私は眠気を堪えながら、葵を睨んでいた。

 ひと晩中止まずに降り続けた雨は小休止し、ここしばらくずっと聴こえなかった鳥の鳴き声が聞こえてきて、それで朝が来たことを思い知った。

 ひと晩中不毛な問答を続けたせいで、まともに死んだ場所のことを調べることができなかった。葵は本気で成仏してくれる気はあるんだろうか。

 対して葵は、うつらうつらと身体を左右に動かしている。まあ身体は中学生だし、眠たいのかもしれない。私がそう思っている時だった。葵が椅子から崩れ落ちた。


「あ」


 そんなに眠たいなら寝てくれた方が私は嬉しいのに。私は仕方なく、葵を「せめて寝るなら布団あげるからそこで寝て」と肩を揺すった時だった。


 ビクリッ。

 葵の肩が大きく跳ねた。

 私は思わず手を引っ込める。

 何? 私は怪訝な顔でしゃがみこむと、葵は目をうっすらと開き、その目だけを彷徨わせた。


「…………? ここ、どこ?」


 かすれた声が聴こえた。

 しゃべり方に甘え方がない。まるで葵じゃないみたい……いや、違う。

 中学生の方の意識が起きたんだ……!

 私は気まずくなって目線をさまよわせる。

 どうしよう……これって誘拐罪になるの? 葵と問答し続けたせいで、この子のことをどうするか、考えるの忘れてた……。


「ええっと、大雨の中、君がここ……まあ私のアパートな訳なんだけどさ。そこの前で倒れてたから、私が拾った……みたいな?」

「…………? それ本当に?」


 眉間に皺を寄せて、目を細めて私を見上げる。椅子から転げ落ちた時に頭でも打ったのか、真っ黒な髪で包まれた頭をしきりに撫でていた。

 さっきまではラブラドールレトリバーみたいな子犬だったのが一転、目を細めて私を探るように見る様は、これは餌をくれそうな人か否かを試す黒猫のような目だった。そして、何でだろう。

 意識が切り替わっただけなのに、ただでさえ綺麗な顔立ちのこの子の美貌に、凄味が増したことに気が付いた。

 顔のパーツは、葵の意識が出ていた時から何ひとつ変わっていない。葵が表に来たその時から綺麗な顔立ちをしていたとは思ったけど、今私が彼を見ていて感じる物とはまた、種類が違うように感じられた。

 目を細めてこちらを見る様、髪をいじる仕草、何というか……吸い込まれそうで、ずっと見入ってしまう何かがある。

 綺麗なものを例える時に「ぞっとするような美しさ」というものがあるけれど、これをこの子に当てはめればいいんだろうか、と私はぼんやりと思った。

 この子の黒目勝ちな目と私の目が、ぱちりと噛み合う。

 その目を見ていて、私は我に返って、思わずたじろぐ。まさか、「君に幽霊が取り憑いていて、それがうちに押しかけてきた」なんて言って、どうして信じられるのか。私だって葵がセクハラ発言しなければ絶対信じなかったと思うし。

 私が言葉に詰まっているのを見て、その子はのそりと身体を起こす。自分の着ているジャージを怪訝な顔で見ていた。


「俺の服は?」

「あっ、ごめん。あんまり濡れてて風邪引きそうだったから、私の服貸したの」

「……」


 細めてこちらを見てくる視線が痛い。

 痴女だって思われた? 確かに中学生にそんなことするのは、痴女以外の何物でもないとは思うけれど……。

 私がたじろいでいる間に、この子はひと言返してくる。


「返して」

「え……夜に洗濯した所だから、まだ生乾きだと思うけど……」

「別に……」


 その子は洗濯物を干している室内物干しをじっと見て、真っ黒なTシャツと白いハーフパンツを見つけ出したらしい。そのまますたすたと物干しに近付き、そこからそれらを剥がす。


「ありがとう。俺、着替えたら出ていくから」

「いや、でも……」

「何?」

「う……」


 何なんだろう。この子は。

 私はさっきまで人懐っこくしゃべっていた葵と打って変わって、同じ顔で全く取りつく島のない彼に、少し言葉が詰まる。

 ちょっと普通に考えたら、見ず知らずの場所に居座る意味なんてないからここで帰ろうとするのは普通のことじゃない。でもここで帰られてしまったら、葵を外に出してしまう。あいつを外に出してしまうのは勘弁してほしいし。でも……。

 私はハンガーから服を剥がすこの子に対して、どう反応すればいいのか迷っている時だった。

 朝っぱらから、うちのチャイムが鳴った。


「はあ?」


 思わず玄関に変な声を上げてしまう。

 今は鳥が鳴き声上げているとは言っても、まだ新聞だって届いていない時間だ。何でこんな時間に人が来るのよ。私は仕方なく服を脱ごうとしている子の首根っこを引っ掴んだ。


「何?」


 その子は目を細めて私を睨む。でも中学生に睨まれても流石に怖くはない。私は小さい声でその子に囁いた。


「着替えるんなら洗面所で着替えて。玄関には近付かないで」

「……」


 その子は怪訝な顔で私を見上げるけれど、こくりと頷いて、着替えをまとめて持って洗面所に行ってくれた。私は心底ほっと息を吐いた後、玄関に向かう。

 大丈夫、チェーンはしてるし、変な勧誘だったら追い出せる。まさか管理人さんが男……中学生だけど、連れ込んでいるから見に来たとかじゃないわよね?


