3-3

 アクション映画さながらに砂煙を立てながら、アコードは採石場の敷地に進入し、ドリフトで車体を、スーパーハウスの入口そばにつけた。

「ここにいろ」

 ヤモリ女は車を降りた。その姿が、ドアを閉める前に消える。

 光学迷彩、という言葉を借りているものの、ヤモリ女のそれはちょっと異様だ。ほぼ完全に姿がなくなる。服の皺の影や、肉体の丸みに生じる影、人間の形をした薄い影の縁どり、そういったものがない。丸ごと風景になるのだ。ただし、地面に落ちる影だけは残るらしい。

 影はスーパーハウスの扉を開いた。さらに影はスーパーハウスの中に躍りこむ。

 数秒を経て、実体を現したヤモリ女が、たたまれた衣服を片手に出てきた。

「眠り男はいない」後部座席のドアを開けて、ヤモリ女は衣服をシロエリに手渡した。「お前らが乗ってきたミニバンは? この裏か?」

 シロエリはうなずいた。

「ちょっと見てくる。急いで服を着ろ」

姫里ひさとちゃん、て呼んでいい?」シロエリが、Tシャツを脱ぐ。

「ええ」

 姫里は微笑んで、渡されたTシャツをかぶった。

「どうもありがとう、姫里ちゃん」

 ここにくるまでに、シロエリをなだめつつ、事情を聞き出している。

 見たことのない、人造人間らしい女の子二人組がきたこと。彼女らは大金を持って眠り男を買いたい、といっていた。乗っていた車は白のフィアット。

 シロエリはだいぶ落ち着いたようだ。服を着て車を降りる。

 ミニバンを確認し終えたヤモリ女は、格闘があったらしい場所に移動していた。地面を見つめている。

 砂利に血の跡がある。

 シロエリがしゃがんで、鼻を寄せた。「やつらのうちの、一人っぽい」

「よそ者の車はどこにあった?」ヤモリ女がいう。

 シロエリは車があった場所へ案内した。

 先程と同じくしゃがんで、地面の匂いを嗅いでいる。

「ゴムが地面とこすれると、匂いが残るの」

 その匂いはタイヤによって違うそうで、追跡の手がかりになるのだという。

「いきましょう。匂い、覚えました」シロエリは顔を上げた。

 姫里はシロエリとともにアコードの後部座席に乗りこんだ。車内に携帯の呼出音が響き、運転席のヤモリ女が電話をとった。

「ああ。ああ。その信号のところにコンビニあるだろ。……ああ。そこで待ってろ。今いく」

「誰?」姫里は訊ねた。

「アオジタだ。車を乗り換える。こいつじゃ、ポリに止められるからな」

 アコードはまた、アクション映画さながらに砂煙を立てた。


 ヤモリ女は、コンビニの駐車場に車を入れ、白線内に斜めに停めた。

「いくぞ、姫里。金の封筒を忘れるな」

 ヤモリ女に続いて、姫里もシロエリも車を降りた。

 二車線の産業道路沿いの店で、駐車場は大きい。その駐車場の端に、黒い外車が停まっている。ボンネットに黒ずくめの男がふたり、寄りかかっていた。

 外車の後部座席に、人影があった。

「あっ!」

 と、姫里は声を上げた。あわてて咳をして誤魔化した。

 後部座席にしょぼくれた表情で座っているのは、ゴローちゃんだ。顔にふたつ三っつ毒々しい色のコブができ、まぶたが青く腫れていた。

「今さら誤魔化しても遅いよ。若きジェダイ」小柄なほう──アオジタが姫里にいった。「こいつはもう、洗いざらい喋った」

「ビキニで土下座だぜ、ヤモリ」大柄なほう──ヤモリ女が黒沼、と呼んでいた──がいう。「そっちのデカい乳はなんだ? どっかで会ったよな? デリヘルの子だっけ? 一回、お世話になったよな?」

 大柄な吸血鬼が太い眉をよせて、サングラスを外した。

 ヤモリ女は頓着せず、ベントレーに近づいて後部座席のドアを開けた。ゴローちゃんを見て、声を立てて笑う。

「ひでぇ目にあったらしいな、ゴローちゃん。降りな」

「すまねぇ、ヤモ」

 車を降りたゴローちゃんに、ヤモリ女はアコードの鍵を渡した。

「お前ら三人で白のフィアットを捜せ」ヤモリ女に悪びれた様子がない。「眠り男をさらった車だ。運転してるのは真っ赤なロングヘアの女、あるいはゴスっぽい服の女だ。どうやらよそ者らしい。わたしからの連絡があるまで捜し続けろ」

