第2章 超人の災難 

 めそめそしながら二階に上がり、自分の部屋に入ろうとしたら、

「花子?」

 兄が襖越しに声をかけてきた。

「お兄ちゃん」

 兄の部屋に入って、その間抜けな顔を見たら、急にほっとして、涙があふれ出てきた。

 両手で涙を拭っていると、

「どうした?」

「なんでもない」

 自分の常識のなさが恥ずかしくて、泣いてしまったなんて言えない。

「おい、それどうしたんだよ」

 急に兄の声が低くなった。

「なあに」

「腕だよ」

 見ると、右腕に赤く指の跡がついている。

「あ、これね、山本さんに――」

 叱られちゃった、そう言おうとしたら、兄が布団を跳ね上げた。そのまま転がるように起き上がったかと思うと、

「んのやろおおおおお!」

 喚きながら、どだだだだと階段を駆け下りていった。

「お兄ちゃん!?」

 花子も後を追う。

「てっめえ! 花子に何しやがったあ!」

 同時に何か重いものが倒れたような、大きな音がした。急いで台所に飛び込んだら、兄が流しの前の床の上に引っ繰り返って、ヤマケンに取り押さえられていた。

「俺が何したって?」

 ヤマケンは余裕の表情だ。

「包丁持ってる時に飛びかかってくるなんてどうかしてる」

「ちくしょ~、花子があ」

 親父、お袋、オレを許してくれ~。兄が、じだばたしながら泣いている。

「ちょっと」

 お兄ちゃん、何か勘違いしてる。

「わたし、腕をちょっとつかまれただけだよ」

 花子が慌てて言うと、太朗が、あ? と顔を上げた。

「何でつかまれたんだよ」

 床に組み伏せられたまま、今度は花子に突っかかってきた。

「花子ちゃんが、食器用洗剤で米を洗おうとした」

 だから止めたんだ。健司が太朗の頭をはたいて言うと、手を離して立ち上がった。兄が痛ててて、と言いながら体を起こす。

「ごめん、腕、痛かった?」

 健司が花子に向かって言った。

「いえ、大丈夫です」

「力が入っちゃったのかな」

 ごめん、ともう一度言って、ぺこりと頭を下げた。

「ほんとに平気です」

「なんだよ、そうだったのか」

 太朗が床に座り込んだまま、大げさなため息をついた。

「洗剤で米洗う、って」

 花子、お前ほんとバカだなあ。鼻声でしみじみと言う。

「バカはお前だ、太朗」

 健司が腕を組んで太朗を見下ろした。

「いや、バカなのは、俺か」

 静かな言い方が、何だか怖い。

「自分のことを、まったく信用してないクラスメイトに、晩飯を作ってやってるお人好しなんだからな」

「いやあ、わりいわりい」

 兄が咳き込みながら笑う。

「お前、日頃の行いが悪いからさ、つい、な」

「俺、帰る」

 健司が、頭のタオルに手をかけたのを見て、兄がその脚に飛びついた。

「うそうそ、マジでオレが悪かった」

 ごめん、と頭の上に手を上げて、拝むようにしている。

「ほんとに、ごめんなさい」

 お兄ちゃんのバカ。花子も必死で頭を下げた。

「ったく」

 健司が大きなため息をついて、もういいよ、と言った。

「できたら呼んでやるから、大人しく待ってろ」

 その後、兄は少し元気になったらしい。二階から掛け布団を取ってくると、それにくるまって居間でテレビを見始めた。

「お兄ちゃん寝てなくていいの?」 

 これでは何のためにご飯を作ってもらっているか分からない。

「今日、一日中寝てたからさ」

 寝られねえんだよ、と言う。

「どうせすぐメシだろ。食ったら寝るよ」

 台所では何か刻んでいるのか、軽快な音が聞こえてくる。お母さんがいるみたい。

自分はどうしたものか、と花子は考えたが、実のところヤマケンがいる間は、気になって宿題どころではない。結局、着替えてきた後は、兄の傍で一緒にテレビを見ることにした。子どもの頃のように並んで座って、お笑い番組を見て笑っていたら、ごま油のいい匂いがし始めた。