「はーい、どちら様でしょう?」


 ドアを開けずに一応聞いてみる。


「すいませーん、宅配便でーす」

「はい?」


 私は怪訝な顔になる。誰だ、こんな時間に宅配してきたのは。

 特に通販で物を買う趣味なんてないし、実家の親が私に荷物を送るのは、大抵私がバイトから帰ってくる七時前後にしてと頼んでいる。

 私は仕方なく、チェーンを付けたまま玄関を開けた。

 玄関を開けてみると、確かによく荷物を届けに来る風待急便の服を着たお兄さんだった。


「すみません、荷物です」

「はい、ちょっと待って下さい」


 私は仕方なく印鑑を持って玄関に出た。

 お兄さんの持っている伝票に印鑑を押そう……として、気が付いた。


『水無月恋夜様』


 名前は確かにそう書いていた。

 何だ、この偽名みたいな名前は。私は目をぱちくりとさせた。


「すみません、うち水無月じゃないんですけど」

「えっ? そうなんですか?」


 最近は物騒だから玄関にネームプレート付けるのは止めておけとは、ここを借りる際に管理人さんに言われた事だ。私もそれに従ってネームプレートは掛けてはいない。


「はい」


 私は印鑑を差し出した。

 お兄さんは困ったような顔で私の印鑑を、ポケットにつっこんでいたらしい別の紙に押してみる。


『涼暮』


 私の苗字がきっちりと出た。

 お兄さんは困ったような顔で伝票と紙を見比べる。


「ええっと、じゃあこの辺で水無月さんは……」

「……うちのアパートにはいませんけど」

「ああ、そうですか……本当にすみません。それでは」

「はあ……」

 お兄さんは私に申し訳なさそうに頭を何度も何度も下げたあと、頭を捻りながら、荷物を持って去って行ってしまった。

 ……何なんだ。変なことばっかり続く中、間違い配達まで来るなんて。今日は学校で取ってる授業ないからよかったけど、普段だったらいい迷惑じゃない。私はお兄さんが階段を下りていくまで憮然とその背中を眺めていた。

 私は憮然としたまま、玄関に鍵をしてから部屋に戻ると、洗面所から出てきたその子は既に元着ていた服に着替えていた。やっぱりまだ乾いてはいなかったらしく、見てくれからして身体にぺったりと張り付いた服を着ていた。


「ちょっと君……こんなん着てたら風邪引くよ」

「……ねえ」

「何?」

「さっきの……」

「ああ? あれはただの間違いだって。宅急便屋さん。まあいい迷惑だよね。こんな時間になんてさ」

「……」


 その子は頭を深く下げて俯く。

 何もうなじが見えるまで頭を下げんでも。

 ここから見える細っこいうなじを見て、少し不安になる。この子ちゃんと食べてるのかしら。それとも最近の中学生って皆こんなもの?

 葵が意識に出ていた時は、葵の性格とにこにこ笑った顔のせいであんまり意識はしていなかったけど、よくよく見たらこの子は、小柄なだけではなく、病的な程に華奢だ。確かに思春期の男の子は本当に食べているのかっていうくらい細っこい子は多いけど、大概は身長は細さに反比例して高い。だけどこの子は細っこい上に身長も低いから余計に不安だ。

 やがて、顔を上げた。その表情からは、感情は読み取れなかった。


「あのさ……ここにいていい?」

「……はあ?」

「嫌なら……出て行くけど……」

「いや、いてくれるなら別にいてくれて構わないけどさ。でも何で?」

「……」


 この子はまたもや俯いてしまった。

 ……何なんだ、この気難しい子は。私は肩を大げさに落とす。


「とにかく、いるならいてくれていいから。せめて着替えなさい。さっきのジャージのがまだ濡れてないだけマシでしょ?」

「でも……もう着たし」

「服くらい買えるお金は持ってます。何で子供がそんな遠慮するのよ」

「……」


 黒目勝ちな目が、じっと私を見る。

 私は溜息をつきつつ、洗面所に向かってあの子が脱いだばかりのジャージを拾う。ジャージは丸めて脱衣カゴの中に入っていた。私はそれをぱんぱんとはらって皺を伸ばすと、部屋に戻ってその子に投げつける。その子は素直に受け取ってくれた。


「んで。君、名前は? 君だけじゃ駄目でしょ」

「……ん」

「えっ?」

「……潤」


 ああ、名前名乗ってくれたのか。


「そっか。じゃあ潤君。私は涼暮早苗。まあ早苗でいいや。ちょっと待ってて。朝ご飯食べたら、服買ってくるから」

「……」


 その子は、わずかに頭をコクリと下げて頷いた。

 何だかなあ……。私は思わず肩をすくめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る