6-3
ガッと両目を見開き、姫里は目覚めた。
息苦しい。
なにかを噛まされている。タオルらしい。
姫里は座らされている。手首と足に圧迫を感じる。椅子に縛りつけられている。幸い、首は動かせる。それ以外はまるで動かせない。紐のいましめが緩むかもしれないと思い、暴れてみた。椅子が、ゼンマイ仕掛けのおもちゃみたいに跳ねる。
マンションの一室らしく見える。照明はついておらず、部屋は薄暗い。
部屋は、家捜しでもされたみたいな散らかり様だ。足元に折れたホウキ。血がついている。床に生首が転がっている。スーちゃんだ。まばたきしている。しかし姫里を見ている感じではない。散らばる札束。貝みたいに開いたアタッシュケース。マリリンが血だらけの顔で倒れている。糸を切られた人形──人造人間に対してその例えはすべきではないと思うのに、姫里は連想せずにいられなかった。
ソファがあった。
香澄が座っている。疲れたように肩で息をしていたが、やがて顔をあげた。
化粧っけのない老婆の顔を見て、姫里は思い出した。
太った吸血鬼を見つけられないまま、姫里はひとりでお屋敷の厨房らしいところへいったのだ。ワインを探していると、突如貯蔵庫らしい扉が開いて、老婆が走りよってきた。香澄さんとは思わなかった。老婆然としていて、はじめて見た時の気品がなくなっている。皺だらけの化け物にしか見えなかった。
香澄さんは姫里に乱暴な行為をしたわけではない。目の形をした指輪を、姫里に向けてきた。それだけだ。エジプト美術みたいな目の指輪である。指輪の目は二度まばたきし、それ以降の記憶がない。姫里は昏倒したのだろう。
吸血鬼と人狼がうろつくお屋敷から、どうやって姫里を連れ出したのだろう。
厨房の勝手口から外に出たのか。それでも簡単ではなかったはずだ。
血に濡れたホウキを見下ろしながら姫里は思う。
「電話で話したわね」
姫里は答えられない。猿ぐつわをかまされている。ここはたぶん、香澄の住居だ。
背後から足音が近づいてくる。姫里はビクビクしていた。視界に入ってきたのは、小森さんだった。
「姫里……」小森さんは目を細める。「一年と少し会わなかっただけで——大人になって。きゅうに——」
姫里は小森さんの眼鏡に奥にある瞳を眺めた。ハッカ飴ちゃんを愛でる時の目と少し違う。感動の涙らしい光が、小森さんの優しげな目にあった。
「父さんだよ、姫里。わかるかい」
姫里は首を横にふった。
違う、と自分にいい聞かせるために、もう一度、首を横にふった。
「小森くんの口を借り、小森くんの目を借りてお前を見ている。小森くんは
──うるさい。
猿ぐつわがなければ、声をふり絞って叫んでいたろう。
「おまえと直に会って謝るべきだろうね。日に日に力をつけていくおまえを見て、わたしと母さんは……もう歩み寄りようのない決裂をした。わたしは、おまえを魔女にしたくなかった。自分のことしか考えない父親なら、わたしは今もおまえと、母さんと暮らしていたよ」
姫里はもがもがとわめいた。
言葉などいらない。抗議するのだ。本当に父親なら、ごちゃごちゃいう前にまず謝罪すべきだ。本人が会いにくるべきだ。本当に本当に不安な毎日を送ったのだ。
「わたしは召喚魔術を行った。悪魔召喚だ。悪魔を、月夜市に呼び出した。お父さんはね、恥ずかしながら魔術師なんだよ。出来のいい弟子じゃなかったがね。それでも、召喚は成功したんだ。眠り男がやってきた。おまえを悪魔と契約させてはいけない、その一心でやったことだ。眠り男を無害化する——すなわち小悪魔にしてしまえば安心だった」
「それが理由だったというの?」
小森の身体を借りた父親が、老婆のほうを見る。「香澄さん、あなたはご自身の帝国を築いたじゃありませんか。互いにとって得な話という約束は果たしたと思いますが」
