5-3
待ち合わせに指定されたのは、駅のそばの高架下である。
薄暗い駐車場だ。駅から一番遠いエリアだからか、駐車されている車は多くない。ひと気がなかった。
──そうなったら。
闘おう。
人狼たちはカジモドの威力をまだ知らない。ひと気がないなら、存分に魔法を使ってやればいい。相手はヤクザだ。簡単な相手、と見られたら、きっと面倒になる。
門馬は約束の時間の十分前に現われた。ドイツの高級車だ。私用の車だろう。後部座席からチャコールグレイのスーツ姿の、いかつい男のひとが降りてきて、近づいてくる。サングラスをかけている。姫里はアコードのドアを開いた。
気安くアコードの後部座席に乗りこみ、門馬は扉を閉めた。
「はじめまして。
「ん」
「そこにいる悪魔と一緒に、
門馬は、姫里を見ようとしもしない。スマホをいじっている。姫里は続けた。
「門馬さんなら連絡を取れると思うんです。ボーンズはずっと犬目組に忠実でしたし、ボーンズは今や、あなたたちの大事な駒ですから」
門馬は反応しない。スマホを仕舞ってサングラスを外し、ハンカチでくもりを拭いていた。
「寧々さんたちは、逃げずに月夜市に残ってます。いろいろ調べてその気配を感じてます。なぜ逃げないか。あなた方がそう命じたからです。ボーンズは犬目組の命令は遵守します。恩義を感じてるんだと思います」
「どうして、おれらがそんな命令する。どんな得がある?」
門馬が反応した。
その目的は真田さんを捕まえるエサ、もしくは寧々さんを使って、真田さんの動きを翻弄・牽制するため。
「香澄さんの持ってる武力、と呼べるものは実質フェンリルだけ。そのフェンリルを統括する真田さんは、寧々さんに執着してる。あなた方がそれを利用しないはずがない」
「おれらは、香澄さんとうまくやっていくつもりだよ」
「そうでしょうか。門馬さん、あなたはなにか、タイミングを待ってます。魔女と悪魔がそろってこの町に現われること。それを待ってたんじゃないんですか?」
「あのな」と、門馬は呆れ顔で姫里を見た。ブルドッグでもなければドーベルマンでもない。どことはいえないが、やはり狼の顔だ。
「そんなドヤ顔で、思ったこと喋られてもな。おれは学校の先生じゃないんだから、『知らねーよ』としか答えてやれない。まぁ、その必死さに免じていくつか質問してやる。あんた、悪魔と契約するつもりか?」
「するつもりです。そう約束したからです。悪魔と魔女の約束は、決して破ることができないんだそうです」
「契約して、なにするつもりだよ。まずツインテールを殺すよな? それから?」
「さぁ」姫里はかぶりを振る。「契約したら、わたしは眠り男の人形になるんです」
門馬は乱暴に運転席の背もたれを蹴る。「どうすんだよ!」
眠り男はビクっと震えた。愛想笑いしてふり返る。「もちろん、カシラにこの町の支配者になっていただきますよぉ」
「てめぇ、ふざけんな! おれがいつそんなこと頼んだ!」
「落ち着いてください」
姫里がいうと、門馬は「ああっ?」と凄んだ。
「お前の婆さんを覚えてるよ。香澄がヒヨコに見えるくらい残忍な魔女だった。仲間がたくさん死んだよ。あんたの婆さんに殺されたんだ。おれの血族もあんたの婆さんと、この男に血祭りにされた」
「仇を取りますか?」姫里はいい返す。「わたし、絶対に謝りませんから。むしろ、おばあちゃんを誇り——」
門馬が冷然と、姫里を平手で打った。
姫里はとっさに、ヘアピンに手をやろうとした。しかしその手が動かなかった。手首を、門馬に強く握られている。左手は自由だったものの、動かせないと感じた。
「学校の先生じゃねぇっていったろ。じゃれてこねぇで、ハラワタの底を見せろ」
