8話
1
私は潤君からはじめて聞いた、長い長い話に黙って耳を傾けていた。
やっぱり、という感想が真っ先に頭に浮かび、それを私は首を軽く振って否定した。いや、やっぱりって何だ。あの子は人を殺したくって殺したんじゃないのに……。
既にあいつの死体を置いて逃げてきた時点で、私のタガもどこか外れてしまったらしく、人をふたりも殺した話を聞いても、どこか他人事のようだった。実際私が殺した訳ではないのだけれど。
「あのさ、ひとつだけ訊いていい?」
「何?」
私は潤君の話を聞いて、ひとつだけ引っかかった部分があった。
あいつならやりかねないことだったから。
「何であいつ、そんな人が入れるくらいの発砲スチロールの箱なんて持っていたの? 仕事?」
「……推測だけど、いい?」
「うん」
潤君は傘を少しだけ斜めに傾けた。横顔はどこか、遠くを見る目をしていた。その遠くを見る目はやっぱり綺麗だけれど、何でこの子がこんなに綺麗な顔をしているのか、はじめて理解できた気がした。
この子が綺麗な顔をしているのは、道を踏み外してしまった危うさが原因だ。もし何の憂いもない顔をしていたら、確かに可愛い顔をしているとは思うだろうけれども、こんなに目を見張るほどの綺麗な顔なんて認識はできなかったんだろうな。
もっとも、あの子は好きで人を殺した訳ではない。
死ぬかもしれないから殺してしまった、不可抗力だったのだから。それは仕方なかった、運が悪かった。それだけで済ませられるものではないはずだけれど。
「あの時、俺は思わずあの人を殺してしまった。でもあの時の「見つけた」って言うのは、多分俺じゃない」
「うん」
「あの住所だけど」
「住所?」
話が飛んだことに首を捻っていたら、すぐに潤君は教えてくれた。
「うん、宅急便の宛名書きの住所。書いたの俺じゃないんだ。名前は俺が適当に出任せ書いたけど」
「……」
まさかとも、やっぱりとも思った。
やっぱり私はタガが外れてしまったんだと、自分さえも他人事のように感じた。もしあいつがまだ生きていたら歯がカチカチと鳴ってもしょうがなかっただろうけれども、今の私はやっぱりどこか他人事のままだった。
潤君は傘の柄でポンポンと自分の肩を叩いた。
「多分だけれど、入れるのはお姉さんだったんじゃないの」
「……やっぱり」
「やっぱりって……彼氏さんのことよっぽど嫌いだったんだね」
「嫌いっていうか、既に終わってたって言うか。ただ、あいつの名前はもう金輪際聞きたくないくらいには思ってる」
「そっか……」
それ以外に、言いようなんてなかった。
あいつはやっぱり嘘ついてた。宅配便屋で働いていたなんて、潤君の話がなかったら全く気付かなかったもの。
あれこれ嘘や言い訳して自分の働き先を教えなかったのは、もし知られてしまったら、自分の考えていた計画を知られてしまう恐れがあったからだったんだ。
もし私が知ったら、本当に実行されたんだろうなと、私は漠然と思った。
あいつは宅急便屋で働いていたから、宅急便屋の仕組みを知ってたんだ。
宛先不明の荷物は、普通配達センターにそのまま返却される。それから数ヶ月間は中身も確認しないで保管されるはずだ。あいつは私を殺したら、何食わない顔で私を箱詰めにし、何食わない顔で配達センターに持って帰って、そのまま私を攫う気だったんだ。
私はあの発泡スチロールに入れられている自分を想像した。
あいつは、私がいなくて癇癪起こして、私を殺して二度と自分から離れないように、冷凍庫にでも入れるつもりだったんだろうか。結局冷凍庫に入れられたのはあいつの方で、死んだことを認めたくなくって、潤君に取り憑いて……。
何て馬鹿な話だろう。
もし潤君があいつを殺さなかったら、私は殺されていた。間違いない。で、潤君があいつを殺したから、あいつは潤君に取り憑いて、私の元にやってきた。
最初は別れた頃の一件を覚えていない私とイチからやり直したかったのかもしれない。都合のいい話だけれど。でも私の体が、あいつの恐怖を覚えていた。だから結局私は壊れてしまった。
本当に……どうしようもなく馬鹿な話だ。あの時あいつが死んでいようが生きていようが、どっちにしろ私は壊れていたんじゃないか。それが心か体かだけの違いで。
私がそう考えて溜息をつくと、潤君はコンコンと傘で私の傘を叩いてきた。私はそれで振り返る。
「俺、そろそろ出て行こうって思うんだ。もう、父さんは警察に見つかったから」
「そっか……何か必要なものある? せめて」
「傘があればいいよ。今までも何とか綱渡りで生活できたし、この数週間は本当に久しぶりに人間らしい生活もできたし」
「そ……」
この子には欲がない。
あの年頃なら本当なら、ゲームしたいとか、テレビ見たいとか、学校をいかにサボって内申点を上げるかとか、馬鹿なのか小賢しいのかわからないことばかり考えるものなのに。実際私も似たり寄ったりなことばかり考えていたし。
なのにこの子の考えることといったら、生きていたいっていうごくごくシンプルなものだけなのだ。雨で髪がうねるのにイラリとする私とは、そもそも考える根っこが違う。
「お姉さん、ちゃんと病院に戻らないと駄目だよ。絶対お医者さんとか怒ってるから」
「そうしろって言ったの君でしょうが」
「うん。でも怒られるのはお姉さんだから」
「そりゃそうだけどさ」
そう軽口を叩く。でも、別れるのだ。
私は最後に、財布から一万円札を出した。本当ならもうちょっとだけあげたいところだけれど、さっき傘を買ったところだし、コンビニから離れたからATMもない。あとあげられるのは持っていても邪魔になる細かいものばかりだ。
「最後にこれだけ持って行って。……ちゃんと生きるのよ? 今だったらもしかすると自首する方が楽かもしれないけど」
「警察ってあんまりあてにしてないから。世の中の歯車があてになるなら、俺に降ってきた不幸も、なかったはずだから」
「まあ、確かに」
そもそも私のことだって警察に相談しなかったのは、警察に色々ほじくり返されたら私は余計に傷つくという、周りの大人の配慮だった。あの子は殺したくなかったとはいえど、既に前科二件はついてしまっている。
潤君は私の差し出した一万円札を受け取ると、額にぴたり、とくっつけてから、ポケットに突っ込んだ。その仕草はまるで祈っているようだった。
雨が降っている。
傘を雨が激しく叩き、伝い、流れ落ちる。
雨足は徐々に早くなり、そのせいか既に人通りはなく、今ここにいるのは私たちだけだった。
気付けば外灯がついていた。もう、夜が来ていたのだ。
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