第四章

4-1

 宵町にも、意外にいい店がある。

 平凡なショットバーだが、陰影の感じが完璧だ。吸血鬼好みの影を作っている。吸血鬼にとっては、蝋燭ろうそくの灯りでさえまぶしくて目障りだ。

「すぐ出てくよ」

 アオジタは図々しくバーテンにいった。飲むつもりはないので、チャージ料金のたぐいを支払うつもりはない。

「おれはジントニック」黒沼がいう。

 カウンターの席に門馬がいる。ヤクザ体型、とでもいいたくなる固太りの背中を丸くしている。この男は人狼だ。

 アオジタは黒沼と、犬目組いぬめぐみの若頭を挟んで座った。

「門馬さんたちが参与してる若い連中、いるでしょ? フェンリルとかいう」気安い調子でアオジタは話しかけた。

 門馬は無表情で、水割りに目を落としている。

「もう聞いてます?」

「聞いてるよ」門馬は答える。「うちで可愛がってる女の子ちゃんが教えてくれた」

「あざみ野寧々ねねって子かい?」黒沼がいう。「可愛いよな、あの子」

 バーテンがやってきて、黒沼の前にグラスを置いた。「ジントニックです」

「席、移っていいかな」

 黒沼はカウンターの端まで移動して、バーテンを手招きした。

 そのままバーテンと、なにやら世間話をはじめた。

 それを見届けてから、

「なんだって眠り男を盗むような真似したんです? なにするつもりで?」アオジタは門馬に詰めよった。

「知らんよ」

「そりゃ困りもんですね。知らんってこたぁないでしょう」

「やつらが勝手にやったことだよ」

「通らんでしょ、そんなの」

「あざみ野寧々は」若頭は顔を上げた。「眠り男を高原台に渡すつもりだったみたいだよ。おたくの執事さんと話したっていってたな。おまえらが身内でごちゃごちゃしてたせいだろ? 寧々が誘拐されたのは」

「でも──」

「おれらが悪魔の身柄を欲しがってたとしよう。寧々はおれらの事務所にその悪魔を連れてくるはずだろ。高原台に連絡なんかせずに」

「いや、でも、ボーンズはともかく、フェンリルは高原台に悪魔を引き渡すつもりはなかった。そうでしょう? おたくの犬がひとを咬んでんだ。その責任は飼い主にあるはずでしょ」

「指でも持って帰るかい?」

「よしてください、こっちはヤクザじゃねぇんだ」

「いっとくけど、フェンリルってのはうちの枝とか、そういうのじゃないよ。地域の若い連中が入る、ゆいというか、ようするに群れを学ぶ場なんだ。うちの親父が、伯爵をゴルフに誘って、そのへん説明すると思うよ」

「そんなので解決しませんよ。フェンリルのリーダーはどこです?」

真田寛治さなだかんじだろ。もうリーダーじゃない。今、手分けして捜してるところだよ。聞いていいか?」

「もちろん」アオジタが答える。

「あいつをどうする?」

「そいつが、なにをしようとしていたか、によりますね。ただ、大した役回りじゃなさそうだ。黒幕みたいなのがいたはずなんですよ。その辺のことを聞かせてもらわないと」

「ちゃんといえよ。寛治をどうする? おれらには、あんたらと違って血筋ってもんがある。寛治ってのはなかなか、いい血統つけてんだよ。寛治をシメるのはいいんだが、それ、うちに任せてくれねぇかな。おれなら、形を作って八方丸くおさめられる」

「門馬さんなら、どんな形でも八方丸くするでしょうよ。実際のとこ、寛治ってのは誰にいわれて眠り男を横取りしようとしたんです?」

「知らんよ」

「遊んでる暇なんかないですよ。この事件、伯爵は重く見てる。間違いなく高原台への叛逆はんぎゃくですよ、これ。謀反人はどうしたってそりゃ——交渉の余地なんか考えて欲しくないですね。門馬さんがしっかりしてくれなきゃ、おたくの事務所だってどうなるか」