「あんたたちなんか知らない、好きにすればいい」姫里は門馬を睨んだ。「伯爵だって、香澄って人だって、どうでもいい。わたしは、あの小悪魔を殺す。けじめだから殺す。わたし以外、誰もあのツインテールは殺せない」
「魔女はおまえだけじゃねぇよ」
「この町のために命をかける魔女はわたしだけです。嫌ないい方しますけどね、香澄さんは老齢だから先は長くないですよ。香澄さんが衰えれば、ツインテールがどうなるか、誰も予想できない。ツインテールが暴れ出したら、あなたたち死にますよ」
「どうかな。あの婆さんは先々のことまで目が利く。少なくとも、あんたよりは」
「目を利くとしても、寿命は確実にやってくる。だったら、門馬さんの交渉すべきはあの人じゃない。わたしたちのはず。わたしと眠り男は、近日中に契約します。わたしたちは、犬目組の人狼さんたちと仲良しになってあげてもいいです。約束してあげますよ。いいよね、眠り男」
「あっ、うん」眠り男はビクビクしている。
「そんな約束、どう信じればいい?」
「どうすれば信用するんですか? 一筆書きます?」
「質問に、正直に答えたらあんたのいうこと信じてやる。嘘ついたら、ここで殺したっていい。香澄が喜ぶからな。あんた、寧々を捜してどうする?」
「寧々さんと一緒にいるひとに、ヤモリ女の居所を訊ねます」
「なぜヤモリ女を捜す?」
「なぜって……仲間だから」
姫里は門馬を見返した。
門馬は握っていた姫里の手首を放した。姫里は赤くなった手首を左手でさすった。
「納得できねぇな」
「ぼくらを信用したほうがいいですよ」眠り男がいう。「悪魔はですね、門馬さん、約束を破りませんよ。悪魔は、力を必要とするモンスターに力を与えるだけなんです。誰でもいい。悪魔の力を欲しいひとが、早い者勝ちで独占できる。かつては伯爵が独占した。門馬さんがひと言、犬目組のために働け、と命じてくれればいい。伯爵を殺せ、でもいい。ぼくらは従う」
「誰が!」と、門馬は運転席を蹴る。
「てめぇに!」蹴り続ける。
「喋れっていったよ!」さらに蹴りまくる。アコードの運転席がきしみ、嫌な音がして壊れた。さすがに人狼は、力が凄い。
「ちょっとお話ししたかっただけですよぉ」
ふり返った眠り男の額から血が出ている。
門馬は、首をひねって骨を鳴らす。スマホを取り出した。
電話をかけた相手は寧々さんだった。
ホンダ・アコードは鍵を抜いて、高架下の駐車場に置いていくことになった。
姫里と眠り男は、ベンツの後部座席に招かれたのである。門馬を真ん中に挟んで、姫里と眠り男は乗りこんだ。
ベンツが発車してから一分足らずで、目的地に到着した。高級そうなマンションの地下駐車場だった。
「部屋は八○二号だ」
姫里と眠り男が降りると、門馬は教えてくれた。
「一応いっとくが、おれらの仲間は伊豆にもいるよ。いってる意味わかるな?」
「わたしの母に──」
門馬は姫里の鼻先でドアを閉めた。
ベンツは静かに、駐車場を出ていく。
いますぐ母親に連絡して、身の回りに注意するよういうべきだった。しかし母親に電話すればすべてを説明しなければならなくなる。眠り男の前でそれはできない。
とにかく出入口へ向かった。オートロックの操作パネルで、八○二号のインタフォンにつなぐと、女のひとの声が返ってきた。
「星谷ちゃん?」
寧々さんの声だ。
「おひさしぶりです。星谷です」
インタフォンの向こうで、爆笑する声が聞こえた。
「ひさしぶりだね。入って入って。シロエリいるから」
「眠り男も一緒なんです」
「うん、見えてるよ。連れてきて」
どこかにカメラがあるらしい。自動ドアが開いた。エレベーターホールへ向かいながら、眠り男をふり返る。シロエリさんと会えるのでニヤニヤしているだろう、と思っていたが、眠り男はなにか考えこんでいた。
