間章 ありふれた悲劇
眠たくなるほど退屈な話だよ。
俺の家は、この辺りの工場街の端にあるアパートだったんだ。
住んでいるのは、工場街で働いている人たちばっかりかな。うちは違ったんだけれど。
この辺りの工場街も、景気のいい頃は今よりももっと工場が詰まっていたけど、それは俺が生まれる前のことで、俺が生まれてからずっと不景気だったって聞いた。不景気だから、工場売り払ったり、合併したり、圧縮したりして、少しずつ、本当に少しずつだけど減っていったんだよ。
ほら、あそこ。あそこ今だだっ広い空き地だろ?
あそこに、俺の父さんが働いていた工場があったんだよ。
今じゃ売却されたけど、替わりに他の工場が建つことなく放置されてる。
えっ、俺の父さんの働き先はどうなったって?
まあ不景気だから。大きい会社に負けて合併したんだって。ここは本当は部品工場だったんだけど、中国とか台湾の方が安くたくさんつくれるから。技術ある人は合併の際に中国や韓国に飛ばされたって聞いた。
父さんはずっとここの工場で働いてたんだけど、首を切られちゃった。会社の方針と父さんがずっとやってたやり方と合わなかったんだって、母さんが言ってた。
それから、ずっと住んでいた社宅を追い出されたんだ。うちだけじゃなくって、ここの会社の人皆追い出されたって。合併先にも社宅はあったけど、吸収先の会社の人たちが既に住んでいるから、入るところがなかったんだって。だから友達も知っている人も、皆ばらばらになったんだ。
それから安いアパートで、父さんと母さんと三人で暮らしてた。
最初は貧乏でも、引っ越した先で楽しく暮らしてたけど、父さんがどんどん壊れていった。
再就職できなかったんだよ。父さんはずっと同じ会社で働いていたけど、何か特別な資格を持っていた訳でもないし,年だったから。聞きかじったことだけれど、中間管理職で、資格がなくって、会社の経歴が長い人って、使いにくいから会社が雇いたがらないんだって。うちの父さんはそういう人だったんだって聞いた。本当かどうかは知らないけれど、実際父さんが再就職できなかったんだからそうだったのかもしれない。
だんだん酒に逃げて、酒を定期的に飲まないと手が震えて何も持てなくなった。もう、工場で働こうにも器具が持てなくなったんだよ。
仕方ないから母さんが朝も夜も弁当工場で働いていた。俺も年齢誤魔化して新聞配達してた。……さすがにそれは中学に入ってからだけど。中卒の一点張りで押し切ったら、何とか見逃してもらえた。
でも父さんが酒に溺れたもんだから、どんなに稼いでも稼いでもすぐに酒に消えてしまう。酒さえ飲ましておけば大人しい人だから、最初は酒を出して放っておいたけど、だんだん俺たちに手を上げるようになった。
多分だけれど、仕事がもうできないってわかっていて、酔いが途切れたとき不安だったんだろうなって今は思う。だから母さんや俺に当たるんだよ。俺も母さんも背中とか足とか痣だらけでさ。
生活は全然楽にならないし、だんだんアパートの家賃も払えなくなってきたし、そんな生活に疲れたんだろうなあ。
****
その日は、雨だった。ちょうど今日みたいな。
適当に傘立てに立ててあった誰かの傘で何とか雨をやり過ごした俺は、挨拶もなくかび臭い我が家の戸を開ける。戸は軋んだ音を立てて開いた。
…………?
何かがおかしかった。
父さんがいないのはいつものことだ。むしろ帰って来ない方が多かったのに。
だが、母さんは?
