第4話
最初に違和感を感じたのは彼の目線だった。
廃屋で十字架を手入れしているヘンリーの横顔を眺めている時に、そういえば彼が聖書を手に取り文句を唱える所を見た事がないのに気づいたラノゼは焦点のいまいち合わない目を細めて彼の顔を見やった。
この街では誰もが役の仮面を被っている。
座長からは「幕が上がった間は、 役者の演技の矛盾を言及しないこと」……つまりは相手の素性を暴き劇の邪魔をしないように、と伝えられていたが、いつ素性を知らないが為に相手の心苦しい所に踏み込んでしまうかを思うとラノゼはどうしても彼等の秘密や隠し事を察することができないかと頭を巡らせてしまうのだった。
「文字が読めないのか?」
ラノゼの言葉にヘンリー神父はサッと顔色を悪くして身体を硬ばらせる反応で返した。
どうも知られたくなかった事を聞いてしまったようだと内心舌打ちをしたラノゼは慌てながら質問を重ねた。
「そういえばお前は遠方から街に来た奴だったか?こっちの字はわかるか?向こうで勉強するには戦争もあったしバタバタしていただろう」
「…ええ、ええ!そうなんです。沢山の方とお話したい一心で喋りはなんとかしたのですが」
あからさまに安堵し十字を握りしめていた手を緩める神父を見て軍師は自身の中にあった感情は相手を気遣い様子を伺う物だけでなく浅ましい好奇心も含まれていた事に思い至り、小さな罪悪感の棘に苛まれることとなった。
「その分読み書きの方を疎かにしてしまって」
そして神父の仮面を被った小悪党は嘘方便で口を回す事に長けていた為に、ラノゼは胸に残った罪悪感も合わさってその言葉を簡単に信じた。
「喋りができるだけでも上出来だろう!そうだ、ウィリアムの所で勉強しないか?俺なら多少筆記に自信があるし、助けてやれる事があるかもしれん。」
そう言うと神父は僅かに首を傾げてから口を引きつらせて笑った。細められた赤い目が睫毛の影の中で暗く濁っていたのがやけに怪しく見える表情だった。
「そんな、申し訳ないですよ」
「何、神父様の力になれれば我等の神もお喜びになるだろう。どうしてもと言うなら代わりに向こうの暮らしの事を話してくれよ。ルイスの店で酒の肴にする」
そうまくし立て、ようやく一息ついた所に二人の背後からガタリと大きな物の倒れる音が立った。ラノゼがびくりと肩を跳ねさせて恐る恐る後ろを振り返ると彼等のいる部屋の突き当たりの方にある奥の扉からガタガタと先程より控えめな音が立て続けに溢れてきた。
「ところで、この音は」
「ああ、少し部屋の掃除を手伝ってもらっていまして」
ヘンリーは日替わりで変わる廃屋を教会と言い張ってそこに暮らしている。穴の空いた屋根や壁から陽の光が差し込み埃が舞う廊下を進むとラノゼは扉を開けて部屋を覗き込んだ。
「なんだ、エリスじゃないか」
モップを片手に木の棚の位置を確認していた黒髪の青年が満面の笑みでラノゼの方に振り向いた。
ラノゼはエリスとは秘密を共有した仲だった。
顔をすすだらけにしながら煙突の掃除を行なっていた彼を手伝って以来二人は良き友人として時折会話を交わすことが多かったが、つい先日その会話の延長で普段質問されない限りは語ることのないような家族の話をする事になったのが分岐点だった。その過程で互いに謎の信頼関係ができたようにさえラノゼは感じていた。相手の失意や苦労を案じ聞きあえる仲だと。…彼がどう感じているかはわからないが。
「やや、軍師殿ではありませんか!お会いできて嬉しいです」
「今日はここの掃除をしていたのか。いつもご苦労」ラノゼが柔らかい口調でエリスを労うと、彼は先程より一層太陽のような笑顔を浮かべるとありがとうございますと礼を返した。
