第二章
2-1
山で熊に襲われた時は、登るべきだったか、それとも下るべきだったか。
よく思い出せないまま、山を登る、という夢から醒め、
はじかれたように体を起こす。ブルーの布団カバー、目覚まし時計、勉強机、本棚と漫画とぬいぐるみ、ガラステーブルとクッション、ノートパソコン。自分の部屋だった。セーラー服を着たままだ。
ベッドから降りて、ドアへ向かう。耳を澄ますと、かすかに物音が聞こえた。
リビングへ向かうつもりで、足音を殺しながら階段を降りた。気配がある。階段の途中で足をとめて、のぞいてみた。昨日の女だ。ヤモリ女だ。アイスを食べながらテレビを見ていた。
ヤモリ女がこっちを見上げる。頬を膨らませて、口を動かしている。
「よほ。こひよ」
姫里は階段の手すりに身を隠し、顔だけ出しながら、動かなかった。
ヤモリ女は口の中のものを呑みこんだ。
「よぉ、ずいぶん寝てたな」
ヤモリ女は快活にいった。姫里の杖を持ち上げて見せる。「とにかくこいよ。なにもしないから」
昨日の殺伐とした雰囲気が、きょうは見当たらない。ヤモリ女がリモコンを取り、テレビを消す。
姫里は階段を降りた。
ソファから少し離れた場所で立ち止まった。
「あなた、吸血鬼じゃないんですね」
女は、半開きの目を向けてきた。
「違うよ」
「この家には、結界が張ってあるんです。吸血鬼と人狼は、決っして侵入できない強力な結界が」
「へー」
「魔女の結界。甘く見ないほうがいいですよ」姫里は浅黒い横顔から目を離さなかった。「吸血鬼がこの結界に触れれば、強烈な光、脳を焼き切るような強烈な光のイメージが、叩きこまれるはず」
「なるほどな」
「わかります? ここは魔女の家なんです。いろいろな仕掛けがあるし、わたしは杖なんかなくたって、戦える魔法を知ってます」
「戦えやしねぇさ。道具がなきゃあな。まぁいいや。わかったよ。話しにきただけだ。座ってくれ」
「いつ、知ったんですか?」
「なにを?」
「わたしが魔女だってこと」
「いつって、おまえが生まれた時からだよ。魔女がな、自分たちの系譜を断ち切れるはずねぇんだ。魔力を腐らせるなんて選択をするわけがない。それでなくとも」ヤモリ女は鼻で笑った。「バレバレだったよ。わたしの目から見ればな」
腹立たしい指摘だけど、怒りより不安を感じた。
ヤモリ女の落ち着きが不気味だった。
日常のなかに、女の形をした異物がどっしりと腰を据えている。
「それ、わたしのですよね? ガリガリ君」
「そうなのか? まぁ座れって」
「うちの家族を拉致して、うちのリビングを占拠し、ガリガリ君を無断で食べるなんて、これはもう警察沙汰ですよ」
ヤモリ女の睫毛の奥に、愉快そうな光が踊る。
「マジか。じゃあ、通報したほうが良くないか?」
と、デニムパンツのポケットから携帯を取り出した。姫里のスマホである。
姫里は近づいて、携帯を受けとる。母親の携帯へ電話した。しかし、つながらない。
「警察にしちゃあ待たせるな」
「お休みみたいです」
ヤモリ女が立ち上がる。と、手の中にあった携帯が消えた。
蛇が獲物を咬むような素早さで、取り返されていた。
「座れって」
ヤモリ女は、笑顔でまたソファに腰掛けた。
「警察なんぞに連絡したら、今度こそミサさんはヤバいことになる。なぁ姫里。ミサさんな、そりゃもう快適にやってるよ。食事は豪華だし、ワインはヴィンテージ飲みやがるし、スパにも出入り自由。エステ付き三泊四日旅行だよ、あれ」
「だからなんですか? 誘拐は誘拐です。……スパ? そんなのあるんですか?」
「本物の温泉じゃないけどな」
「そんな話、どうでもいいです。家族と引き離すなんて、ひどいじゃないですか。母を返してください」
