Dragon-Jack Co. 金魚博士の青春(晩ごはん)
千葉 琉
第1章 兄妹の苦難
「お兄ちゃん、具合、どう?」
学校から戻った花子が、兄の部屋に入ってそっと声をかけると、
「だめだ」
オレはもうだめだ、と兄の太朗が布団から顔だけ出して、情けなさそうな鼻声を返してきた。
「お腹減ったでしょ」
食べるもの買ってきたよ、と言うと、太朗は寝たまま、一瞬期待に満ちた視線を花子に向けたが、花子が手にしている弁当屋の袋を見ると、坊主頭を振ってため息をついた。
「どうして? お兄ちゃんの好きなとんかつ弁当だよ」
恥ずかしいの我慢して、買ってきたのに。花子は口を尖らせた。
「何が恥ずかしいんだよ」
「15歳の女の子は、普通とんかつ弁当なんて買わないもん」
しかも大盛り。
「お前、家じゃとんかつ食うじゃねえかよ」
「買うのは嫌なの」
ほんと、やんなっちゃう。ぜんぜん乙女心が分かってない。だから彼女ができないんだよ。
「どうでもいいけどさ」
オレ今、風邪引いてんだっつーの、兄が苦しそうに言った。
「分かってるよ。だから一番カロリー高いの買ってきたんじゃない」
「カロリー、って」
お前、何か間違ってるよ。ため息まじりで言われた。
「栄養とカロリーは違うぞ」
「そうなの?」
「風邪の時はあれだよ、ビタミンC」
「そっか、そうだね」
酸っぱいもの食べたくなるっていうもんね。忘れてた、と花子が言うと、
「酸っぱいもの? そりゃ妊婦だろ」
やっぱお前いろいろ間違ってるよ、今度は悲しそうに言いながら、鼻をかんだ。
「あーあ、親父とお袋、早く帰って来ねえかなあ」
熱のせいか、涙目で言うので、花子まで泣きたくなってしまった。
「ねえ、やっぱり隣のおばちゃんに助けてもらおうよ」
「だめ。みやげとか面倒だから、絶対言うなって、言われたろ」
「だってえ」
山田家は今、太朗と花子の二人だけだ。両親は海外旅行中で、旅立ってから今日で5日目になる。帰ってくるまであと5日。病気の兄を抱えて、いったいどうやって生きていけばいいのだろう。
そもそも、4月下旬のこんなさわやかな季節に花子が風邪を引いたのがまずかった。しかも、それがすぐに太朗に感染ってしまい、さらにまずい状況になった。
そうでなければ、親が戻るまでの間、予定通り兄のカレーで、何とかしのげただろうに。
元気になったのが花子の方だったために、兄妹は菓子パンやら弁当やらで空腹を紛らわせることになってしまった。
「ああ、何かまともなもんが食いてえ」
こんなんじゃ、治るもんも治らねえよ、としみじみと言う。
「分かったから、今はこれ食べてよ」
弁当の袋を持ち上げた花子に、太朗が思い切り不満そうな顔を向けた、その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
はあいと叫びながら階下に降りる。もしお隣のおばちゃんだったら、わけを話してご飯食べさせてもらっちゃお。
玄関の引き戸のすりガラス越しに見る限り、尋ねてきたのは、隣のおばさんではなかった。
背が高い。男の人だ。
はい、と再び声をかけると、外の人物がやまもとです、と名乗った。
え、これはひょっとして!?
大急ぎで錠を外し戸を引くと、そこには花子の想像したとおりの人物が立っていた。
ヤマケンだ!
