水無月恋夜
石田空
エピローグ
エピローグ
雨が降っている。
傘を雨が激しく叩き、伝い、流れ落ちる。
雨足は徐々に早くなり、そのせいか既に人通りはなく、今ここにいるのは私たちだけだった。
気が付けばすっかり暗くなり、月も星も分厚い雨雲に隠れて見えない中、雨に濡れた外灯から落ちる頼りない光だけが、私たちを照らしている。
普段は髪がうねり、服や足元を濡らすので鬱陶しいとさえ感じる雨の音も、今だけは耳に心地よかった。雨の音が、全ての雑音を消し去ってくれ、私の中の音とじっくりと向き合う事ができた。
私は今、どんな顔をしているのだろう。
私は、今目の前で向かい合っている彼の顔を見ながらそう思った。
足元の水溜まりは、雨で波紋を立てて鏡の替わりにはならない。顔は雨で冷え切って筋肉が強張り、どんな表情をしているのか、自分では判断ができなかった。
泣いているのかもしれない。笑っているのかもしれない。
もしかすると、初めて会った時のように、何の感情も浮かべてはいない顔をしているのかもしれない。
少なくとも彼は、初めて会った時のように、何の表情も浮かべてはいなかった。
「それじゃあ、もう行く」
「うん」
最後の別れかもしれないのに、会話には驚くほど色気がなかった。
この数週間の出来事が頭をかすめる。そして、それ以外に言葉がないのだと理解する。
何故ならそれ以外の言葉を交わすほども、私たちは決して親しくないからである。でも、私は彼からとても大事なものをもらった。彼はどうなのかは知らない。彼はどうだったんだろうと知る気にも、全くなることはなかった。
雨足が早くなる。足元をびしゃびしゃと濡らし、ジーンズが湿って身体を重たくする。いったいどれだけ間があったんだろうと思ったけれど、多分それは一瞬のことだったんだろう。
やがて最後に、ふたりはほぼ同時に、一語一句全く同じ言葉を放った。
「ありがとう」
最後に交わした言葉は、本当にたったのこれだけだった。
彼は私の隣を、私は彼の隣を通り抜け、すれ違う。
すれ違う時に傘と傘がぶつかり、雨粒がバラバラと零れ落ちた。傘が私の代わりに、大粒の涙を零して泣いてくれたのかもしれないと、バラバラと落ちる雨粒を見てそう思う。
やがて擦れ合った傘から傘の感触は消え、水を跳ねるような足音は徐々に遠ざかっていった。
それでも彼は振り返らないだろう。私も振り返る気にはなれない。
ただ、私はこの雨の日を忘れることはないだろう。
私は振り返らない替わりに、傘を斜めにして空を見上げた。
月明かりもない、真っ黒な雨空から、雨がとめどなく降り続けていた。
初めて出会った、あの雨の日のように。
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