「誘拐なぁ。本当はしたくなかったんだぜ。ミサさんがあんまりおまえのことを隠すからさ。『あの子の魔力は消えました。今や人間と同じです』なんてな。なんにせよ、おまえがわたしの話を聞かない限り、ミサさんは永久に旅行中だぜ」
姫里はあきらめて、ソファに腰を下ろした。ヤモリ女の斜め向かいだ。
ヤモリ女が、アイスの棒を持った手を前に出し、手首を振る。アイスの棒が回転しながらクズカゴの中に吸いこまれていった。もう笑っていなかった。
「伯爵は知ってるな?」
「高原台の吸血鬼、ですよね」
「この辺りのモンスターはみな伯爵に忠誠を誓ってる。地域のボスと思ってくれ。そのボスに力を貸して欲しいんだ。ちょっとした手伝いだな。それが済めば、ミサさんを返す」
「お断りしたら、どうなるんですか?」
「旅行は終わらない」
「人質を殺すってことですか?」
ヤモリ女が、横目でこちらを見た。
「だいぶ悪い目になってきたな。モンスターの目だ」
反射的に顔をふせた。目つきが悪いのは元々だ。
ヤモリ女は話を続ける。「伯爵は……」
伯爵は、ある男を探している。名前はない。眠り男、と呼ばれている。モンスターだという。その眠り男が今、月夜市のどこかにいる。
「そいつを探して伯爵のところへ届ければ終わりだ。ミサさんは無事な姿で、おみやげ持っておうちに帰れる」
「なんでわたしに頼むんです? 人探しなんてやったことないですよ」
「眠り男ってのはな、悪魔なんだよ」
悪魔と聞いて、姫里にもだいたいのことがわかった。
シロクマの形をしたかき氷製造機のハンドルを回していた、十二歳の夏の昼下りのことだった。母親が悪魔について話し出したのだ。
この地上には、悪魔と呼ばれる存在がいる、というのである。その数は七十二、それより増えも減りもしない。悪魔は不死らしい。キリスト教が教える「サタン」は彼らのことかもしれないし、そうでないかもしれない。
母親から強くいい聞かされた。悪魔に近づくな、と。
現代日本にのうのうと暮らす吸血鬼や、人狼や、妖怪たちがそうであるように、悪魔も伝承とだいぶ違う。
ほとんどの者にとって、悪魔は危険ではない。人間みたいな顔をして、昼間から町筋をぶらついているだけの、ロクデナシでしかない。
しかし魔女とっては違う。
魔女にとって、悪魔はきわめて危険な相手だ。
悪魔は、魔女が大好きで、いつも魔女を追いかけ回している。
悪魔は一人じゃなにも出来ない。だから魔女と契約する。魔女に、大魔王級の魔力を与える。見返りとして悪魔は、魔女を奴隷にする──そんな契約だ。
『悪魔とは話もしちゃ駄目だよ』
悪魔と契約して、いい死に方をした魔女はいないから、という理由だった。
かき氷を口の中で溶かしながら、姫里はうなずいたものだった。
ヤモリ女は憎々し気な口調で、話を続ける。
「眠り男ってのは、ほんの二十年前まで伯爵と仲良くやってたんだよ。それがぷいっとどっか消えやがった。ずっと探してたんだ。あいつは、ミサさんのこと良く知ってる。ミサさんに惚れこんでたからな」
「そうなの?」
「契約しようと追いかけ回してた。そのたびにフラれてたけど」
初耳だった。
「聞いたことないですけど。本当ですか?」
「本当だよ。この目で見たからな」
「いやいや。二十年も前のことを知っているようには見えませんけど」
「わたしはな、おまえの婆さんより年上なんだ。そうは見えないだろうけど」
「あなた、なんなんですか? 吸血鬼でも、人狼でもなく──」
「ヤモリ女だよ。わたしのことはどうでもいい。眠り男だ。やつは古い時代、この地上に具現した悪魔だ。伯爵と同じくらい古い。何人の魔女を食い散らかしてきたかわかったもんじゃねぇ。おまえ、間違ってもやつと契約するなよ?」