「御二方でつもる話もあるでしょう。それでは私はそちらの神父様の十字架を元の位置に」
エリスがさかさかと神父の元に歩み寄り十字架を恭しく預かるとヘンリーは首を傾げながらラノゼの方を横目で見やった。
「元の位置にですか?教会に?」
「いえ、ああ、そうではなく、この家のあるべき所にですな…また上に括り付けるとばかり」
「なんだ、お前も誘おうと思ったんだが」
エリスは軍師の言葉を聞いて墨色の髪に隠れた青い瞳を丸く見開いた。「ご迷惑でないのなら是非!!なんでしょうか?下水の掃除ですか、水道の垢落としですか、煙突のすす取りですか、それとも───」
「いいか、落ち着いて聞け、文字の勉強だよ」
ラノゼがエリスの口元にバールを突きつけながらそう言うと、エリスは一瞬ぽかんと口を開けて唖然としたがすぐに顔を綻ばせ、喜んで!と声を上げたのだった。
「良き事を行う良き人々に、良い事がありますよう。アーメン」
軍師が廃屋を出る時、ヘンリーはそう言って微笑むと静かに十字を切って彼を見送った。
「いつものみまわりか?ひまなやつだなあラノゼは」
トラジェターフォードは昼の熱気が薄い街だった。役者達が表情を隠し目を開いて台本を読み上げるには、天から注ぐ太陽の光が眩すぎる事が第一にあり、次に整然と並んだ街並みから一転視線を落とせば路上に打ち捨てられたズタ袋や瓦礫の山が明るく照らされているのが眼に映る。舞台そのものが自身らを現実に引き戻す一因となり得るのを狂人達が憂いて家に篭っての事であった。
軍師が聞き慣れた声に僅かに眉を動かし振り向いたのは丁度西日が赤茶色の屋根を一層赤く染め上げていた時分の頃で、トラジェターフォードや中央のパペット通りが騒がしくなり始めるのは大概がこの時間だった。
「お前がこの通りに居るのは珍しいな。ご自慢の"拠点"はどうしたんだ」
「たいくつしていたのさ。おなじようにたいくつなやつにあいにきたんだよ」
「俺はいつだって忙しい、ロビン」
ロビンは街の中でも特に名の広まっている悪党だ。ラノゼの悪友の一人でもあるが、彼の背丈と年齢は軍師より一回り上であった。目を隠す長くざん切りにされた髪を見る度にラノゼは自身の方の視界が気になりだし、指で濁った茶色の髪を弄りながら視線を前へと戻した。
「ぼくはここにくることはあまりないからたのしいな!あそこにはこげたボードゲームがあるし、むこうにはとけいもあるぞ」
「目敏いな」
キョロキョロと首ごと視線を振り回しながら瓦礫や建物の陰に隠れたがらくたを見つけていくロビンに軍師はやや呆れた様子で返事を返した。悪党は次々とゴミ山から宝を見定めては指差していくが、歩いて暫く経った頃にふとその動きが止んだ。
「顔色が悪いぞ」かけられた声に悪党は曖昧な返事を返しながら突然進路を変えて瓦礫の山の方に入っていく。ラノゼが怪我をするんじゃないかとヒヤヒヤしながら見守っていると、思いのほか短い時間でロビンは目当ての物を掴み此方へ戻ってきた。
「絵本かと思ったけど違うみたいだ」
「分厚いな。闇市で売る気でも?」
草色のコートをはためかせながら瓦礫の山から飛び降りてきたロビンは片手に持つにはやや大きすぎる茶色の装丁の成された本を暫く眺めてから小さく溜息をついた。
「いいよ、これは僕の欲しい本じゃない」
投げ渡された本をよろめきながら両手で受け取ったラノゼは本の背表紙を見て金地の刺繍で刻まれた著者名を確認した。
「ああ、この作家の名前には確かに覚えがあるな」グレアム・ギャロウェイと記されたその背表紙を指でなぞりながら、ラノゼはある人物を脳裏に浮かべて肩を竦めさせた。
パペットストリートを南西に曲がった所に公園と壁の外装の剥がれが目立つ建物のひしめく街並みが目に入る。