「おいおい、おい!」アオジタがあわてて、ヤモリ女に詰めよった。「抜かすじゃないか。お前、降ろされたろ?」

「状況が変わった。かなり深刻にな。今からわたしが指揮をとる」

「飲めるか! そんな話!」

「わがままいうな。時間がない。姫里、助手席に乗れ。そっちの白蟻とかいうやつ、急げ」

 シロエリは、黒沼に深々と頭を下げた。

「よろしくお願いします。アザミちゃん、あざみ野寧々ねねとわたしの妹が、一緒にさらわれたみたいなんです」

 黒沼はサングラスをかける。「おれたちに任しときな。ヤモリ、どっちだ」

「わたしらは西だ。お前らは反対側を捜せ」

「これを、これを許したら」アオジタは声を裏返している。「指揮系統が滅茶苦茶だよ。高原台の終焉だ!」

「いいの?」

 ベントレーが産業道路に出たところで、姫里は訊いた。

 駐車場で、アオジタがわめいている。

「緊急事態だからな。姫里、スマホでフィアットを検索して、車体とエンブレムを頭に叩きこめ」

「なるほど」

「返事は『ハイ』だ。ナンバーワン、お前は右側を見て鼻きかせてろ」

「了解です。わたし、シロエリです」

「了解。飛ばすぞ。伯爵のベントレーは、めったなことじゃ警察に止められねぇんだ」


「馬鹿にしやがって」

 勢いよく走り出したベントレーは、一分ほどの快走の後、渋滞の最後尾についた。

 さすがに、ゴールデンウィークは人出が違う。

 目の前は大型トラック、左の車線には家族連れのミニバン、後ろは業務用のハイエースがついた。

「糞が。糞どもが」ヤモリ女が、世界を呪っている。「なんでこんなことになった。糞みてぇに簡単に片づくはずだったろ。お前か?」

 殺気を感じて振り向くと、ヤモリ女が睨んでいた。

「なんの話? わたしじゃないよ」

「お前、わたしの運を吸いとってないか?」

「イラつかないでよ。だいたい──あっ」

「いたか!」

 姫里は思い出した。「きょう、ショッピングモールの開店日だよ。だからこんな混んでるんだ!」

「ああ、そういえば」後部座席のシロエリが応じてくれた。「うちにもチラシがきてた。開店イベントにマギー司郎がくるって」

「マギー司郎がくんのかよ!」ヤモリ女はハンドルに額をつけた。「糞が。糞! 糞!」

「あっ!」

「今度はなんだ!」

 とっさに言葉が出ず、姫里は指さした。空いてる反対車線を、白のフィアットが走り抜ける。運転していたのは赤い髪の女、後部座席に、なぜか紫のマフラーを巻いた寧々がいた。

「アザミちゃん!」

 シロエリの叫びが、人狼の敏感な耳に届いたらしい。こっちに気づいた。

 ヤモリ女はギアを操作してから、ドアを開け、道に出る。驚いたことにベントレーの屋根に登った。

 姫里もつられて車を降りる。ヤモリ女は車の上に立って、フィアットの行方を目で追っていた。フィアットは左折した。この辺りは汚らしい空き地ばかりで見通しがいい。宅地とも農地ともつかない土地の一本道だ。フィアットは北に向かっている。やがてブレーキランプを赤く灯し、右折した。

「ボウリング場だ」

 誰かが鳴らしたクラクションが響く。

 ヤモリ女が飛び降り、姫里も助手席に乗った。

「シロエリ、運転代われ。そこの家具屋に駐車しとけ。わたしは先にいく。ボウリング場の廃屋だ」

「ヤモリ女さん、そこって──」

「鍵、忘れずに抜いてこい」

 ヤモリ女は身をかがめると、透明になった。運転席のドアが勝手に開き、気配が外へ出ていった。

 シロエリが、あわてふためいた様子で後部座席を降り、運転席に乗りこむ。

「シロエリさん、わたしも先にいくね」

「姫里ちゃん!」肩をつかまれた。「気をつけて。あそこ、フェンリルの溜まり場だよ」

「フェンリル?」

「狼男のチーム。みんな頭がおかしいの。本気で殺しにくるから十分に注意して」


 月夜市の狼男は中学へ入ると、フェンリルへの加入について決断を下す。長男なら加入は義務だ。長男以外の男子の加入は自由、ということになっている。しかし兄がフェンリルのメンバーになっていて、弟が加入しない、という例はあまりない。加入率は八十パーセントを優に越えているだろう。つまり、月夜市の狼男は年頃になれば、ほとんど間違いなくフェンリルへ加入する。男子だけじゃない。女子の加入率だって、おそらく五十パーセントは越えているはずだ。

 これは伝統なのだ。

 フェンリルのリーダー、真田寛治さなだかんじは読書の習慣がある。若衆宿、という民俗学的に興味深い人間たちの制度について、寛治は読んだ。一定の年齢に達した若衆が一箇所に集まって、厳しい上下関係を学びながら共同生活を送る制度だ。現在はすたれた地域が多い。時代とあわなくなったのだろう。

