2-4
静まり返った
映画館の前に短い行列が出来ている。百円ショップは店内放送の音量を上げている。チェーン展開のドラッグストアはのテーマソングを繰り返している。通りの人の流れが、より太くなっていた。
思ったよりずっと早く終わりそうだ。
ヤモリ女も機嫌良さそうだ。肩を上下させて、どんどん人ごみに混じっていく。
ヤモリ女が、急に振り向いた。「気ぃ抜くなよ、姫里」
姫里は、人ごみを縫ってヤモリ女の隣に並んだ。
ラモードというホテルまで、まだ距離があるらしい。
「ねぇヤモリ女。眠り男が見つかれば、わたしはどうなるの?」
「おまえはミサさんとおうちに帰れる」
「それで終わりだよね?」
「おまえは伯爵の保護下に入る。わたしらのファミリーに仲間入りするわけだ」
姫里は絶句して立ち止まった。
ヤモリ女は気にもとめない様子で歩いていく。
姫里は小走りで追いついた。
「伯爵のために働くのはこれで最後、ってわたしいったよね?」
「好きなようにすりゃあいいよ。だが、おまえの所属は高原台だ。おまえのばあさんも、ミサさんも、伯爵に守ってもらい、伯爵のために働いてきた。お勤めみたいなもんだよ。魔女は代々、吸血鬼と働くんだ。この町ではな」
「それが嫌だから、魔法が使えることをずっと隠してたのに」
「クソみてぇな女だな。運がいいと思えよ。伯爵に拾われなければ、人狼ヤクザの手先になるしかない。ほかに
「まぁ、少しは」
「とにかく、どっかのグループに所属しなきゃいけねぇんだ。だったら伯爵のところが一番だろ」
「どうして? あなたたちだって、ヤクザみたいなもんでしょ?」
ヤモリ女は小さく肩を上げた。「伯爵は平和を求めてる。伯爵は、この町のモンスターを治める支配者なんだから。もめ事があれば解決するし、衝突が起きそうなら回避させる。事件が起これば理非をつけるし、訴訟も苦情も受けつける。それがこの町の秩序だよ。この町の平和なんだ。わたしらは平和を守るために、やることをやる。正義を為すってわけだ。正義の味方なら、少しはマシだろ?」
「……うん」
姫里はうつむいた。
高原台が正義、なんて信じられない。祖母も母親も、伯爵に苦しめられてきた。姫里はそう聞いている。
「あとな、高原台は基本的に太っ腹だ」ヤモリ女は続けた。「支払いでもめることがない。金を持ってやがんだ。さすがのおまえも金持ちは好きだろ?」
「別に好きじゃないよ」
伯爵とやらは、金の力でモンスターを支配するらしい。
百万円は大金だけど、うかつに受け取れない。
「期待しろよ、金のほうだけは」
「いくらお金持ちでも報酬が四百万って高すぎない?」
「報酬ってより、懸賞金だな。眠り男が黙って姿を消して以来、伯爵はずっとやつを探してた。年々懸賞金が上がってついに四百万だ。わたしらツイてるんだぜ。眠り男が帰ってきたことは、まだ限られた者しか知らない。そんな話が広まれば、町中のモンスターが懸賞金目当てでガチャガチャやりだすからな。その前に、わたしらが
「聞いていい?」
「あんだよ」
「高原台の収入源ってなに?」
「事業だよ。不動産とか」
「それだけ?」
「吸血鬼ってのは不死だろ?」
「うん」
「伯爵は古い時代からモンスターたちを助けてきた。人間社会で隠れて暮らしていけるようにな。戸籍や学校、就職。いろんな手助けだよ。金は取らない。ただし稼ぎのなかから毎月、ほんのわずか納めてもらう。その関係は何代も続くんだ。呪いみたいにさ。やがてそれが、土地や所有権みたいな権益に姿を変える。今や高原台には大金が流れこんでくる」
「よくわかんないけど——」
「ミサさんがどうして店を持てたと思う? 保健所はふつう、モンスターに営業許可なんか出さないだろ? わたしらはアガリをもらう。当然だ」