部屋に迎えてもらって、リビングに案内された。再会を喜びあったあと、姫里はまず、自分の身になにが起きたかを寧々たちに話した。リビングのカーペットの上である。眠り男と契約する約束を交わさざるを得なかった、というと、あざみ野寧々は小さく笑った。
「星谷ちゃん、真面目すぎっしょ。そんな約束なら破っちゃいなよ」
「でも、約束も契約のひとつらしくて──」姫里は説明する。
「いやいや、殺しちゃえばいいっしょ。悪魔って不死だけど、殺せないわけじゃないらしいよ?」
寧々の言葉を聞いて、姫里は眠り男に目を向けた。
「そうなの?」
「そういう、若者の短絡的な発想ってどうかな」眠り男はいった。「明瞭な契約違反だよ? 約束を果たせなければ、返って姫里が苦しむ。姫里はぼくの転生先を捜す一生を送ることになるよ。悪魔と魔女の契約って絶対だからね、小手先じゃどうにも出来ない。だいたいさ、ぼく抜きで小悪魔をどうにかできるの?」
眠り男はちゃんと事態を理解している。確かに、眠り男はこの現状に対する唯一の希望といって良かった。もっとも姫里は、そしらぬ顔で寧々に頭を下げた。
「寧々さん、ありがとう。いざとなったら寧々さんの方法を試します」
「おう、ばっくれちゃいなよ」
姫里は、シロエリに向き直った。ヤモリ女のことを聞きたかった。
「あの日ね——」
シロエリがいう。
白い狼に変身したシロエリは、ヤモリ女の身体をくわえて、ボウリング場の裏の林の中に引きずりこんだ。ボウリング場の裏は斜面で、上の道路に続いている。シロエリは変身を解き、隠しておいた自分の衣服を着て、廃ボウリング場の駐車場まで戻ったのである。ヤモリ女を林の中に寝かせたまま。
香澄と小悪魔、フランケン・シスターズは建物のなかで、なにか話をしている様子だった。シロエリはすぐに車に乗り、ボウリング場を出た。香澄たちの車が追いかけてくる気配はない。産業道路まで出てから左折を二度繰り返し、区画を半周してボウリング場の裏の道、ヤモリ女を寝かせた辺りまで急いだ。五分もかからなかったはずだ。
「だけど、どこにもいないの。血の跡はあった。なにより匂いがあった。ヤモリ女さんを寝かしておいた辺りで匂いが切れてた。わたし、捜したんだよ」
ヤモリ女は消えてしまった。それ以来、見ていないという。
「星谷ちゃん、いいたかないけど」と、寧々がいう。「姐御、香澄に捕まったんじゃね? お屋敷の座敷牢に放りこまれてるとかさ。じゃなきゃ、伊豆っしょ」
「そうかも、ですよね」
マリリンとの同期で、ヤモリ女が捕えられていないことはわかっている。そのことを伝えたかったが、いえない。
同期したことを眠り男には悟られたくない。
姫里は窓のほうに目をやった。広々した部屋である。南側は全面、窓というロケーションなのに、寧々さんたちはブラインドを下げている。ベージュ色を基調とした、品のいい家具や壁紙は、そのせいでくすんで見える。
外はまだ明るい。暗くなる前にはヤモリ女に会いたい。夜になったら、もう一度マリリンと会う──そういう約束だ。
「おまたせ」キッチンにいたクロエリが、弾んだ声でリビングにきた。お皿を持っている。「焼きそばっすよ、焼きそば」
みんなで、食べることになった。
キャベツと、切ったウィンナーが入っている。
「すごくおいしいです」
姫里がいうとクロエリは笑顔になった。「だろー?」
「姫里ちゃん、お母さまに聞いてないの?」シロエリさんがいう。「ヤモリ女さんが伊豆にいるかどうか」
「聞いてません。でも、ヤモリ女はおそらく市内にいます。わたしと眠り男の消息を確認しないうちは、伯爵のところへ帰れないはず」
