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私は退院してからも、何度も葵に絡まれた。
「何で俺を置いてどこかに行ってしまったの?」
「……やめてったら」
「ねえ、何で?」
自分が一番なくせで独占欲が強いのも、人から見ると人懐っこく私にいちゃついているようにしか見えないし、私の態度のただの照れ屋にしかカウントされない。
私が倒れているのを先生が発見して、そのまま救急車で運ばれたっていうのに、葵がペラペラと嘘を撒き散らした結果、彼女が倒れたのを助けを求めに行こうとしたのに、気が動転してちゃんとしゃべれなかったという、葵に都合がいいように話がつくられてしまっていたのだ。全然違うっていうのに。
元々私は感情が表に出にくい性分だ。友達からは「無愛想」と言われるし、周りからは「無表情」と評されている。別に私も自分でも自覚はあるので、それを否定する気はない。
愛嬌のある方とない方だと、どちらが有利かは比べる間でもない。
学校にいたら私は不利で、葵から逃げることができなかった。
そして、葵といると大抵苦しくなる。
心臓の音が、大きくなってきた。
これは断じてときめきの心音じゃない。恐怖による圧迫だ。
ほら、まただ。
私は葵に絡まれる手を振り払って、そのままアスファルトに倒れ込んだ。また呼吸の仕方を、突然忘れてしまったのだ。
その途端に葵はひるんだ顔をする。空き教室で突然目を剥いてよだれを垂れ流しながら倒れた私を思い出すからだろう。
葵がバタバタ逃げていくのを見ながら、私は笑った。
ざまあ見ろ。このまま私に付きまとうのを止めてくれたらいいのに。私はよだれを垂らしたまま、体中をバネにして息をする。
大丈夫。日本って危ない所ではあるけれど、大抵制服の女子が倒れていたら救急車に運んでくれる国だから。私は人の善意を信じて、そのまま意識を失った。
****
「……娘さんは、やはりどこも悪いところはありません」
既に私の担当になりつつある女医さんは、お母さんに向かってそう言った。
「そんな……娘はあれほど息ができずに苦しんでいたじゃありませんか!」
私は黙ってお母さんと女医さんの顔を交互に見ていた。
あれだけ心臓が痛くて息ができなくって気絶までしたのに、今では嘘のようにピンピンとしている。
「いえ、通常でしたらそうでしょう。ただ、ひとつだけ可能性があります」
「可能性……ですか?」
「娘さんが何度も何度も呼吸困難に陥っていて、なおかつ体にあちこちに怪我がある……。娘さんはパニック障害なのかもしれません」
パニック障害?
あまり耳に馴染みのない病気だった。
「……それは、どのような?」
お母さんはおそるおそる女医さんに尋ねると、女医さんは眉間に皺を寄せていた。
「……こちらは心療内科の管轄ですので、あくまで予測になりますが。こちらは完全な原因が未だ解明されていない病気ですが、特徴としては閉鎖的な空間にいる、大量に人がいる狭い場所にいると、そこに圧迫感を感じて、呼吸が苦しくなるという病気です。娘さんが最初に発症したのは教室でしたから……」
「……でも、娘は今までそんなことは……」
もしそれが本当だったら、私は何度も授業中に倒れていないといけない。でも最近まで、教室で倒れたことなんて全くなかったし、そもそもさっき倒れたのは、教室なんかじゃない。
私はそのまま黙って女医さんを見ていたけれど、女医さんはいつか見せた堅い顔で私の顔を見た。
「……大変言いにくいのですが、娘さんは精神的に追い込まれることが、あったのではないですか?」
「……っ」
私はそのまま口をつぐんだ。
はじめて息ができなくなったのは、教室だった。ドアも閉められて、私は殴られて、突き飛ばされて、口を切って……。
思い出す度に、呼吸の仕方を忘れてしまう。私の呼吸がおかしくなったのを知ってか知らずか、女医さんは堅い表情を解して、私に笑いかけた。
