3
目を覚ましたとき、カーテンの向こうが久しぶりに夕焼けなことに気が付いた。最近はずっと雨続きで、こんな柔らかい色の夕焼けなんて久々に見たような気がする。雨が空を洗濯したのかもしれない。そんなどこかの詩人が言っていそうなことが、ふと頭をかすめた。
私は結局、潤君に甘えて夕方まで眠ってしまったのだ。
体がだるい。寝ていたはずなのに、肩や腰がしんどい感じがする。また発作が起こったらどうしようと、無意識の内に体が強張ってしまったのかもしれない。
私はゆっくりと起き上がった。
ところで。
「早苗―、お腹すいたー」
「えっ? わっ?」
いきなり私は抱きつかれた。
って、あれ? 何で? まだ日が出ているのに、何で潤君じゃなくって葵が出ているのよ?
「ちょっと待って、何であんたがいるのよ、葵」
「えー?」
潤君の綺麗な顔で、葵はきょとんとした表情をした後、首を傾げた。そして、にこっと笑う。
「わかんない」
「わかんないって……」
「まあいいじゃない。ご飯―」
私は少しだけイラリとする。こっちは体調悪いのに、何勝手なことばっかり言ってるんだ。……まあ、潤君ならともかく、葵は知らないから、今は仕方ないか。
「……その辺にあるもん食べといて」
「えー、つくってくれないのー?」
「……ごめん。今日、体調悪いから寝てたい」
具合が悪いのだ。私はそう思ってもう一度横になったとき。
パシン。
急に乾いた音が響いた。
一瞬、何が起こったかわからなかった。わからなかったけれど、頬が徐々に熱を帯び、じんじんとひりついてきたことで、私ははじめて頬を叩かれたことに気が付いた。
私は頬を押さえて葵を睨んだ。
「ちょっと、葵!? いったい何す……」
「何それ」
「えっ?」
私の背中に、ゾクリとした冷たい物が走った。
いつものように間延びした口調にも関わらず、声色はすっと冷えるものを秘めていたのだ。
葵と目が合う。
私を見下ろす葵の口元から笑みが消え、目がすっと釣り上がっていた。
確かに潤君も滅多に笑わないし、目も普段から釣り目だけれども、こんなに感情を浮かべた顔をしていない。
こんなに、ぽつぽつと鳥肌が立つような、冷たい顔なんてしていない。
「何で俺にご飯つくってくれないの? この子にはつくってあげたんでしょう?」
「……ちょっと待ってよ。いつもつくってるのに、何で……」
何でこんなに葵が怒ってるのかわからない。
私は鳥肌を立てたまま、何とか声帯に仕事をさせる。
「だって、早苗が作るご飯おいしいもん。同棲しているのも、ここに来たのも俺なのに、何でこの子の方が俺より優遇されているの? おかしいよ」
「おかしいって……そもそも別れた女んところに死んでも押しかけてくるあんたの方がおかしいでしょう?」
「何で?」
葵は私の上に馬乗りになる。
私を見下ろすその顔は、ぴったりと能面が貼り付いたように見えた。
狂ってる。
その顔を見た瞬間、直感的にそう思った。
そのまま葵は私の髪を掴んだ。中学生の男の子の力とは思えないほど、きつく私の首が持ち上がるほど引っ張る。皮膚がミシミシと言う音がして、細い毛がブチブチ千切れた音が聴こえた。
「いった……やめて……」
「何で? おかしいよね? 変だよね? 変なのはどっち? 君? 君だよね? だって俺たち」
ドクン
心臓が跳ね上がる音が聞こえた。
『何で別れるなんて言うの?』
『――――……』
『何でそんなことを言うの? おかしいよね? そんなこと』
『そうだよ。俺はおかしくないよ。変なのは君だよ』
『――……』
『だって俺は別に間違っていないもの』
心臓の音と一緒に、たくさんの言葉が私の頭を駆け巡る。
ちょっと待って、何これ。誰? そんなこと言ったのは。
会話の内容は、全く覚えのないようなものばかり流れてくるのだ。
そんなの、覚えてない。誰? 誰なの?
私は汗がボタボタボタボタと、背中を濡らし、床を濡らしていくのを感じていた。
髪を掴んだまま、葵は冷たい声で、ひと言言った。
「だって、俺たちまだ別れてないよね?」
何で……。
おかしい。だって私と葵は、確かに別れた……。
……あれ? おかしい。何で別れたのか、本当に覚えていない。
高校時代のことを思い出そうとした瞬間、心臓の鼓動はどんどんどんどんと早く激しく私の体を打ち鳴らしていた。
息が……続かない。
「お願い……降りて」
声がかすれて、全然出ない。
「何で? 何でそうやってごまかすの?」
「いいから……」
苦しい。何で……何でこんなところで発作が起こるのよ……。葵の前で発作なんて、起こって欲しくなかったのに……。
息ができなくて、体全体で呼吸をしたいのに、葵が上に乗っているから体で呼吸なんてできなくて、私は口を金魚のようにパクパクさせることしかできなかった。
「何でそんな面白い顔するの? そんなことすれば許されると思っているの?」
「ち……違っ」
葵はこっちの話を全く聞かず、私に手を振り上げた。
乾いた音が再び響く。
頬を平手打ちされたのだ。
頬が熱を持つけれど、私はそんなことよりも息をしたかった。
葵が何でいきなり豹変したのかはわからない。わからないけど、今は私は息がしたい。
私は、必死に力を振り絞って、葵を突き飛ばした。
葵はフローリングに頭を打ち付けたみたいだけど、あまり大きくは打っていないみたいだった。
「っ! ちょっと早苗、何す……」
「やめて……もう近付かないで……」
「――! ――――!」
何か言っているような気がするけれど、私はもう耳鳴りで、何も聴こえていなかった。
雨の音がする。ザーザーザーザー。
体は苦しくて苦しくて、喉を押さえて床を転がっているのに、頭の中だけは冷静だった。
もしかしたら、私はこのまま死ぬのかもしれない。
息ができなくって、よだれがダラダラと垂れ、床を汗と一緒に濡らしながらそう思う。
こうなっても葵は少し驚いた顔をして立ち尽くすだけで、「大丈夫?」とも声をかけなければ、「救急車呼ぶよ」と救急車を呼んでもくれない。……まあ、後者なんてしようものなら、私がすぐにアパートを追い出されるのは目に見えているけれど、「大丈夫?」くらい言ってもバチは当たらないだろう。
あの時と同じだ。
こうして私は気絶するんだ。
だからあんたが嫌いなのよ。葵。
自分しか好きじゃない。自分のことしか考えない。自分の想像力を駆使しない、そんなあんたが。
……「あの時と同じ」?
あの時っていつだっけ。思い出せないな。あれ……?
………………。
…………。
……。
私は、耳鳴りの雨の音を聞きながら、そのまま気を失った。
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