「売上の一部? 納めてるの? お母さんが?」
「ミサさんが自分で選んだことだ」
もっと質問すべきだったかもしれない。姫里はしかし、黙りこんだ。
水に落とした墨のしずくのように、不安感が糸を引いて広がる。
高原台は正義を為す。
ヤモリ女はいった。本気でそう信じているのかもしれない。
体制側としてモンスター社会に奉仕している、みたいなことを。高原台の役割には実際、そういう面もあるのだろう。モンスター社会の役所のような。
「おう、わたしだ」ヤモリ女はスマホを耳にあてている。「車の準備しとけよ。また連絡するからな」
姫里は黙って歩いた。ラモードの看板がやがて、見えてきた。
ルームナンバー三〇四というプレートが設置された扉を、ヤモリ女がノックした。
姫里は、違和感に気づいた。
「眠り男の偽名ってなんだろ?」
ヤモリ女は不思議そうな目を向けてきた。
風俗営業の知識は皆無に近いけれど、こういうお店って、お客さんの名前は聞かないのだろうか。女の子を派遣しても、相手の名前がわからないんじゃ、いろいろ困るだろう。仮にあざみ野寧々が、眠り男の注文を受けて、こう聞いたとしよう。『お客さん、お名前は?』
眠り男はなんて名乗るだろう。
山田? 吉田?
なんと名乗ったにせよ、ボーンズのリーダーはその偽名を、ヤモリ女に教えなかった。こっちからも訊かなかったし、いい忘れたのだろうか。
まさか、
『眠り男だよ』
いくら眠り男が能天気でも、そうはいうまい。
いや……。
本当にそうか。名前のない悪魔が、自分の呼び名を名乗ることって、あり得ないことか。相手が人間なら取り
それに、狼女のスニーカーだ。あのスニーカーが妙に気になっていた。あんまり可愛くなかった。機能性重視の靴を履いて、何かに備えてる、という印象があった。
そういう説明をヤモリ女にしたかったが、ドアが開いた。
「いらっしゃい。入って入って」
喜色満面の中年男性が、バスタオルを腰に巻いただけの姿で現れた。
頭は禿げてるし、お腹はせり出して脂肪がこぼれそうだ。とても予備校生には見えない。
姫里はヤモリ女の横顔を見た。
ヤモリ女は、目を見開いて中年男性を凝視していた。「きゃあ!」と顔をそむけ、ヤモリ女は中年男性に張り手をかました。重い音がして禿げた男性が消える。部屋の奥に吹っ飛んだのだ。買春客も驚いたろう、わずかに残った髪を乱し、頬をおさえて腰を抜かしている。
ヤモリ女が部屋に踏みこむ。姫里はその後に続く。
中年男性は腰を抜かしたまま後ずさった。「い、痛いのはちょっと……」
「ま、前、隠せ、この野郎!」
ひっ、と息を飲んで男性はバスタオルを股間にあてる。
ヤモリ女は深呼吸する。「てめぇはなんだ! なんでここにいる!」
「いや、あの、休憩っていうか……」
「あざみ野寧々に何いわれた!」
「ぼ、ぼくがいったんじゃない。向こうが誘ってきた」
「そんなわけあるか! 死ね!」
「いや、いや、本当、生エッチ頑張る子がいるから、応援してあげてって。そういわれたから」
ヤモリ女は舌打ちして携帯を取り出す。
電話した相手がなかなか出ないようで、ヤモリ女は歯をギリギリ鳴らした。
「あの、あの」男性が姫里のほうを見ている。「一応、二人分お金持ってきたから、良ければ二人ともサポしたいんだけど」
「ごめんなさい。チェンジで」姫里はいう。「ここで待っててください。多分、他の子がきますから。……チェンジって、そういう意味ですよね?」
男性がなにかいう前にヤモリ女が声を上げた。
「眠り男か? ……なんでだよ。誰でもいい。わたしは味方だ。今ホテルか? ……いいか、良く聞け。おまえはハメられてる。……そういう意味じゃねぇ。これは罠なんだ。今からそっちへ向かう女は、おまえの求めてるような女じゃねぇ。……女子高生どころか、ババァだし、とんでもねぇ性病持ちだ。いいか、絶対にドアを開けるな! いいな、今から……おい! 馬鹿! 切るな!」
