「……ただいま」


 私が隣に聴こえないように小さな声を出して挨拶すると、プツンとチャンネルを消す音が聴こえた。

 潤君、またテレビ見てたんだ。


「ねえ」


 私が足早にリビングに入ると、潤君は少し訝しがるような顔をして、こちらに振り返った。


「ねえ、とりあえず座って。ここ」


 私はできるだけ優しい声を出して、椅子を引くと、潤君は怪訝な顔のまま、大人しく私の引いた椅子に座った。私も向かいの椅子に座る。


「ねえ、前から思っていたこと訊いていい?」

「……何?」

「そこまで怖がらなくてもいいじゃない。別に取って食ったりはしないから」

「……」


 潤君は細いうなじが見える位、また俯いてしまった。……この子は本当に、扱いにくい。


「あのね、君。ちゃんと寝てる?」

「……何で?」

「んーっと……顔が土色してるから」


 私は杏先輩に言われたことをそのまま言ってみると、潤君は目を細めた。


「そんなこと言われても……夜のことは覚えてないから」

「ん……そっか」


 そりゃそうか。

 夜になったら葵が出て来てしまう。葵が出て来ている間は、潤君の意識は眠ってしまっているから、自分が寝ているか起きてるかなんて、わかる訳がない。

 私はそっと溜息をついた。


「ねえ……今から寝よっか。私も今日は横になりたい気分だし」

「今からって……今から?」

「うん」


 今はまだ昼間で、窓から漏れる光は燦々としている。これからどんどん日も高くなるから、その分昼も長くなるだろうけど。

 私は牛乳をレンジにかけ、その間に洗面所に行く。せめて化粧を落として、着替えよう。寝ようと気合を入れてしまうと、自然と身体は睡眠を求めた。クレンジングで化粧を落とし、そのまま服を洗濯機に投げ入れてからジャージに袖を通す。

 私が眠る気満々なのに、潤君は怪訝な顔をして、私を見た。


「ホットミルク。温いの出すから、それ飲んで寝よう?」

「……」

「潤君。体を壊したら、元も子もないでしょう?」

「…………った」

「えっ?」

「わかった」

「そっか。よかった。寝間着出したげるから、着替えてらっしゃい」

「ん……」


 潤君は何かを言いたそうな目で私を見たけれど、私は見なかったことにした。潤君が着替えている間に、私は布団を敷いた。

 眠ってしまおう。本当に。

 そう言えば、葵以外の男と一緒に横になるのは、はじめてな気がする。

 確かに葵とは「寝る」の意味が違うし、一緒に横にはなったけれど、私と潤君は、それぞれ別の布団に入っていた。

 六月とは言えど、タオルケットを被らないとやや肌寒く、布団だったら夏布団でも蹴飛ばしてしまう。私はタオルケットを被って横になると、それだけでうつらうつらとしてくるのに気付く。……本当、いったいどれだけ不健康な生活送ってたんだろう。最近は昼寝すらままならなかったもの。


「……お姉さん」

「何?」


 隣に寝返りを打つと、潤君がこちらを見ていた。相変わらず無愛想な顔だけれど、目だけは複雑そうで、目をちっとも閉じようとしない。


「……やっぱり、眠れそうもない」

「眠れそうもないって……眠くないって意味?」

「……」


 潤君はぷるぷると首を振る。どういう意味だろう……。体は眠いのに、頭が冴えて眠れないってのなら、少しわかるかもしれない。

 何か不安なことがあったら、世界から拒絶されたような気がして、体が睡眠を求めても、目がちっとも閉じてくれないことなら、ある。


「潤君。ちょっと暑いかもしれないけどさ」

「何?」

「手、繋ごうか」

「……」


 潤君は訝しげに私を見る。

 少なくとも。安心できたら、眠れるんじゃないかと、私はそう思ったから。時々あるもの。ひとりで眠るのが心臓が圧迫して苦しくなることが。


「少なくとも、手を繋げば安心できるんじゃないかなって、そう思っただけ。駄目なら仕方ないけど……」

「お姉さん」

「んー?」

「……繋いでもいい?」

「……」


 ……はじめてかもしれない。この子がこんな不安そうな声を出すのを聴くのは。この子にしてみても、理由もわからずうちにいるのが、不安じゃない訳ないもんね。

 ……理由なんて、言えないけど。

 私が手を伸ばすと、潤君は恐々と言った様子で、私の手を掴んだ。

 ……冷たい。少し汗ばんでいるのは季節がらわからなくもないけど、それにしても潤君の手は冷たすぎる気がする。……ずっと不安だったのかな。

 駄目だなあ、私。葵にかまけてて、肝心の事実上預かっている潤君のこと、ないがしろにしてるなんてさ。

 私は潤君の手を、私の体温を分けられるようにと、そっと包んだ。

 潤君はびくりっと肩を震わせたけれど、やがて落ち着いた。そして、耳元からスースーと言う音に気が付く。


「……もう寝ちゃったんだ」


 瞬殺じゃない。でも……よっぽど不安にさせてたんだな、私。


「ごめんね、潤君……」


 私は空いている手で、そっと潤君の額に張り付く前髪を梳いた。

 潤君は少しだけむず痒そうな顔をしたけれど、起きなかった。

 繋いでいた手が温かくなってきた。その温度を感じていたら、私にもうつらうつらと睡魔が襲っていた――。



 その日は、久しぶりによく寝た日だった。

 葵に会わずに済んだのも、よかったのかもしれない。

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