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幼稚園に入園する前の記憶が、
そのころは、視線に力をこめたり、指差すだけで物を動かせた。小さな人形やプラスチックのおもちゃを、触れずに操れたのだ。近付け、遠ざけ、あるいは宙に浮かせることもできた。
同じことをみんなできると思っていた。当時、存命だった祖母にそのことをいうと、
『いいえ』
という返事だ。
『そんなこと、誰もできないよ? ひーちゃんはできるの? 本当に? おばあちゃんに見せられる?』
披露しようとして驚いた。
力が使えなくなっていた。
何度試しても、視線で物を動かす感覚は戻ってこなかった。やがて、本当にそんなことが出来たのか疑わしくなった。空想を、現実と信じてしまったのだろう。
この出来事からまもなく、姫里が五歳のころ、祖母は亡くなった。
六歳になり、小学校へ通いはじめたころだ。
絵を描いていた姫里に、母親が訊いてきた。
『小さいころいってた念力のこと、覚えてる?』
姫里は覚えていた。
『同じことがもう出来るよ。おばあちゃんが亡くなったからね。やってごらん』
いわれるまま試した。
手をかざすとテーブルの上にあった白紙が、乾いた音を立てて縮んでいく。
嬉しいと思うより、不気味だった。
『やっぱり、少し弱くなってきてるね』母親はニコニコしていた。『もうすぐ使えなくなる。魔法はね、使わないでいると消えちゃうの。力の通り道を作っておこう。魔法の道具でいつでも取り出せるようにね』
幸せそうにそういった。
母は、質問すればなんでも答えてくれた。
——あなたはね、魔女なの。
——おばあちゃんもお母さんも。
——わたしたちの一族は、代々、みんな。
——おばあちゃんは、あなたの魔力を封じた。
——あなたをね、普通の子にしようとしてた。
魔力を封印することで、姫里の魔力の源泉を枯らせようとしていた。
『けどお母さんはね、姫里には魔法が必要だと思う』
祖母の決めたことに、母は逆らうらしかった。姫里は従った。母親が大好きだったので。
——このことは内緒だよ。
母親はいった。魔女の力を狙う者はたくさんいる。身を隠していないと危険だ。
『魔法を使ってるのを見られたら、警察に捕まって殺されちゃうから』
母はそんなことまでいった。
世界は一変した。
魔女は、いる。存在している。
魔女だけじゃない。
この世には怪物がいる。たくさんいる。吸血鬼・狼男、鬼、妖怪。隠れひそんでいる。
みんな、人間の顔をしているのだ。
人間そっくりな顔と身体で、人のフリをしている。
血液を持つ怪物、つまり肉体を持つ化け物のほとんどが、人間に種をしこみ、自分たちの力を遺伝させることで、人間社会に浸透し、現代に生き残った——そういうことらしい。今や、怪物たちの姿は、人類と寸分違わない。病院で検査しても人間との違いは見つけられない。
『でもね、姫里。わたしたちは人間じゃない』
そうだ。
自分の正体など、とうに知っている。
怪物の一種、母親のいう、モンスターだ。
このことは誰にも知られてはならない。人間にはもちろん、他の怪物たちにも。魔女であることを知られれば、それを利用しようとする悪人が現れる。
『悪人って?』
こたつでくつろいでいたある年の冬、姫里は訊ねた。
母親と話す時間はいつも心地良かった。
『丘の上にお屋敷があるでしょう?』
『うん』
『あのお屋敷に伯爵っていう、悪い人が住んでる。わたしも、おばあちゃんも、その伯爵に弱味を握られて、ずいぶん、ひどいことをさせられた』
『ひどいこと?』
『とてもね。姫里は大丈夫。魔女の血は引いていても、魔法は使えないってことにしておけば、伯爵は手出ししてこない』
『伯爵は、まだいる?』
『もちろん。伯爵は死なない。吸血鬼だもん』
伯爵は、この町のモンスターの総帥なのだという。
敵はご近所に住んでいる。
姫里と、母親のミサは、いざという時のために合言葉を決めていた。会話におばあちゃんの仏壇関係の言葉が出てきたら、それは家族の緊急事態である。
『おばあちゃんのお仏壇の引き出しに……』と、母親からの電話で聞いた時、姫里は、自分の秘密が露見したことを知った。
木箱のピンセットは、仏壇の香炉の灰から、燃え残ったお線香を取り除くために置いてあったにすぎない。防塵マスクと発煙筒は、こういう場合に備えて準備しておいた。
こうなった以上、魔法を出し惜しみしない。
「草上さん!」ヤモリ女の声。
ソファの陰から、老人が飛んだ。天井に届きそうな高さだった。姫里の頭上をはるかに越え、ドアの前に着地する。ドアを開け、廊下の暗がりに逃げこんだ。
──これが吸血鬼。
防塵マスクの視界の悪さもあって、姫里は戸惑った。杖を構えながら、用心深く、ヤモリ女の座っていたソファの後ろに回った。女の姿がどこにもない。窓を見る。開いてはいない。室内は濛々と煙ってきた。
急いで応接間を出る。廊下に人影はない。玄関ホールの手前まで、足音を忍ばせながら走った。
ホールに人がいた。ふたりの大人だ。道や、電車にいるような、地味なスーツの男の人。こっちへ向かって歩いてくる。小さな瞳に、銀色の反射があった。
姫里はかれらの前に躍り出て、杖を構えた。
こんな時に考えるべきじゃない、と思ったが、考えてしまった。
──撃てるかな。
二人組の大人は、姫里を見ると声を立てて笑った。
防塵マスクをつけた、セーラー服姿の女が面白かったらしい。
風船が割れるような破裂音が、二度響く。二人とも吹き飛んだ。
これがカジモド、魔法の杖の力だ。
空気、みたいなものを操る。よくわからない。空気のような、見えない力だ。漫画に出てくる、念、とか、気、のようなものかもしれない。要するに魔力なのだろう。それを凝縮して発射する。頭やお腹に命中すれば大人の男を失神させられる威力がある。
とはいえ、誰かに向けて撃つなんて初めてだ。
効いてる。薄暗い玄関ホールに、二人の男が大の字になっている。
──効いてるよね?