母さんは夜から早朝にかけて働いていたから、昼間は家事をしていたから、家にいるのが普通だったんだ。
「母さん?」
呼んでみたけど、返事なんてなかった。
俺は仕方なく鞄を下ろして、中に入る。
戸を開けばビール缶で埋め尽くされた台所と、円いちゃぶ台がすぐ見える。クラスメイトと話をしてみたが、どうもちゃぶ台囲んでご飯を食べるという文化はもうないらしい。
社宅にいた頃はテレビもあったと思うけれど、アパートに引っ越す際に捨ててしまった。置く場所がなかったんだ。だから最近のテレビに関してはほとんど俺は知らない。
それはさておき。
ちゃぶ台にチラシの裏に書かれたメモが置いてあった。
俺はそれを読んで「あーあ」とだけ言った。
【母さんは出ていきます。弱い人間でごめんなさい】
それだけしか書いていなかった。
俺はとうとう捨てられたか。
不思議と怒りも悲しみも湧いてこず、ただ心にぽっかりと穴が空いたような気分になる。
いや、母さんは辛抱強く生活してたと思うよ。
ただ、出ていく金があるんだったら、せめて俺にわずかだけでも置いて行ってくれたらよかったのに。それだけは母さんを恨めしく思う要因だったが、すぐに忘れることにした。
俺はチラシを掴んでぐしゃりと丸める。
きっと父さんがこれを読んだら癇癪を起こしてまた暴れる。
家賃滞納していても何とかここに住んでいられるのは、母さんが何度も何度も腰低く大家さんに謝っていてくれたおかげだ。ここで問題を起こしたら今度こそ追い出される。
俺は丸めたチラシを窓を開け、そこからぽいっと捨てた。
鉛筆で書かれた文字は、雨で溶けて薄れて、チラシも雨に打たれて水を吸って小さくなっていく。
母さんが出て行ったことは、俺だけの秘密にしよう。
そう思って、この件は終わった。
****
母さんがいなくなってから、父さんの暴れようが前にも増してひどくなった。俺の顔を見るたびに、髪を掴んで殴ってくるんだから大変だった。
母さんが何かと庇ってくれていたから、だから俺は学校にも何とか通えていた。でもだんだん父さんに殴られて蹴られて、周りからも不審な目で見られるようになってきた。もし余計なことされたらどうしようって、それだけが気がかりだった。
警察に言われたら、父さんが逮捕されてしまう。それに保護されたところで、いなくなった母さんが戻ってくる訳ないじゃないか。
まあまだ中学生だし、顔を出すようなバイトはしてないけど、体が痛いと仕事できないし、体育の時皆の前で着替えられないし。
だから俺は母さんに替わって弁当工場で働くようになった。中学生だって見た目でわかったんだろうけど、「中卒」の一点張りで何とか働かせてもらった。俺はできるだけ早く家を出てバイトして、できるだけ遅く帰って、できるだけ父さんに会わないようにしていた。父さんも俺たちには当たるけれど、近所の人たちを怪我させないからそれでいいやって思ってた。母さんもいなくなってしまったし、俺が父さんに酒だけ買っておいて、会わないようにしておけばそれでいいやって思ってた。
けれど、ある日久々に父さんに会った。
その時父さんもう既に出来上がってたなあ。顔真っ赤にして、ワンカップ持って。それで俺の顔を見た瞬間空き瓶投げつけてきたんだよ。何があったのか知らないけど、すごい機嫌悪くて、家に入った途端俺を殴りはじめたんだよ。
いつもより機嫌悪かったし、体丸めて何とか耐えていたけど、父さんとうとう空き瓶だけじゃ飽き足らず、ビール瓶持ってきたんだよ。いったいどこからそんな瓶ビール買えるようなお金取ってきたんだろうって、その時は自分の身の危険とか考えずにそう思ったけど。
ああ、これは死ぬ。さすがにそう思った。矛盾しているとは自分でも思ったけれど、感情ってひとつじゃないじゃない? 恐怖を感じている時もそういうもんだよ。
生きていて楽しかったって本気でそう思ったのは大分前のことだったけれど、それでも死ぬよりはマシだった。だからこんな所で死ぬのは嫌だって思った。俺は狭い部屋を瓶振り回す父さんから何とか逃げ回っていて、上を見た。
