3-2
工事現場などで、作業員の休憩場所として使われる移動可能なプレハブを、スーパーハウスという。多分、商品名だろう。驚くことに電気や水道を通すことも出来るという話だ。
しかし、
クロエリは椅子を使わず、窓から外を見つめている。
シロエリは寧々のすぐそばに、パイプ椅子を移動させていた。
「アザミちゃん、あの……」
「さっきの話か? 車の中の」
シロエリはうなずいた。
シロエリは綺麗な女で、いわゆる
寧々は眠り男を見た。眠り男は、虚ろな顔つきで床を見つている。いやらしいことを考えているのかもしれなかった。男がそういうことを考える時の匂いが、かすかに漂っている。
「予定通り、変更なしでいく──」
「だよね!」
「か、どうかを今、考えてる」
「でも、もう高原台に電話しちゃったよ?」
「そこのクズは、百万や二百万のクズじゃない。聞いてたろ? 途方もないことを企んでるクズなんだ。そんな顔すんな。まぁ、なんにせよ姐御が──」
携帯の低い呼び出し音が鳴った。
相手を確認して、寧々は明るい声で電話に出た。
「よぉ姐御。どうだった、うちの客。可愛がってもらえた?」
『ああ。たっぷり可愛がってやったよ』
「こんなこともあろうかと、準備しといたんだ」
『だろうよ。めちゃめちゃ笑えるな。おい寧々、高原台を手玉にとって、ただですむと思うのか? みんなカッチンカッチンきてるぜ』
「そいつは話がおかしいよ。高原台が布告したから、みんな真面目に眠り男を探したんだ。懸賞金をチラつかせておいて、いざ現われたら、こそこそ自分たちで捕まえるのか? 通らないね」
『不公平だ、とでもいいたいのか? 高原台が懸賞金の支払いをしない、ていうなら、わかる話だが』
「さっきアオジタって人から連絡あったよ」
『へぇ。なんて?』
「姐御に金を取られたってさ。でも必ず金は取り戻すから、とにかく姐御とは取り引きすんなって。そうなのか?」
『よせよ。金なんか取ってない。
「どうかな」
『わたしが間に入るよ。幸い、手元にちょっとした金があるんだ。アオジタに眠り男を渡すのもいいだろうさ。ただし、まず間違いなく金は受け取れねぇぜ。金を持ってないんだから』
「手元の、ちょっとした金って?」
『二百万だ』
笑いも出なかった。寧々はいった。「姐御。強引だな、相変わらず」
『そうでもないだろ? お互い様って気がするけどな』
寧々はため息をつく。「まぁいいや。それでいこう」
『よしよし、いい子だな。ちなみに、寧々。お前、調達屋の小森を相談役にしてたろ』
「ああ、まぁ」
『眠り男のことは、小森から聞いたのか?』
「そうだよ。賞金首だから、誰が捕まえてもかまわねぇっていってたよ」
『ふざけた野郎だな。何時ごろの話だ?』
「十時くらいだったかな」
『太ぇ野郎だぜ。すまし顔でわたしに嘘をいいやがった。取り引き場所の相談したか?』
「ここを紹介された」
『ここっていうと、採石場のスーパーハウスか?』
「なんでわかったの?」
『どうした、元気ないな』
「姐御、うるせぇよ。なんでここがわかった?」
『思い出したんだ。昔、ヤクザ絡みのいざこざがあってさ。小森の嫁さんを、そこに隠してたことがある。いい場所だよな。道が見渡せるから車の出入りが見えるし、逃げ道もあるし。いや、そんなのどうでもいい。小森のやつ、姿を消したぞ』
「……なんで?」
『知らねぇ。断っておくが、わたしらじゃない。とにかく、だ。小森の様子が怪しい。下手したら他の誰かと繋がってる』
「マジで? どうして?」
『眠り男のこと、お前らに漏らしたくらいで逃げるような玉じゃねぇだろ。あいつ、なんかやらかしてんじゃねぇかと思うんだ。とにかく、警戒してそこを出ろ』
「取引場所を変えるの?」
『そうだ。こっちで決めて指示するから、連絡待ってろ』
「了解」
あざみ野寧々は首をかしげて電話を切った。
小森の携帯に電話した。相手は出ない。
「おやっさんが消えたらしい。シロエリ、悪いけど裸になって、一回りしてくれる?」
「はーい」