ヤモリ女は携帯を後ろのポケットに滑りこませる。「先いくぞ! 曲輪町だ」と走り出した。
『眠り男か?』
携帯電話に出ると、女の声でいきなり聞かれた。
ちょっと聞き覚えのある声だ。
「誰? プリンちゃん?」
『なんでだよ』謎の女はイラだっている。『誰でもいい。わたしは味方だ。今ホテルか?』
確かに眠り男は、曲輪町のラブホテルについたところだった。
寧々、という女から、三十分ほど前に連絡があったのだ。女の子の準備ができたから、とっととホテルに入れ、という内容だった。
「デリヘルの人? さっき寧々って人に連絡した。もうマロウドっていうホテルに入ったよ?」
謎の女は怒りを抑えているらしい、低い声でいった。『いいか、良く聞け。おまえはハメられてる』
「まだハメてないよ」
『そういう意味じゃねぇ。これは罠なんだ。今からそっちへ向かう女は、おまえの求めてるような女じゃねぇ』
「女子高生じゃないの?」
『女子高生どころか、ババァだし、とんでもねぇ性病持ちだ。いいか、絶対にドアを開けるな!』
──マジか!
なんという貴重な情報だろうか。
眠り男は戦慄を覚えた。突然コンタクトをとってきた謎の女性が、ぼくを救おうとしている。
陰謀か? なにかが、進行してるのか?
そんな戦慄も次の瞬間に忘れた。ドアがノックされたのだ。
覗き窓に目を寄せると、昨日やってきた女の子だ。確かシロエリちゃんとかいった。
眠り男はホッとして電話を切る。シロエリちゃんなら安心だ。危なく見知らぬ女にだまされるところだった。眠り男は、急いでベッドに戻り、備えつけ電話の受話器をとって、フロントにオートロックを解除してもらった。開錠の音が響き、ドアが開く。躍りあがって出迎えにいった。
「シロエリちゃん、どうしたの?」
シロエリちゃんはライト・ブルーの、布地の大きいブラジャーみたいな服を着ている。
はにかみながら、両手で、眠り男の手を握ってきた。「いこ?」
「え、どこに」
「デートデート」
「デートって?」
「えー、ヤバいー」おもむろに顔を寄せて耳打ちしてくる。「こんなホテルじゃなくて、ね?」
もうひとつ要領を得なかったが、悪い話じゃなさそうだ。
持ち物を確認して部屋を出る。廊下で、またシロエリちゃんと手をつないだ。エレベーターで二人きりになり、沈黙が重くなってきたので、キスを迫った。
「いやぁ、ダメだってー」とかいっちゃって、可愛い。
わくわくしながら、シロエリちゃんとホテルを出た。
曲輪町は、宵町から近いわりに人通りが少ない。道に路駐の車が連なっていた。
「シロエリちゃん、シロエリちゃん。どこいくの? なにするの?」
「なにもしないよ? なにかしたいの?」
「ぼくがいうの? ぼくのしたいこと、ぼくがいうの?」
「えー、うけるー」
シロエリちゃんは、ビルの谷間の目立たない道に、眠り男を引っぱっていった。つないでいた手を放して、止まっていたホンダのミニバンの、後部座席のドアをスライドさせた。「さ、乗って」
眠り男が車内をのぞくと、すでに女の子が乗車している。ピンクの髪の日焼けした小柄な女の子が覆いかぶさるように両手を伸ばしてきて、眠り男の襟首を掴む。同時にお尻を蹴りあげられ、眠り男は物凄い力で後部座席に引きずりこまれた。
驚きつつも、眠り男は、車内で体勢を立て直そうとした。足が動かない。見下ろすと、もう膝と足首に結束バンドが巻かれていた。すごい早業だ。小柄な黒ギャルは、眠り男を座席に座らせて、手首も結束バンドで締めた。
「口、どうします?」小柄な黒ギャルが運転席に訊いた。
