5話

 今日は久しぶりに大学が早く終わり、バイトもなかった。まあこの間出欠確認っていう大きな仕事は終わったからなあ。後はテスト明けだろうな、大きな仕事は。

 久しぶりに乗る電車のガタゴトと揺れる車体に身を寄せて、自動ドアのガラスの向こうを見ていた。

 今日の雨はパラパラとした小雨で、ちょっと濡れるけれど傘を差すほどでもないと言う、中途半端な雨だった。私は服の胸元をぎゅっと掴んで、流れていく景色を見ていた。


【次はー、朝霞―、朝霞―、北口総合病院へお越しの方は……】


 と、アナウンスが出たので、慌ててもたれていた身体を起こして自動ドアの手すりを持って立つ。

 プシューと音を立てて電車が止まる。その駅で降りたのは私ひとりだった。平日だから仕方ないけど、人気の少ないホームに降り、改札口を通って駅を出る。

 本当に中途半端な雨……。

 雨で濡れたアスファルトからむわっと蒸気が出るように、辺り一面を不快な湿気で包んでいた。

 仕方なく私は傘を差すのを止め、手首にかけて歩くことにした。

 こんなに蒸し暑いなら、雨に打たれていた方がまだマシだと思ったから。……まあ、服が湿気るだけ湿気て、余計に気持ち悪くなったけれど、仕方がない。

 駅を通り過ぎた先で、一見すると病院というよりは大学と見違えそうなレンガ造りの建物が見えてきた。そこが北口総合病院だ。

 私は受付にある端末に受診カードを入れ、受診科の入力を済ますと、そのまま受付手前の階段を下りて行った。

 地下の一帯は、普通の病院とは少し違っていた。

 光は蛍光灯の青白い光ではなく、白熱灯の光で満ちていた。階段をひとつ降りただけで、色んなものから切り離されたような気がする不思議。この辺りは病院でよくする薬の匂いやアルコールの匂いも、他の階に比べればだけれど薄らいでいる。

 私は待合席のベンチに座り、鞄の中に突っ込んでいた文庫本を取り出す。どうせまた待つだろうと踏んで、白熱灯は目に悪そうとかちらりと思いつつもめくりはじめる。

 並んで座っているのは、何歳か分からないサラリーマンらしいおじさんに、親子連れらしい高校生らしい女の子と中年の女の人。多分くっついて並んでいるから親子なんだろうな。私は文庫本をペラりとめくりつつ、ちら見でその人達を見ていた。

 おじさんは顔がやけに白いように見えた。身体を小さく小さく丸めて座っている様が、少し寂しそう。

 女の子とお母さんはどちらもずっと下を向いていた。

 女の子はもう六月で、ここはそんなに冷房が効いていないにも関わらず長袖を着ていた。

 おじさんが背広を着ているのは分かるけど、女の子がカーディガンで全身を隠すように羽織っているのは、季節感がおかしいなと思った。


「綿貫さん」


 受付からの声で、女の子はよろよろと立ち上がった。女の子とお母さんが診察室に吸い込まれていくのを確認してから、私はもう一度文庫本に視線を落とした。

 ああ、あの子も私と同じなんだな。

 そう感じていた。

 文庫本をめくる。

 同じ授業を取っている子から借りた、最近映画化されたとかで話題になっている恋愛小説だ。ぱらりぱらりとめくるたびに、ありえない恋愛が脈々と綴られていく。

 主人公は特にとりえもなく、職場と家を往復するような平凡な女性。ある日痴漢にあった際にイケメンに助けられて、そこから少しずつ恋愛が発展していくと言う、よくある話だ。一時期はやった恋愛小説ブームの時にも、そんな本を何冊か読んだ気がする。