「……大丈夫です。環境を変えれば、その病気はすぐよくなるものですよ」
「……ほ……んとうに……?」
「はい」
その日、はじめて心療内科と言う場所に通され、私とお母さんはふたりでカウンセリングを受けた。心療内科の先生は、私がお母さんと一緒にいるせいか、当たり障りのない質問しかすることはなく、問診票を書かせた上で、最近の出来事を確認しただけの、あまり益のないものとなってしまった。
息苦しくなったらすぐ飲むようにと薬を処方されて、ようやく家に帰ったんだ。
****
私は自分の部屋に引っ込んでから、スマホで自分の診断された病気のことを調べてみた。
パニック障害は、女医さんや心療内科の先生が言っていた通り、箱みたいに閉じ込められた場所で突然呼吸困難に陥るものらしい。今のところは精神病ということになっているけれど、心の病気と言うよりは脳の一部分にエラーが発生して起こる病気らしくて、今のところはっきりした原因は判明しておらず、完治させるということはできないらしい。
これは躁鬱病と同じで、最近になってようやく血液を調べて本当にその病気かどうかを判別することはできるようになったけれど、完治させるという治療法なんかは未だにできておらず、カウンセリングや投薬治療、早寝早起きを心掛けて脳のエラーを少しずつ元に戻していくという治療法しか今のところ確立されていない。らしい。
私はパニック障害の症例や治療情報をひと通り読んだ後、携帯を閉じてベッドに倒れ込んだ。
そうか。私、脳病だったのか。天井を眺めながらぼんやりと思う。
脳病なんて言ったら、腫瘍とか脳梗塞とか、年を取ったらなるかもしれないけれど、今の私には関係ない病気としか思っていなかった。
本当に簡単に、誰でもなっちゃうもんなんだなあ……。
私はぼんやりと葵のことを思い浮かべた。
あいつは私が脳病だって言ったら、いなくなってくれるんだろうか。
それだけ考えたら、唇がぷるぷると震えてきた。生理的嫌悪は、季節も体感気温も関係なく、体を芯から冷やしてくれるものらしい。
家族や学校との話し合いの末、私は転校することになった。
女医さんと心療内科の先生に相談した結果、環境を変えないことには治療が難しく、日常生活送れるくらいにまで私の状態がよくなることは不可能らしい。
私は友達にどう弁明しようとも思ったけれど、「ちょっと通院しないと駄目だから、病院近い学校に引っ越す」とだけメールを送っておいた。ついでに「お願いだから葵にこのことは教えないで」とも書き記しておく。
葵には結局なんの連絡も送っていない。
本当だったら別れ話をしないと駄目だったのだけれど、私はまた殴られるかもしれないと思ったら、怖くてスマホをタップする手が止まってしまった。
せめて、もう連絡取りたくないという意思表示のために、葵のメールや電話を全て着信拒否設定をしておいた。
電話番号って、携帯会社を変えないと変更できないんだっけ。
私は葵にされた一切喝采を、誰にも言えずにいた。もし知られて押しかけられたらどうしよう。もしまたなにか根回しされてあることないこと触れ回られたらどうしよう。そう思ったら怖くって怖くって仕方がなく、ただ蓋をしてお茶を濁す以外に方法が思いつかなかった。
あいつには結局私の家の住所を教えずに、葵のことも周りには教えずに、ただ環境だけが変わった。
息苦しさは気付けば友達のように慣れ親しんできたけれど、やっぱり友達のように仲良くすることはできない。そんな感じで苦しいまま一緒にいるってところだ。
それでも。
電車で通う学校は新鮮だった。私の転校した学校は、季節外れの転校が「よくある」学校だったため、特に何事もなく普通に学校生活に溶け込み、私ももう病気ではなく普通の人として生活できるようになったと。
そう思いたかった。
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