるダンジョンが急に消滅したらしく、そこに棲み付いていた魔物達までもが我に泣き付いてきたので、ちょっとこの周辺にまで調べに来ていたのです……そこをしつこく襲い掛かられた上に、結界を利用されて何度も撒かれたので、流石に頭に来て追いかけまわしていたら、いつの間にやら結界を突破出来てしまっていたらしく……ここに……』
ムツメの言葉を無視した形でここへ来たというのが決まりが悪いのだろう、サイモンも俺と同じく歯切れ悪そうに答えていた。ムツメは「相変わらず短気じゃのぉ、お主は」と呆れた声を漏らした。だが、俺はサイモンが喋った内容の一部が気にかかり、ムツメに問いかけた。
「な、なぁ、ムツメ。ダンジョンが消滅したって、もしかして、京四郎がダンジョンから出てきちゃったからか……?」
「ん、キョウシロウとはそこの迷宮土竜のことか? うむ、まぁ平たく言えばそういうことじゃな」
あれっ、となると、ダンジョンがおかしくなったのはセツカが殴りまくったせいじゃなくて、俺が羊羹をダンジョン内に置いたのが原因、ってことか……? それで京四郎がダンジョンから出てきちゃって、居場所が無くなった魔物がサイモンに泣き付いて、サイモンがまた出張ってきて、そこをセツカが発見しちゃって現在に至る、と。
いや、そもそもエルカさんが俺をここに転生させたから、結界で魔物が居住区を追い出されてサイモンとかムツメがやってきて、その時のドラゴンの目撃情報でセツカもやってきたわけだから……あれあれ、もしかして、全ての根本の原因って……俺?
衝撃の真実に、俺はあんぐりと口を開いたまま黙り込んだ。その様子を見ていたムツメが「おいどうした、また黙って固まって。おーい、聞こえとるかー?」と両手を目の前でぶんぶんさせていたが、俺は全く気にせず、いかに責任を回避するかに思いを馳せていた。
そもそも魔物達が追いやられてしまったのは、エルカさんが環境の事を一切配慮せずにエコじゃない結界をここに張っちゃったからだし、京四郎がダンジョンから出てきちゃったのだって、エルカさんが羊羹を生み出す魔法に本気を出しすぎちゃったから羊羹の魔力がすごくなっちゃったわけで……。
そうか――そういうことか。
全て、全て分かったぞ。
全部、エルカさんが悪かったんや!
俺は全く悪くねぇッ!!
「――やっぱり法久須堂の羊羹はぶげばァッ!?」
「急に叫ぶなと言ったじゃろうが馬鹿ちんがッ!」
俺の絶叫に先んじて、ムツメが強烈な平手を俺の顔面へぶち込んだ。凄まじい衝撃に頭が揺さぶられ、俺は膝からがくっとその場に崩れ落ちてしまった。頭がクラクラして焦点が定まらない中、「顔はやめへっ!」と抗議していると、京四郎がそばに寄ってきて殴られた後をやさしくさすってくれた。天使か?