「帝国? そんなものを求めたと? わたくしが欲しかったのはそんなものじゃありません。証です、わたしなら星谷アキよりうまくやれた、という証」
「うまくやれなかったんですよ、香澄さん」
「まだ終わってません」
「ええ。次はうまくおやりになることです」
小森の両手が姫里に伸びてくる。
姫里は恐怖を感じなかった。小森の手は姫里のさるぐつわの結び目をさぐっている。
「姫里、高原台の伯爵という吸血鬼には用心なさい。そしてなにより、眠り男に気を許してはいけない。かれらは——」
真剣な顔をしていた小森さんの頭が吹っ飛ぶように視界から消えた。
鈍い音とともに、小森さんは横倒しに倒れたのだ。
香澄が花瓶を持って仁王立ちしている。
「あなたみたいに若い魔女を殺さなくてはならないとは」
姫里は視界の端に、動かなくなった小森さんを確認した。気持ちが縮みあがっている。おそるおそる香澄さんの顔を見る。
このひとは、伯爵の愛情にこだわっていたわけではない。そしておそらく、自分の能力を証明したかったわけでもない。このお婆さんは、ただで死にたくなかったのだ。香澄さんは、死んで忘れ去られることを恐れていた。
「あなたはね、あまりにも多くをわたしから奪った。奪いすぎました。せめてこの手で殺すことを手向けとしましょう」白い魔女は姫里の首筋に手をあて、口調を変えた。「暴れるなよ、その時間だけ長く苦しむ」
小森さんは完全に気絶している。
マリリンに目を向ける。相変わらず身動きしない。
気管はおそらく、水撒きする時に使うホースみたいな管なのだろう。
香澄さんの手に力がこもり、管がふさがった。
──死ぬ。
顔に力が入った。全身がこわばっている。ただでさえ猿ぐつわで空気が足りてない。
この状態からでも、逆転の魔法──そんなのない。
あったとしてもどうにもならない。手足を封じられ、首を締められているのだ。
姫里はパニックへつながる入口を脳裏に見た気がした。その入口に自分から飛びこむ姿を見た気がした。だって、脳に空気が届かない。身体に酸素が──その前に脳が……、血流が……。
網膜に火花が点滅しはじめたころ、背後で音がした。鍵を開ける時の音だ。どことなく夢見心地な表情で姫里の首に手をかけていた香澄さんが、手を緩めた。悪戯を見られた子供みたいな、決まり悪そうな笑みを浮かべて後ずさった。
姫里は喉笛を鳴らして息を吸った。咳のあいまに、鼻孔を広げて冷えた空気を吸う。恐怖に駆られていた頭が冷却される。姫里は後ろを見た。母親だ。カリユシっぽい派手なシャツとジーパンという、リゾート丸出しの格好で、土足で部屋にあがりこんでいた。
「ミサちゃん。久しぶりね。あら、ずいぶん──」
「だまれ、婆ぁ」
母親は怒鳴った。怒鳴り慣れてない声だった。
笑い声をあげて、香澄さんは指輪をかざす。
燐光を放つ帯状のものが、指輪からあふれ出る。蛇みたいにくねりながら光の帯は伸びた。白く、美しい光だった。アニメの魔法少女みたいに光の帯は老婆を取り巻いた。黄色い光の粒がパッと飛び散る。
意志に導かれる光らしく、白一色だった光に七色の彩りがついた。光は密集したパレードのように踊り狂った。圧倒されるような光の乱舞だった。
光の渦はにわかにその動きを止めた。いく筋にも別れた光が、かま首をもたげた蛇のように星谷ミサを見下ろしている。
母親をポケットから銀色のものを取り出した。ピンセットだ。
「バスティーユ」
母親が小声でいうのを姫里は確かに聞いた。母が魔法を使うのを見るのは初めてではない。しかし魔法の武器を持っていたとは知らなかった。
母が手首を返すような動きをすると、ピンセットだったものが剣になっていた。赤っぽい派手なシャツを着た母親が、不器用に西洋の剣を構える。姫里は笑えなかった。母親の必死な顔だ。はじめて見る母の表情だ。