 人狼は時代と関係なく、似たような制度を維持している。

 山犬と呼ばれ、山野を駆けめぐっていたニホンオオカミが絶滅した後も、こうして伝統を守っている。それが誇りである一方、寛治はその伝統の破壊者でもあった。

 寛治は二十一歳、顔も体つきもよく見ればゴツいのに、一見すると優男のような顔立ちをしている。鼻梁のゆがみは鼻骨の骨折の跡だ。

 リーダーは普通、一年間だけの任期にもかかわらず、寛治は今年で四年目だ。仲間から強く推された結果である。組の兄貴たちからも、長く続けろと命じられていた。

 寛治はリーダー在任中、剛腕でもってフェンリルの合理化を推し進めてきた。その改革が根付くまではリーダーとして面倒を見ろ、というわけだ。

 寛治は例えば、絶対の義務だった集会への参加を、緩くした。というより、ほとんど一切の義務や強制を緩和した。集会が面倒なら、こなくていい。ただし、月々の会費は多めに取る。脱退も自由にした。リンチなんかしない。辞めさせてやる。ただし、脱退料金は決っして安くない。

 寛治にいわせれば、全員が全員、バイクなんか買わなくていい。酒も飲まなくていいし、煙草なんか吸わなくていい。真面目に生きてほしい。金はくだらないことに使わず、ただただフェンリルに納めてほしい。

 こっちは伝統があって、人狼から人頭税を徴収する言い分がある。

 改革のおかげで、フェンリルの財政は安定した。そればかりでなく、寛治にはセンスがあった。アフィリエイトが儲かると聞けば、たちまち三十もの、いかがわしいサイトを立ち上げさせた。わけのわからない情報商材、それ自体は大した金にはならなかった。しかし顧客のリストは詐欺師に高く売れた。

 だまされやすい人々のリストの需要は、振りこめ詐欺をはじめとする輩ビジネスだけにあるのではない。意外にも、名前の通った企業も買っていった。

 寛治はいいリーダー、といえるかもしれない。実際、そう評価するメンバーもいた。寛治はおごらなかった。そこまでの自信を持てなかった。喉に刺さった小骨のような一件がある。ボーンズだ。

 あざみ野寧々はそもそも寛治に抱かれていた女だ。寛治が童貞を失った相手だ。

 寛治は寧々をはじめて抱いたのは、満月の夜だった。あの夜、この世界には二頭の若い狼しかいなかった。互いに咬みつきあいながら交尾した。思い出すとその時の傷が痛む。

 思えば、寧々はいつも、ぶすくれていた。面白くなさそうだった。お前を、フェンリルのトップまで連れていく、と説き伏せたけれど、不満を持つのをやめなかった。

 ある日、フェンリルを飛び出して──デリヘル嬢なんかになった。

 寛治は一時期、ひどく面目をなくした。

「翔太、ボーンズにいた女の話、聞いたか?」

 寛治は訊ねた。

 翔太は群れのサブリーダーである。子供のころから、なんでも一緒にやってきた。

 つぶれたボウリング場跡に二人はいる。この建物は道路より高い位置にあって、道から見上げても中を見られないという利点があった。

 誰かが拾ってきた革のソファに腰かけて、二人は煙草を吸っていた。

「カンちゃん。やめろって」

「なにがだよ」

「ボーンズの話とかさ。寧々ちゃんはさ、本当は後悔してると思う。我慢してりゃあ今ごろ、なんでも思いのままだったんだから。けど我慢できなかったんだからしょうがないよ。だいたいカンちゃん、里佳子さんは?」

 翔太は、寛治の年上の彼女の名前を出してきた。

 寛治は彼女のヒモなのだ。

「組に入ってシノげるようになるまで、まだまだ里佳子さんの世話になるんだろ? 里佳子さんに恩返しすることだけ考えなきゃ」

「ボーンズの話だ。寧々じゃなく」

「ボーンズがどうかしたの?」

「ボーンズで稼いだ女が、その金で大学へいった。それも二人」

「そのことか」

「馬鹿な夢を見る、阿呆な女が出てくるぜ。きっと出てくる。勘違い女がな」

「いいじゃん」

「良くねぇんだよ。フェンリルの加入率が下がる」

 寛治は自分でなにをいいたいのか、よくわからないまま翔太を見た。「寧々のやつ、殺すか」

「どうして」

「寧々と、城山姉妹を消しちゃえば、ボーンズってつぶれるだろ」

「シロエリは、おれがもらうかな」翔太はいった。「あの子は相当稼ぐと思うんだ。寧々ちゃんと妹のほうは、銃がないと殺れないんじゃないかな」

「残しておいちゃいけないって思うんだよ。ボーンズは。あいつらを片づけてから脱退すんのが筋って気がするんだ」

 結局、それなのかもしれない。

 ボーンズの規模はフェンリルと比べたら、比較にならないほど小さい。フェンリルのメンバーはみな、ボーンズのことを、小汚い親父のサポを漁っている、みじめな牝犬どもとしか考えていない。寛治にとっては違う。ボーンズは、人狼社会に空いた巨大な穴だ。頭が良くて気のきいた女は、その穴を通って遠くへいってしまう。