「全く、お主もお主で相変わらずじゃのう……」
ムツメが眉根にしわを寄せながら呟く。その凶暴な様子を見て、俺はふとある考えが閃き、まだフラフラしながらも何とか立ち上がってムツメに声をかけた。
「な、なぁ、ムツメ。その、今回の騒動は色んな誤解とか間の悪さが重なって、運悪くこんなにもこじれちゃった、って感じだと思うんだよ。お前ってさ、結構顔が利く大物なんだろ? じゃ、じゃあさ、何とか一つこの場をうまく調停してくれよ、頼む!」
両手を合わせてムツメに頭を下げると、ムツメは「ふむう」と声を漏らして、俺とサイモンを交互に見てから「そうじゃなあ……」と思案しているような声を出した。
「両方の言い分を聞いた所、確かにシンタロウが『運悪くこじれただけ』と言うのも頷ける。でものぉ~、殴道宗の奴らが鬱陶しいという気持ちも良ぉっく分かるからのぉ~。実際、先ほどもわしに襲い掛かって来たくらいじゃしなぁ~」
ムツメが俺の方をちらちら見ながら、何やら勿体ぶった喋り方でそう言った。俺はなおも「そ、そこをなんとか頼むよ……!」と必死に食い下がる。
「まぁ、わしもな? 不毛な争いが目の前で繰り広げられるのを黙って見過ごすわけにはいかんし? 顔役というのは間を取り持つのも仕事の一つじゃしな? ただのぉ~、なんというか、わしにもちょっと利益というか、ご褒美が欲しいというかのぉ~。なんかこう、ひとつやる気がびしっ! っと出る物が欲しいのぉ~。いやまぁ決して催促しとるわけじゃないんじゃがなぁ~」
ムツメはそう言いつつ、俺の方を滅茶苦茶ちらちらと眺め、時たま何やら下の方にも目線を……って、こ、こいつまさか「ご褒美」って……そういうことかよ……! 俺は歯ぎしりしながらも、必死に屈辱に耐え、ぼそぼそと申し出た。
「……う、うまく場が収まったら、尻を枕替わりに寝させてやるから……だから何とか、お願いします……」
それを聞いたムツメが「ふむっ!? なんという申し出! こりゃ魂消たのう!」とわざとらしく驚き、少し目を見開いたものの、
「いや、しかしまぁ、お主がそう言ってくれるのは有難いんじゃがなぁ~。尻枕はもうこの前やったからのぉ~。方向性は悪くないんじゃよ、方向性はな? でもこう、なんというか、特別感? 今だけ感? というか? そういうのが欲しいんじゃよなぁ~。いや催促はしとらんからの? あくまで、お主の誠意を見せて欲しいだけというか?」
と、更に勿体ぶってねちねちと喋り続けた。こ、こいつ、下手に出てれば調子に乗りやがって……! でも、サイモンを押さえつけられそうなのはこいつしかいないしな……。たぶん、本心では協力してくれるつもりなんだろうが、ごねられる内にごねておこうとでも考えてやがるんだろう。足元見やがって……。
何とかムツメをぎゃふんと言わせる渾身の尻芸は無いものか、と俺はうんうん小さく唸りながら、「何か無いか、何か……!」と必死に頭を働かせた。そしてふと、「ある芸」が俺の脳裏に浮かび、俺は思わずその言葉をぽつりと漏らした。
「ケ、ケツだらけ星人……」
ぼそっと、本当に弱々しい声だったのだが、ムツメはしっかりと聞き取っていたらしく、両目をぐわっと見開き、恐ろしく真剣な面持ちで俺を真っ直ぐに見据えて口を開いた。
「ケツダラケ……セイジン……? な、なんじゃろう、聞き覚えは無い言葉のはずじゃのに、その言葉には何とも言えん『スゴみ』があるッ……! こ、このわしが震えを抑えられんとは……! シ、シンタロウよ、そのケツダラケセイジンとは、い、一体……!?」
思い付きで言葉を漏らしただけなのに、ムツメが物凄い食いつきようだったので引くに引けなくなってしまった俺は、仕方なく説明を始めた。
「えっとその……まず相手に尻を向けて、それから尻だけが見えるようにこう上半身を屈めて、そしたらこうやって、ぶりぶり~って言いながら両腕を振り広げ――」
「この喧嘩、ムツメノカミが預かった! これ以上不毛な争いを繰り広げる事は、このムツメノカミが許さんッ! 良いなサイモンッ!!」
