6-2

 お屋敷は、広壮だった。姫里の想像よりずっと広かった。廊下の別れ道にぶつかるたびに姫里は、抱えているスーちゃんの目をのぞきこんだ。スーちゃんは瞳を動かしてゆくべき方向を示してくれる。

 西棟は、まるで迷路のように思えた。姫里のあせりはつのった。

 マシンガンの銃声が、遠くから耳に届く。ヤモリ女が戦っている。

 ある地点でスーちゃんがうなった。うぅ、うぅ、とうなるたびに、切断された首の断面がうごめき、笛のような音が発せられる。顔をみると、スーちゃんは長い睫毛で風をおこすように、しきりにまばたきしていた。

 扉がある。

 姫里はスーちゃんの首を廊下に置いて、扉をノックした。

 扉は即座に開いた。眼帯をつけた少女が顔を出す。

「おせーですよ!」マリリンがいった。「とにかく、入るです」

「マリリン、ショックだろうけど、お願いだから落ち着いて、現実を受け入れて」

 姫里は、廊下の床からスーちゃんの首を抱きあげた。

「スーちゃん、よくやってくれたです」マリリンはうなずいて、姫里の手からスーちゃんの首を受けとった。「いいから入るですよ。つーか、おまえも凄いことになってますね」

「わたしは大丈夫。スーちゃんは平気なの?」姫里は部屋に入って、後ろ手に扉を閉める。

「うちらは頭さえ無傷なら、身体なんかどうとでもなるです。それより、さっさと契約にかかるです!」

「わかった」

 姫里は室内を見回した。客室らしく、ベッドとソファがある。眠り男はベッドではなく床に寝かされていた。

「眠り男、眠り男」

 姫里は駆けよって、悪魔を揺り動かした。

 眠り男は平和な寝顔をしていた。ライトグレーのTシャツから伸びる腕は細く、青白い。対照的に手のひらが男性的に大きく見える。ゆるい癖毛にふちどられた顔は、寝ていると老獪な表情が失せて、繊細な美青年に見えなくもない。

 眠り男は目をあけた。「ふぁ? なにここ。きみ、血が出てるよ?」

「眠り男、おまたせ。契約しよ」

「けいやく……」眠り男は半身を起こした。「契約? ──いやだ! なにいってんだよ、きみは」

 尻を床につけたまま、眠り男はおびえた目で後ずさりした。

「眠り男」姫里は迫った。「約束したよね? わたしたち、約束したんだよ?」

「いやだ!」

「拒めないんだよ、眠り男。そういう約束だもん」

 姫里はスカートのポケットから紙切れを取り出す。

 ヤモリ女のポケットから抜き取った紙切れ。長野の、人造人間たちの隠れ家で見つけた手紙だ。この手紙の裏には、鉛筆で謎の文字が書いてある。

 スーちゃんの首を足元に置いたマリリンが、姫里から手紙を受け取った。

「じゃ、いくですよ」マリリンは三つ折りの手紙をばらりと広げ、外国語でなにか唱えた。マリリンと情報を同期した姫里は、それがラテン語だと知っている。

 姫里にわからせるためだろう、マリリンは最後に日本語をつけくわえた。

「汝、小悪魔眠り男、契約により魔女姫里の下僕となれ。塵は塵に、灰は灰となって自由をもたらす。悪魔に戻るその時に」

「馬鹿! 馬鹿!」眠り男はわめいた。「あ、発動しやがった!」

 マリリンの手にあった誓紙が小さな火を吹きあげる。細い煙をあげて燃え落ちた。

 契約が成立したのだ。

 姫里は仁王立ちになって腕組みした。「やること、わかってるよね? 眠り男」

「くそう……。くそ、馬鹿女!」

 あぐらをかいて、眠り男はうなだれた。

「期限なんかつけやがって! 偉そうに命令しやがって──なんて魔女だよ、ぼくとの契約を軽んじるなんて!」

「いや、違うね」姫里はいった。「最初に嘘ついてきたの、そっちじゃん」

「うるさいな。こんな屈辱、はじめてだよ! きみとの契約は本当に、本当に大事にするはずだったのに!」

「そんなのいいから、いけ! 眠り男! 香澄の小悪魔を倒し、悪魔としての力を回復しろ!」

「命令するな!」眠り男は首を横にふった。「命令しないでください!」

「いけ! わが下僕! 敵を滅ぼせ、がんばれ! 負けるな! 眠り男!」

「契約が満了したら、あらためてまた契約するからな。きみはぼくの女になるんだ。いいな!」

「いきなさい、眠り男。あんたとは何の約束もしない」

「くそう! くそう! くそう!」

 と、拳を床に打ちつけている。ただし、痛くならないよう、力は入っていない。悪魔は体の重そうな様子で立ちあがり、歩きはじめた。

 扉の把手をつかみ、眠り男は物憂げにふりかえった。

「きみ、こんなことして、ただですむと──」

「いけ! 口答えするな! 命令だから!」姫里はじれったくてとび跳ねた。

「ああ、もう。わかったよ、ちくしょう!」

 眠り男が扉をあける。騒々しい音が部屋に流れこんできた。銃声だ。姫里は集中していて気づかなかった。お屋敷はいまや、戦場のようなあり様らしい。


 眠り男は、ふてくされたように両手をデニムのポケットに突っこんでいる。硝煙の染みついた空気を、だぶついたTシャツにはらませて、銃声のほうに歩いていった。姫里は用心しながら、その後に続く。もう杖はない。

 火薬の煙がうっすらとただよってきた。銃撃の音は耳を聾するばかりだ。

 玄関ホールは暗い。豪華なシャンデリアが落下していて、ホールの真ん中、大階段の下あたりでひしゃげていた。廊下の照明や、フットライトや間接照明らしい光源があるので、真っ暗ではない。

 銃撃の音が満ち、閃光が明滅している。撃っているのはダークスーツの男たちである。これだけ暗いのにサングラスをかけている。

 ──吸血鬼だ。

 姫里は気づいた。伊豆からもどったらしい。

 かれらが狙いをつけている先に小悪魔がいるはずだ。けむっていて良く見えない。

「姫里」眠り男がふりかえって横顔を見せた。「契約をまっとうしたいから、きみを守るよ。とりあえずヤモリ女のところにいて」

「ヤモリ女? どこ?」

 回廊からホールを見下ろす。ヤモリ女は玄関の大扉のそばの壁際にいた。座りこんでいる。出血しているようだ。

 姫里は走り出した。回廊を半周して大階段を駆け降りた。スーツ姿の吸血鬼たちは、東側のほうに向いているので、西側へ大きく迂回した。ヤモリ女が投げた手榴弾のせいか、壁が一部壊れて、ガラスが散らばっている。

「ヤモリ女!」大声で呼びかけても銃声でかき消される。「怪我したの?」 

「かすり傷だよ、うるせぇな。おまえも怪我してるぞ」白人のような青い双眸を、ヤモリ女は向けてきた。

「わたしは大丈夫」

 姫里が負った無数の切り傷は、はやくも血が固まりつつある。小悪魔は、本気で姫里を殺そうとしたわけではないのかもしれない。

「で?」ヤモリ女の声が険悪だ。「契約したのか?」

「した。でも大丈夫。あなたが呼んだの?」

 吸血鬼たちを見渡して、姫里は訊ねる。

「おまえだよ。おまえ、ミサさんに連絡したろ?」

 いわれてみればそうだ。ヤモリ女の生存を確信した正午すぎ、姫里は母親にメールを送ったのである。

 不意に、静寂が鼓膜を圧した。銃声が止んでいる。

 ふり返ると、大階段から軽快に降りてくる青年の姿があった。ポケットに手を入れた眠り男だ。その眠り男を迎えようとする影があった。

 まとわりつく白煙をワンピースにたなびかせて、少女があらわれた。小悪魔だ。銃弾で破れたはずの白いワンピースは綺麗に直っており、毛むくじゃらだった腕も元にもどっていた。

 小悪魔は、歩いてくる眠り男を見つめている。そのままゆっくりと腰を落とすと、破裂音を響かせてジャンプした。矢のような勢いで眠り男に飛びかかる。小悪魔の攻撃を、眠り男はまともに浴びた。

 か、に見えた。

 眠り男は飛んできた少女の頭突きを、片手で抑えていた。

 もう片方の手でツインテールの一方を掴み、眠り男は、少女の身体を軽々とふり上げる。頭上で女の身体をふり回し、勢いをつけて床に叩きつけた。少女の身体は人形のようにはずんだ。

 目をそむけたくなる粗暴さだった。

 眠り男は、うつぶせになった少女にちかづき、膝をついた。冷然と手をのばして少女の髪を掴んで頭をもちあげると、何度も何度も床に打ちつけた。そのたびに鈍い音がして血がしぶいている。

「あいつ、マジで糞だな」ヤモリ女がつぶやいた。「つーか、なんであいつが戦ってんだよ」

「あの子は、眠り男の一部なんだよ」姫里はいった。

 詳しく説明したかったが、姫里は息を飲んで後を続けられなかった。小悪魔が機敏に動いた。眠り男の手をふりはらい、仰向けの姿勢になるや、指を V 字にひらいて、目つぶしを繰り出したのだ。小悪魔の指が、眠り男の両眼に突き刺さった。

 少女の白い指がくねり、眼球をつぶし、眼窩をえぐっていく。

 少女も眠り男も、ひと言も発さない。悲鳴もうなりもない。ただただ静かに血にまみれていた。

 少女の指の、えぐる動きはとまらず、頭骨を裂き、眠り男の頭部の上半分がふたつに割れそうになっている。いっぽうで眠り男の口がみるみる大きくひろがっていく。眠り男の頭は、口だけの器官に変形した。なんだかわからない、首から生えた巨大な口唇だ。いやらしい、巨大な舌をのばして、少女の顔をなめあげた。

 それがきっかけだった。眠り男は、にわかにその形を崩しはじめた。肩と背中がはげしく波打ち、イソギンチャクのような、みっしりつまった触手がいっせいに生えた。束ねたミミズのように、おもいおもいに蠢いて、小悪魔の肌に絡みついていく。

 小悪魔のほうも同じだ。人間の形を保つ、ということを、かなぐり捨てている。

 少女の肌が濡れて光りはじめ、同時に緑色じみてきて、みるみるうちに、カエルのような斑点が浮き出した。少女の体は膨張していった。人間のサイズを平然とこえていく。ほっそりしていた体形が醜悪に変形して、脂肪をなだれさせながら、小悪魔は巨大化していくのだ。

 眠り男のほうもそれに応じた。肉と触手と口唇をめちゃくちゃに生やした化け物になって、どんどんと大きくなっていく。眠り男と小悪魔は組みあいながら、しまいには天井に届きそうな体高になっていった。衣服など、はちきれてもう見る影もない。

 ふたりの闘いは拮抗しているかに見えた。しかし、時間がたつにつれて優劣は明らかになっていった。眠り男の体に、鈴なりになった口唇が、かつて少女だった怪獣に喰らいつき、噛みついて肉を引きちぎり、咀嚼していく。

 肥大した小悪魔は、奇怪な肉感をふりまきながら、淫らさを感じさせるしぐさで身をくねらせた。眠り男に、肉体を食べられている。ぐちゃぐちゃという咀嚼音も響いている。体液らしき白い液体が、傷口から滝のように流れている。ひどい臭気がたちこめていた。

 お屋敷の玄関ホールは静まり返っている。みな、目のまえの吐き気をもよおす闘いに魅入られていた。眠り男と小悪魔の、醜く崩れた姿は、モンスターの本性の体現だ。魔物の究極の姿があれだ。あのよう醜態をさらして滅びていく。

 眠り男だった肉塊は、小悪魔に覆いかぶさっている。全身から生えた口を動かしていた。少女だった肉塊を口唇でねぶり、吸いついて飲みこんでいく。

 最後は足らしい部位を丸呑みして、眠り男は満足げに床に崩れた。シューシューと音を立て、煙を吹き出して縮んでいく。

 姫里の視界は、白く埋めつくされていった。

「おまえさ」とヤモリ女の声がした。「これの責任とるんだよな?」

「え? 責任?」煙が染みて、姫里は目をひらけなかった。

「すっとぼけんなよ、伯爵のお屋敷をこんなにして。おまえ、これどうすんの?」

「は?」

 姫里はせきこんだ。「は? なんかいったよね? なに?」

「とぼけんなって──」

「なになに? なんかふざけたこといったよね!」

 姫里は、おのれの苦労を思って怒鳴った。

 経験のない乱暴なことを、見よう見まねで無理をして、どうにかこうにかやったのだ。相当な危険を冒した。自分の行為を、そう評価している。命があやうい場面を生きのびた、とも思っている。

 ──よしよし。

 などと褒めてほしいのではない。

 ──がんばったな。

 せめて、そう認めて欲しかった。

 欲をいえば、だ。星谷家の魔女は油断ならない、そう評価してもらえればいうことはない。実力がある、うかつに手を出せない──。そう認められれば、この町での安全をひとまず確保できる。姫里は安全が欲しかった。そのために戦ったつもりだった。

 白い煙が晴れてゆく。

 ヤモリ女のにやにや笑いが見えてきた。

「なんだ」姫里は、力が抜けた。

 ヤモリ女は、たんに姫里をからかったのだ。

「よしよし。がんばったな」ヤモリ女はいう。「それでいいんだよ。ちゃんと自分の立場に立って戦えたな。そこだけ褒めてやる。屁みてぇなキレ方だったけどな」

「うるさいよ、馬鹿」

 ヤモリ女は、脇腹を押さえている。怪我をしているらしい。

「大丈夫なの?」

「大丈夫なわけねぇだろ。頭悪いのかよ」

 ヤモリ女はにやにや笑いをやめない。

 腹立たしい女だ、と姫里は思う。

 しかし、モンスター社会を渡ってゆくなら、ヤモリ女のような実力者と敵対しないほうがいい。くやしいけれど、今の姫里にはそれがわかる。

 ヤモリ女は、姫里の思惑を見透かしている。

「きてくれて助かったよ」信頼の度合いを十に分割したとして、そのうちの五つを与えた口調で姫里はいった。「わたし、なにをしたらいい? 病院に連れていく?」

「再生能力でカバーできるダメージだから問題ない。わたしの部屋に──おい、姫里、みろよ」

 ヤモリ女が顎をふる。

 ヤモリ女が見ているのは、眠り男だ。眠り男がもとの予備校生みたな人間の姿に戻っていた。

「これが、おまえの魔法ってわけだ」ヤモリ女が眉をひそめる。「ちゃんと説明するんだよな?」

「するよ」姫里は口をとがらせた。「簡単にいえば、眠り男が、小悪魔から悪魔に戻った。わたしたちの契約が終わったんだよ」


 お屋敷の暗い庭園では女が、大きな狼の死骸を見下ろしていた。

 素裸の女だ。全身、血と泥でにまみれたあざみ野寧々である。

 寧々のかたわらに、城山姉妹がよりそった。ふたりは、車で着衣して戻ってきたところだった。

「アザミちゃん、パンツくらい履かないと」

 シロエリにいわれて、寧々はふり返る。シロエリが綺麗にたたまれた寧々の服を差し出している。

「そうだな」

 寧々はパンツを履いて、Tシャツをかぶった。自分のしたことが、まだ信じられないでいる。この死骸はなんなのか。狼の姿になれば、この死骸が誰なのか瞭然とわかる。しかし寧々は、わかりたくなかった。

 ジーパンを履こうとして、ふと、近づいてくる足音を耳にとらえた。

 寧々はふり向いた。マリリンである。スーザンの生首の髪をつかんで手提げのように下げている。

「いけよ」寧々はいった。「見なかったことにしてやるよ」

 マリリンは目を伏せた。気まずそうに一歩、二歩と近づいてきた。

「一度だけ、間違って真田と同期しかけたことがあるです」

 眼帯をつけた人造人間は、片方の目をあげた。寧々に冴えない色をした瞳を向けてきた。自分が、なにをいおうとしているのかわからない、とでもいうような、不思議そうな目の色だった。

「その時、ほんのわずか、あいつの記憶が入ってきたです。あいつが押し隠していた感情の記憶。かなり断片化してるですけど、これ、おまえに関する記憶です」

 マリリンが手を伸ばしてくる。寧々は、反射的に握った。

 手が触れていた時間はほんの一瞬だ。

 呆然とした。

「さらばです、バカ狼ども」

 マリリンは生首をかかえて走り去り、闇のなかに消えていった。

 それを見送ることもなく寧々は地面に膝をついた。同時に地面に涙が散った。モンスターは泣かない、と寧々は思っていた。もちろん、そんなことはあり得ない。


 スーツ姿に戻った人狼ヤクザたちが、つぎつぎと玄関ホールへやってきた。ふんぞり返って、悠揚たる足取りで、周囲を威圧しながら、大勢で群れになって歩いている。

 吸血鬼たちは、気にもとめていない。それぞれ、お屋敷のなかを走り回っている。

 何人かの男たちが、床で寝ている眠り男をとり囲んで、見下ろしている。

 そのうちのひとりが、姫里たちのほうに歩いてきた。

 両手に棒切れを持っていた。黒っぽいスーツ姿で、大きな体をゆらりと揺らして近づいてくる。

「やぁ」

 男は歯を見せた。サングラスをかけているので、目の表情まではわからない。

「どうも」姫里は小さく頭を下げる。

 見覚えがある。黒沼という吸血鬼だ。

「これ、あんたのだろ」といって、両手に持っていた棒切れを姫里に手渡した。

 カジモドの成れの果てだ。

 受け取って、姫里は胸の内に苦味を覚えた。

「ありがとうございます」

「可愛いな。お礼いってるよ」黒沼は笑って、ヤモリ女に視線を移した。「よぉヤモリ。だいぶ参ってるらしいな」

「うるせぇな」

「アオジタが死んだって?」

「ああ。──野郎もひと息ついてるだろうよ」

「だろうな。おれも一緒に逝きたかったよ」

 ふたりの間に、微妙な空気が流れる寸前、ヤモリ女がいった。「犬どもはどうしてる?」

「見ての通り、我が物顔でのし歩いてるよ。組長さんがさっき到着して屋敷に入った。ゴルフバッグ持参でよ。連中、伯爵と談判がすむまで居座るかもな。そういや、犬目組の門馬、あいつが、姫里ちゃんを助けた、っていってたけど、そうなの?」

「あ、はい」と姫里はこたえた。「ヤモリ女を捜すのに、力を借りました」

「おい、ヤモリ。どうなってんだよ」黒沼が怖い声でいう。「姫里ちゃん、ヤクザの世話になっちゃってんじゃんか」

「いや、なってない」ヤモリ女が答える。「道でたまたま遭って、たまたま話しただけだ。なにも頼んでない。そうだろ?」

「ちょっと質問しただけだよ。それより」姫里はヤモリ女の顔をのぞきこんだ。「怪我してるんでしょ? どうすればいい?」

 姫里は肩を貸そうと思ったが、その前に黒沼が、紳士的な態度でヤモリ女を抱き上げた。いわゆるお姫様だっこだ。「まぁ、心配いらないかもな。姫里ちゃんの初仕事は、まれに見る大手柄だ。咬みついてきたら、恥をかくのは犬どものほうだろ。連中は顔をつぶされないよう、姫里ちゃんの手柄のほうに乗るぜ」

 黒沼は大階段のほうへ歩いていく。姫里は後についていった。

「いや、連中がその手柄を横取りしにくる線だってあるだろ」だっこされてるくせに、ヤモリ女は意気軒昂にいった。「取られるんじゃねぇぞ、姫里。おまえが頑張った結果なんだからな」

 ──意外に嬉しい。

 褒められたことがだ。もちろん、犬目組同様、高原台だって信用できない。しかし足取りが軽くなるのは、どうしようもなかった。


「姫里ちゃん、帰るときは声かけてね」黒沼が、ドアのところで姫里をふり返った。「車で送るから」

「あ、助かります」

 黒沼は部屋を出て、ドアを閉じる。

 ヤモリ女の部屋だ。お屋敷に自分の部屋を持っているのだ。私物が少し多めに置かれた客室という感じで、これといった特徴はない。開きっぱなしのクロゼットのなかに、色鮮やかなドレスが吊るされており、そこだけ大人の女性っぽく見える。

「ダンス用のドレスなんだ」ヤモリ女がいった。

「ダンス?」

「社交ダンス。わたしは十八世紀のウィーンに放りこまれてもやっていけるくらい踊れる。伯爵にみっちり仕込まれたからな」

 ヤモリ女はベッドに腰かけて、薬箱らしい半透明プラスチックを開け、てきぱきと治療しはじめた。小瓶をさかさまにしてガーゼに消毒液をかけてから、血で汚れた半袖ニットを脱いだ。目を見張るほどスタイルがいい。

「姫里、そこの椅子をもって、こっちこい」

 姫里はいわれた通りにした。

「大丈夫なの? けっこうひどい怪我みたい」

「眠り男は魔力全開で戦ってたな。なんでだ」

「あとにしようよ。顔色悪いよ?」

「いいから聞かせてみな」

 いつもやかましいヤモリ女が、めずらしく静かな口調でいう。姫里はつられるように話しはじめた。

 最初に違和感を覚えたのは、白い家で見つけた手紙だ。悪魔は、百の力で満たされて安定した存在、小悪魔は一の力しか持たない不安定な存在。そんなようなことが書いてあった。

 常に力を放出し、またどこからか取り入れる。それが小悪魔だ、と。

「眠り男が壁の中に閉じこめられて、この地上から悪魔が一匹減った。悪魔は七十一になった。足りない分を補うために小悪魔が発生した。わたしははじめ、そう思った。けどこの推理、ちょっといい加減なんだよね」

「いい加減?」

「モンスターってそもそも無茶苦茶なものだけど、それでも、『悪魔はこの地上に常に七十二。減りもしなければ、増えもしない』。この言葉にはもっと厳密な印象がある」

「まぁ、そうだな」

「だいたい七十二って、なんなのか。単位がないじゃん? 七十二人、とか七十二匹じゃない。ただの七十二。そしてこの数字は絶対的に不変だと、やたらいってくるわけでしょ? 要するに悪魔パワーの総量だろう、とわたしは思ったわけ。悪魔パワーの総量は不変。そして総量を七十二に分割している時だけ、悪魔パワーは安定する」

「なんで七十二なんだ?」

「それはわかんない。わたしがいいたいのは、悪魔たちが共有する力は七十二で不変、ただし悪魔の人数は七十一人、七十人になり得るってことなの」

 眠り男はなんらかの方法で、持っていた悪魔パワーを削られた。削られた力の一部からツインテールの小悪魔が生成され、眠り男もまた、パワーが一に満たない、不安定な存在になった。七十二で安定していたものが、悪魔七十一、プラス小悪魔二、になってしまったのだ。

「悪魔である眠り男が分裂して、二匹の小悪魔になったのか?」

「そう! そういうこと! 悪魔と小悪魔の違いは、悪魔パワーが満たされてるかどうか、だけなんだよ。壁の中にね、夜の街、みたいな世界があって、眠り男はそこで魔力を使いたい放題使ってた。壁の入口は異次元への通路で、異次元では悪魔も魔法を使える、というのが眠り男の説明だったけど、嘘だったんだよ。眠り男が魔力を思うさま使えたのは、自身が小悪魔化してたから。眠り男はたぶん、あそこに隠れて待ってた。分離した自分の一部——ツインテールの小悪魔が伯爵を殺すのを」

「……いや、どうかな」

 ヤモリ女は治療を終えたようで、スキニージーンズを脱いてジャージっぽい緩い上下に着替えた。

「眠り男はな、ああ見えてそこまで恨み深い男じゃない。馬鹿だから自分の受けた屈辱とか覚えてられないんだよ。ま、本人に聞くよ。問題は誰が小悪魔を作ったか、だ。香澄でいいな?」

 姫里はうなずいた。「作ったのは香澄さんだけど、背後に魔術師がいる。小森さんだと思う」

「確かか?」

「たぶんね。あの手紙の差出人は誰か。マリリンはそれを知ってた」

「人造人間の片割れか。聞き出したのか?」

「壁から出てまず、マリリンのところへいった。で、同期したの。マリリンが見たあの手紙の差出人、小森さんだった」

「おまえにしちゃ冴えてたな」ヤモリ女は笑う。「眠り男はツインテールと同化して、悪魔に戻るつもりだった。そのうえでおまえと契約するはずだった」

「そう。でもその前にわたしは、眠り男と契約した。悪魔が魔女を従える契約じゃなく、魔女が小悪魔を従える契約を」

「悪魔を出し抜いたってわけだ……しかし、よくそんな大胆なことできたな」

「マリリンとスーちゃんの助けが得られたのが大きかった。ね、あの二人を追わないであげて」

「そんなやつらは知らねぇよ」ヤモリ女は平然という。「それよりおまえ、わたしに隠し事をしてたってことだよな?」

「眠り男が近くにいたから詳しい話ができなかったんだよ」姫里は眉をひそめた。「気づいてたよね?」

 ヤモリ女は忍び笑いを漏らした。

「いや正直、疑ってた。馬鹿だから契約するかもってな。まぁいい。伯爵への報告に、お前の名前を出してやる。褒美の希望があれば今のうちにいえ」

「褒美? いや、えーと。うちのお母さんがやってるレストランから、お金をとってるんだよね? それナシにならない?」

「ふざけんな。ミサさんと伯爵の取り決めだ。口出せるわけねぇだろ。それでなくとも、いま高原台はガタガタなんだぞ。壊れた杖の代わりに、新しい魔法道具をもらってやる。いいな?」

「可愛いのにしてね。ヤモリ女、喉乾いてない? 水持ってくるよ」

「ワインにしろ。いいやつ持ってこい。せっかく伯爵がいねぇんだ、贅沢するぞ。ヤマビルっていう太った吸血鬼がいるはずだ。そいつを捜して肉料理を作らせろ。腹が減ってりゃ、おまえの分も頼んでいいぞ」

 ヤモリ女は機嫌がいいんだ、と姫里は理解した。機嫌がいいと、ヤモリ女は気前が良くなる。

「血で汚れた服、どうしよう」

「いいから、おまえはワイン持ってこい。グラスを忘れんな」

「お礼いってなかったよね。ありがと。わたしのこと待っててくれて」

「わたしをからかおうとか、十年早いぞ。いいからいけ」

 ヤモリ女が眉を上げるのと同時に、姫里は席を立った。

 機嫌が良ければいろいろ振る舞うが、機嫌が悪いと面倒くさいのだ。要するにヤモリ女は、とてもわかりやすい。


 ヤモリ女はひとりになって考えにふけった。

 姫里の推理、小森が怪しいという話は、率直にいって信じがたかった。小森は現実的な損得勘定で生きてきた男だ。つまるところチンケな人間以上のものじゃない。魔術を極めるようなタイプじゃない。

 魔術師などいない──。

 そう思う。思うものの、断定できなかった。姫里は未熟だが、魔法のセンスは悪くないらしい。その姫里が、魔術師の存在を確信している。考慮する必要がある。

 それに、香澄だ。

 香澄はおそらく、遠大な目的は持ってなかった。なにをしたかったのか知らない。しかし感情的な動機だろう。普通に考えれば伯爵への復讐だ。しかし、香澄が伯爵の生死にこだわった様子は見られなかった。下手をしたら、背後にいるとかいう魔術師にいいように使われただけかもしれない。

 一連の騒動に共通するのは魔法であり、魔術であり、魔力だ。

 ——姫里か?

 ヤモリ女の連想は飛躍した。誰かが、姫里になにかをさせたがってる、ということはないか。

 扉がきしみをあげる。ヤモリ女はギョっとした。自分が無防備なのに今さら気づいた。

 入ってきたのは星谷ミサだ。

 ヤモリ女は自嘲気味に首を振った。姫里が目的、ということはあり得ない。姫里は小娘だ。こんな大騒動の原因になるほど重要な魔女じゃない。

「あんだ、ミサかよ。伊豆から戻ったのか?」

「ええ。これでも大急ぎで帰ってきたんだけど──」ミサは、なにか焦った口調でいった。「ヤモちゃん、怪我したって?」

「まぁな。うるさく騒ぐほどのもんじゃねぇよ」

 ヤモリ女は、ふた又にわかれた舌を小さくのぞかせる。爬虫類が空気をなめて匂いを感知するのと同じことが、わずかにではあるものの、ヤモリ女にも出来る。ミサに不審な匂いは感じとれなかった。

 ヤモリ女から見ると、星谷ミサの童顔は、子供のころのままだ。ふたりきりの時だけは、あの頃の口調でしゃべるとヤモリ女は決めている。

「姫里と会ったか? 今回ばかりはあいつ、なかなか──」

「まだ。捜してるところ——これ、あのの杖?」

「ああ、壊したみたいだ。直せるかな」

「大丈夫。腕のいい修復師がいるから」

 ミサは懸念を顔に浮かべて立っている。気もそぞろ、という感じだ。

「姫里、キッチンにいないか? 地下のワインセラーかも」

 ヤモリ女はピンときた。

「いないんだな、姫里」

「ヤモちゃん、ゆっくり休んでて」

 立ち上がろうとしたヤモリ女の両目を、ミサの手のひらが覆った。

 頭蓋のなかに泥でも流れこむように、頭が重くなった。ヤモリ女は強烈な眠気に襲われた。眠りに落ちる直前に気づいた。姫里を最重要人物と考える者がふたりいる。姫里のためならどんなことでもする、ひと組の男女が。ミサはそのうちのひとりだ。

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