それまでうつむいていた眠り男が飛び上がるような反応を見せた。
「下ぁ向いてろ」寧々はいった。
「え! なんで!」
「でっかい声出すな。レディーの着替えだぞ」
「だから? ぼくが紳士に見えるの?」
「大丈夫だよ、アザミちゃん。そいつなにも出来ないし」
シロエリは全裸になって、下着を手早く畳んでいた。
一瞬後に、白い小型犬に変身した。コンピューター・グラフィックスで実現した、骨格が変形するモーフィングのような、ちんたらした変身じゃない。一瞬だ。女の裸身が消え、空中に犬が現われて、床に降り立つような、そういう手品があれば、それが一番近いだろう。
西洋の人狼と違い、日本の人狼は犬神憑きと深い結びつきがある。そのおかげで、狼だけでなく、いろいろな犬種になれる、といわれている。
「気をつけるっす」
クロエリがドアを開ける。小型犬は元気良く外へ飛び出した。
白犬を見送ったクロエリが、ドアを閉めた。
「姉ちゃんは、寧々さんのこと心配してるっすよ」
「わかってる。懸賞金は半分になったが、眠り男は高原台に渡す。姐御がここまで咬みついてきた以上、詰みだ。あの人はうちらの、貴重な味方だからな。それに、なんかキナ臭くなってきたし」
「きみ達」眠り男がいった。「人間を食べたことある?」
「あ?」
「あぶらぎった、固太りの中年が動脈硬化で急死して、きみ達の前に倒れている。塩っけの効いた皮膚をなめ回すだけでもおいしいだろう。内蔵だってまだほかほかだ。でもきみ達、食べないんだろうね。みじめにポテトチップスでもかじるんだろう」
「なにがいいたい」
「勇気について論じたい。きみ達が、自分のことを真剣に考えるなら、ぼくと手を結ぶべきだ。ぼくは革新だ。ぼくと、ぼくの魔女は革命の炎だ。ある社会の死と再生をつかさどる者だ。よりよいモンスターのあり方を求める戦士たちの守護者だ。きみ達はきっと、自身のことを本気で考えたことがないんだ。だから売春なんてしちゃうんだよ。──ごめんなさい」
迷彩パーカーのポケットに手を入れて、クロエリが眠り男を見下ろしていた。
「かまわねぇっすよ? いいかけたんだから、最後までいうっす」
「どうもすみませんでした。ごめんなさい」
クロエリが振り返る。
寧々は首を横に振った。こんなの、殴る価値もない。
こいつは魔女を契約で縛って働かせるゴミクズだ。そんなのは人間社会にもモンスターのなかにもいる。ありふれた、平凡な、よくいるクズだ。なんかの炎じゃない。
あざみ野寧々はこの手の男に詳しいつもりだ。
人狼の世界は、徹底した男社会である。一人前として扱われるのは男のみ、女は人目につかないよう隔離される。なんらかの集いで、アクセサリーみたいに連れ出される以外、人狼の女が表に出ることはない。
それくらいならまだ我慢できる。旦那や彼氏のために売春させられることだって多いのだ。それで見返りがあるわけでもない。一銭だって入ってこない。
狼は、群れを作る本能が強い。仲間のため、みんなのため、おまえが我慢しろ、といわれると、反論できない空気になる。寧々が中学生のとき売春で稼いだ金は、フェンリルという不良グループに集金されていた。仕事の後は、その頃つきあっていた彼氏──寧々を売春に追いこんだ張本人──に優しくしてもらった。その腕のなかで、寧々は違う景色を見ていた。
人狼の女は、裏から男を支え、子供を世に放ってから無言で死ぬ。
そんな一生を、寧々は許せなかった。
だから寧々は反逆した。勉強した。中学の時、ひとつ下に城山愛莉──シロエリという勉強のできる女狼がいた。その後輩を仲間に引き入れて勉強した。
月夜市の人狼たちは、レベルの低い小雨町の私立高校へ通うのがしきたりになっていた。フェンリルはその高校を母体としている。寧々は偏差値の高い県立月夜第一高校を受験して、合格した。モンスターは戸籍に問題があって、公立の高校は落とされる、という真しやかな噂を、打ち破った。