 門馬はため息をつく。「ヤモリ女だってな。その悪魔に手こずったの」

「手こずる? 結局は捕まえたでしょ。結果は出しましたよ」

「かばうのか。アオジタくんにしちゃ珍しいな。陰口ばっかいってたろ」

「実力については認めてますから」

「仲良しになったか。いい女だよな。ケツがいいよ」

「違いますから」

「さっきいった、あざみ野寧々。あれを危険にさらした責任を誰かがとってくれないと。話にならないよ」

「ヤモリ女に詰め腹切らせるんですか? 難しいでしょうね。彼女がいなかったら、今回は本当にヤバかった。とはいえ、まぁ、しかし。考慮はしますよ」

 アオジタは内心で、舌なめずりする。

 門馬は小さくうなずいた。

「たぶん、香澄さんだよ。黒幕は」

「香澄さんって、あの香澄さん?」

「あの香澄さん」

 香澄さんは、モンスターに資金を融通する金主の一人だ。

 二年ほど前から、フェンリルの面倒も見ている。

「香澄さん?」アオジタは衝撃をゆっくり呑みこんだ。「なに考えてるんです? 冗談じゃない、あの頃のこと、まだ根に持ってるのか?」

 遠野香澄は魔女だ。

 若い頃は、涼やかな印象の美女だった。艶のある黒髪を小さな頭にまとめて、腕組みして背中を反らせる、気風のいい様子をよく覚えている。

 若いころは、樽池たるいけの魔女、と呼ばれていた。

 古森町の魔女と同じく、十六世紀ごろ日本に渡ってきた魔女の末裔だ。

 その樽池の魔女が、古森町の魔女・星谷アキと激しく争った。

 男を取りあったのだ。しかもその男が伯爵ときた。

 伯爵の愛を独占したのは、古森町の魔女だった。星谷アキは悪魔——眠り男と契約した。伯爵のために力を振るった。伯爵を月夜市の覇者に仕立てあげた。

 アキと伯爵は、華麗に成功の階段を駆けあがっていった。

 その影で、香澄さんはひっそりと街から姿を消した。

 人間の医者と結婚した、とアオジタは聞いている。子宝には恵まれなかったそうだ。そのまま一生を終えるものと思っていた。

 だが星谷アキの死後、驚くことに、香澄さんは月夜市に帰ってきた。旦那を亡くしたのをきっかけに、老後のたくわえを利殖したいから、と香澄さんは高原台に挨拶にきた。すっかり脂っ気が抜け、人柄も丸くなったようでニコニコしていた。

 アオジタは、時の無情にしみじみしたものだが。

「香澄さん、今どこに? 捜してるんですか?」

 アオジタは門馬の顔をのぞきこんだ。

「姿を消しちまったよ」

「心当たりは?」

「ぜんぶ調べた、けどな」門馬は首を横にふる。「最初から、こういう計画だったんだろ」

「仲間は? どいつが関わってるんですか? 犬目組は大丈夫でしょうね?」

「心外だな。うちは飛ばっちり喰ったほうだよ」

「通りませんよ、それ」

「通るよ。香澄さんをおれらに紹介したの伯爵だからな。その香澄さんがうちの若い連中をたぶらかした。叛逆、とか息巻く前にやることやれよ。伯爵に伝えてくれ。血族はみんな本気で怒ってる。女の始末くらいてめぇでつけろって」

「聞かなかったことにしますよ。とにかく頼みます。寛治と、寛治といっしょにいた人造人間、それと──」

「香澄さんな」

「協力しないと乗り越えられませんよ、ここは。ヤモリ女の件は任せてください」

「それと寛治だ。うちであずかる」

「あのね、門馬さん——」

「きっちり始末をつけるよ。みんなが満足できるように」

 門馬の目が本気だった。

  覚悟はできているらしい。

 カウンターに置いてある木製の小洒落た名刺入れから、店の名刺をめくり取った。『BAR・パイソン 静けさとくつろぎ』と印刷されている。門馬に携帯番号を訊く。門馬は鼻に小じわを寄せて答えた。

