第22話

「ごめんなさいね、デルタくん。退屈だった?」

「……」

「デルタくん?」

「あ? は、はい!」


 俺ははっと我に返った。リアン中尉一家の身に、そんなことがあったのか。


「あ、あの、中尉も軍曹も、大丈夫、ですか……?」

「何が?」

「い、いや……」


『そんな酷い体験を経て、あなた方は大丈夫だったのか』と、尋ねたいのは山々だった。が、そんなことを訊くのは愚の骨頂だ。大丈夫だったからこそ、そしてそれを乗り切ったからこそ、彼女たちは前線で戦っているのだ。

 いや、待てよ。もしかしたら、その体験を克服するために、この姉妹は戦っているのかもしれない。いずれにしても、デリケートな問題だ。他言無用であることは間違いない。


「両親を失った私たちに、多くの人たちが助けの手を伸べてくれた。ロークや彼のご両親、それにオルド大尉もね。けど、私もリールも、戦う以外に選択肢なんてなかった」


 ここで二杯目の酒――テキーラだろうか――に艶やかな唇を当て、中尉は話を続ける。


「デルタくん、あなたにも分かるんじゃないかしら? 恐怖体験をバネにして、戦場に身をさらす人間の気持ちが」

「そう……かもしれません」

「そうね、そうでもなければ、あなたのような整備士が、あんなに無理やり現場に乗り込んだりしないものね」


 中尉は恐らく、最近の出来事を思い返して話しているのだろう。前にいた基地での敵襲や、先ほどまで続いたテロリストととの戦闘など。

 確かに、俺は五年前にオルド大尉やリアン中尉に救出されてから、ずっとステッパーの相手をしてきた。ステッパーの構造は熟知している。無論、その弱点も。

 だが、俺よりもずっと才能のあるルイには及ばないし、だからこそ自分は戦わなければ、という気持ちもあったのかもしれない。


 それでも、俺は自分で自分のことが分からない。もし、万が一ステッパーに搭乗したとして、自分にどれほどの扱いができるのか。どれほどの敵を倒せるのか。そして、どれだけの味方を守ることができるのか。

 葛藤でざわめく心の湖面を想像している俺に向かい、中尉は声をかけてきた。


「どうして私、あなたにこんな話したのかしらね。ごめんなさい」

「いえ、聞けてよかったと思っています」


 って、待てよ。俺は何を喋っているんだ? リアン中尉が心の傷を目前に広げているというのに。かさぶたを自ら剥がそうとしているというのに。

 それなのに、俺は今何と言った? 『聞けてよかった』だって? あまりにも無責任な言い分じゃないか。

 俺は何を語ることもできず、身体の向きを変え、リアン中尉の横顔を見つめた。いつもよりも、僅かに瞳が潤んでいるようにも思われる。すると、中尉も身を捻り、真っ直ぐに俺を見つめてきた。身長も座高もさして変わらない、俺と中尉。

 すっと滑らかに、何の躊躇いも感じさせずに、中尉は俺の両肩に手を載せた。


 はっとした。中尉は今、何をしている?


「デルタくん……。私、とっても弱い人間だから」


 徐々に近づいてくる、中尉の顔。唇が微かに突き出され、瞑られた瞳からは涙が溢れている。俺は身体が化石化したように、身動き一つとれずにいた。

 俺もゆっくりと、覚悟して目を閉じようと瞼を下ろす――はずだった。


「あいよ、ホットミルクだ」


 唐突に割り込んできた、威勢のいい声とジョッキの衝突音。それがロークのものであることに疑いはない。

 俺と中尉は、同時に瞼を引き上げ、寄せ合いかけていた身体を離した。慌てて体勢を正面に戻す。

 邪魔をされたという感覚はない。それよりも、その行為――口づけが為されなかったことに、一抹の安堵感さえ覚えていた。


「ご、ごめんなさい! 私、あなたに一体何を……」

「あ、え? ああ、す、すみません!」


 すると中尉はさっさとカウンター席から立ちあがり、『お手洗いを借りるわ』とだけ言って、その場を後にした。


 それからたっぷり三十秒はかかっただろうか。


「あ、あの、ロークさん、今、一体何があったんです?」


 俺は自分がリアン中尉に口づけを求められた『らしい』ことは察していた。が、中尉にとって、俺は部下のうちの一人にすぎないはずだ。一体何が、中尉にあんな挙動を取らせたのだろう。