光の蛇がいっせいに襲いかかるのと、母親が剣を振るのが同時だった。光の束の先端が切れ切れになり、夜の闇がそのぶんだけ増した。母親が、ふり下ろした刃を、思いのほか強くふり上げる。光の半分ほどが刈りとられた。そのぶん、部屋は暗くなっていく。星谷ミサが一歩近づく。香澄さんが一歩逃げ、尻もちをついた。
すべての光が、花火が燃えつきるように消えていく。部屋はもとの薄暗さに戻った。
「わかった」
香澄さんが指輪を外し、床に転がした。両手を開いて見せる。
「わかったから」
母親の表情がよく見えない。
──まさか。
と思ったが、そのまさかだった。星谷ミサは一歩、二歩と踏みこんで香澄さんの胸に剣を突き刺した。そのまま体重をかけて刃をめりこませていく。香澄さんの劇的にのばされた手が、床に投げ出される。絶命したのだ。力をうしなった首が姫里のほうに向いた。はっきりとは見えないが、泡らしいものが口の端から流れ出た。
母親は腰を抜かしたみたいに、お尻から床に崩れた。
剣は、あらわれた時と同じく一瞬で消えた。ピンセットが空中に跳ねて、床で弾んだ。
香澄さんは一滴も血を流していない。
傷跡もない。衣服も破れていない。
——殺しちゃった。
姫里は母親を見つめた。
母親も、青ざめた顔で姫里を見返していた。
「むにゃむにゃですぅ。——うぉ、なんだ」
と、マリリンが身体を起こした。
周囲を見回して片方の目をぱちくりさせている。
翌日の放課後──。
黒塗りの外車が校門のまえに駐車されているのに姫里は気づいた。草上さんが品のいい微笑みを浮かべて立っている。
──校門はやめて欲しかった。
とは思ったものの、姫里はしおらしく後部座席に乗車した。ここは大人しくしておくほうがいい。
「まいりましょう」草上さんがいい、車が動き出す。
「取り調べ、でしょうか」
「いいえ」老執事の声はおだやかだ。「お茶のお誘いです」
上品な取り調べ、ということだろう。
車は国道を快走し、やがて高原台へ向かう。お屋敷は、外観だけなら前と変わらないように見えた。中に入ればそうでもない。作業服を着た業者のひとたちが、半透明のビニールを広げて、お屋敷の補修作業の準備をしている。作業員は全員、人間だ。草上さんは姫里を先導して階段をあがる。案内されたのは、鉢植えの並んだ二階のバルコニーだ。
姫里はそこで、おいしい紅茶をごちそうになった。
取り調べをおこなうのは草上さんだ。姫里は正直に受け答えした、とはいえない。
「つまり、香澄さまに誘拐され、ミサさまに救助された、と」
草上老人は、興味津々という光を目に浮かべている。
「そういうことになります」
姫里は澄まし顔でうなずく。
父親のことや、マリリンたちのこと、そして小森さんがいたことも話していない。
ただ、遠野香澄を殺したのは母親であることは話した。この殺人、というかモンスター殺しが罪悪だとしても、おそらく不問になるだろう、というのが、昨晩遅くまで母親と話しあった結論だ。
「お母さまの証言とほとんど矛盾しませんね」
姫里は警戒して、かすかに眉を動かした。
老執事はそしらぬ顔をしている。「この事件に関する姫里さまの絵解きが、どうしても必要だ──というのがわたしどもの考えです」
「はい」
「眠り男さまは、宵町の道具屋、小森氏から手紙を受けとったと証言しています。旦那さまを誹謗する内容だったそうです。眠り男さまはその手紙を読んで、旦那さまに対する復讐の念に駆られ、月夜市にもどる決意をした、と」
「なるほど」
「しかしその手紙の現物は確認できていません。どこでなくしたかわからない、というのが眠り男さまの主張で、すこしあやふやなのです」
姫里はうつむいた。表情を読まれたくなかった。
知らぬ存ぜぬをつらぬくだけでは、終わらないかもしれない。高原台は真相を突きとめるため、何度でもしつこく、姫里や母親を呼び出すだろう。