 フェンリルの若い連中は、その穴を見て、寛治のふがいなさを影で笑っている。寛治はそんな気がしてならなかった。

「カンちゃん。犬目組いぬめぐみの若頭のさ、門馬さん、いるだろ?」

「ああ」

「門馬さんは寧々ちゃんのこと、高く買ってるって。良介さんがいってた」

「なんでだ?」

「期日通りに必ず金を持ってくるのがいいって。犬目組にしたら、出会い系とかで、個々に援交されるほうが厄介なんだって。シマの中で勝手に商売されてるみたいなもんだろ? ボーンズはさ、なんていうか、出来るべくして出来たんだよ」

 翔太のいうことはよくわかった。「じゃ、乗っ取るか。寧々を殺して」

「わかるけど、返って負担かもよ。あそこの女ども、うるせぇし」

 翔太が立ち上がった。

 表で、車の停車する音がしたのだ。

 翔太が連れてきたのは、人間の男だった。黒縁眼鏡の中年だ。

「やぁ小森さん。どうかしたか?」

 寛治は面倒なので立たなかった。

 宵町よいまちの道具屋、小森は落ち着かない様子で、吸っていた煙草を踏み消した。

「いてくれて良かった。その、香澄さんに金を返したいんだ。これ」

 小森は、紙袋を寛治の足元に置いた。

 中をのぞいて、驚いた。

「おっさん、『東京吉原』でも売ったんか?」

「売らないよ。蓄えてた金だ」

「蓄えったって、ゴールデンウィークだよ。銀行、開いてないでしょ?」

「このくらいの現金はあるよ、おれだって」

 小森はあせっている。

 寛治は追求しなかった。

「困るなぁ。直に会って返したら?」

「居場所がさ、わからねぇんだよ。香澄さん、どこにいるか知ってるか?」

 香澄婆さんは、金主きんしゅだ。

 例えば脱税などで、表に出せない金をたらふく持ってる金持ちが投資を考える時、違法な貸金業者の事業資金の面倒を見たりする。そういった裏稼業の投資家が、金主だ。香澄婆さんは、寛治の伯父が紹介してくれたクソ婆ぁだ。しかし信用さえ得れば、うるさい条件なしで金を出してくれる。もちろん、婆さんは人間じゃない。

「小森さん、逃げるんか?」

「隠れるだけだよ、しばらく。高原台が──」

「高原台が怖くて、逃げるんか?」

「おれはさ、香澄さんや銀蔵さんより、やっぱり伯爵が怖いんだ。おれは、自分でも気がつかない内に、どうやら伯爵を裏切ってたらしい。もう、たぶん駄目だ」

「いつか、いい目も出るよ。戻っておいでよ。東京吉原は売らずにさ」

 寛治は結局、金をあずかることにした。

「例の悪魔、知り合いだろ? あと十分ほどで、フランケン・シスターズが連れてくるぜ。会っていきなよ」

「いや、いい。いくよ。忙しいんだ」

 小森は逃げるように、車でボウリング場の敷地から出ていった。

 翔太は、下唇を噛みながら車を見送っている。

「平気だよ。座れよ」寛治は声をかけた。

「そうかな。香澄さんって、魔女、だよな」

「ああ」

「魔女に悪魔を渡して、平気かな」

「高原台の吸血鬼だって、古森町の魔女と悪魔を契約させて、今の覇権を築いたんだ。ビビるこたぁねぇよ」

 寛治は親友の小心をせせら笑いたい気分だった。

 しかし十分後には、寛治が下唇を噛む羽目になった。

 フランケン・シスターズが連れてきたのは、悪魔だけではなかった。

 首輪をつけられた寧々と、気絶した城山美佳を、一緒に連れてきたのだ。


「へぇ」と寧々はいった。

 後ろ手に手錠をかけられ、首に鉄環をはめられていた。人狼を捕獲するのに、よく使われる手段だ。首輪をつけられたまま狼に変身すると、喉を絞められることになって、危険なのだ。首輪を抜けるには、小型犬に変身するしかない。小型犬になれば蹴っ飛ばされ、踏みつけられて終わりだ。

「ここに監禁すんだ。ここ知ってる? 負け犬どもの溜まり場」

「うるせーですよ」

 マリリン──フランケン・シスターズの小さいほうがいう。

 眼帯に覆われていないほうの目に、憔悴が見てとれた。少しゲロ臭い。

「こんなとこに監禁されたら、輪姦されちゃうよ。知ってる? レイプのこと。入れかわり立ちかわり、わたしら次々に犯される。知ってんの? リ、ン、カ、ン、レイプ。レ、イ、プ」

