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私はサンダルを脱ぐと、真っ先にその子に「玄関から動かないで!」と言う。
「何でー?」
その子は不服そうに口を尖らす。口を尖らせたいのはこっちの方だ。
「うるさい。家の中が濡れる」
「だって、早苗だって濡れてるじゃない。これ以上濡れても変わらないでしょう?」
「うるさい。ここの家主は私だ。嫌なら帰れ。いいならそこで待ってなさい」
「……はあい」
その子は口をアヒルのように尖らせたあと、玄関でTシャツを文字通り雑巾絞りし始めた。あー、やめてよ、玄関の私のサンダル濡れるじゃない。これから雑巾で拭くんだから。
私はイライラしつつも、洗面所に行って乾いているバスタオルを四枚程取る。ついでに自分のびしょ濡れのTシャツにデニムのスカートをポイポイと脱いで、ネットに入れると洗濯機に突っ込む。着替えは洗面所に置いてあるパジャマがあるし、ずっと濡れた服を着てたら風邪引いちゃう。私はもそもそとパジャマに着替える。替えはまだ四日分はあるから大丈夫。多分。
そして濡れ鼠になっているあの子のことを考える。私、男物の服なんて持ってないし、でもあんな雑巾絞りできるような格好してたら風邪引くしな……。仕方なく普段パジャマ替わりに着ている中学時代のジャージを持って行く事にした。
私はその子にバスタオルを一枚放り投げた。
「わっ」
その子は頭からタオルを被る。
「それで身体拭いて。足元に着替え置いておくから、そこで着替えて」
私はそう言いながら、床に残りのタオルを敷く。
洗濯物はこれにまとめて持って行こう。こんなにぐしょぐしょのびしょ濡れをそのまま置いていたら床が傷む。ここを出ていく時に難癖つけられたら厄介だもの。
「早苗―、冷たいよ」
「雨に打たれたからでしょ」
私が背中を向けている間に、その子はぶーと文句ったらしく言う。
ああ、このむかつく感じ。本当に葵だわ。
私はそう思って、イライラする。こんな不条理を受け入れてしまっている自分に腹が立ち、余計にイライラする。地元を出てからは割と穏やかに過ごしていたと言うのに、このイラッとする感じは本当に健康に悪い。
「そうじゃなくってー、早苗が冷たいよ」
「うるさい。って言うか、何であんたが中学生になっているのよ。全身整形?」
「嫌だなあ、そんな整形するんだったら、真っ先にするよ」
「意味わかんないし」
「うーんと、そうだねえ……あっ、着替え終わったよ」
「ん……」
私が振り返ると、その子は私のあげたジャージを着ていた。女物のジャージにも関わらず、何とかその子の身の丈には合っているようだった。まあ、中学生だったらまだギリギリ男と女でも肩幅とかに違いはないはずだし。小柄なこの子の身体には合ったみたい。
ジャージ姿で小首を傾げていると、本当にどこからどう見ても普通の中学生だ。
そしてその子は、爆弾発言をする。
「いやぁ、俺どうも死んだみたいで」
「……」
…………。
…………はあ?
