5
雨の音がする。耳鳴りではなく、本物の雨。
うっすらと目を開けると、白い天井に、白い壁。白い窓縁に、白いカーテン。いつか入院していた部屋とそっくりそのままな感じだけれど、窓から映る風景だけは違っていた。病室なんて皆こんなものなのかもしれないと、私はぼんやりした頭で思いつつ、私は寝返りを打った。
まさかあんなにリアルに今までの夢を見るなんて思わなかった。夢で見るのは、記憶の整理をしたい時や、強い感情が呼び起された時に見るんだったっけ? 聞きかじりだからよく知らないけれど、ここ数日のショックが祟った結果かもしれない。
嫌だ嫌だとは思ったけれど、思うだけでもしょうがないので、私は渋々体を起こした。
今何時だろう? 私は壁の時計を確認した。今は三時か。……五時間位意識がなかったって計算かな。
でも私、どうやってここに来たんだろう? 救急車で運ばれた? でもそんなことしたら、呼んでくれるのは潤君しかいない訳だけれど……。
つうか、何で病室で寝てるんだ、私。そこまで厄介なのか、今回のは。私は起き上がったら病院が貸してくれる寝間着姿になっている自分を確認した。
と、ドアがトントンとノックされた。
「はあい」
「失礼します」
かすれた声は、潤君のものだった。
潤君は紙袋にあれこれ詰めて持って来ていた。
「あれ、潤君? もしかして救急車呼んでくれたの、潤君だった?」
「ごめん……迷惑かもしれないって思ったけど、多分俺の中の人が起きたら、またお姉さんに酷いことする気がしたから……」
「あー……どうやって誤魔化したの? ほら、管理人さんとかに」
「遊びに来ていた弟って言っておいた。父さんも母さんも今旅行で家出てるから連絡付かないとも」
「……ありがとう」
「いや、困るんでしょう? あんまり騒がれるの。俺も困るし」
「……うん」
何でこの子、ここまで気が回るんだろう……。
私は眠って変な跡の付いた髪を何とか手櫛で伸ばしていたら、潤君は紙袋をベッドの隣に置いた。
「とりあえず着替えとか取ってきた」
「……ありがとう。ええっと」
「……足りないものあったら、一応財布は持ってきた。服の間に挟んでる。保険証と通帳はさっきナースステーションに預けてきたから、必要になったら返してもらって」
自分が中学時代の頃に思いを馳せる。
人気アイドルの話やクラスメイトの噂話、回し読みしているマンガに夢中で、ひとり暮らしであったら当たり前に知ってないといけないことなんて、何ひとつ知らなかったような気がする。
少なくとも、人が入院しても動転して、潤君のような手際のよさで入院道具一式を用意するなんてできないだろう。
「うん……ええっと、潤君」
「何?」
「いや……その。ずいぶん手際いいなって。私が君くらいの歳のとき、そこまで頭回らなかったから」
「……別に。修学旅行の準備と入院の準備って似てるから。それだけ」
「……そっか」
「あっ、そうだ」
「んっ?」
潤君は私をじっと見た。なっ、何だろう……。
その子は、紙袋を私に広げた。
「すぐに俺はいなくなるから、いなくなったら着替えて、紙袋の中身をちゃんと確認して。そしたら、全部解決すると思うから」
「えっ、何? 何が?」
「ちゃんと渡したから」
そう言って潤君は足早にここを後にしようとする。
「ねっ、ねえ! 教えて!」
そのままドアノブに手を掛けようとしていた潤君は立ち止まって、こちらを見た。
「何で、何でそこまで親切にしてくれるの!? 私、全然君に大したことしてないのに!」
「……そんなことないよ。お姉さん、俺を生かしてくれたじゃない」
「意味わかんない。何でよ?」
「……お姉さんの具合が悪くなったのは、多分俺のせいだから」
それだけ行って、さっさと潤君はドアを開けていなくなってしまった。……意味わかんない。
久しぶりに取りつく島もない潤君に出会ったような気がして、私はぐしゃりと前髪をかいた。
仕方なく、潤君から差し出された紙袋の中身を検めた。女物の服なんてわからないだろうに、わからないなりに着やすいのを持って来てくれたんだろうな。ジーンズにTシャツというラフな服が替えも含めて三枚程入っていた。さすがにそこまで長期入院にはならないと思うけど。