 マリリンは二、三歩走って、寧々から離れた。

 寧々は素早く四方を見渡した。匂いも確認しただろう。寛治に目を留めて、

「よぉ、粗チン」といった。

「よぉ、ヤリマン」寛治はかろうじて、いい返した。

「なにおまえ。なにしてんの?」

「どうだっていいだろ」

「翔太いるじゃん」寧々は翔太に顎を振った。「え? なに? 群れで兄貴たちに歯向かうわけ? 誰の犬になったの? 別にいいけど、簡単に裏切りすぎっしょ」

 寧々の後ろから、赤毛の、背の高い女が入ってきた。香澄婆ぁが、スージーと呼んでいた人造人間だ。顔が血で汚れている。肩に、だいぶ手こずったらしい獲物、城山美佳を担いでいる。

 そのスージーが、寧々の背中を蹴った。

 寧々はよろけたけれど、倒れない。寛治にとっては懐かしい、不屈の目をしている。

 赤毛のスージーの後ろに、痩せた男いる。髪はボサボサで、手足がひょろ長い。手首に結束バンドを巻かれていた。こいつが悪魔だろう。

「今、誰か輪姦っていった?」瞳を輝かせて悪魔がいう。

 寧々が鼻で笑う。「マワしてもらえよ、眠り男」

「きみら、ゲイなの?」悪魔は寛治を見た。「ぼくは違うよ」

「全員、玉なしってことだよ」

 寧々の言葉に、悪魔は嬉しそうな表情をした。「きみは、凄いのつけてそうだよね」

 寛治たちが溜まり場にしているボウリング場は、朽ち果てている。レーンやガーターの板はまだらに剥がれているし、天井から下がるスコア・ディスプレイは傾いて落ちそうだ。ボウルはレーンの端に吹き溜まっていた。黒くヒビ割れたピンが、至るところに散乱している。

「ここでは、みんな、清潔な時を過ごすのです」

 マリリンは歩き続ける。

 レーンの隅に向かっていた。

 寛治は翔太と顔を見あわせて、人造人間たちについていく。

「レ、レイプとか、そういう汚らしいことはしないのですよ」

「それを決めるのはおれだよ」寛治は訂正した。

 裏切り──、と寧々はいう。

 寛治にいわせれば高原台の吸血鬼どもと歩調をあわせている大神会や犬目組こそ裏切り者だと思うが、それはともかく。

 寧々に、今回の件の関与を知られた以上、安易に解放できない。

「真田」マリリンが立ち止まって振り向く。「人数が少ねぇですね」

「必要ないだろ。調整室に入れんのか?」

「そんな所には入れません」

「なんでボーンズの売女どもを連れてきた」

「もののついで、です」

「なら、おれらの好きにさせてもらいたいもんだな。ちょっと因縁がある」

 かびで黒ずんだ壁際までくると、マリリンは立ち止まった。「おまえたちは、こいつらに触ることすらできないのです」

「なんで」

「おまえ!」小柄なゴス衣装の人造人間は、つま先立ってわめいた。「この壁に背中をつけて、立つです!」

「わたし?」寧々がいう。鉄環の触れる所が痒いのか、首をかしげ、しきりに肩を上げ下げしている。

「おまえです。この壁のとこに立つです」

 寧々が、首を回しながら、辺りをうかがっていることに、寛治は気づいた。

 なにかを気にしている。なにかを、待っている?

 寛治は、廃墟内を慎重に見回した。なにも怪しいものはない。鼻を効かせても、なにも嗅ぎとれない。寧々に目を戻そうとして、視界の中に動くものを見た。

 廃墟の入口に、逆光で影になった女の姿がある。

 女は、駆け足でこちらへやってくる。

「待て待て。高原台だ。落ち着け」と、いいながらくる。

 凄い速さだった。黒い弾丸みたいだ。

「止まれ!」寛治は慌てた。

「違う違う。落ち着け!」

 などといいつつ、女は跳躍した。攻撃を仕掛けてきたのだ。

 寛治は冷静に後ろへ下がる。

 女は床に降り立った。黒い肌の、色っぽい女だ。向かってくる、と見せかけて、女は真後ろにローキックを打ちこんだ。

 後ろに回っていた翔太が、それにつまづく。

 女は、翔太が転ぶのを許さず、襟首をつかんだ。翔太の顔面に、一発、二発、さらに三発、膝蹴りを叩きこむ。襟首をつかむ手を緩めない。振り回すように、翔太を寛治の胸に投げこんできた。

