「ただいま」


 家に入った途端に「プツン」とテレビの電源の切れる音がした。

 潤君?

 私は怪訝な顔で靴を脱いで部屋に入ると、潤君がちょうどチャンネルをリモコン立てに戻している所だった。別に見ててもいいのに。


「別にテレビくらい見ててもいいよ?」


 私は替わりにチャンネルを取ってテレビをつける。

 ニュースはちょうど、動物園で生まれたばかりのライオンの赤ちゃんが映っていた。

 潤君は床にペタンと座ったまま、気恥ずかしそうに私を見上げた。

 動物の赤ちゃん位見てても別に恥ずかしくはないと思うけど。潤君はぼそぼそとした声で私に尋ねる。


「……物音聴こえたら駄目じゃないの?」

「うーん、別にテレビの音くらいなら、よっぽど大きい音にしない限りは隣に聴こえないし」

「…………」


 潤君は黙ったまま、そっぽを向く。


「昼ご飯、まだ何も食べていないんでしょう? 何か食べたいのある?」

「……食べれる奴」

「はいはい」


 私は潤君の言葉に頷き、台所に入った。

 冷蔵庫の中は、潤君が当初よりもずいぶんとシンプルになった。

 常備しているのは卵と豆腐、あと何にでも使えるから昆布の佃煮位で、後は安い物を適当に補充している。潤君が来た最初の内はおにぎりとかサンドイッチを用意していたけれど、食べないとわかったから私がバイトで遅くなる時用のおやつとして学校に持って行ったからもうない。

 色々潤君の好き嫌いを確かめてわかったのは、どうもこの子は赤い物が全く食べられないということだった。ツナは食べられるのにマグロは食べられない。マヨネーズはいいのにケチャップは駄目、みたいな。逆に言っちゃえば、色が付いているかもう判別付かなくしてしまえば食べられるのだ。……さすがに毎日卵雑炊だけ食べさせる訳にもいかないし。

 潤君がテレビ向いている間に、冷蔵庫に入っている牛乳とバター、冷凍の里芋を取り出した。流石に昼からこんな手の込んだ料理をとも思うけど、放っておくと何も食べない潤君の身体が心配だ。

 私はグラタンを作ろうとグラタン皿を探し始めた時だった。

 玄関のチャイムが鳴った。

 私は潤君に「ちょっと洗面所行ってくれる?」と言う。流石に潤君もここに来てから全く外に出てはいないけど、ここに自分がいる事を悟られたらまずいということは察してくれたらしい。コクリ、と頷いて洗面所に移動してくれた。


「はあい」

「すいません、風待急便です」

「あら……はあい」


 宅急便だった。いつも帰ってくる七時前後に頼んでいるのに、時間指定しなかったのかな。

 私は仕方なくつっかけを履いて出て行く。

 宅急便屋のお兄さんが受取証と大きなダンボールを持って立っていた。


「すみません、印鑑お願いします」

「はあい」


 そういえば。

 少しだけ葵が押しかけてきて、潤君が初めて来た日のことを思い出した。あの時来た宅配便も、風待急便だった気がする。

 私はそう思ってダンボールを受け取って、受取証に印鑑を押したときだった。


 ドクン


 心臓が大きく、跳ねた。

 ……まずい。こんなときに。病院に行ってきたばかりじゃない。

 落ち着け。落ち着け落ち着け落ち着け。

 背中が冷たい。冷や汗が噴き出て、湿気で温いはずの気温を無視して、体を冷やすのだ。


「はい、それではありがとうございましたー」

「はい……ありがとうございます」


 私はダンボールを震えながら持って、よろよろと玄関へと戻った。

 重さからして、多分お米と缶詰だ。いつもだったら重いと文句を言いながらも、震えずに何とか持てる量なのに、今日は鉛板でも追加として足しているんじゃっていうくらいに重たくて重たくて、仕方がなかった。