 アオジタはボールペンで名刺に番号を書き留め、呼びかけた。

「黒沼、いこう」

 黒沼はジントニックを飲み干して近づいてきた。

「深沢さん、最近見ないけど、変な噂聞いたぜ」黒沼がいう。

 門馬は鼻を鳴らした。

「ヒグマじゃねぇだろうな」

「それそれ。事実はどうなの?」

「デマだよ。深沢さんのことは本当に心配なんだ。居場所を知ってたら教えてくれ。噂は、誰から聞いた?」

「さぁな。千葉のカツ丼屋のバイトの妹さんだったかな。おれら、いくわ。それじゃ」

 黒沼はズボンのポケットに手を入れて、出口の方へ歩いていく。

 店を出る前に、アオジタは門馬を振り返った。

 いらついている気配はない、門馬は静かにグラスを見ていた。


 いらついてはいないものの、面白くもなかった。

 面白くないことなんか、こと足りている。

 なのにどうして一度に殺到してくるのだろう。

 ウィスキーをあおりたかったが、門馬はそういう飲み方をしない。時間を決めて、少しずつ、長すぎる間を埋めるように飲む。

 男がやってきた。門馬の後ろに立った。

 店の暗がりにいた男だ。門馬に背中を向け、一人で飲んでいた。顔にひどい傷跡があるはずだ。黒沼がいっていた噂は、半分は本当のことだ。

「ひやっとしたぜ」男は門馬の隣に座る。「黒沼の野郎、なんだっていきなり、おれの名前を出しやがったんだ?」

「聞こえてましたか」

 深沢の顔を見た。ヒグマの爪痕が白く斜めに走る、ひどい顔だ。

 この店に入った時いるのに気づいたが、門馬は話しかけなかった。こっちから切り出すような用事はない。あるとすれば向こうのはずだ。

「耳も鼻も衰えてねぇよ」深沢はいった。

「黒沼なんぞ気にするこたぁない。たぶん偶然ですよ。まぁでも、深沢さんまでたどり着くかもしれませんよ。高原台が本気を出しゃあね」

「ヤモリ女を追っ払おうとしてたな。ありゃなんだ?」

「あの女は、ちゃらんぽらんだけど急所は握って放さないんですよ。このまま真ん中に置いとけば、きっとおれ達を攻め立ててくる。その点、アオジタなら話が出来ますからね。さっきみたいに互いをつつきあって、なぁなぁな雰囲気にも持っていきやすい」

「芸が細かいんだな」

「いま攻められるのはマズい。こんな風に人狼たちが二つに割れてる時に。銀蔵さんのおかげで大迷惑ですよ」

「銀蔵さんを悪くいうな。おれの肉親も、血のつながった兄弟もみんな、高原台の外道どもに殺された。何人も死んだんだぞ。伯爵と眠り男、それと古森町の魔女だ。あいつらはガキだったおれを椅子に縛りつけ、おれの目の前で父親を吊るしやがった。親父の悲鳴を忘れさせないためによ。あの日以来、おれの涙は涸れたよ」

「何度も聞きましたよ、その話。そういう戦争をして、おれらは負けた。だいたい、悪魔なんかどうするつもりだったんですか? 契約させようにも、魔女がいないでしょう。香澄さんには娘もいなけりゃ孫もいない。唯一の親戚の姪は、九州に嫁いで幸せにやってる。まさか香澄さん本人が契約するつもりだったんですか?」

「いや」

「そうでしょうね。魔力は健在でも、悪魔の力に耐えられる体力は残ってない。どっかから、うぶな魔女でも連れてきたんですか? ひょっとして、人造人間ってのが?」

「香澄さん以外の魔女はいないよ。人造人間は、ただの人造人間だ。魔女じゃない。香澄さんは自分の血を何度も与えて、魔女に仕立てようとしてたけどな」

「やっぱり、そういうことを考えていたわけだ」

 さしずめ、自分たちが眠り男をおさえれば、高原台を振り回せる、程度の発想だったのだ。その程度の思いつきで、ずいぶんなことをしてくれた。

「門馬、お前のじいさんや、叔父さんたちだって、星谷アキの魔法で頭つぶされてんだ。魔力がないって話だったアキの孫、やっぱり魔女だったっていうじゃねぇか。高原台に悪魔を引き渡してみろ。もう誰にも止められなくなるぞ」

「深沢さん、おれらはもう伯爵の側なんですよ」

「まだ負けてねぇ。勝負は終わってねぇ」

「情けねぇな」

「なんだと?」

「深沢さん、銀蔵さんに似てきましたよ。それが情けねぇ。香澄さんをふん縛って高原台へいってください。銀蔵さんはどこぞにでも逃がしてやりゃあいい」

「やなこった」

「寛治はどうなります? あいつはなかなか見所あるのに。甥っこでしょ?」

「もういくよ」

「寛治を事務所へ連れてきてください。人造人間をセットにしてくれたら悪いようにはしませんよ」

 深沢は席を立った。

 立ち去る背中を見て、深沢がまだ締まった体型を保っているのに気づいた。

 門馬は舌打ちした。

 門馬は、高原台のいいなりになった覚えはない。それなりのやり方で闘っている。

 銀蔵さんや深沢の気持ちはわかる。しかし、高原台の強さは兵力や武力じゃない。伯爵の統率力であり、政治力だ。

 吸血鬼どもは末端にいたるまで覇権維持の意志が充溢している。

 ──おれたちの群れはどうだ。

 バラバラじゃないか、と思うのだ。

 門馬はそれでも、深沢を自由に動き回れるようにしておく。深沢が今夜、ここに姿を現した理由は、犬目組に助けを求めるためだろう、と門馬は思っていた。深沢はそんなこと一言もいわなかった。ということは、