話したほうがいい、と姫里は考えた。ぎりぎりまで、話せるところまで。
「そんな手紙は存在しなかったと思います」姫里はいった。「眠り男は、そういう手紙を受け取ったと信じこまされているだけです」
「なぜ? どのように? とうかがいたい」
「眠り男をこの町に呼びよせるため。ヤモリ女には話しましたが、この事件の裏に魔術師がいます。その魔術師はおそらく、馬鹿馬鹿しく聞こえると思いますけど、悪魔召喚の儀式を成功させたんです。眠り男は魔術によって、手紙を読んだと思いこまされただけです」
草上さんの表情をうかがうと、老執事はおだやかな顔でうなずいた。
「馬鹿馬鹿しいとは思いません。十分あり得ます。眠り男さまに関しては、もっと馬鹿馬鹿しい逸話がございますので。その魔術師、というのは小森氏ですか?」
「ヤモリ女にはそういいました。けど、小森さんは魔術で操られていただけだと思います」
香澄さんに花瓶で殴られた小森さんがどうなったのか、姫里は知らない。
死んだ香澄さんを見て姫里は動揺していたし、母親も同じだった。状況に素早く適応したのはマリリンだった。姫里はマリリンによって拘束を解かれた。
『ここは任せるです』
と、マリリンはいった。
『──あなたたちは?』
『ウチらはこの町から離れるです。小森に運転させて逃げるので、心配はいらねーです。それとこれ』
姫里は指輪を手渡された。香澄さんの魔法の指輪である。
『呪いがかかってるので、くれぐれも使うなです』
『呪い? どんな?』
『知らねーです。小森が持ってきたですよ』
『あの、小森さんの正体、なんだけど……』
『正体? 小森は、ばぁばの言いなりになってた、ただのクソ野郎です。ばぁばの手足になっていろいろしてたですよ。よく、ちょっとした料理を作ってくれたです。そんなのどうでもいいから、いくですよ!』
小森さんが父親に操られていたことを、マリリンは知らないようだった。
母親の運転する車で、姫里はようやく家にもどったのである。
──お父さんと話した。
とはいわなかった。
小森を介して父親と話したことを、母親にいっていないのだ。
なぜ母親にまで隠すのか、自分でもわからない。ただ、この騒動の黒幕が父であること、これを高原台に知られるわけにはいかない。それは確かだ。知られれば、吸血鬼たちは父親を許さないだろう。
姫里は草上さんを見つめた。「魔術師に体を乗っ取られた小森さんが、香澄さんに小悪魔の召喚方法を教えました。魔術師は、香澄さんをそそのかして月夜市のモンスターの覇者になるつもりだったんです」
「姫里さまは、その魔術師に心当たりが?」
「ありません。そしておそらく、小森さんも魔術師の正体を知らないはずです。魔術師はけっきょく、一度も月夜市に姿を見せていない。そこがポイントだった。誰にも顔を見せることなく、遠隔操作だけでことを進められる。用心深く、狡猾に。その優位を手放すような真似はしないはず」
「しかし小森氏と魔術師に、まったく面識がない、というのも不自然では?」
「かもしれません。小森さん魔術師が知りあいだったとしても、小森さんは覚えていられないような気がします。つまり、魔術で記憶を操作されていたり、催眠術的な暗示で、思い出すことが出来ない、みたいな。──小森さんの体を支配するほどの魔術師なんです。記憶をいじる能力も、残忍さもある」
「姫里さまがその魔術師を捜すとしたら、どうされますか?」
「小森さんを泳がせます。向こうが動くのを待つ以外、ちょっと無理だと思います。ほとぼりの冷めたころ、魔術師はまた小森さんを使うかもしれない。小森さんは、魔術師がこの町にくるときに使う、玄関みたいなものです」
「なるほど」草上さんは、テーブルの菓子皿をさりげなく、姫里のほうに寄せた。「もし良かったら。めずらしいものです。味も悪くありません」