 ロークはロークで黙り込み、しばらく静かにグラスを拭いていた。時折、警察のパトランプが窓から入り込み、彼の横顔を照らし出す。その彫りの深さが引き立つ度に、顔中に皺が寄せられているのが分かる。


「ロークさん……」


 急いで回答を求めるべきではない。が、ゆっくりとでも構わないから、俺は彼から中尉のことを聞きたい。知りたい。そして、自分なりにで構わないから、理解したい。

 しかし、帰ってきたのは冷たい声音だった。


「彼女には、流されない方がいい」

「は?」


 間抜けな声が、俺の喉を鳴らす。頭の中が、急に空っぽになる。その隙を狙ったかのように、ロークは手を止め、語りだした。


「彼女は――リアンはあまりにも多くのことを、自分一人で背負っている。彼女と共に生きていこうとするなら、相当な覚悟が要る。どうだ?」


 その時になって、ようやく俺の頭は状況を理解した。


「と、とと、共に、い、生きていくって……」

「彼女を好いているのだろう、デルタくん」


 俺の心臓は跳ね上がった――どころの話ではなかった。鼓動は喉元にまでせり上がってきて、全身が熱を帯びた。

 これが恋心であるとか、愛情であるとか、言われてしまえばそうかもしれないと納得できる。今まで俺は、そんな類の感情に触れてこなかったのだから、分からなくても当然だ。

 だが、俺は感じていた。この気持ちは、恋や愛といったものを遥かに凌駕しているのではないかと。

 五年前、俺を死地から救ってくれたリアン中尉。優しい朝日のように、ずっと俺の憧れでいてくれたリアン中尉。そして俺に、辛い過去を告げてくれたリアン中尉。


 俺はようやく、自分の胸中が異常であることに気づいた。ぐしゃぐしゃになって脈打ちながら、腫れあがったり押し潰されたりしている。

 この感情……。一体何なんだ?


 ただ一つ、意識できたこと。それは『自分の手でリアン中尉を守りたい』ということだった。

 ルイあたりに尋ねたら、きっとそれは『男性側のエゴだ』とでも言われるかもしれない。こんな戦時下にあって、誰が誰を守り切れるかなど、全く分かったものではないのだから。バルシェ少佐がいい例だ。だが、それでも。


「君は涙を流している。それこそ、君にとってリアンがただならぬ存在であることの証明だ。だからこそ、これ以上想いが強くなる前に、彼女からは距離を取った方がいい」


『君たちは軍属なのだからな』――そう言って、ロークは再びグラスを拭く作業に戻った。


 ちょうどその時、ガタン、とバーの入り口が押し開けられた。バーに面した道路は、思いの外静まり返っている。どちらかといえば、漂ってくる火薬臭さ、生臭さの方がよほど酷い。


「失礼します! デルタ伍長でしょうか?」

「ええ、そうですが」


 すると、新兵と思しき青年は敬礼をして、一言一句を区切りながら述べ始めた。


「敵勢力の掃討は完了しました! リール軍曹、ルイ伍長がお待ちです! 新しいジープと運転手を手配致しました。ご同道を! あ、もしリアン中尉がご一緒でしたら――」

「ええ、分かったわ」


 唐突に背後から響いた声。振り返ると、いつの間にかリアン中尉が立っていた。

 先ほどの件など全くなかったかのように、すたすたとドアに向かっていく。


「遅れないで、デルタくん」


 カウンターに二、三枚の紙幣を置きながら、外へと足を踏み出す中尉。

 

「あっ、ちょっ……」


 俺はロークに一瞥をくれる余裕もなく、急いでバーから駆け出して行った。

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