第9話


 ――引田が目を覚ましたころには、既に、この日最後の授業。

 六時間目、現代文も何事もなく終わっていた。

 大和は休みかと聞く先生に、ぼうっとしていた楠本が「お爺ちゃん死んだらしいですよ」と返してしまい、『さっきと死んだやつが違うぞ……!?』という緊張が教室に走ったことを除けば、本当に何事もなく終わった。

 となると最後に残るのは、帰りのホームルームである。


「……委員長、見つかったか?」

「いや全然っす。っていうか、今下駄箱見てきたら靴なかったんで、もしかしたらもう帰ったかも……」

「はぁ!? こんだけ探しといてもう帰ったって何!?」


 疲れ切った声色で報告する楠本、ヒステリックに叫ぶ女子たち。

 そして、教卓の前で頭を抱えている担任。


「やっぱ先生、三時間目の時点でちゃんと話聞いとくべきだったんですって。なんでこんな面倒なことになってんすか」

「おまえ楠本、そうは言うけどな。俺だってあのときはめちゃくちゃテンパったんだって。大和だぞ? あのめちゃくちゃ良い子の、もうほんっとあいつが委員長で助かったって毎日思ってるあの大和が髪の毛真っ赤っ赤だぞ?」

「チョーク五本くらい折りましたもんね……」


 まだ二十代のこの若き担任は、生徒との距離が近いと言えば聞こえはいいものの、頼りがいがない。

 それまで委員長を捜していたB組の面々も、放課後になるとさすがに帰るか部活に行くかする者が増え――


「……っていうか、もう別によくない? どっかに帰ったか隠れてるか知らないけど、見つかったらヤバいって向こうもわかってるんでしょ」

「そりゃ委員長にはいっつもお世話になってるけど、こういうふうに皆に迷惑かけていいわけじゃないよ」

「いっつも真面目真面目で正直ウザいなって思ってたけど、マジで意味わからん。何が気に入らんのか知らんけど、ガキかよ」


 ――昼休みと比べ、人影もまばらになった今のこの光景は。

 統率力のなさを、象徴しているとでも言えばいいのだろうか?

 そんなことを考えてはいるものの、引田は教室に残った側の人間だ。とはいえ何をするでもなく、ただひとり自分の席に座っている。

 その引田の、ひとつ前の席に。どっこいしょ、と疲れた声を上げて甲本は腰を下ろした。

 

「だいぶ今更だけど、聞いていいか?」

「なに?」

「おまえは結局、なんで委員長捜すの手伝ってんだっけ。そういやわかんなくなった」

「……なんでって」


 委員長が停学になると、文化祭の準備が回らなくなる。

 これはクラス全体にかかわる問題なのだから、協力して当たり前ではないのか?


「いや、まあそうなんだけど。つってもぶっちゃけ、そろそろ諦めて帰るやつも出てきてるわけじゃん。っていうか……」


 そう主張しようとした引田を遮って、甲本が続ける――


「これ、別に嫌味とかじゃないけど。……おまえ、転校生だろ? このクラス来て、まだ、たかだか三か月くらいの、転校生。そこまでする意味あるかなって」


 ――たしかに、嫌味のようにも取れる台詞だった。


「親父さんの仕事が落ち着いて、それでこっちへ戻ってこれるようになった、って聞いたときは、まあ。俺も河野も、嬉しかったよ。転校生が来るらしいぞー、男か女か、イケメンか美少女か、ってクラスで噂になってるときに、実はそいつ俺の中学時代の知り合いなんすよー、っていつ言ってやろうかいつ言ってやろうかって……いや、なんか結局言うタイミングなかったけど」


 まばらとはいえ、教室にはまだ生徒たちと担任が残っている。

 けれど不思議なことに――このとき、二人の会話に耳を傾けている者は誰もいなかった。


「俺とか、河野なら、まだわかるよ。昔の知り合いだからな。でも……委員長って、おまえからすれば、知り合って三か月かそこらだろ」


 なんで、そこまで委員長を気にする?

 責める声色ではなかった。問い質すような声ではなかった。

 それは、引田の友人としての甲本の声。

 甲本は、その声に一切の不純物を交えず――ただ不思議だと、それだけ聞いていた。


 それが嫌味にならなかったのは。

 家庭の都合で転校を繰り返した引田が、ひとところに留まることのできなかった引田が、それでもなんとか繋いだかすかな縁――友情によるものである。


「……まあ、俺は――」

「……今思えば、俺が、あのときもっと……真剣に、話を聞いておくべきだったのかもしれんな……」


 が、引田の返事は担任の言葉に遮られた。

 別に担任の声は取り立てて大きいものでもなかったのだが、台詞が妙に意味深だったものだから。引田も甲本も、思わずそちらに興味を惹かれてしまった。

 それは楠本も同じだったようで、すぐさま彼は先を促す。


「なんか、あったんすか?」

「……七月のな、期末テストの返却があった日だ」


 曰く、夏休みも近い七月の末。授業でやることと言えばもう期末テストを返却するだけ。そのため、学校は午前中だけで終わり、生徒たちは早々に帰ってしまうはずだったのだが。

 ちゃんと施錠されているかの確認に、担任が教室を訪れたところ。そこにはなぜか、委員長が一人だけで残っていて。何をしているかと思えば――


「……テストの答案で、紙飛行機を作って。それを、窓から投げてたんだ」

「委員長が、んなことしてたんすか?」

「ああ。俺も意外だったから、なんか悩みでもあるのかって聞いたんだが……なんでもない、って笑ってごまかされてな。冗談だろうと思ったから、その場はそれで流したんだが……今思えば、あの真面目な大和が意味もなくあんなことをするわけがない。あのときもう、なにか悩みを抱えていたのかも……」


 平時なら、なんということのない話だ。

 委員長もたまにはふざけることくらいあるだろう、その程度で済まされる話。

 けれど、今は状況が状況なためか。こんな笑い話でさえ、教室の空気は重苦しくなる。


 沈んでしまった生徒たちを気遣ってか、担任は二、三度手を打ち鳴らした。


「……わかった、とりあえず今日はもうみんな帰れ。明日……明日もまだ何かあるようなら、俺のほうから大和の家に電話する」


 頼りないと言えど担任は担任、さすがにこの決定には力がある。

 未だ教室にとどまっていた生徒たちもしぶしぶ帰路に着き――

 引田と甲本も、荷物片手に教室を去ることとなった。

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