運転席にいたのも女だった。にゅうっと首を伸ばして振り返ったその顔が、笑っている。ボーイッシュな雰囲気の、いい女だ。「必要ないよね? 騒いだりしないっしょ?」
「きみは?」
「あざみ野寧々。電話で話した」
助手席にはすでに、シロエリちゃんが座っている。わずかに振り返って、冷い視線を送ってきた。
「ただのデートじゃなさそうだね」
あざみ野寧々は前を向いてエンジンをかけた。「ドライブだよ。出発しよう」
と、不意に車が揺れた。
「とり憑かれたぞ、おい」寧々がいい、
「早すぎっす!」左隣の黒ギャルがいう。
「並みのモンスターじゃねぇからな。クロエリ!」
クロエリ──左隣の黒ギャルが車外に飛び出した。車の屋根を見上げるや否や、鼻血を散らしながらのけぞる。いったい、なにが起きたのかわからない。のけぞりはしたものの、クロエリはすぐに姿勢を戻した。空中にある何かを掴み、地面に叩きつける。透明な何かがアスファルトに弾む──そういう衝撃音がした。女だ。それまでに何もなかった所に、女が姿を現した。この女も肌が黒い。けど、日焼けした黒さじゃない。中東とか、インド系の——。
──ヤモリ女だ。
眠り男は懐かしく思い出した。伯爵に仕えていた女の子だ。
アジア系は立ちあがろうとしたが、クロエリはすでに車中に戻っている。クロエリがドアを閉める前に、寧々が発車した。スライド式のドアが閉まる直前、声が飛びこんできた。
「ヤモリ女!」
眠り男は振り返った。黒髪の女の子が道に立っているのが、リアウィンドウ越しに見えた。前髪に手をあてて、こっちを睨んでいる。いやな目つきだ。何かつぶやいていた。女の子は、前髪にあてた手をゆっくり降ろす。同時に、その手の中から棒状のものが左右に、自らの長さを伸ばしていく。
風に吹き上げられて、少女の黒髪が逆立った。
——ミサ。
いや、違う。違うけど、この娘、魔女だ。眠り男の知らない魔女が、まだ月夜市にいたのだ。
黒髪が肩に落ちつくまで、美少女は動かなかった。あっけにとられた表情をしている。
「馬鹿野郎、なんで撃たねぇ!」
ヤモリ女がわめいた。
姫里は魔法の杖カジモドをヘアピンに変化させた。
「タクシー捕まえてくる!」いい残して、大通りへ走る。
ホンダのミニバンは、すでに見えなくなっていた。
髪の毛をひるがえしてヤモリ女のところへ駆けつける。「ヤモリ女、あんた大丈夫?」
「きょうはいいとこナシだ」ヤモリ女は服の砂を手で払った。「駄目か?」
「駄目みたい。見失った」
「学習塾へいってみよう。やつらがどこへいくか、探るんだ」
学習塾のビルまで、二分ほどだ。
二人はとぼとぼと歩いた。疲れている。
「撃ちゃあよかったんだ。魔法をよ。吸血鬼どもはビシバシ撃ってたろうが」
「こんな真っ昼間の街中で、魔法はマズいよ」姫里はいった。「だいたい、撃ったって車は止められなかったと思う」
「それでも撃つんだよ。リアウィンドウに、ヒビくらい入れられたろ? そしたら追跡の目印になったはずだ」
「わかった。次があったら気をつける。それより、なんなの? さっきの」
「これか?」
ヤモリ女は左手を上げる。その手が一瞬で変色した。黒、茶色、赤、ピンク、白。次々に色が肌を走りすぎて、元に戻った。
「わたしの力だ。着てる服も、触っている物の色も変えられる。光学迷彩だよ」
「透明人間になれるの?」ヤモリ女の横顔を見つめた。「魔法みたい」
「わたしは垂直の壁もよじ登れるよ。ヤモリ女だからな。この指の指紋が、壁や天井の表面をみっちり掴んで吸盤みたいになる」
姫里は声も出なかった。
「おまえの魔法も相当、異常だぜ。まぁ、わたしらは化け物だ。神様の作った物理法則は、わたしらの面倒をみちゃくれない。なにもかも滅茶苦茶なまま放置されてるのさ。おまえ、杖を伸ばしたろ。っていうことは撃つつもりだったんだよな? なぜ魔法を撃たなかった?」
