2-2
一夜を明かしたネットカフェから一歩踏み出し、眠り男は手でひさしを作って目を細めた。
澄み切った空だった。
ただの朝じゃない。ゴールデンウィーク初日の朝である。みんなに幸せを与える早朝である。
眠り男は、一見して二十代に見える、精気のない瞳をした青年だ。デニムパンツのポケットに手をつっこんで歩き出した。
川沿いの遊歩道を歩いて公園へ向かう。ジョギングする男女と、犬の散歩をする老人とすれちがった。十分も歩けば公園だ。
月夜市民公園は、二十年前より、むしろ綺麗に整備されて見えた。人間はしばしば奇妙な忍耐強さで、時間に逆らうように、新鮮の永続に努める。馬鹿なやつらだ。
眠り男は、迷わず亀の池へ向かった。この池と亀が好きだった。ベンチに腰かけスマホを取り出す。
電話をかける。相手は古い知り合いだ。
呼出音が長く続いた。
『今、何時だ?』機嫌悪そうな声が、電話に出た。
「十時半くらいじゃないかな」
湖岸を見渡すものの、亀が見当たらない。
『十時半じゃない。まだ九時だ。おれ、いったよな? 開店は十時っていったよな?』
「感心しないよ。大の大人が九時に起こされて文句いうなんて」
『説教すんのか? おまえが? おれに?』
「いや、ごめん。怒んないでよ」
眠り男はせきばらいした。口調を変えて、ドスをきかせる。「そんなことはどうでもいい。例のものはどうした。手に入りそうか?」
『なに凄んでんだよ』
「いや、どうかな、って思って」
通話口からため息が聞こえる。『ああ。どうにかなる。正確な値段がわかった。四十万だとさ』
「よん……!」眠り男は絶句した。「そんな高いの?」
『いや、高くない。いくらでもって話だったよな?』
「もちろん。いや、ただ……」
『ただ?』
「いや。大丈夫。必ず支払うから仕入れてよ」
『いいんだな? いっとくけど、現金で前払いだぞ? 大丈夫だな?』
「約束する。弾は?」
『十発』
「混みの値段だよね?」
『もちろん』
「いつ手に入る?」
『もうすぐ。この番号に連絡する。なにするつもりだ?』
「デカいことだ」眠り男は答える。「この街で一番悪いやつが、死ぬことになる」
微妙な沈黙があった。
電話の相手が、先の発言などなかったかのような声でいった。『それはそうと、おれが教えてやった番号、どうだった?』
「最高だった。大変な美人がきたよ」
『スッキリできたか』
「いや」
『いや?』
「スッキリできなったよ。本物の女子高生っぽい女の子がきたんだけど、本番は無理っていうんだもん。しょうがないから、一万円払って、本番出来る子を紹介してもらうんだ」
『デリヘルだっていってんだろ? デリヘルは本番ねぇんだよ!』
「怒鳴ることないじゃん。ゴルゴ 13 が手コキで満足するのって見たことないだろ? 暗殺者の仕事前のたかぶりは、高級なセックスでしか鎮められない。とにかく、やらせてくれる女子高生を紹介してもらえるんだ。きょうの午後に会わせてくれるって」
『なるほど』
「うまくやったろ?」
『かもな。とにかく、金を用意しとけ。無駄遣いはやめろよ? きょうの予定は? デリヘルだけか?』
「さぁ、パチンコ屋にいくか、ウィンズか。いいノミ屋があれば紹介してよ」
『やめとけ。いいな。やめとけ。携帯の電源を切るなよ。じゃあな』
「小森」眠り男は相手の名を呼ぶ。
『まだ、なんかあるのか?』
「本当は昨日会った時にいうべきだったんだろうけど。小森、ありがとう」
『なんだ突然。なんの話だ』
「ぼくに連絡くれたろ? きみのおかげだよ。あの手紙のおかげで、ぼくは気づいた。ものの見事にだまされてた、ってね。高原台のあの男にぼくは復讐する!」
『なに……なにいってる? 手紙?』