一年後にシロエリが入学してきて、さらに翌年、城山美佳──クロエリが数名の仲間を引き連れてやってきた。ボーンズはこうして結成された。フェンリルの妨害があったのは、最初の半年くらいだった。寧々は一人で出かけていって、血をかぶったような格好で帰ってきたりした。戦闘力の男女差があまりないのが、モンスターのいいところである。
この抗争に始末をつけたのは、犬目組だ。ヤクザが、女だけの不良グループのケツを持つことになった。ボーンズは勝ったのだ。犬目組のヤクザどもは、ぞっとするくらい公正に寧々たちを扱った。月々に納める金は想像よりずっと安かった。『長く続けろよ』という意味に違いない。
──続けてたまるか。
寧々は思っている。モンスターにまともな仕事がないから、売春しているにすぎない。あくまで手段であって、それを目的にしている女なんかいない、ということを理解しない男は多い。
店を持とう。
というのがボーンズ上層部の密かな野心だった。シロエリはほんわかしたケーキ屋みたいなものを妄想しているらしい。寧々は、男向けのリフレか、メイド喫茶の類が固いのではないか、と考えている。人狼の女の子に多少の雇用も作ってやれる。
しかし、まだ夢だ。金が足らない。今のペースでは、野望実現まで何年かかるかわからない。デリヘルの稼ぎの上前を、値上げするわけにもいかない。狼の女子が、仲間やチームのためじゃなく、自分のために金を稼ぐ、というのがボーンズの意義だ。
寧々は、眠り男を見下ろす。
チャンスを見逃していては、のし上がれない。この悪魔が金になるなら、そうすべきだ。
問題は、そんなに都合よく買い手が見つからないことである。
──いっそのこと。
あの星谷っていう魔女を、こいつに与えてみるか。悪魔の力なら、叶わない願いはない、とかいっていた。店の一軒くらいどうにかなるだろう。
しかし、あいつの犠牲で自分たちの将来が開けるなら、
──堕としたってかまわない。
外で、犬の甲高い鳴き声がした。
「寧々さん!」
窓辺に戻って外を見たクロエリが叫ぶ。
寧々は外を見た。
女の子が二人、シロエリに吠えられて、おびえている。
スーパーハウスがどこに打ち捨ててあるかといえば、倒産した採石場の土場である。白い砕石の山にも、黒い土の山にも雑草が生えている。倒産した会社の敷地なので
寧々とクロエリは、スーパーハウスを出た。白い小型犬が吠えるのをやめ、寧々たちと入れ違いにアジトへ飛びこむ。
寧々は珍客を観察した。
「この辺の人じゃないよね? どうかした?」
よく見ると、砂山の陰に白の小型車が止めてあった。
二人組の女の子は、互いに顔を見合わせる。
片方は小柄で、小学生くらいに見える。銀髪のハーフアップ、石膏像みたいな顔色、目の下の隈の灰色は、メイクじゃなさそうだ。蜘蛛の巣が刺繍された眼帯で、左目を覆っている。濃い紫の混じった、黒いキャミソール、下は黒のティアードスカート。厚底ブーツの黒革はホコリをかぶって光沢がかすんでいる。
もう片方は、モデルみたいに背が高い。髪は真っ赤なロング、瞳の焦点があっていない。右の瞳は右を見て、左の瞳は左下あたりにただよっている。鼻の頭から顎まで、風邪の時つけるマスクで覆っていた。黒・赤のボーダー長袖Tシャツ、格好いいシルエットのスキニージーンズ、相棒がゴスなら、こっちはパンクってところだろうか。銀色のアタッシュケースを下げている。
ふたりとも人間でないのは分かる。しかしタイプがわからない。匂いは吸血鬼に似ていた。
小柄なゴスのほうが、一歩踏み出した。
「お金持ってきたよ。眠り男を売ってください」
甲高い声でいう。
「スーちゃん、見せたげて」
スーちゃん、と呼ばれたパンク女が、アタッシュケースの中身を見せる。二千万くらいありそうだ。
スーちゃんはアタッシュケースを閉じて一歩下がる。
「あんたら、なに?」寧々は、ニコニコと笑った。
「それいえない。眠り男ください。くれれば、このお金、置いてきます」
寧々はクロエリの顔を見た。クロエリは目を見開いて首を横に振る。
寧々は機嫌良くうなずいた。
「悪いけど、先約があって売れない。そのスーツケース置いて、きたところへ帰ってくれる?」