 何とかドアに鍵をかけ、ダンボールを床に下ろした所で、私は限界だった。

 大きく音を立てて、私の体が床に崩れた。


「!? お姉さん……?」


 私の崩れた音を聞きつけたのか、洗面所に隠れてもらっていた潤君が出てきた。私は、息苦しくって体全体を使って呼吸を繰り返す。潤君は、普段は釣り上った目尻を下げて私を見ていた。

 心臓の音がうるさい。呼吸ができないことに加え、心臓の音と激しい耳鳴りがうるさくて、頭が痛くて、起き上がることができなかった。潤君はそんな私を見下ろして、混乱しているように、普段は何の感情も読めない目が、不安で揺れているのが分かった。

 私は何とか縮こまる声帯に仕事をさせようと、口を開いた。

 すう。

 最初はただ空を切る音しか出なかったけれど、徐々に声が戻ってきた。


「……ごめん、潤君……私の学校に持って行って鞄に……薬入っているから持って来てくれる……?」

「え……うん」


 潤君の床を走る音が、寝転がる私を揺らして響く。

 私は胸元を掴み、息をしていた。

 苦しい……。何でダンボール見ただけで発作が起きるのよ……おかしいでしょ……。それとも……風待急便さんが来た事が問題あった訳……?

 苦しくて、仰向けに転がる。

 天井を見ながら息をしつつ、耳鳴りを聴いていた。耳鳴りは、まるで長雨のようにザァ――と、流れていた。耳鳴りが聴こえなくなったら、眠りにつけるのに……。

 やがて、床を走る音がまた私を小さく揺らした。見上げると潤君は私の薬を袋ごと持って来て、食器棚のコップに水を入れて戻ってきたのが分かった。


「薬……わかった?」


 私は出ない声を何とか絞り出して訊く。


「わかったけど……これ何錠?」

「……一錠」

「…………。うん……」


 潤君は不安そうな顔のまま、一錠薬を取ると、私の背中を起こしてくれた。


「飲める?」

「大丈夫……」


 薬を受け取ると私はそれを含み、潤君の差し出してくれたコップの水で流す。

 その間、ずっと潤君は背中をさすってくれていた。そのおかげで、また床に倒れ込まずに済んだ。薬が効いたって事より、発作を抑えるって作業をしたせいだと思うけど、息苦しさは少しずつだけれど薄れてきた。


「ありがと……」


 私はノロノロと立ち上がると、潤君は珍しく目尻を下げたままの顔で私を見ていた。心配してくれているの……かな。


「お姉さん、さっきの薬、何?」

「ああ……」


 慌ててたから、説明書読まなかったんだな。

 それがいいことか悪いことか分からないけど。私は説明書と薬袋をシュレッダーに入れ、取っ手をくるくる回して細かくしつつ言う。


「普段から通ってる病院の。最近通うのさぼってたからね。バチ当たったのよ、多分」

「お姉さん病気だったの?」

「んー……」


 私はシュレッダーのケースの紙屑を台所にまで持って行きながら首を傾げる。正直、これは病気と言うよりも形状変化の方が近いような気がする。いつ治るのかも分からないし、再発するかもしれないから。仕方なく、私は一番無難な言葉を選ぶ。


「まあ、そうなんじゃないの。普通に生活できているだけで。発作だってほら。あんまり起こらないし、今日みたいなケースは稀だからさ」

「…………」

「お昼、食べる? すぐつくるから」

「……平気なの?」

「んー……」


 私はちらりと潤君の顔を見た。

 潤君は複雑そうな顔で私を見ていた。

 この子、もっとそっけない子かと思っていたけど、思っているよりいい子だったんだな。もっと身勝手な子かと思っていたけど、勝手な思い込みだったんだな。悪いことした。

 そう思いながら、私は手に持っていた薬をシートからぱちりぱちりと取り、ばらばらにして、食器棚に入れているピルケースに詰め替えた。シートは全て牛乳パックの奥に捨て、上にはシュレッダーの紙屑を詰めてガムテープで蓋をし、ゴミ箱に捨てた。

 ゴミ箱に牛乳パックを入れた後、最初から考えていた通り、グラタンを作り始めた。今日は、死体探しに行くの、勘弁してもらえるといいんだけれど。葵をどう説得したものか。

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