第2章 赤ん坊取り違え事件
実の母親じゃ、ない?
そんなことあり得ない、と一笑に付すのは簡単だったが、吉紀がどこからそんな話を思いついたのか、興味が湧いた。
「根拠は?」
「根拠と言われると困るな。可能性があるってレベルだからさ」
いつの間にか商店街まで戻ってきていた。さっき走った時には気づかなかったが、通りの中心にいくつか背中合わせにしたベンチがおいてあったので、空いたところに二人で腰を下ろした。詫びの印にと言ってコーラの缶を寄こしてきたので、受け取ってプルタブを引いた。たまに飲むとうまいな、と思っていたら、
「おれの方が2時間兄貴だって聞いて、何でって思わなかった?」
「思ったさ」
「お袋から聞いたんだ。お袋いわく、お前のお母さんは戦友なんだと」
「戦友?」
「お互い陣痛で苦しんでる時に、同じ部屋にいたんだってさ。つまり、おれたちは同じ病院で産まれた。これも共通点な」
へえ。と今日は何回、思ったことだろう。
「1年の終わりに親の面談あったろ。お袋が学校出る時、十何年ぶりに会ったってびっくりしてたよ」
自分の母親はそんな話をしていただろうか。よく覚えていない。
ごにょごにょと吉紀がなにやら唱えた。締めくくりの言葉を聞いて、呪文のようなそれは、やたらと長い病院の名だと分かった。
「おれたちが生まれた場所だ。この町にあったんだけど、知ってる?」
いや、と健司は首を振った。
「あった、ってことは」
「そう。今はもうない」
吉紀はうまそうにコーラ缶を傾けると、一息ついた。
「15年前、その病院で赤ん坊の取り違え事件が起きた。当時、けっこうなニュースになったらしいぜ」
「15年前、っていうと俺たちが産まれた1年くらい後だな」
「そう。だからって無関係とは言えない」
「どうしてだ」
「事件以前から管理体制が甘かったっていう看護師の証言がある。発覚しなかっただけで、取り違えはずっと前からちょくちょくあったのかもしれない」
まるで重大事件や怪談を語っているような吉紀の口ぶりに、おかしくなってしまった。
「それが“事件の当事者である可能性”だって言うのか?」
「まさか」
吉紀が心外だという顔をした。
「おれたちの場合は、間違えられる“リスク”が他より高かったんだよ」
* * *
「ここで、さっきの戦友の話だ」
ややこしいから、注意して聞いてくれ、と吉紀が親指と小指を折った手を突き出してきた。
「三人のヨーコ――字は全部葉っぱの、葉子だ」
健司はうなずいた。母の名も葉子だ。
「健司のお母さんの、旧姓は?」
「竹中」
「そう。元・竹中葉子さんだな」
吉紀が薬指を折った。
「うちのお袋・鈴木葉子は、元・山本」
中指が倒れる。
「なんだって?」
母の現在の名前が、吉紀の母のかつての姓名という事か。
「もっとややこしいぞ」
陣痛室にはもう一人、戦友がいた。
「臨月だっけ、もう赤ん坊が産まれようかって時に離婚した――鈴木葉子。元の苗字に戻して竹中葉子として入院してた」
残った人差し指が揺れる。
「整理するぞ。今の苗字の後に前のをつけて呼ぶ。お前んちが山本竹中で、うちが鈴木山本、もう一人が竹中鈴木」
「分かった」
要は三人の旧姓が、三人のうち誰かの現姓に当たるということだ。
「赤ん坊の名前って、産まれた直後は決まってなかったりするだろ」
そのため赤ん坊のベッドには、本人の名前の代わりに母親の名前が貼ってあった。
「“ぼくのママは鈴木葉子です”ってな」
さらに三人が1時間違いで産んだ赤ん坊は全員男児だった。
「おれのお袋は、そそっかしいうえに、仕事ではずっと旧姓を使ってきたらしい」
件の病院では、母親が夜ゆっくり休めるようにと、夜間は新生児を新生児室で預かり、母親が朝受け取りに出向くシステムだった。
普段、山本葉子として生活することに慣れていたら、その名前が表示された赤ん坊のベッドについ手が伸びても不思議はない。しかも現場は管理が杜撰な病院、と間違えやすい条件が重なりすぎている。
「どう? お前が自分の母親だと思ってる人は、赤の他人かもしれないぜ」
「なるほど。分かった」
でも自分について言えば、母親が取り違えをしたということは絶対にあり得ない。健司は吉紀にそう言った。
「へえ。自信たっぷりじゃん」