流しは父さんがいないときじゃないと洗えない。あの人寝ている時に物音するとすげえ怒って俺を殴り飛ばすから音ひどくて、大家さんとか飛んでくるからさ。家賃もずっと滞納していたし、これ以上騒ぎ起こしたら追い出されると思って。
だから、この前久しぶりに野菜もらってきて切ったからつけっぱなしにしていた包丁が流し台の中に入ってたんだよ。
父さんが俺に大きく振りかぶって瓶を振り下ろしてきた。
俺はそれを横に転がって避けると、ガラスの破片が飛んできた。その時腕が切れたような気がした。ああ、父さん、もうとうとう見境なくなったんだなと思った。いくら何でも、見境あるならやけを起こしている父さんでも、俺を殺そうなんてしないだろうなあって信じたかった。
俺は流しに入れっぱなしの包丁を取った。
最近ずっと手入れを忘れていたし、つけっぱなしのままだったから、赤いサビが見えた。俺は牽制のつもりでそれを父さんに向けた。
「頼むから、頼むから……もう、やめて……」
父さんは濁った眼で俺を見下ろした。
昔はもっと目が綺麗で、その目を細めて俺の頭をポンポンと撫でてくれたような気がしたけれど、今の父さんにその頃の面影は微塵にも感じなかった。
もう見境のない父さんにとっては、俺はただ騒音を撒き散らすうるさい害虫になったんだなと思ったら、その時はすごく悲しかった。
父さんは少しだけ包丁を見たけれど、そのまま俺に瓶を振り上げた。既に半分割れてなくなってしまったけれど、残り半分を頭に振り上げられても充分痛いし、最悪死ぬ。
俺は、ほんの少しだけ包丁をもっとよく見せようと、少しだけ父さんに包丁を向けた。多分、それのせいだったんだろうな。
次の瞬間、鶏肉を捌いている時の感触が手に残った。
その時、俺の視界が真っ赤になったよ。本当に映画のワンシーンみたいだった。
次の瞬間、父さんが俺の上に落ちてきたんだ。
俺はぎょっとした。別に父さんを刺すつもりも、殺すつもりもなかったから。でも父さんはもう動かない。俺を殴ることもなければ髪を掴む事も、頭をポンポンと撫でることも、もうない。
俺はひとまず、父さんを横に寝かせた。
どうしよう。
まず最初にその言葉が頭をかすめた。そりゃ警察に言って自首すればいいんだろうけど、その後なんて誰も保証してくれない。俺が問題起こしたら、母さんが逃げる前何度も頭を下げて家賃支払いを待ってくれていた大家さんに、俺を追い出す口実を与えてしまう。追い出されたら晴れてホームレスだ。
とりあえず、父さんをどうにかしないと。まず包丁。これどうにかしよう。
俺はそのままふらふらと外に出た。
この辺りは工場街で夜勤している人ばかり住んでいるから、夜は人がいない。俺は包丁の血を服で拭いて着ているシャツに巻き込んで持って、どうにか隠しに行くことにした。
雨だから割と人は少ない。
俺は雨に打たれながら、近所の空き地にまで走って行った。空き地は大分前に売りに出されていたけれど、誰も買い手がいなくって今は雑草だらけになっている。
ここに埋めよう。そう思って、俺は包丁を使ってザクザクと穴を掘り始めた。スコップみたいにもうちょっと簡単に土が掘れるかなと思ったけれど、思っているより掘りにくい。でも雨でぬかるんでいるから、土自体は柔らかくなっていて、どうにか包丁一本埋めれるくらいの深さを掘ることができた。
雨で水溜まりになって土が流れてしまわない内に埋めてしまおう。そう思って包丁を穴に入れようとした時だった。
「みーつけた」
ひどく雨の日に不釣り合いなほどの陽気な声を聴いて、俺は思わず振り返った。
振り返った先には、金髪の細い男の人が空き地の前に立っていた。でかい発泡スチロールの箱をカーに乗せ、風待急便のジャケットを着ていた。
……見られた? 俺は背筋に冷たい物が走るのを感じた。
雨で包丁の血は流れて見えないはずだ。でも夜中に包丁埋めに来たのは、どう考えてもおかしいだろ。そのまま立ち去る? でも通報されたらどうする?