「眠り男は?」
「眠り男は駄目」
「眠り男駄目?」
「駄目」
「ちょっと待ってて。今、スーちゃんと同期を行ないますので」
ゴスロリはそういって、スーちゃんに手の平を向けた。スーちゃんは、その手に自分の手をあわせる。ふたりは三秒ほどで、また手を下ろした。
「それおかしいです! 眠り男くれないのに、お金置いてけって」
ゴスはやかましかった。
「でもなぁ」寧々はクロエリにいう。
クロエリがうなずく。
「そんな大金見せびらかされたら、欲しくなっちゃうよ」
「欲しいなら、眠り男を連れてこいってんです」
「いや、違う。うちらはおかしくない。突然きてね、そんなこといい出しちゃ駄目っしょ。良くないよ。お金置いてく? それとも力づくで眠り男を奪う?」
寧々がいうと、スーちゃんが唸った。地獄の底から湧きあがるような唸りだった。うら若い女の子の声じゃない。
「あーあ。スーちゃんが怒った。あーあ」ゴスロリがいう。「怒っちゃったよ、スーちゃんが。バーカ。馬鹿狼。どうするですか」
寧々は嬉しくて、頬の緩みが戻せずにいる。
ほんの数分前まで、誰かが大金を持って眠り男を買いにきてくれないか、などと考えていた寧々である。それが、まさか叶うとは思わなかった。
しかも、買いにきたのがよそ者の二人組ときた。
これはもう、お告げだ。なにか偉大な存在からのメッセージだ。寧々は月夜市が気に入っている。モンスターにとって住みやすい町だ。できれば離れたくない。高原台とうまくやっていきたいと思っている。
眠り男は、高原台に渡したい。けれどお金は欲しい。
そこに、アタッシュケース一杯のお金を持ったよそ者がやってきたのである。
挨拶もなくやってきて、勝手なことをやってるモンスターのよそ者は、殺したっていいと決まっているのだ。いったい、これ以上の幸運があり得るのか疑わしい。
「あんたたちのこと、抱きしめたいよ」
「うるせー馬鹿。眠り男をくださいましたら幸いです」
「なにいっても、眠り男は渡さない」
「ちょっと同期する。お待ちください」
まずいな、と寧々は思った。案の定だった。ゴスとスーちゃんが手を合わせた瞬間、クロエリが地を蹴った。狙いはスーちゃんらしい。
寧々としては、向こうから手出しさせたかった。そこまで我慢してこそ、売られた喧嘩になる。こっちの言い分に筋が通る。けれど、それは寧々の美学にすぎない。
先に仕掛けられるなら、仕掛けたほうがいい。相手の実力がわからない。その相手が油断しているなら、そこを突く。一撃で反撃不能にする。それが正しい。
寧々もクロエリに続いた。最初の瞬間、スーちゃんは同期に集中していてこちらの動きに気付いていない。次の瞬間、スーちゃんはまだ、顔を伏せている。最後の瞬間、スーちゃんはようやくこっちを見ようとした。だが、もう無理だ。遅すぎる。
なにしろクロエリは、最後の間合いを決める踏みこみでジャンプしており、顔面めがけて、いわゆるドロップ・キックを仕掛けている。
ドロップ・キックは、決まった。
スーちゃんの首が折れた。頭が一度弾み、一回転する。そのまま、スーちゃんの頭が、スーちゃんの胸のあたりにぶら下がった。スーツケースが地面に倒れる。しかし、スーちゃんは倒れない。傾きはしたけど、倒れない。妙な重心だ。
クロエリは地面に転がりながら、その遠心力で立ち上がり、体勢を整える。
寧々も間合いに入った。
転ばせるつもりで膝裏にローキックを入れると、さすがにスーちゃんの上体は乱れた。それでも立っている。背中が地面につきそうな体勢なのに、立っている。折れた首のせいで、頭は背中側のほうにぶら下がって揺れた。
無傷なはずのゴスロリが、地面に尻をつけて、悲鳴をあげた。
動画の逆再生みたいに、スーちゃんは膝を伸ばし、背中を伸ばし、寧々のほうを向いて直立した。背中側に垂れていた頭を両手で挟んで、首に戻した。ホゾに出っ張りをハメるみたいに、頭を胴体に押しつけている。