「こだわるね」
「説教したいんじゃない。ちゃんと聞きたい。わたしは質問に答えたろ?」
そういわれると、反論しづらい。「あの後ろの席にいた人が眠り男だよね」
「そうだよ」
「わたし、あの人、見たことある。たぶん、おばあちゃんのお葬式にきてた。それでその、びっくりして……」
「星谷アキのか? あり得ねぇよ」
「どうして?」
「その葬儀には伯爵も出席したはずだ。眠り男がその場にいたなら、取り抑えたに決まってる。人違いじゃねぇのか?」
人違いじゃない。姫里は確信している。
秋だった。雨が降っていた。葬儀の前だったか後だったか、三人の男が庭で立ち話をしていた。ひとりは姫里の父親、もうひとりは銀髪の老人。なにかを熱心に喋っていた一番若い男が、眠り男だった。三人とも沈痛な面持ちだった。祖母が亡くなったからだろうか。それにしても異様だった。三人の傘の中にただよう緊迫感は、当時、五歳だった姫里にとって恐しく感じられた。
わたしのことを話していた──。この風景を思い出すたびに、姫里は考える。小さい黄色の長靴。着せてもらった雨ガッパ。水を吸った芝生。暗い空、触れあいそうにひしめく黒い傘。姫里を見下ろす、三つの蒼褪めた顔。かれらは姫里の姿を認めて会話をやめた。浮かべた微笑みが強張っていた。
それから数年後、姫里が中学二年の時。
父親が前触れもなく蒸発した。
──お父さんに、どんな秘密があったのだろう。
そう思うとき、姫里はいつも葬式の日の、深刻な父親の顔を思い出すのだ。
大通りを右折したミニバンは、スピードを上げた。
眠り男は息をついた。「これだけ女子ばっかりだと、女の子の匂いがこもるね」
誰も答えない。
「この匂い、ぼくは好きだよ」
クロエリがきつい目で眠り男の顔をのぞきこんだ。
「やぁ」眠り男はあいさつする。「眠り男だよ。きみもよく見ると可愛いね」
「やめたほうがいいっすよ。静かにしてないと指折るし」
眠り男の呼吸は荒くなっている。「わかった、黙る」
クロエリちゃんは、なにもいわない。
「ごめんね。うるさくして。許してくれないよね? ぼくのこと、折檻するよね? キツいおしおき……これって、そういうプレイだよね?」
運転席の女がくすくすと笑って、バックミラーに目を上げた。
「……プレイじゃないの?」
「あんた、賞金首になってるの知ってる?」
「いや」
「あんまり、大物っぽくないね」
──賞金か。
眠り男は拘束された両手をあげて、顎を撫でた。
その両手をクロエリちゃんが掴み、無理矢理に下ろした。縛られた手首を、他のドライバーに見せたくないのだろう。
「さっきの女の子、ヤモリ女」眠り男はいった。
「知ってんの?」寧々が応じる。
「古い知りあいなんだ。一回、酔っぱらってエッチさせてくれたことがある」
寧々が吹き出す。「へぇ、どうだった?」
「ぼくと彼女は一言じゃいえない間柄だ。彼女はぼくを殺そうとしてるんだろ?」
「さぁね。どうして?」
「ぼくがやろうとしていることと関係ある。詳しくはいえない。きみたちを巻きこみたくないからね」
「気にしないよ。だいたい悪魔って、死なないっしょ?」
「不老不死でも、殺すことはできる。死んでもすぐ転生するけどね。悪魔はこの地上に、常に七十二。それは不変だ。一人が死ねば、別のどこかで生まれ変わる。それより、高原台にぼくを引き渡せば、ぼくは死ぬよ。殺されて、また赤ちゃんからやり直しだ。それでも引き渡すかい?」
「うちらなんて、いつかみんな死ぬよ。しかも転生なんてしない。ってか、あんたがどうなったって興味ないよ」
「あの、黒髪の子」眠り男は、精一杯さり気なさを装った。「あの子はなに?」
「知らないけど」
「古森町の魔女の娘かな」