捕まりたくない。第一にそう思った。
もう母さんもいない。父さんもいない。俺を食べさせてくれるのは、もうおれひとりしかいない。それを警察に逮捕されて、色々理屈を付けられて、型にはめようとして……。
そんなのはもう、たくさんだ。
俺は、埋めようと思っていた包丁を、もう一度強く握りしめた。
男の人は鼻歌を歌いながら、カーを押していた。カーを押すカランカランと言う音が、ひどく不吉に聴こえた。俺は、足音を忍ばせて男の人の背後へと近付いた。包丁を逆手で握り、そのままその人に狙いを定めた。そっと包丁を掲げ、一気に突き刺す。
手にビニールを割いて、肉を刺した感触が伝わった。既にさっき父さんを刺したり、地面を無理矢理掘ったりしたから、ちゃんと刺したのに貫通したりはしなかった。血が飛び出るのかと思ったけれど、父さんを刺してしまった時程、思っている程血は滴り出ない。やっぱりちゃんと包丁が鋭利じゃないからだろう。
ただ、背中を刺した瞬間、ギョロリ、と目を剥いたのは怖かった。
「何するの?」
そのはっきりとした言葉が最後の言葉だった。その人はそのまま崩れた。
最初は気絶しただけかもしれない。顔を見られた。
俺はそう思って、思わず足でちょんちょんとつついたけれど、その人はピクリとも動かなかった。錆びた包丁で、よく刺し殺せたなと、俺はどこか他人事みたいにそう思った。
俺は背中で息をしていた。もう誰も、誰も見ていないよな? その空き地は少し他の工場からは離れているけれど、抜け道として点在しているコンビニに行く時に使う事もあるから油断はできない。
とにかく、この人隠さないと。俺は何とかずるずるとその人を引きずった。包丁は二回も人を刺したし、地面を無理矢理掘り返したせいで、もう使い物にならない。地面に埋められないにしても、せめてこの死体をどうにかしないと。
とりあえずその発泡スチロールに無理矢理詰め込もうとした時、その人のジャケットから何かが落ちたのに気が付いた。
宅配便屋だからだろうか。ポケットには透明のビニールテープと、宅配便用の宛名書きが入っていた。既に宛名書きには住所だけが書かれている。これどこのだろう。
……そうだ。昔急便で働いている人が言っていた事をふと思い出した。
確か宅急便っていうのは、宛名不明、住所不明だった場合は、一定期間までそこの宅配センターの倉庫に保管されるんだっけ。ならそこに死体を隠せばいいんじゃないか。
何でもっと早く気付かなかったんだろう。俺はそう思って急いでその人の落としたビニールテープと宛名書きを濡れないようにポケットに突っ込んだ。ついでにその人のズボンに突っ込んでいた財布を抜き出した。その後、箱を横にして、無理矢理その人を転がして箱の中に押し込んだ。
蓋を閉め、ビニールテープで固定する。
大丈夫。俺はこれが終わったら逃げればいい。逃げれば、捕まることもない……。
今思っても、俺はその晩の内にふたりも人を刺し殺した事で、まともな神経をしていなかったんだと思う。そもそも父さんを刺した時点で、俺はどこか壊れてしまっていた。ただあの時の俺は、気が高ぶって、早くこの街を出て行きたいということしか考えていなかった。
カラカラカラカラと、カーを押す音は今でも覚えている。
まさかそれが、地獄の釜を開けるような行為だったなんて、思ってもいなかったんだけれど。
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