 力も、相当らしい。あれだけ荒ぶって、今は平然としている。

 高原台にこういう、おっかない女がいると聞いたことがあった。見たのは初めてだ。

「真田、なにしてるです!」マリリンの甲走った声した。「スーちゃん!」

「姫里!」高原台の女がいう。「かまうこたぁねぇ。撃て、全員まとめてストライクだ!」

 よく見ると、少し離れた場所に、女がもう一人いた。

 長い黒髪の、ひょろっとした女で、こちらに得物を向けている。

 ひょろっとした影が、床から墨でも噴き出すように広がった。魔法だ。魔法を放ったらしい。雷みたいな音がした。

 寛治は翔太をかばいながら、膝をついた。


 姫里は走りに走って、死の間際みたいに喉を鳴らしながら、ボウリング場に到着したのだ。

 ヤモリ女は割れた窓ガラスから屋内の様子をうかがっていた。姫里に気づいて、

「よし、踏みこむぞ。わたしがボウリングにちなんだ洒落たこというからな。そしたら、あの赤毛に特大の魔法を撃ちこめ。いいな?」

 と、目をのぞきこんでくる。

 わかった、でもあの赤毛の人、誰か担いでる。それと、吐きそう。

 といいたかったが、あえぐばかりで言葉にならない。

「いい返事だ。いこう」

 ヤモリ女が駆け出す。

 姫里は胸の内で合言葉を唱え、ヘアピンを魔法の杖に変えながら、倒れこむような足取りで後に続いた。

 廃ボウリング場の真ん中あたりまできて、荒い息をつきながら、カジモドを構えた。

 肉体の中か、外か、あるいはもっと別の次元か、とにかく姫里のどこかに属している力、激しく脈打つ熱っぽい気流に似た力が、姫里の体からほとばしり、杖の中を通り、しぶきながら、また肉体に流れこむ。この還流を母親は『魔女の血の流れ』と表現して、姫里の魔法を鍛えたものだった。流れは、ひと巡りするごとに荒れ狂い、ふてぶてしく太り、今や破裂寸前の扱いづらい力の固まりになった。

「姫里、全員ストライクだ!」ヤモリ女がいう。

 赤いロングヘアの女性が、気味の悪い目つきで振り返り、体を傾けた。

 肩に、クロエリを担いでいる。クロエリを巻きこめない、と考えていたら、赤毛の女は意外な行動をとった。クロエリの襟をつかむと、そばにいた眠り男の上に落としたのだ。

 眠り男は、繋がれた両腕でクロエリを受けとめて、尻もちをついた。クロエリの服をつかみ、引きずりながら、避難する。

 長身の女は片足立ちになって体勢を傾けた。倒れないのが不思議なほどの急角度だ。同時に、床のほこりが静電気に吸われるように浮遊した。ほこりは磁界を示すように円弧の筋をつけて回転をはじめた。

 なにか変だ。

 油断できない。

 姫里は、ありったけの力を放った。

 握りしめた杖が暴れる。強風で髪を引っ張られる。四囲のガラスというガラスが割れる。砕けて飛んだ破片がきらめきながら降りそそぐ。腐りかけた床がヘコむ音、板の剥げる音。廃墟の部材すべてがひしゃげるような衝撃音。急に気圧が変わった時に聞こえる家鳴りの、何倍も不吉な音だ。猛烈に回転しながらボウリングのピンが舞い上がり、壁に衝突した。舞い飛んださまざまな物が滝のように落下し、騒々しい音が続き、やがてやんだ。最後に残ったのは、ボウリングの玉の、粘るような転がる音だった。

 砂ボコリが黄色く視界を覆っていたものの、徐々に晴れていく。

 トップモデルみたいな長身の人造人間は、直撃を受けながら、まだ立っていた。体を低く構えて、腕を交差させている。赤と黒のボーダーの、長袖Tシャツに裂け目があった。袖と裾が無惨に破れていた。

 赤髪の人造人間は両腕の交差を解いた。

 口元のマスクも吹き飛んでいる。

 本来、口のあるべき場所に、口がない。コンセントそっくりな、小さい縦線があった。

 いや、間違いない、プラグを差しこむコンセントだ。

 電気仕掛けのロボット——の、ようには見えない。他のモンスターと同じだ。人間そっくりだ。ただし口だけがない。

 赤毛の女が目を開く。焦点のあわない瞳に、感情らしいものが見えない。

 姫里は膝の震えを感じた。視線を外せないまま、後ずさりし、床のくぼみに足を取られる。尻もちをついた。

 人造人間が近づいてくる。

 風圧で乱れた真紅の髪、黒い血のついた額、神秘的な印象を与える斜視、そして電源プラグの差しこみ口、それらが小さな頭にまとまっている。肩は華奢で、胸は大きくないのに、存在感がある。くびれは細く締まっていて、灰色の肌がTシャツの破れからのぞいていた。なだらかにふくらむお腹から、ほっそりした足へ向かう曲線が、目を見張るほど長い。