* * *


 できたぞ、という声に、兄妹揃って台所に行くと、食卓には目にも鮮やかな料理が並んでいた。

「うちの晩飯のお裾分けだから」

 たいしたものはないからな、と超人はぶっきらぼうに言った。

 そうは言われたが、ここ数日、貧相な食事しかとっていなかった花子にとっては、飛び上がるほどの豪華メニューに思えた。

 野菜をどっさり刻みこんだ中華スープ(ふわふわのかき卵入り)に野菜サラダ、鶏肉とピーマンのカシューナッツ炒め、さらにカットしたオレンジといちごまで盛ってあった。

 兄には、中華スープを取り分けて作った専用のおじやが別に用意されていた。ネギとしょうがを追加してあるのだそうだ。

「これだよ、オレが言いたかったのは」

 兄が嬉しそうに言い、皿を眺めわたしてから、いちごを指差した。

「ビタミンC。覚えとけよ、花子」

 だったら最初から、いちご買ってこいって言えばいいのに。思ったが健司の手前、黙っていた。

「それにしても、最初っからうちにメシ作りに来るのが分かってたみてえなメニューだな」

「いや、うちも母親が風邪気味だから」

 もともと、今晩は風邪対策メニューにするつもりだったらしい。

 母の分を持って帰るのに鍋を貸してくれと言うので、兄妹二人で大きくうなずいた。

 健司はここで一緒に食べていくという。ヤマケンと晩ごはん! 感動しつつ、花子は兄たちに倣っていただきまあす、と合掌した。

 感動すべきは、この幸せな状況だけではなかった。おいしいよう……。花子が思わず泣きそうになっていたら、

「う、うめえ……」

 隣で、兄も涙ぐんでいた。

「生きててよかったな、花子」

「うん」

「泣くことはないだろ」

 大げさなんだよ、と超人は呆れたように言いながら、箸を動かしている。

 とんかつ弁当のおかずは、花子と健司で分けて食べることにした。が、太朗が炒め物同様自分にもくれと言い出し、結局三人で分けることになった。健司はおじやを作った意味がない、とこぼしていたが、いつもの食欲を取り戻した太朗を見て、勝手にしろと諦めたように言った。