「ミサのこと、教えてくれたろ?」
『いや、知らん。知らねぇぞ、なにも。ミサ? 古森町の魔女か? おい、そんなこと他で絶対口にすんなよ! おまえなんかおかしいぞ!』
小森がうろたえ出した。
眠り男はなだめにかかる。「わかった、わかったから。秘密にしておきたいなら、もういわないよ。けど、もうひとつだけ」
『なんだよ!』
「伯爵は、ミサとエッチしたかな?」
『知るか!』
通話が切られた。
眠り男はしばらくぼんやりした。
頭を整理する必要があった。小森の態度が変だった。
とはいえ、わからなくもない。
伯爵は月夜の主だ。埼玉の最暗黒で、高原台の吸血王。小森は伯爵が怖いのだろう。気持ちはわかる。
眠り男とて、怖くないといえば嘘になる。伯爵暗殺はおそらく、大それたことなのだろう。
だが、やらねばならない。伯爵が今の地位にいられるのは誰のおかげか。眠り男が力を貸してあげたから、ではないのか。
二十年前のことだ。
眠り男は恋をしたのだ。古森町の新人魔女・星谷ミサにである。当時、十七歳の女子高生だった。
悪魔と魔女の契約を求めていたわけではない。仕事じゃなかった。胸にキュンとくる神聖な感情を抱いていた。
眠り男は果敢だった。彼女に何度も、愛を打ちあけた。そしてフラれた。四回目の告白の時、ミサは女子高校生とは思えない罵詈雑言を眠り男に浴びせかけた。眠り男の愛は、それで砕け散ったのだった。
眠り男は傷心を抱いて、町を出たのである。
以後二十年間、眠り男は全国を渡り歩いてきた。秋田県でテキヤの集団に入れてもらってフリマ巡りをしていた時、どういう繋がりがあるのか、別の集団が、小森からの手紙を持ってきた。
小森は昔よく一緒に遊んだ、月夜市のチンピラである。眠り男とは妙に馬があった。手紙によると、今は店を持っているらしい。
『今、思い出してみると』手紙には伯爵のことが書いてあった。『あのお方は、おまえの恋愛に少しも協力的じゃなかったな。むしろ、いろいろ考えると解せないことが多いようだ。おまえ、ミサちゃんからヒドいこといわれたろ? 男の気持ちを踏みにじるような。しかし、十七歳の女の子があんなこというかね? あんないい娘が』
いわれてみれば、そうだった。あの口汚さは、女子高生のレベルを越えていた。
裏に誰かいた?
ミサは、誰かにいわされていた?
考えれば考えるほど、あり得ることのように思えた。
『あのお方は、おまえが町を出ても気にもとめなかった。素知らぬフリだ。おまえが消えた後、あのお方がミサちゃんをどうしたか、それは聞かないでくれ。おまえは知るべきじゃない。傷つくだけだ』
手紙を一読して、眠り男の頭はじんじん痺れた。
伯爵は、眠り男の力を利用するだけ利用して、お払い箱にしたのである。
それにとどまらず、ミサを手籠めにさえした。
もうなにも考えられず、なにも思い出せない。
怒りに駆られて、気がついたら月夜市に戻っていた、というのが実感だった。
——伯爵を殺す。
それを果たさない限り、この脳髄の痺れは解消しない。まずは、弾倉が空になるまで引き金を引き、伯爵の頭に弾丸を撃ちこもう。
——魔女がいればな。
ミサ以外の魔女が欲しい。
魔女と契約できれば、なんでもできる。拳銃なんか必要ない。眠り男を甘く見たことを確実に後悔させられる。伯爵は土下座して許しを乞うだろう。
とりあえず一番の問題は、手元に二十四万円しかないことだ。
拳銃の代金に届かない。
——どこかで調達するか。
自分は今、この町で最も危険な存在なのだ、と思い、眠り男はふっと笑いを漏らした。
自動ドアが、ヴゥーンと音を立てる。パレルモ、という喫茶店だ。
「モーニングふたつ」
