2
「……ただいま」
私が隣に聴こえないように小さな声を出して挨拶すると、プツンとチャンネルを消す音が聴こえた。
潤君、またテレビ見てたんだ。
「ねえ」
私が足早にリビングに入ると、潤君は少し訝しがるような顔をして、こちらに振り返った。
「ねえ、とりあえず座って。ここ」
私はできるだけ優しい声を出して、椅子を引くと、潤君は怪訝な顔のまま、大人しく私の引いた椅子に座った。私も向かいの椅子に座る。
「ねえ、前から思っていたこと訊いていい?」
「……何?」
「そこまで怖がらなくてもいいじゃない。別に取って食ったりはしないから」
「……」
潤君は細いうなじが見える位、また俯いてしまった。……この子は本当に、扱いにくい。
「あのね、君。ちゃんと寝てる?」
「……何で?」
「んーっと……顔が土色してるから」
私は杏先輩に言われたことをそのまま言ってみると、潤君は目を細めた。
「そんなこと言われても……夜のことは覚えてないから」
「ん……そっか」
そりゃそうか。
夜になったら葵が出て来てしまう。葵が出て来ている間は、潤君の意識は眠ってしまっているから、自分が寝ているか起きてるかなんて、わかる訳がない。
私はそっと溜息をついた。
「ねえ……今から寝よっか。私も今日は横になりたい気分だし」
「今からって……今から?」
「うん」
今はまだ昼間で、窓から漏れる光は燦々としている。これからどんどん日も高くなるから、その分昼も長くなるだろうけど。
私は牛乳をレンジにかけ、その間に洗面所に行く。せめて化粧を落として、着替えよう。寝ようと気合を入れてしまうと、自然と身体は睡眠を求めた。クレンジングで化粧を落とし、そのまま服を洗濯機に投げ入れてからジャージに袖を通す。
私が眠る気満々なのに、潤君は怪訝な顔をして、私を見た。
「ホットミルク。温いの出すから、それ飲んで寝よう?」
「……」
「潤君。体を壊したら、元も子もないでしょう?」
「…………った」
「えっ?」
「わかった」
「そっか。よかった。寝間着出したげるから、着替えてらっしゃい」
「ん……」
潤君は何かを言いたそうな目で私を見たけれど、私は見なかったことにした。潤君が着替えている間に、私は布団を敷いた。
眠ってしまおう。本当に。
そう言えば、葵以外の男と一緒に横になるのは、はじめてな気がする。
確かに葵とは「寝る」の意味が違うし、一緒に横にはなったけれど、私と潤君は、それぞれ別の布団に入っていた。
六月とは言えど、タオルケットを被らないとやや肌寒く、布団だったら夏布団でも蹴飛ばしてしまう。私はタオルケットを被って横になると、それだけでうつらうつらとしてくるのに気付く。……本当、いったいどれだけ不健康な生活送ってたんだろう。最近は昼寝すらままならなかったもの。
「……お姉さん」
「何?」
隣に寝返りを打つと、潤君がこちらを見ていた。相変わらず無愛想な顔だけれど、目だけは複雑そうで、目をちっとも閉じようとしない。
「……やっぱり、眠れそうもない」
「眠れそうもないって……眠くないって意味?」
「……」
潤君はぷるぷると首を振る。どういう意味だろう……。体は眠いのに、頭が冴えて眠れないってのなら、少しわかるかもしれない。
何か不安なことがあったら、世界から拒絶されたような気がして、体が睡眠を求めても、目がちっとも閉じてくれないことなら、ある。
「潤君。ちょっと暑いかもしれないけどさ」
「何?」
「手、繋ごうか」
「……」
潤君は訝しげに私を見る。
少なくとも。安心できたら、眠れるんじゃないかと、私はそう思ったから。時々あるもの。ひとりで眠るのが心臓が圧迫して苦しくなることが。
「少なくとも、手を繋げば安心できるんじゃないかなって、そう思っただけ。駄目なら仕方ないけど……」
「お姉さん」
「んー?」
「……繋いでもいい?」
「……」
……はじめてかもしれない。この子がこんな不安そうな声を出すのを聴くのは。この子にしてみても、理由もわからずうちにいるのが、不安じゃない訳ないもんね。
……理由なんて、言えないけど。
私が手を伸ばすと、潤君は恐々と言った様子で、私の手を掴んだ。
……冷たい。少し汗ばんでいるのは季節がらわからなくもないけど、それにしても潤君の手は冷たすぎる気がする。……ずっと不安だったのかな。
駄目だなあ、私。葵にかまけてて、肝心の事実上預かっている潤君のこと、ないがしろにしてるなんてさ。
私は潤君の手を、私の体温を分けられるようにと、そっと包んだ。
潤君はびくりっと肩を震わせたけれど、やがて落ち着いた。そして、耳元からスースーと言う音に気が付く。
「……もう寝ちゃったんだ」
瞬殺じゃない。でも……よっぽど不安にさせてたんだな、私。
「ごめんね、潤君……」
私は空いている手で、そっと潤君の額に張り付く前髪を梳いた。
潤君は少しだけむず痒そうな顔をしたけれど、起きなかった。
繋いでいた手が温かくなってきた。その温度を感じていたら、私にもうつらうつらと睡魔が襲っていた――。
その日は、久しぶりによく寝た日だった。
葵に会わずに済んだのも、よかったのかもしれない。
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