姫里は恐る恐る男たちに近づいた。だまされている気がした。
間違いない。男たちはうめいている。
姫里はマスクを取って、呼吸を整えた。すぐにマスクを被り直す。
──大したことないじゃん!
姫里はカバンからもう一缶、発煙筒を取り出し、火をつけて床に転がした。ネズミ花火みたいな音とともに、煙が太い固まりになって立ちのぼる。
階段を駆けあがった。
この調子でいい。ヤモリ女も、吸血執事も関係ない。撃つ。撃って転ばせる。大の字にさせる。気絶させる。失神させる。わたしたちに手を出した罰だ。星谷の魔女をナメると、こうなるとわからせる。伯爵とかいう吸血鬼にだって、喰らわせる。眠ってもらう。
二階の廊下には、うっすらと煙が立ちこめている。最後の発煙筒に着火して、進行方向に転がした。たちまち視界が白く埋めつくされた。どこかに気配があった。姫里は慎重に進む。誰かが咳をした。それにかまわず、姫里は気配のほうへ目をやる。頭上だ。異様な跳躍力の持ち主は、両目に不気味な光を帯びていた。杖の先端を向けて魔力の砲撃を放つ、煙に丸い穴が空く。
吹き抜けのホールへ落ちていく、短い悲鳴があった。
「ヤモリ女!」くぐもって声にならないかもしれないが、姫里はわめいた。「いるんでしょ? 相手してあげる」
あの女に抱いた恐れが、まだ胸に残っていた。
姿が見えないのは落ち着かない。
腹に一撃喰らわせば、あの女だって床に沈むはずなのだ。
「隠れてないで出てきたら!」
反応がない。姫里は一息で廊下を走りきった。
廊下のつきあたりに、目的の扉はあった。一度振り返って、誰もいないのを確認する。慎重に扉を開く。
光にあふれた温室みたいな部屋だった。南側はガラス張りだ。天窓からも光が降りそそいでいる。南国の植物の鉢植えがいたるところにあった。姫里はふと、ささやき声を聞いた。後ろを見た。誰もいない。前方に目を戻す。廊下のほうを見る。誰もいない。
強い力で、背中から身体を抑えこまれた。
首筋に痛みを感じた。注射されている感覚が続いた。
どう振りほどくか。振りほどいて、反撃する。敵を倒して、母親を探して、星谷家を……。
なにもない空間に、サイケデリックに回転する
光学迷彩は、ヤモリ女の能力の一つだ。
「お見事です」
声のほうを見ると、草上さんがお盆を持って立っている。ヤモリ女は注射器をお盆に乗せた。
女子高生は意識を失い、床で丸くなっている。
身をかがめて、女子高生の防塵マスクを取る。黒髪がカーペットに広がり、無防備に目を閉じた少女の横顔があらわれた。こんな安物を被って走り回ったら、さぞ息苦しかったろう。
防塵マスクを草上さんのお盆に乗せ、ヤモリ女はさらに、少女の手から杖をもぎとる。
「ノートルダム、の、お、と、る、だ、む」
なにも起きない。魔法の杖もお盆に乗せた。
そこへ、アオジタが入ってきた。お屋敷の警備担当の、小柄な吸血鬼だ。ダークスーツに包まれた身体を折って咳をしている。
「見事に喰らったな」ヤモリ女がからかうと、アオジタは顔を上げた。
「大したことない」
「二階から落とされてたじゃねぇか」
「別に大したことない。それよりお屋敷が火事になるところだ。おい」
部屋になだれこんできた吸血鬼の集団に、アオジタはいった。「窓を開けろ。煙くてかなわん」
「消火は?」
「今やってるよ。ヤモリ女、お前の失態だからな。そう報告するからな。……こいつか」
「そうだ。古森町の新しい魔女」
「アキさんに生き写しだな。どうするんだ? これ」
「さぁな」
いいタイミングで、伯爵からスマホに電話がかかってきた。ヤモリ女は電話に出た。
「伯爵」
『どうだった?』
「見事に尻尾を出しました。こいつは正真正銘の魔女です」
『で?』
ヤモリ女はわずかに言い淀む。「ま、いいと思います。実力はまだまだですけど、度胸はあるし、どうにかなりそうです。合格でしょう」
『なら遠慮なく使え。いい知らせを待っている』
電話は一方的に切れた。
ヤモリ女は、草上さんを見て、アオジタを見て、最後に女子高生を見下ろした。
魔女はすやすや眠っていた。
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