「下手に伊豆に連絡しないほうがいいかもな。吸血鬼どもが騒ぐから」寧々がいう。「おふくろさんをまた人質に取られるかもよ。そしたら伯爵のいうこときかされる……でもさ、おふくろさんに、メールで生きてることくらい教えてあげたら? いや、別にどうでもいいけどさ」
「なんか、ありがとうございます。メール送っときます」
姫里は答えて、きゅうに気づいた。考えてみれば、変だ。母親からの連絡がない。娘が行方不明になっている。失踪してまだ一週間だ。つながらないとわかっていても、頻繁に電話したくなるものではないだろうか。
「わたし、馬鹿だ。スマホだ」
いちはやく焼きそばを食べ終えていたので、姫里はスマホを取り出した。
「ヤモリ女は市内にいるはず。わたしと連絡を取ろうと、いろいろ試してるはず」
母親からの着信履歴がずらりと並んでいる。着信履歴はファーストフード店でざっと見たので、母が連絡してくれていたことは知っていた。しかし、着信日時までは確認していなかった。
思った通り、失踪から二日の時点で、母親は電話するのをやめている。
──ヤモリ女だ。
ヤモリ女が、母に電話したに違いない。娘のことは任せろ、と、ヤモリ女は母を説き伏せたのだろう。下手にスマホを鳴動させて、バッテリーが切れることを恐れたのだ。
バッテリーが切れた後の着信履歴は、キャリアのメッセージサービスに記録される。姫里は慎重に確かめた。津村怜と花豆智美が、交互に電話してきてくれていた。
これだ。怜と智美からの着信は規則的だった。平日朝の八時半ごろに、怜ちゃんからの着信。夕方五時すぎに智美ちゃんからの着信。それが繰り返されている。
「最初からスマホ確認しとけば良かった。ヤモリ女の居場所がわかったよ」
顔を上げると、みな口を止めて姫里を見ていた。
「どこ?」シロエリが訊く。
「わたしの学校」
「星谷ちゃん」
寧々はいった。「門馬さんにいわれてるから、クロエリを見張りにつけさせてもらう。運転手に使ってくれていいから。クロエリ、護衛たのんだぞ」
「了解っす」クロエリはいった。
姫里が狼女の三人組にお礼をいうと、
「いや、全然」寧々さんは手をふった。「わたしら別に。あんたさ、香澄の小悪魔と闘うんだよな」
「そうなります」
「無理しなくていいよ」寧々さんはニッと笑った。「無茶苦茶なやつなんだろ? あんたが責任を負う必要はないしさ。逃げちゃえよ」
姫里は寧々の言葉が嬉しかった。「ありがと」と、くだけたお礼になってしまった。
「わたし、でも、やれるところまでやって、それから逃げたい」
「そっか」
姫里はほとんど発作的に、寧々の肩を抱いた。小声でいう。「真田さんに気をつけて」
寧々が肩でうなずいたのがわかった。
クロエリと眠り男とともに、エレベーターで地下駐車場へ向かった。
車は、フォルクスワーゲンのバンだった。まるっこくて可愛らしい、フロントの白いV字が特徴的な、小型バスみたいな車だ。クロエリが運転席に座る。
「これ、たまに道で見る可愛いやつだ」
姫里がいうと、クロエリが笑った。
「ワーゲンバス。しかもタイプ 2。あずかってる車なんすけどね」
左ハンドルを握っているクロエリの様子は楽しそうだ。車は出発した。
姫里は後部座席だ。車の中で、怜に電話した。
二回目のコールで津村怜は電話に応答した。
「怜ちゃん、わたし──」
『やっと連絡くれたね。ヤモリ女さんの居場所を知ってる。正門のあたりで待ってて』
事務的な事項だけ伝えられて、電話を切れた。
「クロエリさん、学校の正門──ヤモリ女、生きてるって」
車の速度が緩む。クロエリがバックミラーを動かして、姫里の顔を見た。
クロエリは、姫里を見て戸惑ったように見えた。