菓子皿にはベーグルらしいものがあった。お菓子は嫌いじゃないのに、姫里は注意を向けていなかった。それだけ、この取り調べに集中していた。
「ごめんなさい、食欲なくて」
「眠り男さまによると、あなたはお父上の居所を知りたがっていらっしゃる」
ずばりといわれた気がした。姫里は逆に度胸を決めた。
「ええ、まぁ。おばあちゃんの葬式でわたし、眠り男を見たんです」
「おばあさまのお葬式は、それは立派なものでした。あるいは眠り男さまもいらしたかもしれません。いらしてらっしゃれば、旦那さまとお話されたことでしょう。お父上の次朗さまとも話されたかもしれません」
「わたしもそう思います」
「ですが、眠り男さまは葬儀に出席してないとおっしゃっており、旦那さまもその場で眠り男さまと会話したことはないと、否定してらっしゃいます」
「草上さんはどうです? なにか知りませんか?」
「なにか、とは?」
「わたしの父の居所、とか」
草上さんは微笑みを浮かべ、静かに首をふる。「いいえ」
「わたし、お父さんを捜してるんです。もし──」
「ええ。次朗さまの居場所がわかれば、姫里さまにご連絡をさし上げます。わたしどもの利害と衝突しない限り、ですが」
利害の衝突、と聞いて姫里は内心、冷える思いをした。草上さんはおそらく、姫里の態度や応答から、なんらかの情報を引き出したのだ。すくなくとも、姫里が大嘘をついていることはバレている。
──けど、確証までにはいたってない。
姫里は抜け目なくそう観察した。
取り調べはそれで終わりだった。
「あの……」
一応、ヤモリ女を見舞っておこうと姫里は思った。
草上さんはヤモリ女を、変な名前で呼んだ。
──ヤミさまは……。
といったあとで、草上さんはいかにも口を滑らせたという表情をして見せた。
「ヤモリ女さまは、けさ方、伊豆へ向かわれました。旦那さまのお迎えです」
「怪我は?」
「ピンピンしてらっしゃいましたとも」
姫里はひとまず、ほっとした。
帰りの車中で、ヤミという名前について考えた。あだ名かな、と思ったが、草上さんは愛称でひとを呼ばない気がする。
ヤモリ女の本名かもしれない。
雰囲気から察するに、草上さんはたぶん、しゃべりすぎた姫里に報いる意味でわざと情報を漏らしたのだ。ヤモリ女がもし自分の本名を秘密にしているのなら、取り引きみたいに勝手に名前をバラされて迷惑なことだろう。
だが、どんな情報でもモンスターの情報は、いまの姫里にとって重要だ。この町で生きていくなら。
誰かの秘密をバラしてしまう草上さんのようなひとこそ有用なのだ。姫里は草上さんを大切にすべきなのかもしれない──と思わせる手か? 高原台が、魔女を手なづけるための。
よくわからなくなってきた。姫里は後部座席で腕組みをして首をひねった。
ヤモリ女がやってきたのは騒動が収束して、二週間ほどたったころだ。
姫里は懸案だった「小雨町ショッピングモール問題」に解決の目処がついて、ウキウキしながら帰宅した。今週末、怜ちゃん、智美ちゃんと遊ぶことになっている。
家の前に見慣れない車があった。浮かれ気分の姫里は気にもとめなかった。家の鍵をあけ、部屋で着替えてからリビングへいくと、ソファにいたのだ。ヤモリ女が。
スマホからわずかに目をあげて、ヤモリ女は姫里に文句をいってきた。「おい、アイスが切れてるぞ。ちゃんとしとけよ。わたしがくるってわかってたろ?」
「わかってるから貯蔵してなかったんだよ。察してよ」
姫里はヤモリ女の右側のソファに座った。「もしかして、うちの鍵、持ってるの?」
ヤモリ女はスマホをジーパンのポケットに入れる。「持ってねぇけど、わたしは入れるんだよ。そんなことより、わたしを見て気づかないか? どう思うよ、この肌」