スーちゃんの頭が、元に戻った。極端なガチャ目で、瞬きをした。地の底から響くような唸りをあげる。
「殺すしかないっすよ、これ」クロエリが嬉しそうな声でいった。
「首の骨を折ってから、それいうか」寧々は答えた。「てか、なんでまだ生きてるんだ?」
「ゾンビっすかね?」
「ゾンビなんて、映画でしか見たことねぇよ。それに──」
「ええ、腐臭がないっすね。どうであれ全身バラバラにしてやれば、もう動けない。本気出すっすよ」
「できれば殺すな。裏を知りたい」
とはいったものの、殺さずにすむような相手かどうか。
ゴローちゃんは、ボスに怒られているところだった。
ボスは、鞭を鳴らすようないい声で叱責する。ゴローちゃんは、大きな体を縮ませる思いだった。
ボスは小男だ。小男の中年に、激しく叱られている。仕事をサボって、行方をくらませていたからだ。ボスは人間じゃない。自称ムジナで、祖先はかつて武蔵の国で大暴れしたらしい。現在でもムジナ坂、という地名が残っているそうだ。
──どうかな。
と、内心でゴローちゃんは冷笑している。祖先のことをいい出したら、ゴローちゃんの祖先は酒呑童子が舎弟、
とはいえ、豆狸だろうが、ムジナだろうが、その程度の
「ったく、以後、気をつけるように!」
ゴローちゃんは、涙目になっている。「……あい」
「わかりゃあ、いいよ。いくぞ」
「あい」
ボスは軽トラのほうへ歩きはじめた。ゴローちゃんはいそいで、作業服の袖で涙をぬぐう。
軽トラは、国道を東に快走した。時計の針は午後二時を指した。強盗する前に、ヤモリ女と、姫里ちゃんという初めて会う女子高生と一緒に、ファミレスで食事した。けれど、もうお腹が空いていた。オヤツにセブンイレブンのブリトーを食べよう、と考えていると、車が右折した。
行き先が怪しい。
高原台へ向かっている。
「あのボス、どこへ……?」
「あ? 高原台のお偉いさんがパンクで困ってんだとよ」
「あふ、あふ!」ゴローちゃんは声にならない声をあげた。
「どした!」
「どしたって、どして、どして」
ゴローちゃんはあたふたした。ボスに本当のことをいうわけにいかない。
血の気が引く時の寒気を感じた。
車が到着した。
サングラスをかけた二人組が軽トラを見る。道の端にベントレーを寄せていた。
ボスが弾むような動作で軽トラを降りた。「お待たせしやしった!」
ゴローちゃんも恐る恐る車を降りる。ボスは背の高い吸血鬼と笑いあっている。小柄な吸血鬼──妙な、紐みたいな武器を投げつけてきた吸血鬼は、携帯で誰かと話していた。
「いやいや、草上さん、見つけしだい殺してやりますよ」小柄な吸血鬼は興奮している。「ここまで馬鹿にされて──冗談じゃない!」
──まずい、まずい、まずい。
出来るだけうつむいて仕事しよう。目立たなければ、やりすごせる。なにしろ、顔は見られていないのだ。急げばいい。とっとと終わらせてブリトーを食べよう。
ゴローちゃんは作業服の上着を脱いで、助手席に放りこむ。
軽トラの荷台からジャッキを運んだ。
「ゴロー!」ボスの鞭みたいな声が飛んでくる。「三角板を最初に出せよ。タイヤ止めも」
「ごめんなさい」
ゴローちゃんは焦って、せっかく運んだジャッキを荷台に戻そうとしてしまった。最初からすべてをやり直そうと思ったのである。
「おい! なにしてる!」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
ボスに怒鳴られ、かえって注目を浴びてしまった。小柄なイケメンの吸血鬼も、携帯での通話を終えたようで、ゴローちゃんを見つめていた。
背の高い吸血鬼のほうが、微笑みを浮かべた。
「まぁ、おやっさん」と、ボスをなだめてくれた。「そう、ドヤすばっかりじゃ可哀想だよ。最近の若者は自分に自信がないからな。褒めて褒めて、懐に入れて温めるみたいにして自信をつけさせてあげないと。見なよ、こいつの腕をさ」
長身の吸血鬼は、タイヤ止めを設置しているゴローちゃんに近づいてきた。