「お前、いつもは一人で食うんだろ」

 兄がお代わりをしながら、健司に尋ねた。

「まあ、一人のことが多いな」

「“めんどくさ星人”も、メシはちゃんと作るんだな」

 感心したように言う。

「食事の手抜くと体調悪くなるんだ。それに」

 料理は全然苦にならないから、と健司は言った。兄がふうん、とうなずく。

「寂しかったら、時々家にメシ作りに来ていいぞ」

「誰が来るか」

 漫才みたい。学校でもこんな風なのかな。

「じゃあさ、花子」

 お前、健司と結婚しろよ。いきなり言われてむせそうになった。何言ってんの。すごく、すごくいい考えだけど。

「毎日、こんなうまいメシが食えるぞ。こいつは、掃除に洗濯、何でもできっから」

 お前、何にもしなくていいし、と嬉しそうだ。

「で、居候のオレも一緒に食わせてもらう、と」

 ずいぶん情けないことを言い出した。

「そん時は、兄上様と呼べよ。オレのこと」

 超人がとうとう反応すらしなくなった、と思ったら、ぽつりと言った。

「俺は、自分の飯くらいは自分で作れたほうがいいと思うな」

 大きなお世話だけど、と付け足す。

「いや、親父がさ、こいつにはほんと何にもさせねえんだ」

 太朗が笑いながら、花子を指差した。

「本気で女優か何かにする気らしいぜ」

「花子ちゃんだけじゃない、お前もだ」

 カレー以外も覚えろ、と超人に叱られた兄は、

「分かったよ。オレ一応病人だからさ」

 優しくして、と勝手なことを言って笑った。

 花子が箸を置いて、大きないちごを頬張っていると、

「皿洗いは、大丈夫だよね」

 健司に言われた。急いでうなずく。普段はやってないけど、今晩はやってみよう。

「花子、そういう時はな」

 できませえん~って言うんだよ。くねくねしながら兄が気色悪い声を出した。

「そしたら健司がついでにやってってくれたのに」

「ほんとに厚かましい奴だな、お前は」

 太朗をひとにらみしてから、ごちそうさまと手を合わせると、超人は自分が使った食器を流しへ持っていった。

 それから、明日の分だと兄妹に向かって調理台の一隅を指差し、鍋とおかずの包みと学生鞄を手にすると、

「溺れるほど水飲んで、さっさと寝ろ」

 兄に捨てゼリフを投げて去っていった。


*  *  *


 兄はヤマケンの忠告を素直に聞いて、大量の水で風邪薬を飲むと、自分の部屋に寝にいった。

 花子はちょうど見たい歌番組があったので、それを見終わってから皿洗いをしていると、家の電話が鳴った。ヤマケンからだった。何だろう。声だけなのにどきどきしてきた。

 花子が夕食の礼を言うと、健司は、ああと気のない返事をした後で言った。

「冷凍庫に小さな紙袋、入ってるよね」

 見に行ってみると、確かにある。健司にそう知らせると、自分の忘れ物だと言う。

「溶けると困るから、入れさせてもらってたんだけど」

 今から取りに行ってもいいかと言われて、胸が躍った。

「借りた鍋も返したいし」

 健司はそれから20分ほどしてから現れると、ありがとう、と言って洗った鍋と保存容器を差し出してきた。当然ながら、今度は私服姿だ。普通の長袖Tシャツとジーンズで、しかもお鍋持ってるのに、なんでこんなにかっこいいんだろ。

 感動を新たにしながら、台所へ行って鍋を置くと、冷凍庫から紙袋を取り出した。袋の中には板チョコを何枚か重ねたくらいの、平たい箱のようなものが入っているようだ。

 花子が紙袋を渡すと、これ最高級品なんだ、とほっとしたように健司が微笑んだ。

 わあ、初めて笑った! 超人もこんな顔するんだ。貴重な笑顔が見られて感激。

急に親近感がわいて、尋ねてみた。

「最高級品って何ですか?」

 キャビアとかウニとか?

「いや、これはね」

 超人は少しはにかんで言った。

「イトミミズなんだ」

 いと、みみず? 

 言葉(糸蚯蚓)とイメージ(うようようようよ……)が、頭の中で一致した瞬間、体が凍った。

「いやああああああああああ!」


* * *


 後で聞いた話によると、その後のヤマケンは大災難だったらしい。

 花子が悲鳴を上げ、座り込んだところへ、叫び声を聞いて二階から走り出てきた太朗が、階段で足を滑らせ、花子の上に落下した。結果、兄妹揃って頭を強打したのか、気を失ってしまった。

 二人の様子を見ようと、健司が上がり框に足をかけ、妹を下敷きにしている太朗の身体を動かした時、折悪しく、近所の人とパトロール中の巡査が駆けつけた。

 学校では有名な超人だが、この界隈では花子の方がよく知られていた。さらに、新人巡査の居丈高な物言いにかちんときた健司が、“不遜な態度および面構え”をもって応じたため、さらに話がややこしくなった。

 まもなく気がついた太朗が、自分の級友だと説明するまでは、完全に「美少女を狙って忍び込み、犯行を止めようとした兄まで気絶させた凶悪犯」扱いされていたらしい。

 最高級の冷凍イトミミズは、ヤマケンがこよなく愛する “でめきん”のエサだそうだ。


* * *


 数日後、花子が友達と登校していると、少し前をヤマケンが歩いているのに気付いた。兄と仲がいい佐藤さんも一緒だ。

 友達に断っておいて、健司に追いつくと、花子は後ろから声をかけた。

「この間はごめんなさい」

 頭を下げると、別にいいよ、と例によって無愛想な答えが返ってきた。

「ああいうの、慣れてるから」

 もの言いが、前ほど冷たくないような気がするのは気のせいだろうか。少しほっとした。

 花子が友達のところに戻ると、

「今話してたの、ヤマケンじゃない?」

 友達が興味深々の表情で聞いてきた。

「はな、知り合いなの?」

 そうだよ。親の旅行中に来てくれてね、おいしい晩ごはん作ってくれたの! 

 本当は大声で自慢したい。町中に言いふらしたい。でも、こんな言い方をしたら、絶対また騒ぎになったり変な噂が立ったりするに決まっている。この間のお詫びの意味でも、ここは我慢しないと。

「ううん。お兄ちゃんの友達、ってだけ」

 ふうん、と友達は残念そうに言った。

「そうだ、お米って洗うんじゃなくて、研ぐんだよ」

「え?」

「洗剤なんか使っちゃいけないんだから」 

 知ってた? 得意気に聞いたら、

「はな……」

 友達が花子の肩に手を置いて、はああ、と息をついた。

「それ、ジョーシキ」

 ヤマケンと同じ反応が返ってきた。

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Dragon-Jack Co. 金魚博士の青春(晩ごはん) 千葉 琉 @kingyohakase

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