「泣いてんの?」
姫里は手のひらで涙をぬぐった。「泣き虫なんです」
「百合校だっけ?」
「そうです」
「じゃ、急ぐっすよ」
「ありがとう、クロエリさん」
姫里はスマホを操作して、伊豆にいる母親にメールを送信した。
『仏壇の花を摘みに、高原台へいく。ヤモリ女に確認して』
よく送迎の車が縦列駐車している、正門前の道の向かい、木陰のなかにクロエリは車を止めた。一時間半ほど待ったろう。
助手席の眠り男が、女子高についてのなにか話し始めた。クロエリがすごく怖い声であいづちを打って、その話は尻つぼみになった。
授業の終わる時間になり、正門にひと影がちらほらし始める。学校の敷地内がにぎやかになったようだ。
怜と智美がやってきた。駐車している車が少なかったせいもあるだろう。ふたりはワーゲンバスにまっすぐ近づいてきた。姫里はなかからドアを開けた。ふたりは乗りこんできて、姫里を見つめた。
姫里はふたりを抱きしめたい衝動に駆られた。しかし、そんな間柄じゃない。
「ありがとう。——ありがとうっていっていいの?」
姫里は距離感を掴めずにいった。
智美がなにもいわずに姫里を抱きしめてくれた。目尻の垂れた、どちらかというと大人しい子だ。智美は泣いているのだ。
「月曜の朝、バス停にいたら突然話しかけられた」怜が頭をかきながらいう。その仕草が癖なのだ。「なんか、姿の見えない女の人にね。名前を聞かれたから教えたんだよ。そしたら、姫里が危ないから力を貸せ、っていわれて」
ひどい怪我をしているヤモリ女を、怜と智美は学校へ連れていった。旧部室棟の空き部屋に隠れ場所を作り、食料を運んだ。朝の授業前、昼休み、放課後と見舞った。ヤモリ女はその際、怜か智美の携帯で姫里の携帯に着信を残した。
「本当はね、手を貸したりすべきじゃなかった。ヤモリ女さんがあなたの名前を出さなかったら、無視してたかもしれない。でもね。姫里のことは、わたしたちにも関係あるって、どうしても思っちゃって。智美は迷わなかったけど、わたしは今でも、どうすれば正解だったのかわかんないよ」
姫里は車の中にあったティッシュで智美の涙をふきながら、笑顔を浮かべた。
素直に嬉しかった。ふたりは、自分と同じことを悩んでくれた、と思った。
「わたしも、ふたりと友達になりたくて馬鹿なこといっちゃった」
「わたしら馬鹿なんだよ、きっと」
怜がいう。女子高生たちは笑いあった。
「それでね、姫里。二年生に人狼の先輩いるでしょ? あの人たちが、わたしと智美のこと怪しんでる。ヤモリ女さんのことがバレたら困るから、昨日の夜、ヤモリ女さんを学校から逃した」
「その先輩ってあれ?」運転席のクロエリがいった。
クロエリが窓の外を見ている。
姫里もクロエリの視線の先を見た。校門のあたりに、人狼の女子高生がふたり、人間の女子高生と話している。人狼女子高生は、チラチラと車のほうをうかがっていた。
「そうです」いったのは智美だ。「あの先輩たち、小雨町のフェンリルっていうグループです。姫里ちゃんだけじゃなく、城山さんとあざみ野さんのことも搜してますよ」
「へぇ。じゃ、挨拶してこよ」クロエリがドアに手をかけた。
智美があわてて身を乗り出した。「待ってください、駄目です。百合高は後家蜘蛛の土地ですから。わたしたちがきっちりやります。姫里ちゃん、先輩たちの目をそらすね。その隙に逃げて」
「姫里、鼻に触るよ」
なんのことかわからず黙っていると、怜は手を伸ばしてきて姫里の鼻をつまむ。指についた脂を自分の鼻にこすりつけている。
「あなたが悪魔さんですか?」怜はさらに、眠り男に話しかける。
「どうも、眠り男です」
「そのシャツを智美に貸してもらえます?」