そして下着の替えは入っていない。ああ、だからわざわざ通帳探してきたんだ。自分で買えってことね。年頃の男の子が下着を漁るのは恥ずかしいんだろうしさ。
紙袋にギューギューと荷物を詰める無愛想な顔を想像して、思わずくつくつと笑ったところで、紙袋に入ってなさそうなザラザラしたものが指先に当たるのに気が付いた。
それを引っ張り出してみると、紙が二枚入っていた。それが折り畳まれて、中身が見られないようにしていた。何だろう。
それを私は広げて――絶句した。
『東京都○○市3番町7番地メゾンドジュアン203号
水無月恋夜様』
それは、風待急便の配達控えだった。何故かクール便。うちの住所で、全然違う名前が書いてある。……あれ、この名前どこかで見た……。そうだ。初めて潤君が来た時だ。あの時、何故か早朝に宅配便屋が来て、うちじゃないと追い返したやつだ。
何でそんな控えを潤君は持ってるんだろ……。
そしてもう一枚の紙を確認した。そっちは私が学校の鞄に普段から突っ込んでいるルーズリーフに、ボールペンで走り書きしたものだった。走り書きの線だけれども、コンビニの位置やうちのアパートの位置が書き込まれていて、これが地図なのだと分かる。
そして、地図に走り書きの文字と丸印が付いている。
『風待急便』
どう言う意味なんだろう……。私はどちらの紙も見比べてみる。
考えろ、あの子がこれを置いて行った意味を。
そもそも、潤君が何で荷物を置いた後すぐに出て行った?
あの子の中にはあいつがいる。できれば私はあいつの監視をしたかったけれど、私はあいつとずっと一緒にいることができない。というよりできない。あいつが原因で今の症状だもの。
今の私の状態の原因は、どう考えてもあいつが現れたせいで、体が拒否反応を示した結果だ。じゃあ、どうしたら私のこの状態が治まるのか。
……まさか。
一瞬だけ、ひやりとしたものは背中を走るのを感じた。でも……。それはただの予感であって、確証も保証もない。でも……。
今はそれに賭けるしかない。
私は寝間着の帯に手をかける。そのまましゅるりと解いた。
下着はどうせまだ一日も経っていないもの。後で買いに行こう。私は潤君の持って来てくれた服に袖をとおすと、財布の中身を確認しようと手を伸ばすと、カツンと硬い物が指に触れ、中身を引き出した。あの子は本当にあの年頃にしちゃびっくりするほど気の利く子だ。財布と一緒にスマホも出てきた。
私はジーンズに財布と携帯を突っ込むと、テレビの前に貼っていた診察予定の印刷された紙を引っぺがし、その裏に走り書きをして、ベッドの上に置いた。そのまま、私は小走りで部屋を後にした。
【すぐに戻ります】
****
私がタクシーを降りた時には、既に雨足は強くなっていた。本当なら陽の高くなっている今ならまだ明るいはずなのに、雨のせいで今が夕方なのか夜なのかが、空の色だけだと判別がつかなかった。
「すみません、ここで降ります」
「はい、1800円」
「はいっ」
財布に手を突っ込み、小銭も含めてきっちりと支払うと、急いでタクシーを降りた。
ここはいつか夜中に死体を探しに来た、工場街だった。
地図と周りの立札を確認すると、工場と工場の間に埋もれるようにして、風待急便の配達センターが見つかった。
私は小走りに、配達センターへと走る。トラックの出入り口を超えると、こじんまりとした受付が目に止まり、そこまで走る。
「すみません!」
「はい、いらっしゃいませ」
受付のおばさんが怪訝な顔で私を一瞬見たけれど、声はキビキビと返事を返してくれた。そりゃそうだよな、こんな雨の中、傘も差さずにわざわざ配達センターまで走ってくるんだから……。
私は震える手で、控えを広げた。
「すみません、以前うちに来るはずだった荷物がいつまで経っても来ないので、確認をお願いしたいんですが……」
「はい……クール宅急便ですね? 少々お待ち下さい」
おばさんは私の渡した控えのバーコードを伸ばして、機械に通してパソコンで荷物の確認をし出した。私はちらちらと時計を探す。
あいつはまだ日が出ている内から出てくるようになっていたけど、今だったらもう出てくるのかしら? まだ大丈夫なのかしら?
