第8話


 五時間目の授業は英語――だったが、正直なところクラス全体が上の空であった。


「あら? 今日は大和さんお休み?」

「ああ、なんか親戚のおじさん死んだらしいっす」


 楠本の雑なごまかし方に誰もフォローを入れない程度には、上の空。

 そんなだから、引田も授業などまったく聞いていない。中年女教師の読み上げる英文を右から左へ聞き流し、手の中でシャーペンを回しながら、頭の中で考えていることといえば――

 委員長の、本性。

 真面目な委員長の姿は仮初で、本当は内申点目当てにいい子を装っているだけの遊び人なのだろうか。

 転校してきたばかりの自分を、校舎の隅々まで案内してくれたのも――先生に頼まれたから、評判が落ちては困るからとそうしただけで、内心では面倒に思っていたのだろうか?

 思考はどんどん深く沈み、引田はいつの間にか眠りに落ちていた。しかし考えることをやめたわけではない。なぜなら引田は夢を見ている。六月、転校初日の日――委員長の後について校舎を回った、あの日の夢を。


 *  *  *


「……というわけで、ここが音楽室。でもまあ、うちの学校は美術と音楽と家庭科からひとつ選択って仕組みになってるから、もしかしたらここには来ないかもしれないね」

「あー、それ聞きました。もう決めました」

「お、そうなんだ? まだ初日なのに。……へー、転校生ってそういう仕組みなんだ……へー……」


 ふーん、へぇー……と珍しいものを見る瞳をまじまじ向けられた引田は、妙に気恥ずかしくなって、委員長から目を逸らした。


「で、どれにしたの?」

「えっと……。絵はヘタクソだし、裁縫とか料理も、小学校の家庭でもうこりごりだなって思ったんで……消去法で、音楽です」

「あはは、消去法なんだ? え、普段なんか音楽聴いたりとかしないの?」

「あー……」


 聞き慣れた質問だった。

 両親の仕事の都合上、引田は小学生のころから何度も何度も転校を繰り返してきた。

 当然、このように初対面の相手と――探り合いのような世間話を、する機会も。人より、ずっと多かった。

 なにか音楽は聞くのか、好きなバンドなんかはあるのか? 無難な質問と認識されているのか、中学に上がったころから、こうした問いを投げかけられることが多くなった。


「えーっと、ラクーン・エクスターミネート・プランってバンド、あるじゃないですか」


 別段、音楽が好きというわけでもないのだが。

 引田は、こうした質問に対する解答を、あらかじめ〝予習〟することを覚えた。


「知ってる知ってる。えーっと、三人組のガールズバンド。今年の紅白出るんだよねたしか」

「そうそう、あれが好きですね。ボーカルの子がかっこよくて。かっこかわいい」


 相手が名前を知らないようなマイナーなバンドを上げてはいけない、それはただ気まずくなるだけだ。

 しかし、誰もが知っているような有名どころをチョイスするのもよくない。『趣味は読書です』と言うようなもので、本心を出していない、この場を和やかに乗り切るための世間話でしかないというのが露骨すぎる。

 だから、それらの中間点を挙げる。ほどほどの知名度はあるが、「こいつ適当言ってないか?」と疑われない程度にはマイナーなものを。

 何曲かは聴いたことがあるし、好きだというのも別に嘘ではない。

 けれど、本心と言うにも少し違う――


「そっか、音楽かー……じゃあ家庭科室とか美術室とかは案内してもしょうがないかな?」


 そこで話題は変わったので、そんな微妙な感情はおくびにも出すことなく。

 引田は、探り合いの会話を乗り切った。


「はい、大丈夫です。なんか用があるときは誰かに聞くんで……っていうか、用ができるころには、さすがに校舎の間取りくらい覚えてるでしょうし」

「って、いやいや冗談だから。ちゃんと全部案内しますよー、なんたって私委員長ですから」

「え……や、そんな。別に……」

「……あ、そっか。もし引田くんのほうがめんどくさいって思ってるなら、それならちゃんと、やめとくけど」

「いや、そういうわけでもないんですけど……」


 なんと言ったものか、と引田は言葉を選ぶ。

 正直なところ、家庭科室に行く行かないという話自体はどうでもいい。が、しかし。


「なんていうか……悪いんで。いや、面倒じゃないですか?」


 ピンと来ない表情を浮かべている委員長、それを見てこめかみを押さえる引田。

 ぽつり、ぽつりと補足する。


「校舎を案内してもらう、っていうのは、まあどこの学校行ってもありましたけど……、委員長に案内してもらうのって、初めてなんですよね」

「そうなの?」

「だいたいは先生だったんで。いや、ここの高校だと委員長がそこまでするんだなー、と」


 ふむふむ頷きながら聞いている委員長に、だから、と引田はさっきと同じことを切り出した。


「だからまあ、なんというか……正直、面倒じゃないですか? 転校生の案内って委員長の仕事かなあ、とか……思いません?」


 最初、担任の教師が委員長に校舎の案内を命じたとき――引田は、校舎をざっくりと一回りして、後は適当に流れ解散、くらいのツアーを想定していた。

 が、実際はどうだろう。委員長は本当に隅から隅まで引田を連れまわしているどころか、同じクラスの甲本が先月この廊下でバナナの皮を踏んでコケたとか、隣のクラスの河野が去年パソコン室に忍び込んで捕まっただとか、ちょっとしたエピソードまで交えてくるのだ。

 それ自体は引田も楽しんでいるのだが、しかし行き過ぎるとかえって不安になる――なんだか無理をさせているような、申し訳ない気分になるのである。


「というわけで、後はもう適当に解散してもらってもこっちは全然大丈夫なんで、って……」


 だから引田はもう終わって構わないと先ほどから言い続けているのだが――

 しかしこのときのこの言葉は、委員長の視線に遮られて止まる。


 今までハキハキと喋っていた委員長が、なぜだかぽかんと口を開けて、ぼうっと引田を見つめているのだ。 


「……あ、えーっと。これ、あれですね。僕が帰りたいからそれっぽいこと言ってるみたいに聞こえますね」

「ううん」


 わけがわからなくなって、ごまかしのような、自分でもくわからない台詞をしどろもどろに並べ立てる。が、委員長はそれを短く切り捨てた。


「ううん、ありがとう。でも大丈夫」

「大丈……?」

「私は委員長で、これは委員長の仕事だから。大丈夫大丈夫、ちゃんと最後まで案内するよ」


 そう言って委員長は歩き出したので、仕方なしに引田もその背中を追う。

 ただ、委員長の歩みは三歩ほど歩いたところで一度止まった。何事かと足を止める引田、ゆっくりと振り返る委員長――


「……でも、気遣ってくれて、ありがとうね」


 にっこりと微笑みながら言われたその台詞。

 結局引田は六月の日が暮れるまで校舎を歩き回ることになり、結果、校舎のどこに何があるかとか、自分のいなかった時期、いつどこでどんな面白エピソードがあったのかを知ることになった。

 いや、引田が知ったのはそれだけではない。


「……あ、そうだ。ふふふ、よーし! 優しいこと言ってくれたお礼に。ひとつ、この学校の秘密を教えてあげよう!」

「は? 学校の……秘密?」

「そう、秘密。委員長はなんでも知ってるんだよ」

「……はあ、そうですか。で、えーっと……その秘密っていうのは――――」



 *  *  *

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