「新聞記者志望って言ってたな。情報だけで推論するのは危険だぞ」
「ん?」
「現場、現状を自分の目で確かめるのも大事だってこと。俺と母さんは、他人が吹き出すくらいよく似てる。見れば、実の親子だってすぐに分かるよ」
「あ、そうなんだ」
吉紀は無邪気に笑った。
「残念。違ってたら面白かったのになあ」
「吉紀はどうなんだ? 自分の心配はしなくていいのか」
「それがさ。お袋の奴、あたし自信ない、間違えたかもって」
「本当か?」
「病院は違うけど、姉貴ん時も何回か間違えそうになったことがあるんだってさ。ほんといい加減にしろっての」
そう言いながらも、楽しそうだ。
「なあ、おれとお前の間に生まれた子どもって――うわ、この言い方気持ち悪いな」
“間”って、時間って意味だぞ、とわざわざ付け加えてきた。
「分かってるよ」
野郎二人の話題で、どう間違えるというのだ。
「おれの1時間後に産まれた子どもって、どんな奴かな」
「さあな」
「何となく、そいつもおれたちみたいに、背が高い気がすんだけど。血液型も同じでさ」
好奇心旺盛という点では、吉紀は新聞記者に向いていそうだ。
「なあ。第三の男、気にならねえ?」
* * *
「いや、別に」
「そう言うと思った」
吉紀は苦笑すると一息つき、手元の缶を握って軽くへこませた。
「ゴミ箱、あったよな」
つぶやきながら、それを買った自動販売機の方に目を向ける。
「ん?」
吉紀が腰を上げると同時に、販売機の傍にいた7、8歳くらいの男児が三人、慌てて走り去った。
「健司。お前、小学生からも恨まれてんのか?」
「からも、ってどういう意味だ」
吉紀は健司の問いには答えずに言った。
「ちょっと前から、あの子ら、こっち見てたよな」
「ああ」
子どもたちの視線には気づいていた。それに一度は健司に向かって声をかけようとして止めたのも分かっていた。
「お前に何か用があるんじゃねえの?」
「みたいだな」
「どうせまた、面倒くさいから、って言うんだろ。でも」
放っといたらいつまでもああやってるぜ、と親指で指す方を見ると、案の定、少し離れたハンバーガー屋の看板から顔を出して、こちらをうかがっている。
実を言うと、用件がどういうものかもだいたい想像がついているのだが――。健司はため息をつくと、立ち上がった。吉紀から受け取った空き缶と自分のをゴミ箱に落としておいて、小学生たちに向かって、手招きをする。数歩歩み寄ると二人が不審そうな顔で身構えたが、残る一人は、顔をこわばらせながらも進み出てきた。
「たか
言ってやると、やっぱりなあ、と少年が安心したような表情を浮かべた。
「ほら。だからオレ、さいしょに言ったじゃん。顔はそっくりだけど、ニセモノだって」
少年の後ろにいた仲間のうちの一人が隣の子を小突いた。
「ざけんな。お前がその後、もしかしたら、またふざけて芝居してんのかもとか言うから、わけ分かんなくなっちゃったんだよ」
「いいから。ちょっと黙ってて」
健司の前に立つ少年は、背後に向かって苛立たしげに手を振ると、健司を見上げた。
「知ってるんですか。たか兄のこと」
「ああ」
「たか兄、なんで来ないのかな」
「さあ。それは、知らない」
少年が困ったような顔をした。俺にそんな顔されても、と考えていると、別の方から子どもの大声がした。
「あ、いた!」
やっぱこっちだったよ、と数人が走りよってきた。続いてやってきたのは、子どもたちに言わせると “ホンモノ”である“たか兄”――健司の叔父・孝志で、先に待っていた三人の子も合流して、孝志を取り囲み始めたので、健司はそのまま吉紀が待つベンチへ戻った。
「プリンが入ってる方って言ったろ?」
「入ってるよ。ほら」
言い争う声がここまで届く。どうも待ち合わせ場所を“プリンが入っている方の自動販売機”にしていたようだ。そんな場所を待ち合わせに指定するなよ、と、健司が内心呆れていたら、
「そっか、よく売れるから、こっちにも入れることにしたんだな」
悪い悪い、と叔父が謝っている。場所決めたのあんたか。ため息をついたら、吉紀が笑った。
「お前のドッペルゲンガー?」
「いや、俺の“ニセモノ”だ」
悔しいから言ってみたが、吉紀を煙に巻くつもりはなかったので、補足することにした。