「ミミズ脹れ作って頑張ってるじゃねぇの。こんな傷、こんな……こんな傷、どうやったら出来るんだ? おい若いの、この傷、どこでこしらえてきた?」
「い、いやぁ……」
ゴローちゃんは冷や汗をかいている。なんのことはない、小柄な吸血鬼の投げた分銅が、肌に食いこんで出来た赤い跡なのだ。
いいわけを必死に考えた。
気がつくと、ダークスーツの吸血鬼、二人組が、サングラスを外していた。
ゴローちゃんを凄い目で睨んでいる。
おかしい、と気づいたのは、スーちゃんの腹に得意のレバー打ちを決めた時だった。
決まれば、立っていられないようなボディブローだ。人間ならもちろん、モンスターにもまず効く。
──効かないな。
変な女だ、と寧々は思う。
効かないどころか、スーちゃんとやらは
寧々とクロエリは、未知の深海生物に対峙した二匹の狼のように、スーちゃんの周りを回る。警戒しつつ攻撃した。近づいては打撃を与え、すぐに反撃が届かない位置へ逃げる。蹴りも打撃も当たっているのに、相手にヘタれる気配がない。
寝かせないと駄目だ、と寧々は見た。
膝蹴りを警戒しつつ正面から近づき、寧々は敵の足に飛びついた。その勢いでスーちゃんを押し倒す。
ふんっ、とクロエリは腹から息を吐き、相手の頭を殴った。左、右、左、右。スーちゃんの足を抑える寧々には、クロエリの華奢な背中が見える。ふんっ、という息とともに、右の拳、左の拳を交互に規則正しく打ちこむクロエリは、その無機質さや無感動さが肉食の昆虫を思わせた。
すでにスーちゃんの両腕はぐったりと地面に投げ出されている。
寧々は後輩の背中を優しく二回叩いた。
振り返ったクロエリは、思った通り変身を
立ち上がって辺りを見渡した。アタッシュケースはすぐに見つかった。ゴスの子は逃げたか、と思ったら、最後に見た時と同じ場所で、腰を抜かしていた。いい感じに怯えきった目をしている。漏らしたかな、と鼻をきかせた。そんな匂いはなかった。
ただ、喧嘩してる時にも感じていたことだが、こいつらには薬品臭がある。消毒用アルコールだか何かの匂いだ。
──人造人間かな。
見たことはないけれど、聞いたことがある。小説として描かれたフランケンシュタイン博士は、実在のマッドサイエンティストをモデルにしている。小説にも描かれたことだが、死体の蘇生ではなく、「理想の人間」の創造を研究していたらしい。複数の人間の死体を集めて切り刻み、優れたパーツを選り分けて一体とし、縫いあわせて、優等な人類の誕生、というわけだ。
実験は成功したものの、新人類として作られたそいつはただちにモンスター化した。人造人間は繁殖しないが、どういう経緯でか、新人類創造のノウハウを継承している。人造人間は、自らの手で人造人間を製造する。家族や友達を作り出すことで数を増やし、寒い国に隠れて小さなコミュニティーを営んでいる、という話だ。
「あんたら、なんなの?」
寧々は訊いた。
ゴスの女の子は、あわあわと後ずさった。
眼帯をしていない右目で、なにかを見ている。
寧々は振り返る。背後に立っていたクロエリと目があった。見ているうちに、クロエリの首に白い指が這い、喉をつかんだ。
バチンッ、
と、凄い音がして、クロエリの髪から細い煙が立ち上る。クロエリは白目を剥いて、地面に崩れ落ちた。
「野郎!」
電撃か。
スーちゃんが立っていた。スーちゃんの髪は赤い。顔も血に濡れて赤い。つけているマスクも血を吸って赤く汚れている。斜視の目だけが白々として見えた。関節をおかしな方向に曲げながら、細長い腕を伸ばし、寧々につかみかかってきた。
獣の唸り声が聞こえたのはその時だ。
巨大な、真っ白い毛の固まりが猛烈な勢いで向かってきた。狼に変身したシロエリだ。大型犬より一回り大きい。地面を蹴る足は、人間の拳に
シロエリは優美な長い尾を振って、方向を変えた。
ゴスの子を目指している。
──いいぞ。
シロエリはモンスターにはめずらしい、他人の痛みに共感してしまう優しい子だ。まず喧嘩なんかしない。それでも、やはり狼だ。敵の一番弱い部分を即座に見抜いた。
──いいぞ、突進しろ!