「あぁ!」姫里は声をあげた。「肌色がもどったね」
ヤモリ女は、はじめて会ったときと同じ褐色の肌になっている。
「馬鹿野郎、ちゃんと見ろよ」ヤモリ女は嬉しそうにいう。「きょうの午前中、二時間みっちり、わたしはエステにいってたんだよ。宵町の『ゆう美』って店、知ってるか? ……そういえばそこで寧々と会ったわ。あいつ、『プラチナ』に入店したらしい。知らねーだろうな。ここらじゃ一番のキャバクラだよ。寧々は間違いなく、プラチナを乗っ取るつもりだ。手下を順番に入店させてよ。たぶん、門馬と話が出来てるんだと思う。犬どもがよ、高原台の戦力不足に乗じて、やりたい放題やるつもりだぜ」
──そうか。
と、姫里は思い当たった。いつかシロエリがいっていた、店を持つ、という夢。寧々さんたちは、やっとチャンスを掴んだのだろう。
「すごいね」モンスターでも夢を見ていいんだ、と姫里は胸のうちでつぶやいた。「本当に、すごいと思う」
「うまくいけばな。それよりわたしの話だ。そのエステの店長ってのはサキュバスなんだよ。サキュバスどもに、エロパワーたっぷり注入してもらったんだ。処女丸出しのおまえでもわかるだろ? つまり、わたしは今夜、デートなんだよ」
「げっ」姫里はヤモリ女の自慢気な顔を見つめた。「そうなの? 彼氏さん、とか?」
「んなチョロいもんじゃねーよ。相手はな、伯爵だ」
「へぇ」
「この前の香澄騒動あったろ? わたしのおかげで解決したって知った伯爵がさ、燃え盛るような目でわたしのこと誘ってきやがってさ。とりあえず、アマゾンでエロ下着買ったよね」
「へぇ」
ヤモリ女は幸せそうな顔でため息をついた。
「悪いな、姫里。わたし、『上』へいくわ。たぶん、幹部になると思う。そうなったらもう、おまえとは遊んであげられねぇよ。道でわたしを見かけても気安く話しかけるなよ。もう身分が違うんだから」
──こいつ。
と思いながら、姫里はうなずいた。「わかった。そうする」
「じゃあな。就任パーティーがあっても、おまえは呼ばないけど悪く思うなよ。それと、そうだ、これを渡しにきたんだった」
ヤモリ女はソファの下から杖を取り出した。
魔法の杖、カジモドだ。真っ二つになっていたものが、継ぎ目もなく完全に修復されている。
「ポーランドの魔女に頼んで直してもらったんだ」
姫里は目を丸くして杖を受け取った。一瞬、呪文を思い出せない自分に気づいた。
──ノートルダム。
杖ははずむように、姫里がイメージした形のヘアピンに変化した。
姫里はその機敏さに感動をおぼえた。
「高かった?」
「知らねぇよ。ビットコインで支払いしたらしい。値段なんか気にすんな」
「ありがとう、ヤモリ女。なんか嬉しい。自分で思ってた以上に」
「おまえ、わたしのサポートとはいえ、うまくやったよ。その調子でがんばれよ。『上』で待ってるからな」
ヤモリ女はきゃぴきゃぴした様子で玄関へ向かった。
「おっと、そうだ」家を出る間際、ヤモリ女は真面目な口調でふり返った。「いい忘れてた。眠り男のことなんだが──」
二日ほど悩んでから、姫里はけっきょく、眠り男を訪ねることにした。
眠り男は、古森町にアパートを借りたらしいのだ。星谷家から歩いて五、六分という近さである。
『お屋敷に住むんじゃなかったの?』と、ヤモリ女に訊いた。
『ひとり暮らししたいんだとよ。伯爵は基本、眠り男には甘いんだよ』
──おまえ、会いにいったりすんなよ。
ヤモリ女に念を押されたが、姫里には確かめねばならないことがあった。
先の騒動の黒幕が父親であること。
眠り男はそれを知っているような気がする。
仮に、知っていたとする。姫里になにが出来るだろう。した手に出て口止めをお願いすれば、眠り男は居丈高になって契約を持ちかけてくるかもしれない。