 ──まだ、なにかやるつもりだ。

 その結果を見極めてから、軸足の置きどころを決めても遅くはない。


 ゴールデンウィークが終わって、数日が過ぎた。

 姫里ひさとは軽い足取りで下校の通路を歩いている。

 雲の白さに厚みが増し、梢の緑が風を浴びて笑う。じきに春蝉が鳴き出すだろう。

 最近、環境が変化した。クラスメートに話しかけられた。

 友達になったっぽい。

 連休明けのことだ。

 津村怜、というクラスメートに「話がある」といわれて、ひと気のない場所までいったのだ。

 怜が人間ではないことは、入学当初から気づいている。

 ショートカットで、背の高い、格好いいタイプの子だ。スポーツが得意なのに、部活は書道部。教室では、いろんな子によく話しかけられるし、自分から話しかけもしていた。姫里と話したことはない。互いに無視しあっていた。互いが互いを、モンスターと気づいているにも関わらず。

「ちょっと噂を聞いたんだ。星谷さん、魔法が使えるの?」

 校舎の渡り廊下まできて、怜はいった。

 姫里はうなずいた。

「魔女ってこと、もう隠さないんだ」

「うん」

「なら、わたしたち友達になったほうがいいと思う。ひとりだと、なんか浮いちゃって、かえって目立つし」

 モンスターは、自分の正体を決して周囲の人間に知られてはいけない。目立って注目を浴びるような事態も避けなければならない。これはモンスターの重要な掟のひとつだ。

「わかった」

「二組に花豆って子いるでしょ? 花豆智美。あの子、わたしの友達なんだよね。あの子とも友達になってもらえる?」

「わかった」

「わたしと花豆は、後家蜘蛛ごけぐもの一員。花豆智美は狸で、わたしは狐」怜はニコリともせずにいう。「星谷さんは高原台だよね?」

「うん、多分」

「じゃ、教室に戻ろうか。適当に好きなものとか話そう」

「うん」

 教室に戻り、好きな映画とか、好きな漫画とか、いろんな話をしたのだった。

 ──うれじーよぉ。

 とりすました顔をしながら、姫里は内心で歓喜していた。

 ──化かされてたりして。狐だけに! 狐だけに!

 翌日も翌々日も、怜は友達でいてくれた。

 緊張しながらも、自分から話しかけると、怜は笑顔で応えてくれた。

 そしてきょう、姫里は週末のことを提案した。

「三人で、どっかいかない?」

 怜は不審そうな表情をした。「いいけど、どこかいきたいの?」

「どこっていうことはないんだけど、小雨町のショッピングモールとか?」

「わかった。時間どうしよう?」

 姫里の提案は受け入れられた。

 嬉しさを抑えようにも、こぼれ出てしまう。

「ただいまー」

 姫里は玄関の扉を開けた。

 この時間、母親はいないから、普段はそんなこといわない。

 ふと気配を感じて顔を上げる。

「おかえりー」母親が廊下の奥から歩いてきた。

「ただいま。お店は? どうしたの?」

「ちょっとねー」

 高原台に軟禁されてさぞ憔悴したかと思いきや、母親はツヤツヤした顔色で帰ってきた。眠り男によれば、若いころは水仙みたいな美人だったらしい。眠り男が、今のお母さんを見たら、なんの花に例えるだろう。