「知らない」寧々の口調が退屈そうだ。
クロエリちゃんが、剣呑な目つきで睨んでくる。
眠り男はかまわずに続けた。
「ぼくを誘拐するなら、もっと大それた野心を持って欲しいな。懸賞金って、いくらなの? 一億円とか?」
「一億って。あんたにそんな価値ないっしょ」
「ある。それ以上の価値がある。ぼくの価値はお金にできないほどだ。あの魔女の子がいれば、ぼくらに出来ないことはなくなる。すべての望みは実現し、誰もぼくらに逆らえなくなる」
「ぼくらってなに?」
「ぼくが王となり、きみ達は全員、ぼくの可愛い
「魔女をよこせ、って?」
「ぼくはね、きみたちに、一生分の幸せと愉悦を与えられる。きみたちだって、ずっとデリヘル嬢ってわけにいかないだろう。あの魔女とぼくがいれば、もう永遠に苦しまずにすむし、悩まずにすむ」
「なるほどね。それがあんたの本性ってわけか」
「ぼくらの、本性だ。モンスターのね。いずれにせよ、悪魔を粗略にしないことだよ」
妖気が粘って光るような寧々の目が一瞬、バックミラーに映る。
シロエリちゃんも、わずかに振り返ってこちらを見た。今度は
眠り男は満足して、顎を撫でた。
クロエリちゃんが、その手を無理矢理に下げる。
ビルの入口は、鍵がかかっていた。
「おし、姫里。誰かきたらいえよ」
と、ヤモリ女はデニムパンツのボタンを外した。ファスナーを下げ、デニムパンツを膝まで降ろした。
「ちょ、なんで脱ぐの?」
「ピッキング・ツールを免状もなく持ち歩いてると、警察に捕まっちゃうんだよ」
どうやら、デニムの裏側、内股のあたりにポケットがあるらしい。
遠くに人影があるものの、幸い背中を向けて離れていく歩行者だ。
革に包まれた開錠道具を、姫里はわたされた。ヤモリ女がズボンを履きなおした所で、携帯の呼出音が響いた。
「草上さん?」
電話に出たヤモリ女がいう。
そのまま聞き耳を立てている。やがて激昂した。
「じゃあ、草上さん、取引場所を教えてくださいよ。……ああ? 駄目なんですか? 天下の高原台ですよね。二十歳そこそこの狼女のいいなりですか? ああ、そうでしょうよ。もちろんわかってます。……なるほど。……なるほど。ええ、了解しました。ええ。それでは」
ヤモリ女は電話を切ると、舌打ちした。またズボンを脱ぎはじめる。姫里はピッキング・ツールをわたした。
「どうしたの?」しかたがないから聞いてあげる。
「どうもこうもあるか」ズボンのボタンを留めながら、ヤモリ女がいった。「寧々の野郎、眠り男を捕まえたこと、高原台に連絡しやがった。しかも、高原台は懸賞金を支払う気でいやがる」
「いや、まぁ、そりゃ仕方ないんじゃない? それが目的だったんだろうし」
「これも、小森の糞が余計なことしやがるからだ。いこうぜ。東京吉原で小森をシバきながらビールでも飲もう」
道路に唾を吐き捨てて、ヤモリ女が歩き出す。姫里はあとを追った。
「小森を責めまくるけど、小森を庇うなよ? 野郎に責任を感じさせるのが目的だ。次回、野郎が金になりそうな話を聞きこんだら、優先してこっちに回させる」
「いや、それより」
「ああ、ミサさんな。眠り男が引き渡され次第、ちゃんと解放されるから安心しろ」
「なんだ。じゃあ、万々歳じゃん」
「ぶっとばすぞ。わたしだけじゃねぇ、おまえもだまされたんだぞ。その上、金も横取りされるんだ」
「いやぁ。やっぱり楽して儲けようとか良くないよ」
「眠たいこといってんなよ。ナメられたら死活問題なんだぞ」
宵町に戻って、二人の足は、壁にぶつかったみたいに止まった。
東京吉原が閉まっている。入口にシャッターが下りていた。
ヤモリ女は何もいわず、電話をかけた。相手は出ないらしい。
「おいおい、野郎、バックれたよ」携帯をポケットに入れながらいう。「電話にも出やしねぇ」