そう思って受付でうろうろしている時だった。
「早苗、見つけた」
聞き覚えのあるざらりとした声。その声は、聞き慣れた感情の読み切れない不器用なものではなく、ねっとりと絡みつく、甘えるような声が背中に投げかけられた。私はその声にびくり、と肩を跳ねさせて、恐る恐ると振り返った。
一見すると、綺麗な顔に華奢な身体。ドラマに出たらさぞかし持てはやされるだろう容姿も、今の私にはただ恐怖を感じさせるものでしかない。
あいつだ。
私は途端にぎゅっと心臓を締め付けられるように痛み出し、肌にぽつぽつと鳥肌が浮いてくる。受付のおばさんは訳のわからない顔でこちらをちら見しつつも、パソコンをいじって控えの荷物を探しているようだった。
ちょっと待って、まだ日は出ているし、何でこんなに早く出てくるのよ。前も早く出て来ていたけれど……。
いつか見たホラーテイストのドラマの事を思い出した。確かそのドラマは、生きている人の体を死霊が乗っ取って、そのまま生きている人に成り代わって生活するって話だったと思うけど……。
あいつの性格があまりにも死霊ってイメージから離れてて、そんなこと、考えてもみなかった。でも、潤君はその事を悟ったから、できる限り遠くへ行って、あいつと鉢合わせるのを防ごうって、そう思ってくれたんじゃないの? あの子が思っているよりも、あいつが出てくるのが早くなってしまっただけで……。
「早苗ひどいよ。いきなりいなくなったと思ったら、こんな所にいるんだもん」
「あ……んた、何でここに……」
「何でって? あの子だっけ? 潤君。早苗ひどいよ。あの中学生には優しくするのに、俺が飛び出た途端にこんなに怖い顔してさ……。どうしたの? そんなに脅えた顔をして」
「やだ……来ないで」
「どうして?」
私はじりじりと後ずさりするが、葵は潤君の綺麗な顔のまま、私ににじり寄ってきていた。私はちらりと中を見回す。
受付の向こうはそのまま配達センターの倉庫が広がっていて、あちこちにいつもお世話になっている風待急便の上着を着たお兄さんたちが、大きな荷物をカーで運んでいるのが見える。
平温の倉庫の向こうに【こちらクール便倉庫】と書かれたプレートと、銀色の大きめの引き戸が見える。多分、あそこだ。
「すみません、自分で荷物探しに行きます!」
私はバーコードを読み取った後、そのままカウンターの置かれていた控えをひったくった。おばさんはびっくりしたように目を大きく見開く。
「ちょっと! 困ります!」
「探してくれてありがとうございます!」
私はそのまま受付の戸を開け、受付を通り越して、倉庫まで走って行った。
心臓が痛い。鳥肌も立つ。でも。
このままずっと脅えて生活するのなんて、そっちの方がずっと嫌。
私は懸命に腕を振って、足を上げて、走った。
「ちょっと! 何で逃げるの! さーなーえー!」
葵は私を見て、自分も受付の戸を開けて倉庫に向かおうとする。
「ちょっと僕! 何でそんな真似するの!」
「離してよ! それに僕じゃないし! さーなーえー、待ってー!」
私は背後で、葵が暴れ回って椅子やら机やらを蹴り飛ばしているような音が聞こえたけど、振り返る気にも、そんな余裕もなかった。
早く全て終わらせてしまいたい。
その一心で、私はクール便倉庫を開けた。
冬の空の下は「冷蔵庫の中みたい」って言うけれど、まさしくここは「冷蔵庫の中」。いや、冷蔵庫ならまだいい。ここは冷凍庫の中じゃない。Tシャツにジーンズみたいなラフな格好は場違い過ぎた。
私は一瞬体を引き寄せて縮こまるけれど、寒さでかじかむ手に息を吹きかけて温めて、一所懸命控えを広げた。吐き出た息は、寒空の下の真っ白なものだった。