 ……んなこと、ある訳ないだろ。

 今現在、自分の身に起きていることを棚に上げて、そう思ってしまう。

 自分が心底困っていても、どうしようもなくって助けて欲しい時にほいほい助けてくれる男なんて、そうそういるか。いや、もしかするとものすごくお人よしな人ならいるかもしれない。でもそんないい人と言う人種は、自分が見つけるよりも先に、他の人が見つけて付き合ってるって言うのが現実ってもんだ。

 そう心の中で毒を吐きながら読んでいたら段々疲れてきて、書かれているはずの文字を目が滑って追うことができなくなってきた。仕方なく閉じて鞄の奥の方に雨に濡れないよう仕舞った。

 天井を見上げる。天井には若干白熱灯で焦げたシミがついていた。そのしみの形を目でなぞりながら考える。

 変だなあ、最近の私は。最近は容態も大分治まってきていたし、薬を飲むタイミングも減ってきてたのに。何で薬の量、増えたんだろう。

 変っていえば葵も変だ。

 あいつ、私と別れたくせして、死んでも私に付きまとうなんてさ。それこそ中学生の体乗っ取ってまで。……まあ、昼間は潤君が出て来てくれているおかげで、そこまで厄介とは思っていないけど。

 でもなあ。

 私はチリチリと胸が痛いのを感じていた。

 何で別れたんだっけなあ。つい最近のことのはずなのに、全然思い出せなかった。何か言ったような気はするけど、何を言って別れたのかまでは思い出せない。

 変なのは潤君のこともだ。

 相変わらず潤君は何ひとつ口を開いてはくれず、どこの誰なのかも分からなかった。それに……。

 あの子の偏食は相変わらず治らなかった。あの子は肉も魚も全然食べなかった。仕方なくせめて少しでも食べてもらおうと、今日の朝はパン食を諦めて卵雑炊を作ってみた。


「……? 今日は雑炊なの?」

「そうよ。本当はもっと栄養のあるもの食べて欲しいけどさ。こんなところで好き嫌いのせいで飢え死にって言うのはよくないんじゃない?」

「……」


 潤君は細っこいうなじを見せながら俯いてしまった。

 私は溜息をつきつつ、カフェボウルに雑炊を盛って、上に浅葱を乗せた。それをテーブルにレンゲと一緒に置く。


「せめて、これだけは食べて」

「……」


 潤君はおずおずとレンゲを手に取り、少しだけ雑炊をすくった。

 おっ。私は思わず目を見張る。

 潤君は少しフーフーと息をかけてレンゲにすくった分を冷ますと、口の中に入れた。

 私は気付かれないようにガッツポーズを取ってしまった。


「……何?」


 気付いたのか、潤君は怪訝な顔で私を見ていた。

 私はガッツポーズを取っていた腕を下ろして笑う。


「いや、君ようやくご飯食べてくれたから」

「…………」


「いやいや、食べるの止めたくていいよ。って言うか食べて」


「……お姉さんは」


 潤君はレンゲでまた雑炊をすくって口の中に入れる。

 はふはふとした後、それを飲み下して続けた。


「俺が物食べてるのがそんなに楽しいの?」

「……楽しいのかどうかはともかく、君が全然何も食べないからよ。君痩せ過ぎ。言っておくけどね、ダイエットは十八歳以上女子がするものであって、思春期もいいとこの君らがするべきもんじゃないの。偏食だってそうよ。寿命縮めるじゃない」

「……? お姉さんに関係あるの?」


 潤君は怪訝な顔で、雑炊をすくいながら言う。

 ……確かに他人だけど。全くの赤の他人だけども。

 綺麗な顔だなあとは思うけど、扱いづらいにも程がある子だし、中学生らしくない可愛げのなさだし、葵が中学生のふりしてた方がまだ可愛げもあるとは思うけど。

 だけど。


「一応住んでるじゃん。うちに。いつ君がいなくなるのか知らないけど」


 そう。

 同居って言ってもいいのかどうかわからない関係だけども、潤君は確かにここに「いる」のだ。放っておける訳もない。

 潤君ははじめて、釣った目が大きく見開くのを見せてくれた。

 って、あれ?