「しません。契約した魔女の末路は知ってます」
「悪魔と契約した魔女は、ボロボロになるまで利用され、最後は捨てられる。わかってるな?」
「わかってます。それで、アレですか? わたしを餌にして、悪魔を釣り上げよう、っていう?」
「そんな大げさなもんじゃねぇから。ただ、おまえを目の届くところに置いておきたい。伯爵はな、おまえのことを守りたいと思ってる」
姫里は鼻で笑う。「ひとの母親を誘拐して──」
「おまえ、話、聞いてたか? 保護だよ。保護。保護したの。ミサさんに眠り男を近づけちゃいけねぇんだよ。誘拐、誘拐うるさいよ。無理矢理、車に押しこんだけど、怪我はさせてないから」
「保護?」
「そうだよ。眠り男ってのは邪悪なんだ。いつも誰かを不幸にしてる。そんなやつから守ってやるってんだ。ミサさんはギャーギャーわめくし、おまえはネチネチいうし、親子そろって恩知らずもいい加減にしろよ」
「そうならそうと、最初から事情を話してくれれば……」といいかけて、気づいた。
誘拐騒動の目的のひとつは、姫里に魔法を使わせるためだったに違いない。
姫里はまんまと乗せられたのだ。
「あの、もうひとつだけ」姫里は苦い思いを噛みしめながらいった。「伯爵さんはその悪魔を見つけて、どうするんですか?」
「伯爵は眠り男をお屋敷に迎えて、もてなしたいんだ。あがめたいんだよ。だって悪魔だぞ? モンスターにとって悪魔は、まぁ、宗教的権威だからな」
「あがめる?」
「そうだよ」
「権威なんですか?」
「一応な」
「伯爵さんとやらは、その、あがめるべき権威から、わたしたちを守ってくれる、と?」
「悪魔って恐ろしい相手だぜ。あがめ、奉る以外に動きを封じる方法なんてないんだよ」
「どうですかね」姫里は腕を組んだ。「悪魔って、魔女と契約しなければ、なんの能力も発揮できないって聞いてますけど。そんなのを欲しがるっていうのは、つまり、そういうことでしょ?」
「心配いらねぇよ。眠り男はミサさんとも、おまえとも契約させない。他の誰とも契約させない。誰とも契約させないよう、やつを囲う。悪魔と契約した魔女ほど厄介なもんはない」
うーん。姫里はうなった。
「とにかくその悪魔を見つければ、すべては元に戻るんですね?」
「元に戻るって?」
「そりゃ……」
今まで通りの平和な生活だ。きのうと同じ明日がくる毎日。つまり日常だ。母親が戻れば、日常を取り戻せるはずだ。母親と姫里で繰り返される朝と夜であり、ヤモリ女なんて名乗る異物に踏みこまれない日々である。
「ミサさんを返すってことか? だったらその通りだ。ちゃんと話したろ」異物はいった。「だいたい昨日もその話をしたかったのに、おまえがバカスカ魔法を撃ちはじめるからよ。わたしらは飲み物まで出して紳士的だったろ」
「バカスカなんて撃ってません。……そういえばわたし、どうして気絶したんですか?」
「猛獣用の麻酔を射たせてもらった」
なにかの冗談に違いない。馬鹿にされている。
「その悪魔の手がかりは?」
「実はある。今日中に片づくかもしれねぇ。いくか、ちょっと早いけど」
「まだご飯食べてないです」
「わたしだって喰ってねぇよ。ファミレスかどっかで済ませよう。着替えてこいよ。財布忘れるなよ」
本当に信用していいものか判断しかねて、姫里はヤモリ女の目を見た。
ヤモリ女は笑いを浮かべた。「ほれ、返すよ。おまえの武器」
カジモドを返してくれた。魔女の杖である。姫里は受け取らざるを得なかった。
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