確か、右上の数字が控え番号だったはず。で、倉庫は番号通りになっているはずだから……。うっすらと青白い光の元、体を一層懸命摺り寄せて身体を温めながら、私は目的の荷物を探した。
【A1024-29863】
とりあえずAの棚を私は流しながら見た。
1024、1024……。吐く息吐く息が白いから、細く息をしないと息でここに人がいるって教えてしまう。中で作業している人たちがしゃべっている声を耳にしつつ、その人たちが近付くたびに棚に身を寄せて隠れないといけないのだから、手際が悪いことこの上ない。
私はまた通りかかった急便のお兄さんたちが防寒ジャケットを着ているのを羨ましく思いながら、角に隠れてやり過ごした。
露出している腕をもう寒さで白くなってしまった手でさすり上げながら、棚を見る。ここは、1023……隣か。
そう思って隣の棚に差し掛かった時だった。
「何なんだ君は! ここは関係者以外立入禁止だぞ!」
「うるさい! 離せよ!」
ドシンドシンと荷物が散らばる音が聞こえる。あいつだ。
私は心臓が痛むのを必死でこらえた。我慢しろ。探せ、探すんだ。
私は足がすくむのを、気力で何とか立ち直って1024の棚に辿り着いた。荷物は……こんなにたくさん? 私は呆然と、1024の棚に積まれた発泡スチロールを見る。意外と不在で戻ってきた荷物は多いらしい。棚にはみっちりと荷物が詰まっていた。
とりあえず、全部引き出そう。引き出してからだったら、見れるはずだから。
私はずるずると1024棚に積まれた荷物を、通路に引きずり出しはじめた。
この倉庫のどこかの通路で、ガンガンと大きな音が近付いてくるのがわかる。何の音だか、聞きたくない。今は荷物を……荷物を探すんだ。
私は降ろした荷物の番号を、必死で見比べて、違ったら次の荷物へと移っていた。
「逃げたぞ!」
「だから、待ちなさい!」
お兄さんたちが走っている足音が響いてくる。捕まったらここを追い出されるかもしれないし、最悪警察に突き出されてしまうかもしれない。でもそんなことになったら、もう荷物を探し出す機会はなくなってしまうかもしれない……。いくら警察でも、幽霊を裁く権利なんてないもの……。私は耳を押さえたいのを我慢しながら、荷物を次々に引き出した。ここにあるのは多分、差出人不明で倉庫に残されていた物だから、番号が飛び回っていて、順番には探し出せない。
29111、10358、98650……。
私は荷物ひとつひとつの番号を読み、違う物は端に寄せるのを繰り返していた。やがて、引きずり出した荷物の中に、ひと際大きいものがあるのに気が付く。
「A1024-29863……、これだ!」
私はそれを引っ張り出して、ビニールテープを剥がそうとする。でも手がかじかんで、上手く爪を立ててテープを剥がすことができない。どうしよう……仕方なく私はスマホを取り出し、スマホカバーの金属部分を立てて、それをカッター替わりにテープに傷を付けて開けはじめた。
「早苗!」
私はビクリッ、と背中を震わせる。駄目、振り返っては駄目。
私は手を動かす。足音はわざとなのか、私がそう聞こえているだけなのか、ひどく大きい音に反響しているように思える。
「早苗―、何やってるの? 寒いよ。こんな所に来てさ。どうしてそんなことするの?」
カツンカツンと言う足音は、背後でわざとのように大きな音に聞こえる。
聞こえない、今は何も聞こえない。私はグルリ、と発泡スチロールの全部に傷を入れることに成功した。よし! 後は……。私は必死で指を突っ込んで蓋をこじ開けた。お願い、開いて!