きのう、おとといと雨が降り、気象庁が梅雨入りを発表したばかりだ。その発表をからかうみたいに、今日はさわやかな、いい天気である。青空が夏を予感させる。
なのに、眠り男が部屋を借りたというアパートは、どんよりとして見えた。外壁をナメクジが這いまわりそうな、薄汚れたおんぼろアパートである。近所なので、姫里はこの建物を何度も見ている、はずだ。にもかかわらず、こんな建物は知らなかった。目に入っていなかったのだろうか。
きしみを上げる錆びた外階段をのぼり、二〇三号室の前に立った。
ドアにA4用紙が二枚、貼ってある。一枚には赤い文字で、『NHK断固抗議!!』、もう一枚には『新聞、絶対拒否!!(通報します!)』と書いてあった。なにもかもを拒絶する雰囲気が充満している。姫里は帰りたくなった。気後れしながらノックした。
「はーい」
意外にあかるい返事がくる。
「はいはい、どなたー」
ドアが開いた。眠り男は、表情を輝かせて驚いた。「ああ、きてくれたんだ」
「うん。──いや」
「本当ならぼくから挨拶にいくべきなんだけど、星谷家に近づくなってみんないうもんだからさ。いや、でも、嬉しいよ。嫌われてるかと思ってた」
「話があるんだけど」
「いいけど」眠り男は戸惑っている。「嫁入り前の娘さんを、ぼくみたいな精力盛んな若い男の部屋に入れていいものかな」
けっきょく、すぐそばにある児童公園で話すことになった。
姫里は先に公園へいって、藤棚の向こうにあるベンチに腰かけた。公園には姫里しかいない。まだ三時すぎなのに、子供や母親の姿はなかった。小さな公園なので人気がないのだろう。
眠り男は、ステンレスの保温ポットに珈琲を入れ、ホウロウのコーヒーカップをふたつ持ってきた。意外に気がきいている。珈琲は淹れたてなのか、おいしい。
「ここにくる間、ちょっと考えてみたんだ」ベンチの隣で、眠り男が話しはじめる。「小森を操ってた魔術師って次朗さんじゃない?」
「なにそれ? なんでお父さん?」姫里は平静をよそおって訊き返す。
「きみ、お父さんのこと聞きにきたんでしょ? それでなんとなく思ってんだ」
「なんとなく?」
「次朗さんは若いころ、ぼくが紹介した西洋魔術の研究家に弟子入りしてたことがあってね。草上さんに聞いたよ。きみ、小森を操った魔術師がいるって考えてるんだよね? ああ、でも、そうか」
眠り男はひとり
「次朗さん程度じゃ、無理だな。悪魔召喚は簡単な魔術じゃないからね」
「そうなんだ」
眠り男は嘘つきだ。しかし、黒幕の魔術師の正体が父親であることは知らない。あるいは草上さんと同じで、推測はできても確証にはいたっていない。姫里はそう見た。
「その、西洋魔術の研究家ってひと、お父さんの居所を知らないかな」
「知らないと思うよ。次朗さんとは
「でも、一応──」
「自己啓発セミナーを主催してる男だよ。参加費百万円のセミナーを告知すると、一瞬で予約が埋まるようなやり手でさ。きみには詳細を教えない。綺麗な女の子が何人もひどい目にあって、泣き寝入りしてるのを知ってるからね。それほどの黒魔術師でも、悪魔の召喚はできないと思う。きみ、アキの──お婆さんの葬式のことをぼくに訊いたよね」
姫里はうなずいた。
「ぼくはたぶん、葬儀に出席してる。そこでおそらく、次朗さんと話した。断片的な記憶はあるんだ。ただ、どうしても思い出せない。記憶を操作されてるのかもしれない」
姫里は目を見張った。眠り男の横顔に、気弱げな、おびえらしい陰影が走ったのだ。
眠り男は、うつむき加減になっている。
「魔人、だろうね。悪魔の記憶を操作するほどの魔術師って」
「そうかもね」
姫里は珈琲を飲み干す。聞きたいことはもう、すべて聞いた。
「ぼくはね、どうやってそれをやったか、というより、なぜ、あの時の記憶を消されなくちゃならなかったのかっていう、動機のほうが気になる」
「なんでだと思うの?」