「全然いいよ」眠り男はネルシャツのボタンを外しはじめる。「ぼくのファンなの? 体臭がたっぷり染みついてるから期待して」
Tシャツ姿になって、眠り男は智美に笑いかけた。智美は伏し目がちにお礼をいった。智美は、受け取ったシャツに袖は通さず、肩にかける。
「どうするの?」姫里が訊くと、怜が外を見ながら答えた。
「先輩たちを化かす。さっきので、先輩たちはわたしたちのことが、姫里と悪魔さんにしか見えないはず」
「そんな、大丈夫?」
「どうして? 平気だよ。本職だからね。鼻の利く相手ほど化かしやすい」怜は口唇をなめた。「後家蜘蛛は人狼にも吸血鬼にも、遠野香澄ってひとにも従わない。姫里、あんたのためにやるわけじゃないよ。うちらは揉め事を外でやって欲しいだけ。それとね姫里、ヤモリ女さんから伝言がある。『ヒトラー』だって。それで通じるって」
「わたしたちは大丈夫」可愛らしい丸顔の智美がいう。「姫里ちゃん、くれぐれも気をつけて」
「ありがとう、ふたりとも」
「姫里ちゃん、契約、しないよね?」
智美の問いに、姫里はうなずいた。今までで一番強烈な頭痛を感じたけれど、眉ひとつ動かさなかった。
「智美」
津村怜がワーゲンバスのドアを開ける。
ふたりは車から降りてドアを閉める。ガラス越しに見るふたりの姿が、姫里と眠り男にそっくりだった。というより、そのものだ。変身したのだ。
校門近くにいた人狼女子高生の目の前を、変身した怜と智美が悠然と歩いていく。二人組の人狼は、話をしていた女子高生に別れの挨拶らしい仕草をしてから歩き出した。うつむきながら、後をつけていく。
「姫里」
クロエリに声をかけられて運転席を見た。クロエリはサイドミラーを見つめている。
ミラーのなかに、セーラー服に青いネルシャツをかけた智美と、怜が写っていた。
クロエリはエンジンをかけて、静かに発車した「お前、契約するんじゃなかったの?」
「します」姫里は答えた。
しかし智美に嘘をいったつもりはない。むしろ一番、正直なところを答えたつもりだ。契約はする。せざるを得ない。だが姫里は、眠り男のいいなりになるつもりはない。
「クロエリさん、
時計を見ると午後四時半になっていた。
学校の校門前で待っている間に、近くのコンビニで買ったハンバーガーを食べたので、まだお腹は空いてない。
クロエリは、学習塾の看板のかかるビルのそばに車を停める。
姫里は車から降りて、ワーゲンバスに寄りかかり、ビルを見上げる。
待っていると、まもなく、ビルの出入口が開閉する。帽子をかぶった女があらわれた。キャスケットを目深にかぶった女である。薄手の半袖ニットとスキニージーンズという格好だ。
一瞬、わからなかったが、間違いない。
姫里はヤモリ女に駆け寄った。問答無用でヤモリ女に抱きついた。ヤモリ女は、うんざりした目をしているだろう。姫里はその隙に、ヤモリ女のデニムお尻のポケットに手を回した。指先に紙の感触をおぼえ、それを抜きとる。思った通り、ヤモリ女は長野で見つけた手紙を、前の服と同じポケットに入れていた。姫里はすぐさま、セーラー服のスカートのポケットに手紙をねじこんだ。
うまく出来るか心配だった。
しかしヤモリ女が、姫里の行動に気づいた様子はない。
「遅かったな。よく生きて出てきた。そこだけ褒めてやる」
「怪我は——?」
姫里は身体を離した。ヤモリ女の肌が白い。すぐにヤモリ女と気づかなかったのはそのせいだ。日本人の白さじゃなく、白人の白さとも違う。向こうが透けるような青白さだ。髪は金色の光沢のある茶色で、瞳は北欧の人みたいに青い。
カメレオンのように皮膚の色を変えられる、という話だった。つまり肌色を変化させて白人女性に変装したに違いない。