「ねえ、聞いてる?」
「ふぐっ!」
背中に激痛が走る。
私の背中を、潤君の足で思い切り蹴られたのだ。背中がじんじんと痛い……やめてよ。
背中を力いっぱい蹴られて出た、私の蛙のような悲鳴も、今のあいつにはもう聞こえていないようだった。
ああ、そうだ。あいつにとって、言うことを全く聞かない私が嫌なんだ。まるで私の背中を足でノックするように、何度も何度も蹴られる。きっと私のTシャツは靴底の跡がついてしまっているに違いない。
「ねえ早苗、ひどいよ。どうしてこんな寒い所にいるの? 何でそんなことしているの? ねえ、帰ろうよ早苗―」
言っている言葉は甘えるような声なのに、やっていることはそれとは裏腹に、私を執拗に弄るのだ。まるで虫を殺そうとするように、それはしつこくしつこく蹴る。
それでも、私は何度蹴られても、歯を食いしばって痛みに耐え、荷物から離れなかった。人差し指が、ようやく蓋と箱の間に入った。私はそこに手を突っ込んで、上へと引っ張り上げる。
「私は……」
私は痛くて痛くて仕方がないけれど、それでも必死で耐えて、蓋を投げ捨てた。
「私は……あんたが大嫌い。自分のことだけが大好きで、私の気持ちなんて全く考えない、あんたなんか大嫌い」
「……! どうして……そんなひどいこと言うの」
「ひどい? あんた自分の顔を見て言いなさいよ」
私は、発泡スチロールの中身を見て、顔をしかめたけれど、今はそんなことはどうでもよかった。私は最後の力を振り絞って、発泡スチロールをほんの少しだけあいつの前に押し出して、中身を見せつけた。
「見なさいよ! あんたはもう死んでいるの! 死んでいるのにもう私に付きまとうのはやめて! 私はあんたのその自己的な性格が大嫌いよ!」
「あ……」
あいつは中身を見て、固まる。
発泡スチロールに無理矢理押しこめられていたのは。
青い顔に、金色の髪。生臭い匂いがして、所々黒い斑点がある気がするけれど、それは紛れもなく葵の死体だった。
これを見た途端、あいつは目が飛び出すんじゃないかというくらいに、目を見開いた。動きが途端におかしくなる。例えるなら、糸が切れた操り人形みたいに、体が言う事を利かなくなったと言うか。
「あ……あ…………」
「消えて! 消えて! もう私の前から、いなくなって!」
「あ……あ……………………さ…………………………な……………………………………え………………………………………………」
「もうあんたは死んだのよ、葵! お願いだから。お願いだから、もう二度と私の前に現れないで。もう私に付きまとわないで……このストーカー!」
「…………」
そのまま、葵はガクリ。と崩れた。
…………。
私はそのまま、ペタリ、と床に尻餅をついた。
終わったの? 本当にこれはもう……。
やがて、ぴくり、と倒れた彼の体が脈打つ。私はそれにびっくりして後ずさりをするけれど、彼の起き上がり方は、普通に生きている人間そのもので、糸の切れた操り人形みたいな、さっきの仕草は見受けられなかった。
「……終わった?」
「あ……あ…………潤……君?」
「…………」
彼は無愛想にこくりと頷く。
その愛想のなさは、間違いなく潤君だった。
「……ごめん。俺のせいでお姉さん……」
「そんなことない! そんなことないよ! 君のおかげで、私……私は……」
私はそのまま床に崩れ落ちそうになるのを、潤君が受け止める。
華奢で、少し間違えれば女の子にも見えてしまうのに、体は骨ばっていて、固くて……温かかった。潤君は私を抱き留めながら、背中を掃ってくれていた。
「……ごめん。背中、跡ついてる」
「いいよ、つけたのはどうせ、あいつだから」
「……ごめん」
「潤君は謝らないで。あなたが謝ることじゃない」
「…………」