ゴスロリはわめいた。くるな、といって手を突き出した。
その手が狼にさわった。眉間のあたりだ。
シロエリは動きを止めて、ほんの短い時間、ゴスの片目と見つめあっていた。次の瞬間に、シロエリは、蹴られた小型犬みたいな甲高い悲鳴を上げて飛びのいた。体をねじるように二度、三度跳ね回り、地面に倒れた時は女の姿に戻っている。
電撃をくらったか、と寧々は疑った。違う。毛の焦げる匂いがしない。
シロエリは、背中の金髪を肩へこぼしながら、起きあがろうとした。
「シロエリ、姐御と合流しろ!」
寧々は叫び、後ろへ跳んでスーちゃんと距離をとった。
シロエリは後ろを振り返らず、白い毛の中型犬に姿を変え、矢のように土場の砂山を駆けあがっていった。
さすがに駄目すぎる。
自分が、だ。
金に目がくらんで判断を誤った。
──けど、まだ終わりじゃない。
ゴスロリはよほど怖かったのか、地面に手をついて嘔吐していた。全身震えながら吐いている。
スーちゃんはそれを心配そうに見ていた。背中を丸めて、スーちゃんは寧々のほうへ顔を向けた。
短く唸って、気絶したクロエリを指差す。スーちゃんは諭すように、首を横に振った。
スーちゃんは『おまえの負けだ』といいたいのだ。確かに、クロエリを守りながら戦うのは無理だ。
「わかったよ」
寧々は戦闘体勢を解いた。相手が冷静なら、寧々が熱くなるわけにはいかない。電撃を叩きこまれて意識を失えば、チャンスを逃す。
「どうにでもしろよ」
「スーちゃん」ゴスロリが口元をぬぐいながら立ち上がった。「こいつら、ばぁばのところへ連れていこう」
スーちゃんはまた短く唸る。両腕を垂らしてのっそり歩き、倒れているクロエリを片手でつまみあげると、肩にかついだ。さらに札束のつまったアタッシュケースを持って車のほうへ歩いていく。
この隙にゴスロリを人質にしようか、と考えていると、ゴスロリのほうから近づいてきた。
「アザミちゃん」
「いきなり気安すぎっしょ。なんで名前知ってんの?」
ゴスの子は片目をぱちくりさせている。「あの白狼、男とホテルにいって、その、なにをしてる、ですか? 男の、その、服を脱いで、その……」
「なんの話だよ」
「あの狼、毎日のように男と、一緒に、ホテルの部屋で二人きりになって、その、なんか変なこと、してるですよ。なんか、エロ? なこと?」
「……誰が?」
「さっきの、でっかい狼の女ですよ!」
「なんで——」
寧々は目を細めた。よくわからないが、シロエリの記憶が一部、このゴスっ子に入りこんでいる、と直感した。多分、こいつらがやっていた『同期』と関係ある。
「怖いことないから。仕事でやってるだけだし。教えてやるよ。ちょうど眠り男がいるから、あいつ裸にしよう」
寧々はいう。
そんなことをしていれば、姐御が到着するはずだ。
「いこう。けっこう面白いよ」
「やだ、やだ、いいのです、いらないです」
「でも、興味あるんでしょ?」
「スーちゃん! スーちゃん!」
ゴスロリはきゅうに駆け出して、こっちへ帰ってこようとしていたスーちゃんの前で転んだ。
スーちゃんはゴスの子を助け起こして、二人は互いの手を合わせた。
同期がすむや否や、スーちゃんは地面にしゃがみこんだ。自分の肩を抱いて震えている。
寧々は遠目に見ていた。今ならクロエリを取り返して逃げ出せるかもしれないが、あまり賢い手ではない。
クロエリと、眠り男、そして札束。この三点セットを持ち去るチャンスが必ずある。あの間抜け二人組なら、そういう隙を見せてくれそうだ。
スーちゃんは震えながら、寧々を見返してきた。
寧々の考えを見透かすかのような視線だった。
姫里は助手席の窓にため息を吹きつけ、流れる景色を見ていた。
ゴローちゃんのヤードで借りた車はホンダのアコードだ。車は線路を渡り、月夜市の北を目指していた。
「ね、ヤモリ女」と、話しかける。
「あんだよ」
「あんだよ、ってなんなの? まぁいいや。道具屋の小森さん、寧々さんたちに眠り男の正体をバラしたんだよね?」
「そうだよ」
「一方で、高原台にも眠り男のことを報告したんでしょ?」
「ああ。矛盾して見えるな」
「それってつまり、寧々さんと高原台、両方にいい顔したってことだよね? それが気まずくて小森さん、隠れただけ、というのはない?」