 今の星谷ミサは、小太りの、気の良さそうな主婦であり、レストラン経営者だ。

 眠り男の勝手な幻想を裏切る、母親のたくましさや、所帯じみた感じが、姫里には痛快だった。

「お店、閉めてきたの?」

「用事があって帰ってきただけ──機嫌いいみたいね。なんかあったの?」

「でへへ。ちょっとねー」

 リビングへ入ると煙草の匂いがした。

 ヤモリ女がいた。ソファにふんぞりかえってアイスをくわえていた。

「よほ、ひしゃと」

「あんた……」姫里は絶句した。

 ヤモリ女とは、もう関わらないつもりだった。

 祖母と眠り男が契約していた件、姫里は納得していない。

 アイスをくわえているこの女は、高原台のことを、正義、といった。

 正義を語って、魔女を一人喰いつぶし、自分たちの道具にしたのである。この人たちは信用できない。

 正直なところ、この件については母親にもいいたいことがあった。聞きたいことがあった。

 なんで、話してくれなかったのか。話す機会なんてたくさんあった。もやもやした気持ちを抱きつつ、姫里は口をつぐんでいる。

 今は親子喧嘩なんかしている場合じゃない。親子で団結して、高原台にそなえるべき時だ。

「なにしにきたの?」

「お前にさ、百万円やるって話あったろ?」

 ヤモリ女が手首を振る。アイスの棒が回転してゴミ箱で音を立てた。

「まぁ、寧々にも分け前をやったから、丸々百万ってわけにはいかねぇ。でも五十万だぜ。もうミサさんに渡してある」

「じゃ、用は済んだでしょ。帰ってよ」

「姫里!」

 キッチンから声が飛んでくる。

「だって!」

「怒ってるんだな」

 姫里はヘアピンを前髪から引き抜いて、手に握った。「なんの話?」

「アキのこと」

 台所で、果物の用意をしていたらしい母親が、手を洗ってリビングへやってきた。

「姫里、ヤモちゃんを責めるのは筋違いよ」

「どうして」

「ヤモちゃんはね、ずっと、一貫して、自分の立場を顧みずに、おばあちゃんを守ろうとしてくれていた。わたしは間近で、それを見てきたの」

 姫里は母親を見た。睨むつもりはなかった。けれど、目つきは悪くなっていたはずだ。自分だけがのけ者だった。 重大なことを聞かされていなかった。

 母親は蒼褪めた顔色で見返してきた。

 ヤモリ女の声がする。「なぁ、姫里。お前のばあさんな」

「うるさいな」

「真面目な話だから聞け。星谷アキが眠り男と契約したのは事実だ。わたしは反対したけどアキは本気だった。あの頃は、人狼と吸血鬼の抗争が始末におえない状況でな。アキはそれを止めようとしてた。アキは確かに、伯爵と眠り男にコキ使われたよ。奴隷にされてた。けどな」

 姫里はヤモリ女の顔を見た。

「けどな、アキはアキで、眠り男と伯爵の力を利用してた。操ってたんだ。月夜市を静かにするために。お前のばあさんは闘って、勝利した。わたしは近くで見てたよ。立派なもんだった。月夜市に今ある平和は、お前のばあさんの賜物なんだよ」

「だったら話してくれても良かった」

「今、話してんだろ?」ヤモリ女はいった。「想像はつくと思うが、眠り男は奴隷にした魔女の身体をもてあそぶ。悪魔との契約ってそういうことだ。アキは耐えた。闘ってた。お前なんて、ついこの間まで子供だったんだぞ。話す時期じゃなかっただけだ」

「姫里」母親がかぶせてきた。「ヤモちゃんは最後まで、おばあちゃんに味方してくれてた。わたしたちはそれを忘れちゃいけないの」

「わたしは感謝しない。できない」

 ヤモリ女は簡単にうなずく。

「お前の一族って頑固だからな。どうでもいいよ。それより、姫里。わたしを救え」

「なに? 救え?」

「力を借りてぇんだよ」

「わたしの話、聞いてた?」

「わたしは、北海道に飛ばされるらしい」

「……なんで?」

「知らねぇ。とにかく、左遷されるんだ。その前に、とりあえずあのフランケン・シスターズを捕まえたい。手ぇ貸せ」

「そんなこと——」

「シロエリが車の中でいってた、うわ言、覚えてるか。白い家がどうとか、丘の上の白い家は安全だとか、そんなこといってたろ」

 姫里は覚えていた。

「シロエリを問いつめたら、その白い家まで道案内できるらしいんだ。白い家は、長野にあるらしい。寧々たちに聞いたんだがな、あのマリリンとかいう人造人間、手をあわせて記憶を同一のものに出来るらしい。『同期』とかいってた。マリリンはシロエリと、記憶の一部を同期したんだ。シロエリに宿った白い家の記憶は、人造人間どもの記憶と見て間違いない。白い家にいけばなんかある。人造人間ちゃんが隠れてるかもしれねぇ」

「捕まえて、どうするの?」

「どうもこうもあるか。高原台に連れていくよ。伯爵はきっとわたしを見直す。左遷は取り消しになるはずだ」

「なら、いけばいいじゃん。どうして、わたしなんか。役に立つと思えないけど」

「おまえ、ボウリング場の壁に魔法がかかってる、とかいったらしいな。その魔法がなんなのか、ヒントが白い家にあるかもしれねぇ。魔法のことは、わたしじゃわかんねぇんだよ。おまえの力が必要だ」