思考が一瞬フリーズしたけれど、すぐにまたぐるぐると動き出す。
私は口をただ開けて、その子を見る。
葵が死んだ? 意味がわからない。
そもそも葵なんて死んでしまえとはよく思っていたはずだ。こいつといるのが疲れたから、私は地元を離れたのだ。だから葵が死んだこと自体には何の感慨も抱かない。
で、その死んだ葵が何で中学生になっているのよ。
「魔界転生とか抜かしたいの?」
最初に出てきた言葉が、昔聞きかじった言葉だった。
「違うよ、別に生まれ変わってないもん。あのさあ」
そして、さらに葵は爆発を誘導していく。
「俺の死体探してくれない? どこで死んだのか、覚えてないんだ」
「……」
…………。
意味わからない。
何で久しぶりに会った元カレが美少年になっていて、更に元カレの死体を探せと言われないといけないのか。私は言葉が出てこなかった。
私が言葉に詰まっている間にも、葵は身勝手に話を続ける。
「いやさぁ、死んだことまでは覚えているんだけど、何で死んだのか覚えてないんだよねえ。気付いたら早苗の家の前にいた。これって何だろう。運命? 死んでも会えるなんてさ」
「いや……ちょっと」
「しかしこの子誰なんだろうね。気付いたらこの子になってたんだよねえ。これっていわゆる取り憑いたって奴なのかなあ……?」
「ねえったら……」
「困ったなあ。このサイズだったら、早苗とセック……」
「うるさい、いいから聞けっっ!」
あまりにも好き勝手に言うから、私は終いには葵の脱いだ雑巾レベルに濡れた服を投げつけた。葵はもがもがと、「ひどいよ、早苗」と言いつつ服を剥ぎ取る。
……本当に自分の神経を疑う。何で私はこんなデリカシーのない男と付き合っていたんだろう。うざくて仕方がない。
私はうねる髪をいじりながら、葵を睨みつつ話を聞く。
「何で死んだ人間が今全く違う人になって、私の目の前に現れたのよ?」
「だから言ったじゃない。気が付いたら、この姿になってたんだってば。多分あれじゃない? 取り憑くって現象。オカルトの定番じゃん」
「オカルトの定番なんて知らないけど。で、あんた何で死んだのよ?」
「覚えてないから苦労してるんじゃない」
「つうか、この時期に死んだって訳?」
「うん、そう」
「今何月?」
「六月」
葵があまりにも飄々と言うのに、私は半眼になる。
普通こう、自分が死んだとか言うなら、もっと慌ててたり切羽詰まってたりするもんなんじゃないの? 何でそんな「もうすぐ前期試験だ、大変だねえ」レベルの会話な訳よ。でも葵の性格を思うとそういうものなのかもしれないと私は思い直す。
私はちらりと窓を見る。
既に暗くて、カーテンはまだ開けっ放しだけれども、かけっぱなしの白いレースのカーテンで覆われた窓は、家の中の灯りで白く反射して外の景色なんて分からなかった。
ただ、窓の外からずっと音がするのだ。ザァーッと、途切れることもなく、コンクリートを濡らす匂いと共に。
今は六月なんだから、雨が降り続けるのは当然だ。洗濯物が全く乾かないから乾いている服を探すのが大変とか、髪がうねって朝の準備の時間が長くなって辛いとかは、今は置いておいても。
「腐ってるんじゃない? 梅雨の時期ってちょっと涼しいからって油断してたら室温に置いてたお肉真っ黒になるじゃない。前に安いからたくさん買ったけど、冷蔵庫に入りきらないから、仕方なく氷と一緒に一晩発泡スチロールの箱に入れておいて放置したのよね。次の日見たら真っ黒に変色してたんだよ? 氷もなく、雨にさらされてたらねえ……」
私はさらりと酷いことを言ってみる。ちらりと葵を見ると、その子はみるみる黒目勝ちな瞳に涙を溜め始めた。本当に惜しい。中身が葵なのがすごく惜しい。
「ひどいよ早苗!」
「うるさい。だったら他を当たりなさいよ」
「でも他にこの辺で知り合いいないし、俺の話信じてくれそうな人いないし」
「知らないわよそんなこと。私を巻き込むな。自分の人脈のなさを呪いなさいよ」
「でも俺ここ追い出されたらこの子どうなるんだろうね?」
そうだった。
そもそもこの子、何故か葵に取り憑かれているんだった。この子にもこの子の生活があるだろうに、葵の馬鹿はこの子のこと知らないとか言ってるんじゃん。
この子どうしよう……?