事実は違った。
「怪我なら平気だ。話してなかったか? わたしはヤモリ女だから、トカゲの尻尾みたいに、ある程度は再生能力を持ってる。いつも細胞を入れ替えてるから、わたしは寿命が長いんだ。ただよぉ」
ヤモリ女はため息をついた。
「ショックで脱皮がはじまっちまって。この有様だよ。二週間くらいで元の黒さに戻るけどな」
「脱皮するんだ」
「するんだよ。ヤモリ女だからな。わたしは、これがあるからタトゥーを入れられないんだ。格好つかねぇったらねぇよ。おまえは? 大丈夫だったか?」
「わたしは全然、平気。怜ちゃんたちに助けを求めたんだね」
「謝礼はしてやるつもりだから怒るな。おまえならあいつらと必ず連絡を取るだろ? そこが狙い目だった」
「なるほど、確かに。だいぶ遠回りしちゃったけど。あとね、シロエリさんが心配してたよ」
「あいつ無事なのか」ヤモリ女はいう。
三日前、シロエリが車を取りに戻ったのを見て、ヤモリ女は近くの木に登った。シロエリとは別行動をとる必要がある、と思ったらしい。シロエリはしばらくして戻ってきて、半べそをかきながらヤモリ女を捜していた。
「ま、すぐに見切りをつけて引きあげてったよ。あいつは長生きするタイプだな。んなことよりだ。姫里、眠り男は——いるな」
姫里が振り返ると、眠り男とクロエリが車から降りてそばにいた。
「よぉ眠り男。相変わらず馬鹿みたいな顔だな。そっちはシロエリの妹だったな」
クロエリがうなずく。
「寧々に伝えろ。伯爵はもう香澄と手打ちだ。わたしは姫里と眠り男を連れて、伊豆へいく」
「いやぁそれが……」クロエリは口ごもって、姫里に目を向けてくる。
「ヤモリ女、事情が変わった。わたしが小悪魔を倒す」
ヤモリ女は目を細くする。
「いいか、わたしらは尻尾巻いて逃げるんだよ。月夜市は捨てる。ミサさんももう、そのつもりだ」
「いかない」
「いくんだよ」
「いかない。わたしが小悪魔を倒す」
「勝てんのか? あの小悪魔に。勝てないよな。勝てないんだよ、誰も。やつに挑めば、挑んだ人数だけ死ぬことになる」
「勝てる」
ヤモリ女は、眠り男を見る。「駄目だ。それは許さない」
「ヤモリ女、伯爵はこの町を統治する時、魔女と悪魔を利用した。伯爵はきっと、新しい土地で同じことをする。今度契約させられるのは多分わたしだよ。結局同じことじゃん」
「馬鹿が。契約なんかしたら、ただじゃ済まねぇぞ。この中に善人がいるか? 善意でなにかしようってやつがいるのかよ。おまえもだ、姫里。わたしたちは怪物だ。自分じゃどうしようもない冷酷さがお前の中にもある。それが、わたしらの本性だからだ」
「けど、あなたはわたしを見放さなかった」
「信じた、とでもいうのか、わたしを?」ヤモリ女はせせら笑った。「おまえはなんにも信じちゃいない。わたしに、もたれかかってただけだ。おまえは人一人殺したことない。わたしのことはおろか、おまえは自分のことだってわかってない。契約したら、お前はこの世で一番残忍な化け物になる。ならざるを得ない」
「わたしを信用しないんだね。いいよ。しかたない」姫里は一歩、ヤモリ女に近づいてささやいた。「わたしを信用しないで」
「姫里、やめとけ」
「ヤモリ女、わたしはいくよ。眠り男」
姫里はヤモリ女に背中を向けた。眠り男はそそくさとついてきた。
「姫里、どうかしてるぞ」
姫里は歩き続ける。ふり返らないと決めている。
──姫里!
歯をくいしばってヤモリ女の声を無視した。走って逃げ出したかった。しかし姫里は歩いた。
「いくな! 姫里」
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