「ない、とはいわねぇよ。ただな、今回は悪魔が絡んでるだろ。安易な結論で終わらせるわけにいかねぇ。だいたい、ああ見えて小森は大人だ。素人じゃない。大の男が不審な動きをするなら、そりゃ意図があるってことだ。さっきいった矛盾だって、本当に矛盾かどうかわからねぇ」
「意図がある、と? どんな?」
「それをずっと考えてる。眠り男ってのは極言すれば力だよ。魔女っていう火を近づけると爆発する、可燃性の危険物だ。意図をもって眠り男を欲しがるやつがいてもおかしくない。眠り男自身が、伯爵に銃口を向けたがってるのも気に入らねぇ」
「ちょっと待って。大ごとになってる?」
「まだなってない。一応、覚悟しとけ」
「ヤモリ女、もうひとつだけ」
「なにを遠慮するんだよ」ヤモリ女は鋭い視線を飛ばしてきた。「わたしはお地蔵さんみたいに心優しいからな。お前のクソ質問に時間を使ってやるよ」
「わたしの父親のこと、なにか知ってるよね?」
「知らねぇよ、詳しいことは」
「失踪したのは知ってるよね?」
「まぁな。どこへいったのかは本当に知らない」
「話したことは?」
「あるよ、一、二回。姫里、次朗さんのことは忘れろ。モンスターと結婚した人間が姿を消すのは珍しくねぇ。女房の正体に気づいたら、そりゃ逃げ出したくもなるだろ」
「忘れろって、無茶いわないでよ。眠り男は、なにか知ってるかな?」
「本人に聞け。家族が恋しくなったのか?」
「いや、別に。ってか、いけませんか? いろんなことが元通りになるかもしれないんだよ? 母親を取り戻して、ついでに父親の行方がわかるなら、わたしがここにいる意味もあるってもんだし」
姫里は窓の外に目をやった。
ふと、気づいた。
窓の外に、白い犬がいた。必死にアコードと併走していた。姫里と目があった。
「ヤモリ女!」
人間にはきっと、ただの野良犬に見えるのだろう。モンスターなら、この犬がただの野良犬じゃないとわかる。揺らぐような瘴気を発している。
アコードはスピードを緩めて路肩に停車した。
姫里は車を降りて、後部座席のドアを開ける。
白犬は後部座席に飛びこむと同時に、裸の女性に変化した。荒い呼吸で、背中を波打たせている。
姫里は、自分も後部座席に乗った。裸の女性は、ボーンズのアジトで紹介されたシロエリだった。車が発進する。
「ヤモリ女! 服!」
「持ってねぇよ」
姫里は手早くTシャツを脱いだ。臭くないか、鼻をつけて確認し、
「ごめんなさい、これしかない」
と、手渡す。
シロエリはTシャツを着た。背もたれに体を預けて、息をきらしていた。
「ありがとう、星谷さん。星谷さんは……いい香りが、しますですよ」
姫里を見る、シロエリの目つきが変だった。瞳の焦点があっていない。
「丘の上にいけば安全なのです。わたしたちしか知らない、わたしたちの白い家にゆくのですよ」
「丘ってのはなんだ?」ヤモリ女が険悪な声でいった。「寧々はどうした?」
「柵で囲ってあるのです。知らない人は誰も入ってきませんよ? もう、誰とも会わなくていいし、誰とも喋らなくていいのです。ふたりで幸せに暮らせるですよ?」
「ヤモリ女、シロエリさんの様子がおかしい!」
「姫里、そいつの頬っぺた引っぱたけ!」
「嫌だよ! 馬鹿じゃないの!」
「そいつを正気に戻すんだ」
姫里はシロエリの肩を抱いた。狼女の体は冷えていた。
「シロエリさん、シロエリさんですよね?」
「星谷さん、ありがとう。Tシャツ、あったかいよ」
「シロエリさん、本名聞いていいですか?」
「城山愛莉」
「住所、聞いていいですか?」
「本町胡桃沢二丁目。食堂なの。狭いけど」
「寧々さんは?」
「アザミちゃん? アザミちゃんは──」
シロエリの指が、強く姫里の肩にくいこんだ。体を引き離された。
「アザミちゃんと美佳、ヤバいかも! 採石場にいかないと!」
「眠り男は?」ヤモリ女が訊く。
「わからない。でも、きっと連れていかれた。ヤバい、ヤバい、急いでください!」
「なにがあった? 誰かきたのか?」
「誰? 誰って──スーちゃんはわたしの、大切な人ですよ? ゴラムがいう『愛しいしと』ですよ? 白い家はばぁばに知られていないのです。きっと逃げ出せますよ?」
「姫里、もう拳で殴れ!」
「嫌だってば!」
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