私はタラタラと汗をかく。葵はわかっているのかわかっていないのか、またも勝手に話を始める。
「うーん、それにさ。ここって、見た感じ女の子しか住んでないじゃない。俺がうろうろしてたら問題あるんじゃないの? まあ見てくれだけだったら、ただの家出中学生かもしれないけどさ」
「……ちょっと待て、何でここが女ばっかりだって……」
「外から見える窓のカーテンの色で当てずっぽ言っただけだけど、やっぱりそうだったんだ。へー。ここマンションだけど、もしかして早苗の学校の生徒しかいないとか? だったら問題あるんじゃないの? 女子校って色々厳しいんでしょう?」
こいつ……。
私はたらたらと汗をかき続ける。この汗は、ただ部屋に湿気が充満しているからかいている汗だけじゃない。
そうだ、葵は卑怯なんだ。
口調ばっかりは犬っころみたいだし、大型犬みたいに無邪気に振る舞うくせして、悪知恵ばっかり働くから、こいつといるとすこぶる疲れる。
こいつ、私を脅しているんだ。私がここのアパートから追い出されるかもしれないことを見抜いてて。
どうする? ぶっちゃけ、ここは家具が備え付けだったから、自分の荷物さえ持ってこればすぐに引っ越せた。ここは大学と近いし、地元から通うのなんて無理。でも私のバイト代だったら、ここを出て行ってすぐに新しいアパート借りるのなんて無理。ここを追い出されるのはすっごく困る……。
私はたらたらと汗をかきつつも、葵を見る。少しだけ息を吸った後、一気にまくし立てた。
「……分かったわよ。探せばいいんでしょう。探せば」
「うん。探してくれる?」
途端に葵はにこにこと笑いはじめた。
ああ、卑怯だ。小憎たらしい。中身が葵じゃなければ、この子の笑顔は綺麗なのに、中身を知っているからこそ憎たらしい。
「で……あんた死んでるんでしょ? 肉体探してどうすんのよ?」
「だってさぁ……俺だってどうやったら成仏できるのかわかんないし。よく言わない? 死んだ事思い出せば成仏とかって」
「言っとくけど、私オカルトに全く興味ないから」
「えー、早苗ひどいよ」
「ひどくないし。意味わからん」
私は仕方なく、葵の持っていた濡れた服を取り上げる。
これだけ濡れてるなら、仕方ないから一緒に洗濯機にかけてやるか。私はそのまま洗濯機に突っ込みに行った。
「とりあえずそこに座ってて」
「はーい」
そのまま葵はペタペタと床を踏みながら、テーブルに座った。
私は洗面所に戻って、この子の服をネットに入れながら考え込む。
どうしてこうなった。
そんな言葉が頭をかすめる。ネットを洗濯機に放り込むと、洗剤を適当に入れて回しはじめる。洗濯機の渦を見つつ、溜息が零れた。
でもなあ……。葵にはさっさと出て行って欲しい。グロいのは嫌だけれど、死体さえ見つかればいなくなってくれるのよね?