ヤモリ女は、ウェイトレスに声を張り上げる。別のテーブルで注文をとっていたウェイトレスは、わずかに振り返ってうなずいた。
席につくと、水とおしぼりが運ばれてきた。
「悪くないぞ、ここの。サラダと珈琲がついて五百円だからな」
「げっ」と、濁った声を上げてしまった。お得な値段だ。
ところで、と、話を切り出した。
「ヤモリ女さん──、公共の場所でヤモリ女なんていっていいんですか? 不自然じゃないですか?」
「不自然じゃねぇよ。一応日本語だろ」
「日本語とかそういう——まぁいいや。ヤモリ女さん、わたしの母と連絡とっていただけます?」
「あんでだよ」
「母にお金の場所を聞きたいんです。今、財布に二千円しかないもので。それに母と直接話したいんです。無事かどうか、声を聞きたいので」
「おまえ、ミサさんと、なんか、合図を決めてるだろ」
姫里がギクリとした。こういう場合、母娘のどちらかが拉致されて、居場所がわからない、というケースでの合図はさすがに決めていない。しかし電話で母と話して、せめて監禁場所のヒントだけでも聞き出そう、とはたくらんでいた。
「どうなんだよ」
「わたしは別に……」
「適当なこといってんなよ」ヤモリ女は真面目な顔をしている。「合図があったと思うんだ。そうでなきゃおかしい。発煙筒まで持ちこんで魔法をぶっ放した、おまえの思い切りの良さ。あの思い切りの良さが引っかかる。おまえ、ちっさい頃から、『人前で魔法を使っちゃいけません』って
妙に勘のいい女だ。
「あったと思うんだよ、ママからのゴーサインが」
「あの、お金がないのは本当のことだし、母の安否を確かめるために声を聞きたいっていうのも、別に普通のことだと思いますけど」
「そうかもな。でも駄目だ」
「なんで?」
「おまえが自分の立ち位置、本当に理解してるのかわからねぇ。つまりまだ信用できねぇから、ミサさんとは話をさせない」
「ちょっと……」
「姫里。おまえ、敵と味方を見誤ってんだよ」
「見誤ってません」
ウェイトレスがやってきて、分厚いハムブレッド、サラダ、珈琲の載ったトレイをテーブルに置いた。
ごゆっくりどうぞ。
ウェイトレスが立ち去ると、ヤモリ女がパンをとって身を乗り出してくる。
「わたしらは、味方だ」
「わたしの母を誘拐したじゃないですか」
「保護してるだけだ」
「あなた方は、わたし達に危害を加えたんです」
「おまえはなんだ? 人間か? 違うだろ? おまえは魔女だ。もうみんな、おまえが魔女だってこと知ってんだよ。おまえ、あわよくば人間として生きていこうとか、まだそんなこと考えてるだろ。絶対無理だかんな。おまえはモンスターだ。化け物なんだ。人間の振りをして逃げたりできない。こっち側にきてんだよ。人のいるほうへは帰れない、一生。生涯モンスター。残念でした。ごめんなさい。でも、おまえが魔女として生まれたのは、わたしのせいじゃない」
ヤモリ女は、まくしたてて、きゅうに黙った。
すぐに受け答えできない。
意外にショックを受けていた。
「どうだ、まだ人間として生きていこうとか、思ってたろ」
「思ってないよ」
「本当かよ」
「わたしはただ……」
怪物たちのほくそ笑む暗い世界がある。不気味な連中がいがみあい、互いに嘘をつきあっている。
人間たちの世界は、なにもかも違う。みなで笑いあう、規模の大きい世界だ。そこはお金儲けのチャンスがあって、社会保障があって、安全な上にロマンス的なものも期待できる。
姫里はどちらへもいけなかった。世界と世界のはざまで、母親と息をひそめていた。自分の正体が知られたことは悔しい。けれど、
——スッキリした。
という気持ちも実はあった。