「よくわかんないな。ぼくが聞きたいよ」
助けを求めるような眠り男を無視して、姫里は立ち上がった。
「おいしかった」と、コーヒーカップを眠り男に返す。「もう会うこともないだろうから、お礼いっとく。ありがとう」
「姫里、悪魔と魔女の約束は、破れないって話、おぼえてる?」
姫里はうなずく。
「あれ、本当のことだよ。きみは、ヤモリ女や伯爵、人狼たちを信じるべきじゃない。ミサさんや、クラスの友達も信じちゃいけない。誰も信用できない。けど、唯一の例外がぼくだ。きみが信用していいのはぼくだけだ。ぼくらの約束は、決して破れない。実に信用に足る絆を結べる。きみはいつか、ぼくを頼るよ」
ふん、と姫里は笑いとばした。
「同じ話を繰り返すようだけど、悪魔は魔女の味方だ。きみたち魔女にとって、最強の相棒なんだよ、ぼくは。この前の香澄のときだって、きみはぼくに頼ったろ?」
「いや、頼ってないよ。利用したんだよ」
「なんであれ、きみとぼくとの決着はまだついてない。きみはぼくに屈服するよ。いずれね」
「この前の騒動で、ひとつわかった」姫里はいった。「わたしは、自分を信じるよ。あなたじゃなく。それで間違わなかった」
「ああ、それはいい心がけだね」
悪魔は、やけに明るい笑顔を向けてきた。
その週の日曜はあいにくの雨降りだったものの、姫里は津村怜、花豆智美と一緒に買い物を楽しんだ。楽しんだのは姫里だけ、ではなかったと思う。
ヤモリ女はその翌週に、力の抜けた顔で星谷家へやってきて、夕食のカレーを食べていった。伯爵から、ダンス用のドレスとシューズをプレゼントされたらしい。
「もう、何着目だって話でな。十二歳の子供じゃねぇんだからさ。誰がどう見ても、わたしは幹部候補だろ。上が不死だから席が空かねぇしよ。ミサさん、おかわりもらえる? このカレー最高だな」
『上』は思いのほか遠いようだ。
姫里は日常を取り戻した。そこに新しい顔ぶれが増えたことは、嬉しい誤算だった。
──なんか、いい。なんか。
新しい風景に、姫里は快適になじんでいった。家の前に、黒塗りの外車と草上さんの姿を認めるまでは。
姫里は忘れ物をしたフリをして、背中を向け、歩き去ろうとした。
草上さんの運転する高級外車が、ほとんど音を立てずについてくる。
住宅街にひと気はなく、草上さん以外の車もない。
「姫里さま。姫里さまのお力が必要な事態が
「わたし、テストが近いんです──」
「ヤモリ女さまが、助けを求めておいでです」
「ヤモ……ああ、そういえばしばらく会ってないなぁ。よろしくお伝えください」
「姫里さまなら、必ず助けにいらっしゃると。ヤモリ女さまは信じておいでです」
姫里は足を止めた。
草上さんは停車し、落ち着いた物腰で車を降りると、後部座席のドアを開いた。
「ヤモリ女さまは、後家蜘蛛の一族と揉めています。妖怪たちと県をまたぐ抗争になるかもしれません」
後部座席の暗がりが、まがまがしく見える。
「……部活に入っておけばよかった」
車に乗りこみ、姫里は愚痴をこぼした。
「ええ。しかし、姫里さまのお帰りが遅くなろうともお待ちいたしましたので……」
──ああ、そうか。
けっきょくは、こんな風に連れ出されるのだ。
だとしたら、手早く片づけるに限る。
「夕食までには帰りますから──帰れますよね?」
「承知いたしました。では急ぎましょう」
「あ、なんかすみません」
速度を増して流れ出す、窓の外の景色を姫里は眺めた。
こういうことも、いつか日常の風景になるのだろうか。
考えこむ女子高生を乗せて、高級外車は坂をくだっていった。
セーラー服魔女・姫里 終わり
セーラー服魔女 姫里 雨猫 @kairi_tukimura
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