俺の説明はまだ途中にもかかわらず、ムツメは周囲にびりびりと響き渡る澄んだ大声でそう宣言した。ムツメからは刺々しい殺気が漏れ出し、そんなムツメにギロッと睨まれたサイモンが『ちょっ、ムツメノカミ殿!?』と慌て始める。とてもではないが、今更「あっ、やっぱ今の無しの方向で~」とは言い出せない空気になってしまった。
俺が青ざめたまま立ち尽くしていると、胸ポケットからマリーの視線を感じ、そちらに目を向けてみると、マリーは何とも言えない生暖かい眼差しで俺を見つめていた。
「……何だよ、何か言いたいことでもあるのか?」
「ま、骨は拾ってあげるわよ……それに、こう見えてあたしは妖精の里じゃ一番の宴会盛り上げ隊長として名が売れてるのよ? 不幸中の幸いとはまさにこのことね。あんたの芸がどれだけちんけでしみったれた恥ずかしい代物だったとしてもね、あたしの絶妙な合いの手によってそれはもう素晴らしい神の御業へと変化すること間違いなしよ! 大船に乗ったつもりでいなさいな!! あそーれっ! あっよいしょっ!」
胸ポケットから垂れ流され始めた耳障りな合いの手を聞きながら、俺は「逃げちゃ駄目かな……」とぼそりと小声で呟くと、ふいにムツメがぐるりとこちらへ振り返った。その顔に、恐ろしく冷たい笑みを張りつけて。
「わしから、逃げられると思うなよ」
俺はその言葉を聞き、恐怖の余り「ヒヒィーッ!」と悲鳴を上げながら腰を抜かして後ろへ倒れ込んだ。向けられたのは穏やかな笑顔で、静かな言葉だったはずなのに、それは間近で体感したドラゴンの咆哮よりも遥かに恐ろしく、俺の体を底の底から震え上がらせたのだった。俺は既に戦意を失っていた……。
「あそーれっ! はぁどっこい! はあっよいよい! あっそいやっさっさ!」
マリーも間近でムツメの恐ろしさを垣間見たはずなのに、狂ったように合いの手を入れ続けていた。いや、よく見るとその小さな体はガタガタと震えており、どうやら恐怖を打ち消すために合いの手を入れているようだった。こ、こいつ……妖精の里一番の宴会盛り上げ隊長の称号は伊達じゃねぇな……。
俺たちのそんなやり取りをサイモンは少し離れた所から眺めており、どっと体中に冷や汗を流しつつも、何故かムツメの方にギッと反抗的な目を向けていた。
『ム、ムツメノカミ殿! 恐れながら、我にも立場というものがあるのです! 一方的にそう言われましても、他の魔物達の手前、簡単に承諾は出来かねます!』
「ふむう、立場のう……。では、もしも不服を唱える魔物がおったら、わしが直々に頭を下げにいってやろう。これでどうじゃ?」
『む、ぐっ……ほ、他の魔物達はそれで良いとしても、我の気持ちがどうしても収まりません! そこで寝転がっている娘に二度も腹を殴られたのですよ!? 二度ですよ二度ッ! 親父殿にも殴られた事無いのに!』
ムツメが直々に頭を下げに行くとまで言っているのに、サイモンはなお食い下がり、語気を荒げながら異議を申し立てていた。あの恐ろしいムツメにこんなに抗議するなんて、よっぽど腹パンが痛かったんだろうな……しかも二回目は俺の指示だし、俺もちょっと気まずいぞ……。
ムツメはそんなサイモンを眺めたまま「ふむ」と一声漏らし、顎に手を当てて何やら思案している様子だった。そして、少ししてから顎から手を離し、再び口を開いた。
「では、自分だけが一方的にやられたままでおるのが納得がゆかん、というわけじゃな?」
冷静な口調のムツメに、サイモンは少しほっとした雰囲気で『は、まぁ、つまりはそういうことです』と答えた。
「そうか。では、こうしよう……おい、そこの殴道宗の娘! セツカと言ったかの? 気を失っておらんのは分かっておるぞ。起き上がってちょっとこっちへ来い!」
ムツメがくるっとセツカの方へ振り返りながらそう言うと、「ちぇ~っ、流石にバレてたか」とセツカがむくりと起き上がった。てっきり気絶したままだと思っていた俺はぎょっとし、すたすたとこちらの方へ歩いてくるセツカに、立ち上がりながら声をかけた。