そもそも人がひとり死んでいるのなら、警察とかに届けた方がいいのかな……。
でもやだなあ、警察に「死体探してください」なんて言ったら「何で人が死んだなんて知っているんですか? あなたが殺したんですか?」になっちゃうかもしれないし、別に殺してもいないのに容疑者扱いされるだろうし。
人が死んだとかいうのも、うちのアパート追い出される要因になるのかしら……。
そう不毛なことを考えつつ、洗濯機の蓋を閉めてリビングに戻る。
葵はテーブルの備え付けの椅子に座って、部屋をきょろきょろと見回していた。
「なんというか、いつも思っているけどさ」
「何よ。久々に会ったのにいつも思ってるとか言うな、気色悪い」
「ひどいよ、早苗」
「ひどくない」
「えー……。早苗ってばさ、こう女の子っぽいものとかない訳?」
「女っぽいのがいいのならよそに行くことね」
「ひどいよっっ」
「うるさい」
私の部屋は、殺風景とか言いようのない部屋だった。
家具一式はウィークリーマンションの名残で、全て備え付けだけで、私が引越しの際に持ってきたオプションはほとんどないといっても過言ではなかった。
花飾ったら毎日水を替えないといけないから面倒くさいし、観葉植物も水をやるのが面倒くさい。買わないとやっていけないカーテンや時計も、洗えて掛けてたら乾くものとか、拭けば汚れが取れるものくらいにしか考えずに買った。
だからここは全体的に、病院の一室か何かみたいに、備え付けの家具やカーテン、全てが真っ白に統一され、色が付いているものは室内物干しにかけてある服くらいだった。女の子の好きそうなキラキラした色の物なんて、ひとつもない。
「で、私の部屋の話なんてどうでもいいから。いきなり死んだとか言われてもこっちも困る訳で。せめて死ぬ前にどこにいたとか覚えてない訳?」
「うー……仕事してた」
「仕事?」
バイトかしら……。
私はそう思いつつ、続ける。
「どんな仕事してたのよ」
「ピッキングしてた」
泥棒がドアを開ける仕事……ではなくて、多分工場かなにかの箱詰め作業のことだろう。
「ピッキングねえ……。あんたわざわざ肉体労働しなくても、割のいい仕事あったんじゃないの?」
少なくとも、葵の元の顔はそんなに悪くはなかったし、私からしてみたら図々しい性格も、他人から見れば人懐っこいと取られる事が多い。性格からして、単純労働しているとは思っていなかった。
「うー……だってぇ」
そのまま私に抱きつこうとするので、その子の頭を押さえてそれを防ぐ。
「ひどいよ! 久しぶりに会ったのに」
「うるさい。久々に会ったと思ったら死体探せとか抜かすあんたの方がよっぽどひどいわ。つうか、あんた地元の工場ってどこよ?」
「地元じゃないよ?」
「えっ?」
「この辺だよ―」
「はあ……?」
そう言った後、葵は私の押さえ込んでいた手をくすぐりhjiめた。私は思わず手を引っ込めると、そのまま私に抱きついてきた。
「ちょっ、やめてったら……!」
「だって、折角久々に会えたのに、何もないなんてさあ……」
「っ……!」
……こいつは。
私は抱きつかれつつも、イラリとする。
思わずちらりと壁を見る。
一応隣に追い出されるまで住んでいた先輩は、私が先輩の部屋の前を通り過ぎるまでは彼氏と同棲しているなんて気付かなかった。つまり、よっぽど大声を出さない限りは、隣に声は聴こえないということ。
外は雨。仮に変な声が隣に聞こえても、「雨のせい」とか言って誤魔化せる。
こいつをここに置いておくは、うろうろされて余計なことくっちゃべられないようにするため、私がこのアパートに大学卒業まで安寧に住むためだから、こいつと色々するためではもちろんない。
私は自分の胸に抱きついてすりすりしてくる葵をじと目で見た。葵はにこにこしながら私を見上げる。、口元だけは確かににこにこと天使のような笑みを浮かべてはいるけれども、目はちっとも笑ってはいない。
子犬が発情期に入った。
私は嫌なことを自分で考えて、自分でげんなりとしつつ、尚も抱きついてくる葵を、手元にあったテレビのチャンネルで思いっきり殴った。
「っっ! 痛っっ……ひどいよ!」
葵は頭を押さえて涙目になる。うるさい。泣きたいのはこっちの方だ。私はリモコンをぺちぺちと手で弄びつつ、さらに突き放す。
「ひどくない。今のは正当防衛だ。あんた馬鹿でしょ? 中学生の姿で発情してどうする」
「どうするって……ナニする?」
何なんだ、この万年発情期は。
「死ね。もう一回死ね。地獄に落ちろ。そして私の前に二度と現れるな」
「もう死んでるのに……中学生巻き込みたくないからここに呼んだんじゃなかったの?」
「わかっているなら何もするな。死体探しは手伝ってやる。でもあんたと付き合ってる訳でもないのにナニするなんてやだ」
「えー……」
こうして、ひと晩延々とヤるヤらないの不毛な話で終わってしまった……。
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