 私は思わず呆ける。

 ずっと頑なに結んでいた口が、少しだけ緩んだ気がしたのだ。その緩んだ口元が、ほんの少しだけ笑っているように見える。

 確かに潤君の姿をした葵はよく笑っているけど、それは葵の笑顔であって潤君のものではない。この笑顔は潤君のものだ。


「……ありがとう」

「えっ? ああ、うん……」


 私は我に返って思わず頷くと、そのまま自分も席に着いた。

 そのまま私も潤君も、黙ってテーブルを囲んで、雑炊を食べていた。


 あの子もなあ。

 私はぼんやりと、天井のしみをなぞり続けて思う。

 ずっとうちにいるっていうことは、きっと帰りたくないんだろうなって、何となく思う。

 悪い子じゃないんだ。少なくとも葵よりはずっと人の話を聞いてくれるし。ただ、何も言わないだけ。

 元々は葵が乗り移っているから、家に置いておかないとまずい子くらいだったのになあ……。

 そう考えている内に、さっきの女の子とお母さんが出てきた。


「涼暮さん」


 入れ替わりに私が呼ばれる。

 私はソファーから立ち上がって、のろのろと診察室のドアを引いた。


「こんにちは」

「こんにちは」


 先生は今日もパソコンを打ちながら私に笑いかけていた。

 メガネで少しダンディー。声からはマイナスイオンでも出ているんじゃないかって言う位、柔らかいテノールが耳に心地いい。

 私の担当の先生だ。


「久しぶりですね、最近はどうですか?」

「最近は……」


 私は口を開く。

 学校はそこそこ楽しい、とか。バイトが忙しい、とか。まさか最近は死体探しにうつつを抜かしているなんて、言える訳がない。


「まあ、楽しそうで何よりです。睡眠はどうですか?」

「睡眠ですか……あまり取れていないように思えます」

「おや、どうしてですか?」

「……アルバイトのせいです」

「アルバイトですか……前は大学の事務をしていると伺いましたが、また増やしたんですか?」


 ……言える訳ないしなあ。私はひやりとする。

 もう「順調です」って最初から嘘をついておけばよかったかなあ。でも順調だからと言って、薬を処方してもらえないと困る。朝に出る前に確認した時、ピルケースの薬は、既に今週分足りるか足りないかだから。また発作が起きたらな……。

 気のせいか喉が渇いてきたのを、唾を飲み下して誤魔化し、嘘を考える。


「はい、事務の仕事ですけど、試験前ですから。予定より多くなったから家に持ち帰っているんですよ」

「そうですか……」


 先生は私をじっと見た。私はその目をそらさずに見る。

 先生はまたもカタカタとパソコンに何かを打ち込んでいた。私の方からだと、文字が細かすぎて何を書いているのかは読めなかったけど、多分私の症状と処方箋作成を受付に送っているんだと思う。


「元気になって、仕事ができるようになったのはいいことだと思いますが、睡眠不足にだけは気を付けて下さいね」

「はい、わかりました」

「薬はいつもの通り出しておきます」

「ありがとうございます」


 そう言って、今日の問診は終了した。

 受付で今日の診察料と処方箋をもらい、隣接している薬局で薬をもらって、元来た道を帰って行った。

 雨は相変わらず傘がいるのかいらないのか中途半端な雨で、私は少し濡れながら、うねった髪を触っていた。

 私が灰色の空の下、考えるのは今月のバイト代はいつ入るかだった。少なくとも葵が来るまでは残業を任してもらっていたおかげで、今月分はそこそこ入るはずだけど。まだ病院に行くつもりなかったのになあ、いきなり発作が起こりかけたりするから……。

 電車を乗り継いで、アパートに着いた時には既に2時を過ぎていた。流石にこんな時間だと先輩達も出かけてるかな……。私は隣を確認してから、鍵を差して回した。

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