「姫里」

 姫里はキッチンのほうを見た。

「ヤモちゃんに協力してあげて」

「嫌」

「ヤモちゃんは、ずっとわたしたちの味方だった。わたしが悪魔と契約せずにすんだのは、ヤモちゃんのおかげなの。それに──」

 母親はヤモリ女に視線を向ける。

「ねぇヤモちゃん、伯爵はひょっとして、姫里と眠り男を契約させたかったんじゃない?」

 再度ソファを見ると、ヤモリ女は舌打ちして顔をそむけた。

「だと思った。ねぇ姫里。ヤモちゃんは一度でも、あなたに契約しろって迫った?」

 ヤモリ女はそんなことをいわなかった。契約するな、と釘を刺されたくらいだ。

「なんで? 伯爵さんの命令に逆らうわけ?」

「うるせぇ」

「なんで? もしかして左遷ってのは、そのせいとか?」

「なにも今すぐ契約させろって話じゃねぇよ。いつでも使えるように準備させとけって話だ。嫌なら契約するな。わたしらは無理強いはしねぇ。できねぇ、おまえのばあさんと約束がある」

 姫里は言葉につまった。

 廃ボウリング場でのことを思い出す。ヤモリ女は眠り男を蹴り続けた。なぜあんなに取り乱したのか不思議だった。姫里に知られたくないことを、眠り男が漏らした。だから激怒したのか、と疑っていた。

「どんな約束?」

「うるせぇ」

「わたしの家族のことだよ?」

「う、る、せ、え」

「話してくれなきゃ、協力しない」

「高原台はな、アキに返しきれない恩義がある。伯爵はどう思ってるか知らないが、とにかく約束がある」

「それで?」

「うるせぇな」ヤモリ女はため息をついた。「ここだけの話にしとけよ」

 姫里はうなずいた。

「おまえの一族を、二度と悪魔と契約させない。それが約束。それだけだ」

 浅黒い肌をしたこの女は、その約束を守りたいらしい。

 無性に腹が立った。

「せっかく出来た友達と出かける予定だったんだからね」

 ヤモリ女ではなく、母親にいって姫里はリビングを出た。

 廊下でスマホを取り出す。

「もしもし。怜ちゃん?」

『姫里? どした?』

「ごめん、週末のことなんだけど、わたしからいい出しといて、本当ごめん、なんだけど、ちょっとどうしても、外せない用事が出来ちゃって」

『ああ、いいよ』

「ごめんね、本当」

『うん。別に、あんまり必要性、感じてなかったし』

「あんまり……必要性?」

『ああ、ごめん。なんていうか、いっておくけど、姫里のこと嫌いじゃないよ? 思ってたよりずっと話しやすいし。でも、わたしらって化生、あなたたちがいう、モンスターなわけじゃない? 要するに人間へのカモフラージュのために仲良しごっこしてるわけでしょ?』

「ああ……うん」

『もちろん、一人でいきづらいお店とかは付き合うよ? わたしも、お願いする場合があるだろうし。そういうギブ&テイク、みたいなほうが、結局、窮屈にならないと思うんだよね』

「そっか。わたし」姫里はとりつくろった。「中学の時、ひとりだったから。加減がね。そのへんのことが良くわかんなくて」

『ううん。気にしてない。智美にはわたしからいっとく。じゃあ、学校でね』

「うん」

 スマホを仕舞って少し呆然とした。

 大きな戸惑いがあった。

 ——なにこれ。

 この冷たい関係がモンスターのあり方なんだろうか。

 姫里は乱暴にドアをあけてリビングへ戻った。ヤモリ女を見下ろして、怒鳴り散らしてやった。

「おばあちゃんとは友達だったの!」

「あんだ?」

「うちのおばあちゃんと、友達だったの!」

「知るか!」ヤモリ女はバネが跳ねるように立ち上がる。「てめぇの知ったことか!」

「あんたに付き合ってあげる、感謝してよね。お役に立てなかったらごめんなさいだけど!」

「はいはい、どうもありがとうございます! 一泊すっから準備してこい、寝小便してもいいように替えの下着忘れんな!」

 姫里は怒りの火を絶やさないように、階段を駆けあがった。

 怒りが治まれば、落ちこんでしまいそうだった。

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