 手のひらは大きかった。

 蟹の足みたいな指だ。大きな手が迫ってくる。手のひらが姫里の視界を覆う寸前だった。

「スーちゃん!」

 甲高い声が響く。

 赤毛の女が、身をすくませて、声のほうを振り返る。

「スーちゃん! 逃げるです! がっ」

 黒っぽい衣装の人造人間──小学生くらいに見える女の子が、ヤモリ女に、背中を蹴飛ばされていた。

 ヤモリ女は、小柄な人造人間から奪ったらしい鍵束で、寧々の手錠を外し始めた。

 スーちゃん、と呼ばれた赤毛の女は、見る見る内に落ち着きをなくしていった。姫里など忘れ去った様子で、小学生みたいな女の子を見守っていた。

「スーちゃん、わたしのことはいいです。逃げるです!」

 女の子は、床でバタバタしている。

 火山の鳴動みたいな唸りをあげて、スーちゃんは駆け出した。

 スーちゃんが離れる瞬間、姫里は引っ張られるような粘着力を感じた。冬にニットを脱ぐ時みたいな、静電気の音がした。

 ——あの人。

 放電してる、ような気がする。

 傾いた姿勢で倒れなかったり、姫里の全力の攻撃が効かなかったり、なにか磁場みたいなものを操っている気配がある。

 スーちゃんは、ゴスロリっぽい女の子を抱え上げると、跳ぶような大股で、光差す出入り口のほうへ走っていった。

「姫里、追わなくていい」ヤモリ女がいう。「眠り男を確保だ。襟首掴んどけ」

 追うつもりなんか、胸の内のどこを捜してもなかった。

 数秒が過ぎて、外で、車のエンジンがかかる音がした。

「ガキども」ヤモリ女は、狼男の二人組にいった。「高原台に出頭しろ。あの人造人間どもを連れてくれば、処遇については考慮してやる。わかってるよな? バックれようとか寝惚けたことは、顔だけにしとけよ」

 二十歳くらいに見える狼男は、なにもいわない。しばらく黙っていたものの、仲間に肩を貸して出入口のほうへ歩き出した。粗大ゴミみたいなソファの近くに紙袋がある。それを持って、外へ出ていく。

「姐御、馬鹿だな」嬉しそうに寧々がいった。「あのフィアットには、大金が積んであったんだぜ」

「金なんか知るか」ヤモリ女は真顔でいった。「仮に大金だとしても、あわてて飛びつくこたぁねぇんだ」

「なにがいいたいんだよ」機嫌良さそうだった寧々は、表情を曇らせた。「姐御だってアオジタから札束を奪ったっしょ」

「おまえ、死ぬところだったぞ」

 ヤモリ女の言葉に、寧々は横を向いて黙りこんだ。

 姫里は魔法の杖をヘアピンに戻し、前髪を留めた。立ち上がって、眠り男のほうへ向かう。眠り男は腐りかけた床に正座して、クロエリの頭を膝に乗せていた。

 クロエリの胸はおだやかに上下していて、表情はかすかに笑っているように見える。

「心配しなくていいよ」眠り男は、顔を上げずにいった。「この子はただ眠ってるだけだ。モンスターは頑丈だからね。めったに死なないし、ダメージの回復が異常に早い」

「眠り男さんですよね」

「そうだよ」

「朝からずっと捜してました。いい機会だし、会ったら聞こうと思ってたことがあるんです」

「きみ、ミサさんの娘さんだよね。魔法、使えたんだね」

「ええ、まぁ。事情があって……」

「知ってる。アキが、きみを魔女にすることに反対してたんだよね。きみの魔力を腐らせて、星谷の魔女の血を絶えさせようとしてた」

「ええ、まぁ」

「正直、感心しないよ。でも、ミサさんはやっぱり賢かった。こっそりきみに魔法を伝授してたわけだ」

「ひとつ、聞きたいことがあるんです」

「なに?」

「わたしの父のこと、ご存知ですよね?」

「次朗さん? 知ってると思うけど。次朗さん? あれ、どうだったかな」

「おばあちゃんのお葬式にはきてくれてましたよね? わたし見たんです」

「えーと、勘違いじゃないかな。多分、ちょっと覚えてないっていうか」

 眠り男が顔を上げた。

 表情にふざけている様子はない。真剣な顔、というわけでもなく、眠そうな目と開いた口が無防備に見えた。

「おばあちゃんとは知り合いだったんですよね?」

「アキと? 知り合い? なにいってんの? 誰も話してないの?」

 眠り男は周囲を見回した。

「アキは、ぼくの魔女だったんだよ。契約したんだ。あのころ伯爵のなんて、本当にみじめな体たらくでさ。でも、ぼくとアキが力を貸して、月夜市の覇者にしてあげた。伯爵は——そうだ。伯爵は、ぼくに借りがある。そう、きみたち星谷家の魔女にもね。ぼくらはその借りを返してもらうべきなんだ」

「ちょ、待って──契約?」

 姫里は頭を働かせた。

 そうだ。当たり前だ。無関係な魔女だったら、葬式になんて出席しない。この男は嘘をついている。あの日、傘の内側から見上げた若い男は、間違いなく眠り男だった。ということは、したのだ。おばあちゃんと、契約を。

「アキは従順ないい女だったな。若いころは美人だったよ。でもミサはそれに輪をかけて——お母さんは元気だよね。きみくらいの頃は本当に、水仙みたいでさ。きみに似てたよ。ただ、パワーは違う。桁違いってやつだ。きみ、アキとミサを足して倍にしたより魔力強いね。気づいてた?」