ふたつの世界のうち、ひとつの世界にはこういえる。『わたしは魔女だ』と。モンスターの数だけ、姫里の世界は広がった。そうだ。ヤモリ女は正しい。今までの曖昧さは拭いとられた。姫里の存在は、そう仕向けられたとはいえ、確定したのだ。怪物になってしまったのである。
それがショックだった。
「伯爵さんに力を貸すのは、これが最初で最後です。わたしの母も祖母も、伯爵さんに脅されて、ひどい目にあった。そうですよね?」
「ミサさんがそういったのか? ならそうなんだろ。やりたくないことを頼まれた時は、断ってくれりゃあいいよ。今回のこれは別だがな」
「もちろん、そうします」
「おまえさ、友達いるの?」
「なんですか、いきなり」
「いないだろ。どうせ」
「いますよ」
「なんで嘘つくんだよ。自分の正体を隠してたんだろ? 友達いないだろ」
「友達なんて必要ない」
ヤモリ女が、姫里の目をのぞきこんでくる。「化け物の目になってるぜ。まぁ化け物だからな。おまえが悪いわけじゃない。モンスターには友情とかないんだ。ただし、敵と味方はあるぞ。わたしは、味方だ」
「関係ないです」
「おまえさ、悪魔捜し、引き受けるんだよな?」
姫里はうなずく。
「それ、守れ。せめてそれだけは。わたしらのなかでは、信義はかなり高い値で買われる。信義さえ貯金しとけば、悪いようにはならねぇから。
姫里はパンを手にとって、かじりついた。歯でちぎって、顎を旺盛に動かした。
結局いった。「わかった。認める。ひとまず、仲間」
「わかりゃいいよ。いい話もある」真面目な口調でヤモリ女はいった。「この仕事、報酬が出る。四百万円」
「報酬?」
「わたしが三百万。おまえが百万だ」
「百万って……ずいぶん——」
「文句あんのか?」
「ないけど……」
「てめぇの処女を
満足もなにも、そんな気持ち悪いお金、受け取る気になれなかった。
「それとな」
「なに?」
「わたしは仲間同士でも金の貸し借りはしない。すぐ面倒なことになるからな」
「頼るつもりないから。わたしだって、あんたなんかにお金貸さないだろうし」
「なぁ姫里。わたしが友達になってやるよ」
「なんで? あんたとは絶対に友達にならない」
「友達になっといたほうがいいぜ。優しいだろ? 優しいはずなんだよ。すげぇ優しくしてやってんだから」
姫里のものではない携帯の呼出音が響いた。
「それで、仮にわたしとおまえが、友達になったとするだろ? それでも、わたしがおまえの財布の面倒を見ることだけは決っしてない」ヤモリ女は自分の財布を取り出して、一万円を姫里に渡す。「会計してこい。
ヤモリ女は携帯を耳にあて、姫里を追い払うように手を振る。
レジに、さっきのウェイトレスさんがいた。モーニングは、本当に税込五百円だった。会計がすんだころヤモリ女がやってきた。
「いい知らせだ。野郎、動いたぜ」店の外に出るなり、ヤモリ女がいった。
「野郎って? 例の?」
「そうだ」
「じゃ、いこう」
「急がなくていいよ。急ぐことなんかねぇんだ。釣り返せ。コンビニの店員みたいに丁寧に数えながらだ」
「
「うるせぇよ。立ち話なんかしねぇ。とっとと返せ」
「お釣り、わたしが預かるよ。お母さんが解放されたら、わたしも返す」
「おまえな——」
「わたしね、肉親を人質にして『仲間』とかいって協力を迫るのは筋が通らないって思う。せめて、全然釣り合わないけど、あなたのお金をわたしが預かれば、少しはお互いの立場が公平になると思うんだ。そう思わない?」
「いや、何度もいうようだがな。『保護』を……」
「事実上、人質だよね? すべてがうまくいったら、ちゃんと返すよ。約束する。スマホかなんかに金額をメモしといて。いこう。どこいくの?」
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