といいつつ、ヤモリ女は嬉しそうだった。
「どうして小森さんが逃げるの?」
「知らねぇよ。わたしらと会いたくねぇんじゃねぇの? あいつはここで、眠り男からの連絡を待たなくちゃいけなかったはずだ。それをすっぽかした。寧々に、眠り男のことを教えたのは、やっぱり小森か」
ヤモリ女は何度かまばたきし、「いや、違う」と、自分で結論を出した。
「あいつは図太い。眠り男のことを漏らしたくらいで、この過敏な反応はおかしい。もっとマズいことをやらかしてる。よっしゃ姫里、眠り男を取り戻すぞ」
「え? なんで? まだやるの?」
「嫌なのか?」
「寧々さんが、眠り男を伯爵にわたすんでしょ?」
「みょうな予感がするんだ。このままじゃ終わらねぇかもしれねぇ。やるだろ?」
「うん。まぁ、わかった。やる」
ヤモリ女が、不審そうに眉をひそめた。「やるのか?」
「なに? そういう約束だったじゃん」
「なんでやる? なんかおかしいだろ? なんでだ?」
「やるんだからいいじゃん」
「駄目だ。ちゃんといえ。さっきの話か? 星谷アキの葬式の?」
ヤモリ女は、痛いところを突いていた。
姫里は、聞いてみたいのだ。眠り男と話したい。あの葬式にいたのか、なんの話をしたのか。眠り男が高原台に連れていかれれば、大人たちは姫里と眠り男を、会わせてくれないだろう。姫里は魔女だ。しかしもし連れていかれる前に接触できるなら、姫里は眠り男に聞きたいことがある。
──わたしのお父さんは今、どこにいるの?
と。なにか知っている。そんな気がする。
「あんたのいう通り。葬式のことを聞きたい」姫里は地面に目を落としていった。
「わかった。いいだろう」ヤモリ女が偉そうにいう。
「取り戻すって、どうやるの?」
「あの狼女、用心深いつもりなのさ。眠り男を高原台まで連れてゆき、金と引き換えに渡せば早いのに、あの馬鹿はそうはしなかった。調子のいいことをいってたが、寧々は高原台なんか信用してねぇ。だから自分の指定した取引場所で、眠り男と懸賞金を引き換えようとしている」
「なるほど、その取引場所に乗りこむ、と」
「いや、場所がわからねぇ。草上さんに聞いたが教えてくれなかった。教えれば、わたしらが乗りこむってわかってたんだろ。だけど問題ない。確実なことがひとつある。四百万を乗せた車が伯爵のお屋敷から出発するってことだ」
「ああ、なるほど。その車を尾行する、と」
「違うわ。寝てんのか? わたしらがその車を襲って、四百万を奪うんだよ。寧々が欲しいのはその金なんだから、その金さえ手に入れれば、わたしらが優位に立てるだろ?」
「いやいやいや。だってあんた、伯爵の部下でしょ? 伯爵からお金奪って大丈夫なの?」
「バレなきゃ問題ない。わたしは透明になれるし、おまえはマスクでもかぶりゃあいい」
「お金を持っていく役、やらせてもらったら?」
「そうしたかったけど、駄目だった。一言でいえば、わたしらはこの件から降ろされたんだ。だから奪う」
「あんたさっき、正義がどうのこうのいってなかった?」
「いったよ」
「その前に信義がどうしたこうした、いったよね?」
「姫里、落ち着け。この件に関して今、一番詳しいのはわたしらだ。ここでもう終わった話にしてみろ、無関係みたいなツラしてみろ、それこそ信義にもとるってもんだ。なんにせよ、襲撃するならもう一人、
助っ人を呼ぼう、とヤモリ女はいい、電話をかけた。
「よぉ、ゴローちゃん。きょう動けるか? そりゃいい。ちょっと手を貸してくんねぇかな。車出してほしいんだ。あと、武器だ。小さいのでいいんだけど。あ、それと、マスクってあるか?」
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