「お、おいっ、お前、気絶してなかったって本当か?」
「うん、体勢を崩した瞬間にふと思いついてね。隙を窺ってたんだけど、こっちに殺気を向けたまま全然隙が出来なくって、ずっとそのまま寝転がってたんだよねぇ。いやぁ~、流石は超強者だねッ!」
セツカはそう言って「むんっ」と軽く気合いを入れると、俺を通過してムツメの方へと歩いて行った。こ、こいつ……俺は事態を収拾するためにケツまで犠牲にしたっちゅーのに……。阿保らしいやら悲しいやらで、俺は再びがくっと肩を落とした。
その様子を見ていたマリーが胸ポケットから「ほら、あたしの合いの手で元気出しなさいな。あっそぉーれ! ハァドッコイッ!」と雑音を垂れ流すのを無視して、俺はムツメ達の方へ視線を戻した。一体ムツメはどうするつもりなんだろうか。
「おう、来たな。それじゃ、そこに真っ直ぐに立っておれ」
セツカが「はぁい」と答えて、指示通りにムツメと向かい合う形で直立の姿勢を取る。それを確認したムツメは右手を手刀の形にし、そのまま、すうっと右腕を持ち上げた。
「よし。それじゃあ、ちょっと頭ァ食いしばっとれよ」
「へ――」
刹那、ムツメの右腕が残像のようにぶれたかと思うと、「ズドォンッ!」という爆音と共にセツカが強烈に地面へ叩きつけられ、上半身が瞬く間に地面の中に沈み込んだ。その衝撃で周囲の土がメキメキと隆起し、衝撃波が辺りの砂を勢い良く巻き上げる。
余りに一瞬の出来事で、俺は何が起きたのか分からずにぽかんと立ち尽くしていた。サイモンの方も鋭い牙のたくさん生えた口をあんぐりと開いたまま固まっている。セツカは足だけが地表に出て、いわゆる犬神家の格好になってしまっていた。
俺は少し間が空いてから、恐ろしく速い手刀がセツカに叩き込まれたのだという事に気づいた。一瞬だけ残像のように見えたのは、右手が手刀を叩きこんでから瞬時に元の位置へと戻ったからだろう。エ、エルカさんに授かった俺のマサイ眼をもってしても、全く見えなかった……。
セツカを地面の中へ叩き込んだムツメは、「ふむ、まぁこんなもんか」と呟いてからサイモンの方へ向き直り、口を開いた。
「まだ何か、言いたい事はあるか?」
『無いです』
ですよね。
「良しっ、ではこれにて一件落着じゃ!」
ムツメは高らかに宣言すると、「かっかっかっ」とからっとした様子で笑った。それまで張りつめていた空気がようやく弛緩し、俺は「はああ……」と深く息を吐いた。よ、良かった、やっと収拾がついたよ……。
膝に手をついた格好で脱力していると、またポケット内に身を隠していたマリーが顔を覗かせ、セツカの方を見ながら「うわ~、すごい事になってるわね……。あれ、生きてんの?」と言葉を漏らした。
そういえば、手刀の凄まじさにすっかり気を取られてセツカの心配を全くしてなかったな。流石のセツカでもやばいか、と思いつつ改めてセツカの方を見ると、地面から出ている足先がジタバタとしていた。い、生きてたか……しかも、あの手刀を食らっても気絶してないとは流石のしぶとさだな……。
気が抜けて動くのがちょっと億劫だった俺は、横にいる京四郎に「悪いけど、セツカを地面から出してやってくれるか?」と声をかけた。京四郎がこくんと頷き、たたっとセツカの方へ駆けていく。これでまぁ大丈夫だろう。
今度こそ、全部片が付いたぞ――と、ぐっと体を伸ばしていると、突如、俺の尻に何かがやさしく触れるような感覚がした。慌てて後ろを振り向くと、いつの間にやらムツメが俺の背後にぴったりとくっ付いていた。そして、妖艶な笑みを浮かべながら俺の腕をぐいと引っ張り、俺の顔を自分の方へと近づけ、
「……ケツダラケセイジン、楽しみにしておるからな……」
と、俺の耳元で艶めかしい声で呟いた。
俺は恐怖と絶望で、再び膝から地面へと崩れ落ちた――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます