第六章
6-1
太陽は、悪あがきのような残光で雲を染めながら、西の地平に消えた。まもなくモンスターの夜がくる。
ワーゲンバスがウィンカーを点滅してやってくる。姫里の目の前で停車した。
クロエリだ。ハンドルを回して窓を開け、姫里を睨んでくる。
「乗って」
姫里はセーラー服の袖で乱暴に涙をぬぐった。さんざん大騒ぎして、周囲をふり回して、やっと捜し出したヤモリ女と、けっきょく喧嘩別れしてきたのだ。クロエリに怒られてもしかたない。
ヤモリ女は、姫里と、眠り男との契約を許さない。わかっていたことだ。
それでも姫里はヤモリ女と会う必要があった。ここからはもう、ひとりだ。もはや誰も信用できない。眠り男はもちろん、人狼たちも。
姫里は助手席に、眠り男は後部座席に乗った。
「わたし見張りだからさ、勝手にいかないでもらえる?」
「ごめんなさい。ヤモリ女は?」
「めちゃめちゃ怒ってたっつうの。怒って
「うん」
「小悪魔を倒したいのはわかっすよ。その後は? どうすんの?」
「わからない。その後はもう眠り男の決めることだから」
クロエリは黙りこんだ。明らかに不機嫌な様子だ。
おもむろにサイドブレーキを引き、クロエリは姫里にいった。
「降りて。あんた気に入らない。一発ぶん殴るわ」
クロエリはさっさと車を降りてしまう。
姫里はため息をついた。一発ならいいか、とおもいながら車を降りた。
ドアのスライドする音を聞いてふり返ると、眠り男も車を降りたところだった。「ね、クロエリちゃん──」
眠り男はなだめるような口調でいいかけた。
クロエリは、近づいてきた眠り男の脇腹を、無造作に蹴った。眠り男はうめいて、その場に崩れる。
姫里をふり返ったクロエリが、あごを動かして細い路地を指す。姫里は歩道と車道の仕切りを越えて、その路地の暗がりへ入った。
「あの悪魔、わたしがおさえとくっすよ」クロエリがいう。「あんた、その隙に逃げたら?」
「駄目だよ。わたしが逃げたらクロエリさんが──」
「うちは大丈夫。安心するっす。悪魔はちゃんと始末してやるっすよ。ヤクザの門馬さん、たぶん眠り男を篭絡する。あんたを利用するつもりっすよ。あんたたちを使ってこの町の覇権を取ると思う。伯爵と吸血鬼への復讐もきっと果たす。あんた、ヤモリ女さんを殺すことになるっすよ。できんの?」
「姫里になにいっても無駄だよ」
眠り男がお腹をおさえ、背中を丸めながら近づいてきた。
「ぼくらはもう、仮契約をした」
「すっこんでろ」
「姫里に求めても無駄なんだ。あの壁の中から脱出するには、ぼくとの契約を約束するしかなかった。ぼくらの交わした約束は覆せない」
「聞いたっすよ。でもさ、おまえって嘘つきだろ?」
「悪魔は嘘つきじゃないよ」
「おまえは、嘘つきじゃん」
「ね、クロエリちゃん。ぼくらには、やりたいことがあるわけじゃない。門馬さんが力を貸して欲しいなら、ぼくらは貸すよ。なんでもいうことを聞いてあげる。姫里にひどいことをさせたくない、というなら、話は簡単だよ。ひどいことを願わなければいい。門馬さんが不安なら、きみがぼくに頼むんだ。門馬さんを殺してって。きみのためなら、かなえるよ、ぼくは」
「あ?」と凄みながら、クロエリは眠り男に近づいた。
「悪魔はね、モンスターの幸福のためにいるんだよ。ぼくと姫里はきみたちの幸せに仕える。ぼくの力はね、ぼくのものというよりは、きみたちのものなんだ。これはそう絶望的なことじゃない」
にやにやしている眠り男の腹に、クロエリがふたたび拳をたたきこむ。眠り男はまたも、その場にへたりこんだ。
「姫里、いこう」
「クロエリさん、わたし──」姫里はなにもいえなかった。
「まぁ、いいっすよ」クロエリはため息をつく。「わかったっす」
「なんでみんな、ぼくを殴るんだ」
眠り男は腹を押さえながらも立ち上がり、姫里のうしろをついてくる。意外に頑丈らしい。
車がヘッドライトを灯すこの時間、国道はいつも混雑する。渋滞になることはあまりないものの、車が多い。クロエリも、眠り男もしゃべらなかった。それぞれ、なにか考えこんでいた。
「姫里、本当に高原台でいいっすね」
「おねがいします」
まもなく、ワーゲンバスは国道から左に折れた。
高原台へ向かう道はやや狭い山道だ。クロエリの運転はたくみだった。曲がりくねった道である。ヘッドライトの光で、森の内側をなめさせて、クロエリは車を登らせていく。怪物のはらわたに呑みこまれる感覚がある。
道を登りきり、視界がひらける。品のいい街灯が照らす高級住宅街だ。ものやわらかい灯で、多くの庭と屋敷がライトアップされている。自分の家を自慢したいというより、保安のためだろう。
高原台の落ち着いた夜の風景の向こうに、市の様子が眺望できた。駅を中心にして放射状に光をのばす、月夜市のきらびやかな、けばけばしい夜景である。
道は広くなった。クロエリはヘッドライトを消して静かに車を進行させた。ワーゲンバスは夜闇のなか、要塞のように高い、ベージュ色の塀にそって進み、勝手口のある裏手で停車した。
「クロエリさん、ここからは危険かもしれません」
「わかってる。うちの心配とかいらんから。ここで契約するの?」
クロエリは運転席の窓を開けながらいう。
姫里は、眠り男と目をあわせた。
「いいえ、ぎりぎりまでしません。それでいいよね、眠り男」
「そうだね。そのほうがいい」眠り男はうなずいた。「いこう、姫里」
眠り男が、伯爵のお屋敷に視線を据えながら、先に車を降りた。
「クロエリさん、ありがとうございました」
「なにたくらんでるか知らねぇけど、うまくやるっすよ」
クロエリは姫里を見ていない。窓の外に目を──いや、鼻をきかせている。
姫里はワーゲンバスを降りて、さりげなく周囲を見た。眠り男はすでに勝手口のほうへ向かっている。いつの間にか、ワーゲンバスの後ろに黒塗りの車が停車していた。車内は暗かったものの、一瞬、けもののような瞳の反射があった。
ライトを灯さない黒塗りの車が、続々とこちらに向かってきている。
──
姫里の思ったとおり、門馬はこの瞬間に目をつけていたのだ。姫里が悪魔と契約し、ツインテールの女の子を殺す瞬間を。
犬目組は、香澄さんから一気に覇権を奪取するつもりだ。
眠り男は、背後で繰り広げられているその動きに、まったく気づいていない。
手元が暗いせいだろう。勝手口の開錠に手間取っている。
「大丈夫なの?」姫里は眠り男の手元をのぞきこむ。
「大丈夫、開いた」開錠の音が響いた。
眠り男に続いて、姫里は邸内に足を踏み入れた。邸内は静かだった。庭木の向こうに芝生の庭園がある。青白いフットライトが点々と灯されている。
歩き出そうとして、姫里は気づいた。
足が動かない。
麻痺したみたいにいうことを聞かない。姫里はあせって眠り男を見上げた。
「ナイストライだったね、姫里」
眠り男は、目を細めて姫里を見ていた。
「ぼくを出し抜こうという気概だけは買うよ。けど──」
閃光が姫里の目を打った。
電気が爆ぜたのだ。凄い音が庭に響きわたる。
焦げくさい臭いが鼻をつく。眠り男は、髪の毛から煙をあげながら崩れ落ちた。
悪魔の背後に立っていたのは、スーちゃんだ。かたわらにマリリンもいる。
姫里の足の麻痺は、眠り男の失神とともに解けた。思わず二、三歩、前にのめってしまう。
スーちゃんが短くうなった。眠り男の襟をつまみあげ、肩に担いだ。
「思ってたより早かったですね。例のものは?」マリリンが声をひそめていう。
「持ってきた。ありがとう、助かったよ」
「お前のためじゃねーです。それより覚悟はいいですか?」
「大丈夫。できてる。それより──」
いいかけて、姫里はマリリンの背後に目をやった。
大柄な人影が近づいてくる。その影がはなつ雰囲気が不穏だ。人狼である。
姫里の視線に気づいたマリリンがふり向く。「げっ、深沢?」
深沢、と呼ばれた大男は冷たい目で姫里を見た。黒い毛虫みたいな眉毛だ。左の頬から口唇にかけて、三本の傷跡が平行して走っていた。
「えーと、これは……」マリリンがおびえている。
「でかした、チビども」大男は
深沢の背後にはカジュアルな服装の若者たちがいる。全員うつむきがちだが、緊張がゆきわたっていて半ば整列のように直立していた。
「スーちゃん、悪魔を連れて中に入ってろ」深沢はいった。「マリリン、こっちこい。怪我すんぞ」
マリリンは姫里に目配せを送ってきた。姫里は視線をさげることで答えた。スーちゃんが、マリリンをうながす。人造人間たちはお屋敷のほうへ歩いてゆき、暗闇のなかに消えていった。
「安心しろ。殺さない」
深沢はそういって姫里に背を向けた。近くにいる痩せた少年の肩を叩き、「縛りあげて連れてこい」と命じた。
「深沢さん……」肩を叩かれた少年が、震え声でいった。
姫里の背後を見つめている。
姫里はふり返った。
勝手口のむこう側だ。無数の目が光っている。
猛獣の息づかいが聞こえた。動物園でしか聞けないような大型の動物のうなり。暴力団・犬目組の面々に違いない。変身しているのだろう。
ふと、息づかいの声が止まった。
真っ黒な影がつぎつぎと飛びこんできた。狼の群れである。
姫里が驚愕している間に、深沢たちは逃げ出していた。
逃げながら、その姿が消失した。深沢たちの衣服の、中身が消えたのである。走りながら小型犬に変身したのだ。人体の支えを失った衣服が力なく舞い落ち、小型犬たちは散りわかれて駆けていく。きゃんきゃん鳴いて、妙に可愛らしい光景だ。
しかし、暗がりに逃げこんだかれらが戻った時、可愛らしい小型犬の姿はなく、別の狼の群れがあった。
ただの狼ではない。体高は姫里の胸のあたりまである。化け物だ。
二つの狼の群れは躊躇なく激突した。
無駄に吠えたりせず、ひたすら相手の喉を狙って牙をふるう、そういう対峙があちこちにあらわれた。どの狼も機敏で、咬まれまいと逃げる一方で、相手を咬もうとするので回転しがちである。さっそく一頭が悲鳴をあげて、血しぶきを散らしながら飛んだ。空中で逆さまになって落ちていく。とりわけ大きな狼が、戦闘のなかから頭を上げる。血まみれの鼻面を向けて姫里を見る。
──門馬だ。
姫里は直感した。とっととやることやれ、とでもいいたいのだろうか。
姫里は、お屋敷の玄関へと走った。
扉は開かれている。赤みのある光が漏れている。
用心しつつ中に入る。玄関ホールである。
毛足の長い、真紅の絨毯が敷かれていて、足音が響かない。
ホールに真田がいた。姫里は、廃ボーリング場で真田を見たことがある。スカジャンのポケットに両手を入れて、真田は歩いてきた。
「寧々はきてる?」真田は軽い口調でいった。
「ええ、おそらく」
「あんた、この先いけば死ぬよ」
「生きのびるためにいくんです。あなたはどうなんです?」
真田は答えなかった。スカジャンを脱ぎながら、姫里のわきを素通りしてゆく。
外の戦いのなかへ真田はむかっていく。それが答えだったろう。真田を見送った視線を、姫里は屋内にもどした。
いつの間にか、白いワンピースを着た、猫背の女の子がいる。首をかたむけてツインテールを揺らした。
前髪から髪留めを引き抜いて、姫里は杖をかまえた。
日本人ばなれしている、という表現があるけど、と姫里は思う。目の前の少女の美貌は、人間ばなれしている。彫刻的といえるかもしれない。
少女は姫里をまっすぐ見つめながら、腕をのばして手のひらを向けた。と、微風に吹かれたように、少女の白いワンピースがはためいた。真夏のアスファルトに生じるような透明なゆらめき、陽炎が姫里のほうに近づいてきた。最初はゆっくりと、徐々に速度をあげながら。蜘蛛の糸のように舞い散る白い筋は、灰になった絨毯の繊維だろう。
「サッコ・ディ・ローマ」
姫里はつぶやいた。
気流に舞う白い筋が、杖の前方に吸いよせられる。念を使う姫里の魔法で、空気が乱れたのだ。一瞬後、魔力の固まりが砲撃の勢いで小悪魔を撃ちぬいた。
姫里は魔力を高めて準備していた。イメージ通りの攻撃である。
小悪魔はふっ飛んだ。柱に背中を打ち、はずみながら壁に激突した。目に見えない大型トラックにはねられたようなものだ。頑丈なモンスターでも直撃したら立てないはずだ。
小悪魔は壁際の床に仰向けになっていた。胸が上下している。と、少女は背中で跳ねて引っくり返った。床に伏せた姿勢になると、ゴキブリのような素早さで這ってきた。
背筋の寒くなる勢いだ。
姫里は飛びすさる。同時に、魔力を溜めて準備していた第二弾を放った。今度の攻撃も命中し、小悪魔の異様に速い匍匐前進を止めた。
姫里はあわてて距離をとった。小悪魔の動きと比べたら、亀のようにノロマだった。
さっきまで自分のいたところを見てゾッとする。絨毯が細切れになって宙を舞っていた。石材の床に深い切り傷がえぐれている。
──なに?
混乱してはいけない。思考を澄みきらせていないと死ぬ。
逃げよう。それしかなかった。
姫里が向かったのは大階段である。
階段の途中でふりかえった。
小悪魔は棒立ちになって、玄関の扉のほうを見ている。外の戦闘に興味をひかれているらしい。
姫里は、迷ったものの声をかけた。
犬目組はともかく、寧々さんたちには死んで欲しくない。
「ねぇ!」
と、小悪魔の背中に連続して魔法の砲撃をあびせる。
全弾命中である。小悪魔は小突かれて、踊るようによろめいた。
魔法の砲弾は透明で見えない。これを当てるため、姫里は弾の軌跡を頭に思い描く。その軌跡通りに弾は飛ぶ。
小悪魔は、床に膝をつき、両手をついた。顔をあげて、
──わん!
小悪魔は吠えた。
鳴きマネではない。犬の鳴き声そのものだ。録音した犬の声の再生みたいだった。
白ワンピースの少女は、元気いっぱいに階段をのぼってくる。軽やかな四つ足の動作だった。不自然さがない。姫里は二弾、三弾と魔法を撃ちこむ。当たらない。小悪魔は、飛び跳ねながら階段をのぼってくる。
姫里は、あわてて二階の回廊に上がった。
魔力を溜めながら、吹き抜けの回廊の端まで移動する。ふりかえりざま、大きめ念をあつめて弾を撃ちこんだ。小悪魔はほとんど真後ろにいた。屋敷がきしむような衝撃とともに少女は吹き飛ぶ。
だが駄目なのだ。なんらダメージを与えられない。小悪魔は姫里の魔法をアトラクションのように楽しんでいる。四つん這いのまま、少女はその場で右に、左に回転した。
──わんわん!
と、ふざけている。
勝てない。
こんな予定ではなかった。
深沢とかいう人狼に見つかったのが運のつきだ。このままでは魔力だけ削られてボロキレのように殺される。
姫里はゆっくりと後ずさった。西側の翼の隅にいたので、回廊の南側、玄関側の壁へ後ずさった。小悪魔は笑いを浮かべて、ついてくるかに見えた。しかし、犬のお座りのような姿勢でとどまった。
おそるおそる、姫里は距離をとる。
猛犬みたいだ。鎖に繋がれていない猛犬が目前にお座りしている。
なにを思ってか、小悪魔は腰をあげて近づいこうとした。
「お座り」
姫里は命じると、少女は口をあけ、舌を見せながらお座りする。
そのまま離れていくつもりで後ずさった。少女はまた腰をあげる。
「ステイ」
手のひらをむけて、姫里はいい聞かせた。小悪魔は犬ではありえない表情をした。不安そうな顔だ。姫里に離れていって欲しくないのだ。
不意にあごをあげ、少女は、あまりに見事な遠吠えをした。
「サッコ・ディ・ローマ!」
姫里は杖の頭を向けて叫ぶ。遠吠えとともに、なにかがくる。突然のことでよける暇がない。姫里に残された弱々しい魔力で放たれた魔法は、そのなにかで切り削られ、散りわかれた。
姫里は目をつぶり、杖を抱いた。見えない力が、姫里を壁に叩きつけた。剃刀の嵐がお腹から下を通りすぎていったような冷たい感覚。
目をあけるのが怖かった。全身に痛みがある。それでも目を開かざるを得ない。
髪の毛がごっそり散って、足元が真っ黒だ。服にも肌にも髪がくっついる。セーラー服がところどころ切り裂かれて、切り傷が身体中にできていた。しかし、致命傷はひとつもない。生きのびたのだ。
ふと気づいた。魔法の杖カジモドが、まん中あたりで折れている。切断されていた。切り口を見た。すっぱりと、まっぷたつだった。
衝撃が大きすぎて立っていられない。壁に背中をつけたまま、姫里は床にへたりこんだ。血まみれの膝と太ももが目に入ってきた。
──これって。
為すすべがない。
呆然として小悪魔を見る。
小悪魔は、四つ足で軽快にうろついている。犬そっくりな、はっはっはっ、という息遣いで、のばした舌とツインテールをゆらしていた。姫里を見て、うーうー唸ったりもする。姫里から戦意を引き出そうとしているらしい。
姫里は立とうとおもった。腰が抜けたのか、力が入らなかった。カジモドとともに心が折れている。床にへたりこんだ姫里と、四つ足の少女の視線の高さは、ほぼ同じだ。
小悪魔は、犬さながらの、ちょっとニヤけたような顔をやめた。つまらなそうな、白けた顔になって、わん、と鳴いた。
「待って!」
姫里は叫んだ。やばい、死ぬ。死にたくない。しかし遅すぎた。
姫里の耳は、かすかなうなりを聞いた。見えない、よく切れる刃物が飛んでくる時の音らしかった。姫里は切断された杖を抱きしめる。それしかできなかった。
不意に視界を影が覆う。眼球が切り裂かれた、と姫里はおもった。
違うのだ。見上げると背中がある。女のひとの細い背中、しかし身長は高い。スーちゃんだ。どこからともなく、スーちゃんがやってきて姫里の前に立ちはだかっていた。
一瞬後、糸を切られた操り人形のように、スーちゃんが崩れる。
スーちゃんはバラバラに切断された。首と胴が離れ、透明な液体飛び散る。両方の腕が肩から落ち、その腕もひじで切断されていた。足は太ももから飛び散り、胴体は回転しながら廊下に転がった。
「スーちゃん!」
腰を抜かしている場合ではなかった。
単なる木切れになった杖を捨て、姫里も四つん這いになった。飛んで転がったスーちゃんの首を拾いあげて、おそるおそるその顔を見た。透明だった液体は空気に触れたせいか赤く変色している。切断面には骨らしい白いものが見える。おもったより出血していない、というか、スーちゃんは余裕でまばたきしている。しきりに、目を動かしていた。
「うぅ、うぅ」
うなりながら、瞳の動きで方向を指し示している。
──眠り男だ。
姫里は気づいた。スーちゃんは、眠り男の居場所を教えようとしてくれている。
どん、という凄い音がした。バラバラに散ったスーちゃんの手足が跳ねた。どん、どん、と小悪魔が足を踏み鳴らしている。回廊が崩壊しそうな地団駄だ。小悪魔は涙目でこちらを睨んでいる。
姫里はスーちゃんの首を抱きあげ、小悪魔にかかげた。
スーちゃんが瞳で指し示したのは、西棟のほうだ。小悪魔が立ちはだかっている。彼女をなんとかしないと、西棟への通路にはいけない。
「そこをどいて」姫里は精いっぱい凄んだ。
小悪魔は姫里を見ていなかった。スーちゃんを見ながら口を開閉した。なにか、喋ろうとしている。
なんど挑戦しても汚いうなりしか出ない。小悪魔はツインテールを揺らして悔やしがった。綺麗な顔を歪めて、えずくように、声を絞り出す。
「……うぅ、たん」少女がいった。
低く響く、化け物の声だ。少女が、生まれてはじめて発した言葉だったろう。
姫里の抱いた生首が、間欠的に低いうなりを漏らす。姫里は首を見下ろして驚いた。スーちゃんの目が笑っている。小悪魔に笑いかけている。
小悪魔は、うれしそうな顔をしてみせた。
この少女を殺す、という姫里の決意が揺らいだ。一歩まちがえれば殺される、という恐怖をも一瞬、姫里は忘れた。
奇妙に弛緩した瞬間、引き裂くような破裂音が響いた。
小悪魔の眉間に火花が散る。少女はよろけた。銃声だ。どこかで薬莢が転がる音が響く。姫里は、生首を抱きしめてしゃがんだ。
反響のせいか、銃声は真上から聞こえた。
「寝呆けてんじゃねぇぞ、姫里」
天井に、逆さまの女がいた。ヤモリ女だ。はだしの足の裏を天井につけて、ぶらさがっている。逆さまになって、マシンガンみたいな、大きな銃をかまえていた。
──わたしは垂直の壁をよじ登れる。ヤモリ女だからな。
そういえば、そんなことをいっていた。
ヤモリ女は目をすがめて照準をあわせている。姫里は、スーちゃんの首を抱いたまま壁際によけた。銃声は連続して聞こえる。鼓膜を突く轟音だ。機関銃が発射されている。銃口から長い火影が明滅する。
小悪魔は銃弾で踊った。白いワンピースの一部が消し飛び、驚くことに片腕が肩から飛び散った。
なのに眉ひとつ動かさない。
はじけ飛んだ腕は、たちまち茶色い泡になって形を崩した。
小悪魔の肩から、ずるりと、黒い、毛だらけの腕が生えた。床にふれるほど長い、チンパンジーのような腕だ。
天井にいたヤモリ女が半回転しながら回廊に降りる。コトリとも音を立てない。
同時に小悪魔は回廊の手すりを飛び越え、毛むくじゃらの長い腕でぶら下がってから、玄関ホールに飛びおりた。
ヤモリ女は銃を構えた低い姿勢で、用心深く手すりから階下をのぞく。すぐさま銃口を下げて、ヤモリ女は腰のベルトに手をやり、なにかを掴んだ。手榴弾だ、と姫里にもわかった。ヤモリ女がピンを抜いたからだ。
ヤモリ女の、一階に手榴弾を投げる動作と、逃げながら伏せる動作がなめらかに連携している。
爆音とともに屋敷全体が揺れた。煙と白いほこりが天井まで吹きあがった。
姫里は面くらって、まばたきするしかなかった。
「どうだ、姫里。AKM のフルオートはすげぇだろ」気がつくと、ヤモリ女がすぐそばにいた。
「どうだ、じゃないよ!」姫里はおもわずいって、せきこんだ。「お屋敷、壊れるでしょうが!」
「おまえんちのボロ家と一緒にすんな。それよか姫里。たいして時間は稼げねぇぞ」
「ヤモリ女──」
「なんかやるつもりならとっととやれ」
いうだけいって、ヤモリ女は一瞬で背景に溶けていく。
姫里はにわかに取り残された。
「わかった! すぐ戻るから自重して!」
あわてて立ちあがり、スーちゃんの首を抱いて姫里は西棟へ走った。
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