1話

 雨が降っている。

 雨足は早くて細かく、おまけに斜めに向かって降ってくる。傘、何の役にも立っていないじゃない。

 嫌だなあ、今日はバイトの終了時刻が遅れたから。一番雨強い時に帰る羽目になってさ。まあこれで少しは残業手当がもらえたと思えば、何てことはないのかもしれないけど、気分の問題だ。

 自給と残業時間をかけて、いったい何円割増になったんだろうと、姑息なことを考えつつ、私は右手で傘を、右肩には鞄を、そして空いている左手で、雨でぴょこっぴょこっと跳ねっ返る髪を押さえつけていた。本当に嫌な雨。まあ六月に雨が降るのは自然なことだし、雨降らなかったら異常気象とかって天気予報で騒ぐんだろうけど。

 そう取り留めもないことを考えている間に、私の住んでいるアパートが見えてきた。

 私は傘を閉じてクルクルと折り畳んで階段を昇ろうとして……。階段の影に人がいる事に気が付いた。

 あれ、やばくない? 途端に私は鞄をぎゅっと掴む。

 私の住んでいるアパートは、アパートとは言ってもアパートではない。訳がわからないと思うけど、本当の話。

 そもそもここは本来ならウィークリーマンションと呼ばれる類の所で、それを私の通っている大学がまるごと全部貸し切ってくれているのだ。その手のお金は既に学費として払っている訳だから、おかげで学生はウィークリーマンションをアパートと同じような値段で借りれる訳だ。

 ただし、借りるには条件がある。

 うちの大学は女子校だ。アパートを借りられるのはうちの大学の生徒だけ、ルームシェアするのもうちの大学の生徒同士に限るし、もしここで問題を起こせば管理人さんが即刻大学に通報する。つまり即刻アパートを追い出されてしまうのだ。

 現にここに住んでいた学年一つ上の先輩は、ここで彼氏とこっそり同棲し始めたのがばれて、ここを追い出された。その時に庇う庇わないで隣に住んでいた私も巻き込まれかけ、ものすごく難儀したのは記憶に新しい。

 嫌だなあ、また厄介な事に巻き込まれたら。誰の男だ、今度は。

 私は溜息をついて、足早にそこを通り過ぎようとした。


「あれ? 早苗だよね?」


 声変わりしたばかりのザラリとした声が響く。

 私は思わず足を止めてしまった。

 早苗はたしかに私の名前だ。でも……。

 私は階段の影を覗く。

 そこにいたのは、さっきまで雨に打たれたのか、雑巾絞りできそうな位に滴る黒いTシャツを着て、白いハーフパンツを履いた男の子だった。

 声変わりしたばかりの声だとは思っていたけど、中学生位か?

 真っ黒な髪に真っ黒な目。典型的な日本人の要素を持っていながら、その男の子はびっくりするくらいに綺麗な顔をしていた。

 日焼けしていないすべすべした白い肌に、やや釣り目勝ちな大きな目。鼻もしゅっと通っている。顔のパーツは、可愛いと言うよりも綺麗な感じで、アイドルプロダクションのオーディションを受けたら一発で合格してしまうんじゃないだろうか。

 やや小柄な男の子は、私を見ながらにこにこと笑っていた。その様は、雨の中クンクンと鳴いているラブラドールレトリバーの赤ちゃんに似ている。雨に濡れた前髪が額に張り付いている様を見ると、余計にそう思えてくる。


「何?」


 他に言う事はないのか私。

 無視を決め込むはずだったのに、思わずその男の子に声をかけてしまった。


「ああ、やっぱり早苗だー」


 男の子はやっぱり私の名前を呼んで、にこにこしながら寄ってきた。

 ええっと……。

 私は記憶を探るが、そもそもこんなに綺麗な顔の子が知り合いにいるならば、忘れる訳がない。別に美形が好きな訳ではないけれど、見ていて綺麗なものは好きな方だ。

 そもそも私は大学生。相手は中学生……多分だけれど。それだけ年が離れていたら接点なんてないだろ。そりゃ家庭教師のバイトでもしていたら話は別だけど、私はそんなのした事ないし。


「誰?」


 私は本当に言葉を知らない言葉で男の子に問う。男の子は少しだけ目を見開いた後、「うーん」と首を傾げ始めた。

 何なんだ。私はこのまま無視して家に帰ろうかなと思い始めるけど、それより男の子の方が先に口を開いた。


「俺だよ! 葵! 松風葵!!」

「葵?」


 その名前を聞いた途端、私は目を半眼にする。

 冗談なら大概にしてほしい。冗談じゃないなら勘弁してほしい。

 それは地元に捨ててきた元カレの名前だった。

 でもあいつは私と同い年だし、私よりも背は高い。犬っぽい感じと言う点なら似てないこともないけれど、あいつはどちらかと言うと大型犬みたいにやたらリアクションがでかいタイプだ。

 私はあいつのにやけた顔を思い出し、ムカムカしてきた。

 ……もう放っとこう。

 無視してそのまま歩き出そうとするけど、男の子は慌てて私に抱きついてくる。身長が低く、サンダルのヒールでやや身長の伸びている私の胸に飛び込む形になった。って、飛び込むなあ! 服濡れるじゃん! もう濡れてるけど、人にさらに濡らされると腹が立つ。


「……胸の下に、ほくろがあるよね」

「……!」


 抱きつかれたまま、ボソリと呟かれた言葉に、私は固まる。

 こんなところ、普通服を着ているし、水着だとしても覆っている訳だから、見える訳がない。自分でだって、わざわざ裸で鏡の前でストリップする趣味なんてないから、指摘されて初めて気付いた物だ。

 ……つまりそんなの、私の裸を見ないと誰も知らない話だ。

 私は頬がカアッと熱くなるのを感じた。……そしてだんだん腹が立ってきた。


「……こんなところで、中学生の癖してセクハラしないで。あんた何様?」

「葵さま……ムゴッ」


 私は誰も廊下に出ていない事を確認して、その「葵」を名乗る男の子の口を頬ごと無理矢理押さえる。

 冗談じゃない。折角地元を離れる事ができたのに、追い出されてたまるか。


「ちょっとうちに来なさい。話がある」

「えー」

「え、じゃない! いいから来なさい!」


 私は小声でその子に命令すると、嫌々うちの家に連れて行く羽目になった。

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