「母さんの弟」
「ってことは、叔父さ――」
「その言葉は口にしないほうがいい。殺されるぞ」
吉紀は一瞬顔を引きつらせたが、そのあとにやりと笑った。
「似てるってレベルじゃねえだろ。コピーロボかよ」
「これで俺がうちの母親は取り違えしてないって言ったのが分かっただろ」
「ああ、よーく分かった」
それにしても似すぎ、とまだ可笑しそうに言う。
* * *
「よう」
小学生との用を済ませたらしい孝志がこっちに向かってきた。
激レアカード交換してきた! と自慢気に突き出しておきながら、
「ああ、金魚狂には価値が分かんねえか」
と残念そうに言って、札入れに丁寧にしまった。高校生が小学生の流行アイテムに疎いのは当たり前ではないかと言いたいが、そこは放っておく。
孝志が吉紀に笑顔を向けた。
「こんちは!」
「どうも」
笑いを隠せないまま、会釈した吉紀に、
「健司の友達?」
「え? あ、はい」
返事を聞くや、孝志が目頭を押さえた。
「健司、お前、タロちゃん以外にも友達いたんだなあ」
「ウソ泣きはいいから」
健司が素っ気なく言うと、すぐに目から手を放して、楽しそうに笑った。
「竹中孝志だ。たか兄って呼んでくれ」
いきなり手を差し出されて、吉紀は一瞬戸惑うような顔をしたが、すぐに笑みを浮かべて孝志と握手を交わした。
「鈴木っす」
「下の名前は?」
君で鈴木さんの知り合いが六十人目になるからさ、と孝志が言うのを聞いて、吉紀は笑い、名乗った。
「ヨシノリくんか。ヨッシーでいい?」
「はい」
吉紀は答えて、おかしそうに健司の方を見た。その顔に“性格は真逆なのな”と書いてある。放っといてくれ、と目線で返しておいた。
孝志はなぜか立ち去らず、吉紀の隣に腰を下ろした。吉紀が“おんなじ顔に挟まれて、落ち着かねえ”と笑う。
「ヨッシーさ、前にどっかで会ったことある?」
「いや、初対面っすね」
「だよな。一回会って話した人は、おれ忘れねえしな」
孝志は不思議そうだ。しばらく考え込んでいたが、
「ひょっとして、お母さん、ヨーコさんっていう?」
「お袋を、知ってるんですか」
「ああ。鈴木ヨーコさんなら、仕事でよく世話になってる」
さっきも電話で話したばかりだという孝志に、世間せま! と吉紀がつぶやいた。
「そうか。ヨーコさんの面影あるから会ったことある気がしたんだな」
「え、でも似てるなんて言われたことな――」
「じゃあ、君が噂のヨシ君か。おれの弟子になりたいっていう?」
「弟子?」
「寝てる時とフロ以外は、ずっと絵描いてるんだってな」
「いや、それおれじゃないすね」
「違う?」
「おれ、絵は苦手なんで」
「へえ、てっきり息子さんかと思った」
さすがにそこまで世間は狭くねえか、と言う孝志の言葉に、健司と吉紀は顔を見合わせた。健司が尋ねた。
「たか兄が言ってる鈴木ヨーコさんって、漢字は? どう書くんだ?」
「葉っぱ。姉貴と一緒だ」
言いながら何か思い出したようで、孝志はおかしそうに言った。
「ヨーコさん、ちょっと前まで竹中だったんだってよ。別れたダンナと最近ヨリを戻したんだが、再々婚してなきゃ、姉貴の前の名前と同じだったわけだ」
「何だって?」
「ちょっと待ってください。ダンナさんと別れて竹中になった葉子さんが、また鈴木さんになって、その人が、おれに似てるって?」
吉紀が身を乗り出した。
「ああ。似てるっていっても、何となく、な。目の辺りとか雰囲気とか」
「おい」
健司が吉紀の方を見ると、少し青ざめていた。
「ヨシ君か。第三の男、意外と近くにいたんだな。ははははは」
外国語の発音練習みたいな、乾いた音を響かせている。
「いや、そうじゃないだろ」
ヨシ君よりその母親の方が問題なんじゃないのか?
言おうと思ったが、吉紀が不自然な笑顔のまま固まっているのを見て、やめた。今、吉紀の頭の中では、いろんな思いが猛スピードで回転しているに違いない。
「ん? ヨッシー、どうした?」
吉紀の変化に気付いた孝志が心配そうに言った。健司は吉紀の代わりに、取り違え事件のことを孝志に話した。
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