「おばあちゃんを奴隷に——」

「そういう契約だからね。伯爵とぼくと、アキ、三人で高原台を作り上げたんだ。きみの杖も覚えてる。カジモドを継いだんだね。きみたち魔女は、道具を使って力を発揮するよね。それと同じで、悪魔は魔女と通して力を使う。アキは悪くない道具だった。しかし早死にだったね。ずいぶん働いたからな」

 眠り男の声を聞きながら、姫里は震えた。怒りによる震えだったし、恐怖による震えでもあった。目元のあたりに熱があって、なんども目を閉じた。

「いっておくけど、一人じゃ契約はできないよ。アキが選んだことでもある」

「あんたなんか信じない。おばあちゃんに、なにをさせた」

「ぼくとアキの絆は、ぼくたちだけのものだ。はっきりいって、アキのことはきみより、ぼくの方がよく知ってる」

「うるさい」

「怒る相手が違う。悪魔は、それを必要とする魔女に力を貸す。それが生業だもの、責められる筋あいはないな。アキはぼくのだ、永遠にね。死んだって関係ない、悪魔と契約した魔女に、平穏な死後はないよ。これからもずっと、ぼくのだ。ぼくだけの魔女」

 振り上げた右手の、手首を背後からつかまれた。

「姫里」

 振り向くと、煙草をくわえたヤモリ女がいる。煙が目に染みるのか、片目を閉じていた。

 その後ろに寧々、そして、いつの間にか合流したらしいシロエリが心配そうな顔をしていた。

 あざみ野寧々が、仰向けに寝ているクロエリを、お姫さま抱っこで離れた場所に運んでいく。

「姫里、後ろいってろ」

「ヤモリ女、わたし──」

「久しぶりだね、ヤモリ女」

 眠り男はよろよろ立ち上がった。手首の結束バンドのせいで、立ちづらそうだった。

 ヤモリ女が、吸っていた煙草を眠り男の顔に投げつけ、火花が散った。

 姫里は驚いて、後ろに退がった。

「アキが、なんだって?」

 ヤモリ女は、眠り男の膝を蹴る。眠り男は床に崩れた。ヤモリ女は続けざまに、眠り男の顔面を蹴り、腹を蹴る。倒れた眠り男の頭部を、ガンガン蹴った。

「高原台を作った? アキとおまえが、なんだ? アキがおまえを選んだ? おい、いえよ」

 姫里も、シロエリも寧々も呆然としていた。

 暴行が、やむ気配がない。いつまでたっても、ヤモリ女は蹴るのを止めない。

 姫里は我に返った。

「ヤモリ女!」

「姐御、やめろって! 死んじゃうよ!」

「ヤモリ女さん!」

 結局、三人でヤモリ女を引き剥がした。

 眠り男は半死半生といった態で仰向けに横たわっていた。顔から出血している。鼻血で、口唇と顎が真っ赤だ。チェックのネルシャツが、血を半ば弾き、半ば染みこませていた。荒い呼吸音は、濁音をともなって聞こえる。

 ヤモリ女は肩をひと振りして、自分をつかむ六つの手を振り払う。

「寧々、アオジタに電話しろ。車と金と、そこのゴミを回収する」

 そういい捨てて、ヤモリ女はボウリング場の出入口へ歩いてゆく。

 外に出ていった。

 シロエリは、床に寝かされたクロエリの元へゆき、寧々は携帯を取り出して電話する。

 眠り男は、つらそうに体をねじった。横になったまま、姫里に背中を向けた。

 姫里は毒気を抜かれている。眠り男に対する怒りは消えていない。けれど、眠り男に近寄る気にはなれなかった。

 居心地の悪さに耐えかねて、ボウリング場の壁を見にいった。妙に気になっていた。

 黒カビが浮いていて、石膏パネルが崩れそうな壁だ。

「あの、チビの人造人間」

 突然声がして振り返ると、あざみ野寧々がいた。

「この壁の前に立つように、わたしにいったんだ。なにかあるの?」

「ここ、魔法がかかってます」

「魔法ねぇ」

「ええ。でも、わからない。わたしの知識じゃ、ここに染みこんだ魔法の種類がわからない」

「あのゴスロリに訊くしかないか」

 寧々の顔に、疲れが見えた。

「大変でしたね」

「そうだね。あいつらを」と、寧々さんはシロエリたちのほうへ顎を振る。「危ない目にあわせちゃって、それがマズかったよ。星谷ちゃんさ。高原台のこと、恨むの?」

「恨むかもしれないです。恨まないかもしれない。とにかくもう絶対、二度と関わらない」

「姐御のことは長い目で見てやってくんないかな。あれでなかなか、いいところもあるんだよ」

「そんなこと——」姫里はうつむいた。「そうは思えませんね」

「わたしも最初は好きじゃなかったさ。あの人、なんか怖くてね。星谷ちゃんはどうだった?」

 姫里はボウリング場の出入口を見た。

 暮れようとする時刻である。

 板張りの床に黄金色の日が張りついて、揺らめく影を引き伸ばしている。

 ヤモリ女が吸っている煙草の、煙の影に違いなかった。

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