しばらくそのままじっとしていたけれど、やがて潤君は私から離れ、そのまま私に手を差し出すと、そのまま立ち上がらせてくれた。
「……今何時?」
「えっと……」
スマホを確認すると、既に夕方の五時を回っていた。
「そろそろここ、出よう。誰かに見つかる前に」
「えっ……うん。荷物と死体、どうしよう……」
死体を前にしているのに全然怖くないどころか、蹴りつけてやりたい衝動に駆られる私は、間違いなくどうかしてしまっていると、どこか傍観者な私は思う。
潤君は一瞥した後、黙って私が投げ捨てた蓋を拾い上げて、もう一度蓋をした。そしてそれをズルズルと押し出して、棚にそのまま突っ込む。
「せめてこの荷を開けたことを悟られないように、荷物を入れよう」
「……うん」
私が必死になって引きずった荷物は、ふたりで片付けたら五分も経たずに廊下を空っぽにしてしまった。いったい私はどれだけ気を張っていたんだろう。気が緩んだせいか、途端に寒くなってきた。あの時は手がかじかんで言うことを利かないことだけが怖かったのに、今は震えて寒くて仕方がないや。
「……風邪引くから、そろそろ」
「……うん」
私は潤君に手を引かれて、そのまま倉庫を後にした。
倉庫の外を出ると、体中に湿気がまとわりつく。でも冷凍庫に入れられて冷え込んだ体には、その湿気すらも温かく感じた。
「ちょっとお客さん! さっきのは何ですか!?」
先程の受付のおばさんはひどく怒ってこちらに声をかけてきた。そりゃそうだ。部外者がいきなり受付に勝手に入るわ、倉庫に押しかけるわと好き勝手したんだもの、怒られても仕方がない。
「すみません、もう大丈夫です」
「……そうなんですか? で、さっきの荷物は……」
「ごめんなさい。多分勘違いです」
「はあ?」
「それでは……」
本当のことなんて言える訳もないし。
控えのバーコード、機械に通されちゃったけど大丈夫かしら?
でも、倉庫にカメラみたいなものはなかったから、私達が何を探してたかまではわからないとは思うけど。
私は潤君の顔を見るが、潤君はいつもの綺麗だけれど無愛想な顔をして、そのまま受付を通り過ぎてしまった。
まあ、どうしようもなくなったら誤魔化すしかないか。
私も潤君も、黙って歩いて行った。
風待急便を出ると、空は灰色で、さっきよりも細かい雨がバラバラと降っていた。私は目を細めて空を見る。
「あっ、まだ雨降ってる……」
「傘買いに行く?」
「そりゃ濡れ鼠で病院に戻ったら、それこそ怒られるし」
「うん」
そこから黙って、いつかアイスを買いに行った工場街の中のコンビニにまで足早に歩いて行った。今日はビニール傘だけを買って、そのままコンビニを出る。
傘を広げて、そのまま工場街から出るべく、風待急便からもコンビニからも離れる道を歩く。
病院ってどっちだったっけ。タクシーから見た景色を頭の中で逆算しようとするけれど、上手いこと道を思い出すことができない。
「どうする? このままタクシー呼ぶ?」
私はそう言って潤君の横顔を見るけれども、潤君は私の顔を見ることもなく、真っ直ぐに道を見ていた。私も一緒にあの子の見ていた道を見るけれども、ただ工場が続くだけで、他に何があるのかなんて分からなかった。
潤君はほんの少しだけ間を開けた後、やがて返事を返してくれた
「いや。いい。俺、もう帰らないから」
「帰らないって……どこ行くの?」
「お姉さん」
私の問いには答えず、潤君は言葉を遮る。
そのまま潤君は、じっと私の顔を見た。
私はその綺麗な顔を見て、そう言えば、と思い至る。
もう、この子はこういうものだと慣れてしまっただけで、私は潤君のことを何ひとつ知らない。
「ちょっと眠たくなる話をしようか?」
潤君はそう言って口を開いた。
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