ラノゼは小走りに公園を横断して路地の方へ向かうと、薄暗がりに向かって快活に声を投げた。
「また酔いつぶれているんじゃないだろうな」
「これから彼女と夜を共にする所だったよ」
明るくなごやかな声が軍師の耳朶を打った。
ガサガサと新聞紙や皮布を退かしながら起き上がる大きな影を見てラノゼは顔を綻ばせた。
「オリックス!やはりここだな」
そう呼ばれた茶色の外套に身を包んだ詩人の男は笑みを浮かべた口元で酒瓶(つまりは彼の今日の一夜の女の事だ)に口づけを落としてからラノゼの方を見やると、髪や肘についた土を払いながらふらふらと此方に近づいて来た。
「すまない、足元は照らさなくて結構」
ここは動き慣れているからね、と笑うオリックスに軍師は掲げようと片手に持っていたカンテラを足元に下ろしてつらつらと用件を切り出した。
「ああ、そのままで構わない。お前が良く探していた作者の作品があっただろう、今日見つけたんだがこれが…」
そこまで言った所でラノゼははたと口を結んだ。懐から取り出した茶色の本をオリックスが視界に入れた途端に周囲の温度が一気に下がったように感じられたからだった。
「それは本か」
サッとオリックスの顔から血の気が引いたのがラノゼの目にも良くわかった。普段の様子からは想像もつかないその狼狽の仕方に呆気に取られるのもつかの間、詩人はラノゼの手から乱暴に本を掴み取り自身の腕の中に収めてしまった。
「読んだんだな」
予想もしていなかった言葉にラノゼは目を白黒させた。たしかに普段の彼ならばこの詩人に本を渡す前に何ページか軽く目を通していたかもしれないが、この日のラノゼはそれをすっかり失念していたのだった。
「いや、俺はまだそれを開いていない」
「こんな良い状態で残されていた書物をかの軍師殿が読まないとはとても驚いたな」相手を突き放すような皮肉がオリックスの口から出た事にラノゼは吃驚した。呆気に取られた軍師の顔を一瞥すると詩人は今迄聞いた覚えのなかった低い声で残念だと呟き、踵を返して路地の方へ向いてしまう。
「いくら嫌いな作者とはいえそれを燃やすのは惜しいだろう。そんな良い状態で残っているのに」
建物の影へ本と共に消えてしまいそうな友人の背にラノゼは慌てて声をかける。
「あるべき所に返すだけだ」
目を白黒させて答えに窮したまま彼の汚れた外套を掴むとゆっくり詩人は此方の方に振り向いた。流れる思い沈黙とやけに冷えた視線に耐え切れずラノゼは口を開いた。
「勉強に使う」
オリックスが驚いたように軍師の方を見た。視線のかちりと合わさったままの状態でラノゼは浮かんだ言葉を丁寧に選びとりながらゆっくり詩人に語った。
「ここの文字の書き方を人に教えるのに資料がいる。話があって言葉に教養のあるものがいいんだ、地方紙や天文学の本では良くない」
「馬鹿な」茫然と漏れ出た言葉を遮り「だから頼む」と軍師は詩人の手に掴まれた本の表紙をおずおずと掴んだ。
オリックスが少し躊躇った様子を見せてからかぶりを振り本を左手に持ち換えようとしたその時、茶色の背表紙が風に煽られて彼の掌から勢いよく滑り落ちていくのがラノゼの瞳に映った。
本は、ばさりと音を立てながら著者近影の頁を上に地面に落ちた。
「グレアム・ギャロウェイ」呆然と開かれた口から零れ落ちた小さな言葉を塞ぐように、クロエは目を伏せたまま言葉を重ねた。
「オリックス?」
しかし、返事の返ってこない事に違和感を覚え静かに顔をあげた時、かの詩人の姿は街の暗がりに消えてしまい、もう彼女の視界には映らなかった。
二次創作的断片文 @po_ka_mann
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