頭も顔も運動神経も抜群の、噂の超人が目の前にいる。ひゃああ、と思わず変な声が漏れてしまった。
「これ、先生から。太朗君に」
無愛想に言って、ヤマケンが封筒を突き出してきた。
か、かっこいい~。くらくらして倒れそうになるのを必死でこらえながら、花子は礼を言って封筒を受け取った。
「あの」
ちょっとだけ待ってもらっていいですか、と制服のネクタイを見ながら声をかけた。相手の返事を待たずに、階段を駆け上がる。
「お兄ちゃん! ヤマケン、じゃなかった、山本さんが来てくれたよ」
封筒を渡しながら言うと、兄が跳ね起きた。
「健司が? おい」
もう帰っちまったか? とえらい剣幕だ。
「ううん、会いたいかなと思って」
玄関で待ってもらっていると言うと、兄は咳き込みながら、ガッツポーズをした。
「花子、連れてきてくれ」
どんな手使ってもいいから、と鬼気迫る表情で言う。
「絶対、帰すなよ」
「うん、分かった」
急いで玄関に戻ると、ヤマケンはその場に立ったまま、待ってくれていた。
「すみません、お兄ちゃんがどうしても会いたいって言ってるんです」
お願いします、と頭を下げると、ヤマケンはちらりと腕時計を見て、うなずいた。
「お邪魔します」
つぶやくように言ってから、超人は学生鞄と手荷物を上がり口の隅に置き、きちんと靴を揃えて上がった。
* * *
ヤマケン――山本健司と共に花子が兄の部屋に入ると、兄はまた横になっていて、ぼんやりとした顔をこちらに向けた。
「大丈、夫じゃなさそうだな」
太朗の枕元にあぐらをかいて座ると健司は言った。
「お前が風邪を引くなんて、珍しいこともあるもんだ」
「うるせえ」
どうせバカは風邪引かねえとか言うつもりだろ、太朗が言った。
お兄ちゃん苦しそうなわりに、よくしゃべるなあ。やっぱりヤマケン来てくれて嬉しいんだね。
「野球部の1年がうちのクラスまで来て心配してたぞ」
超人の言葉にマジ? と兄が少し顔をほころばせた。
「オレ、慕われてんなあ」
「練習さぼれるって嬉しそうだったけどな」
「け、そうかよ」
あいつら覚えとけよ、と途端に不機嫌になってしまった。
「じゃ、お大事に」
健司が畳に手をついた。
え、もう帰っちゃうの? 花子が思っていたら、太朗が布団からゆるゆると手を伸ばした。
「健司」
がっちりした腕だからあまり哀れな感じはない。それでも雰囲気だけは死にかけの人みたいだ。
「助けてくれ。頼む」
鼻声だからか、本当にべそをかいてるように聞こえる。
「何だよ、急に」
「メシ作ってくれ」
「メシ?」
聞き返す健司に、太朗がうなずいた。
「今、うち親がいねえんだよ」
ブラジルに行ってんだ、と太朗が説明した。
「10日間。イグアナの滝、見にさ」
「ああ、イグアスの滝か」
健司がさらりと訂正する。
「だからさ、オレがぶっ倒れてから、オレも花子もまともなもん食ってねえんだ」
太朗が言うと、健司はふうん、とうなずいた後、何か言いたそうな顔で傍に座っている花子の方を見た。
「花子はダメだ」
こいつ何にもできねえから、と兄が嘆くように言う。
もう! ヤマケンの前でそんなこと言わないでよ! やっぱり乙女心が分かってない。
「もう菓子パンは嫌だ。焦げた目玉焼き丼も嫌だ」
ちゃんとしたメシが食いてえんだよ。太朗が声を震わせた。
まさか、お兄ちゃん本当に泣いてるの? 見ていたら、
「仕方ないな」
分かったよ、と健司が言った。
「さんきゅー」
良かったなあ花子、と力なく笑いかけてきた。花子もとりあえず礼を言って、健司に頭を下げる。
「でも」
思い出して、花子は言った。
「今、うちの冷蔵庫、何にも入ってないよ」
10日も家を空けるのだからと母親が冷蔵庫の中をほぼ空っぽにしていったのだ。だから調味料以外は兄のスポーツドリンクくらいしか入っていない。
そう話すと、
「食材のことは心配しなくていい」
健司が言って、立ち上がった。
* * *
材料は心配しなくていいって言ってたけど、どうするつもりなんだろう。
健司について階段を降りると、健司は玄関に置いていた荷物を手にした。学校の鞄以外に買物袋が二つもある。食材を買って帰る途中だったらしい。
「道具と調味料、借りるよ」
また話しかけられた。嬉しい。はい、とにっこり笑った後で、急いで付け足した。
「ほんとにすいません」
「別に」
晩飯を作る場所が、家からここに変わっただけだから、とひどく素っ気ない答えが返ってきた。
いいなあこういうの。新鮮。
父と兄以外の大抵の男(小学校高学年の子からおじいちゃんまで)は、花子の顔を見ると、ぽーっとなるかヘラヘラするかなのに、ヤマケンときたら花子をその辺の石ころか何かとでも思っているかのようだ。あまりに無関心なので、初めて会った時、ヤマケンはすごく目が悪いのではないかと後で兄に尋ねてしまった(兄によると視力3.0はあるらしい。ケニアの留学生といい勝負だったとか)。
今回ぽーっとするのは自分の方だ。花子がうっとりしていると、健司が自分が買ってきた食材を取り出して、食卓に並べ始めた。食材まで提供してもらうなんて、本当に申し訳なくなってきた。
「あの、何かお手伝いすることありますか」
尋ねると、制服の上着を脱ぎながら、じゃあ飯炊いてくれる? と健司は言った。
「四合、かな」
その前にタオルを一枚貸してくれと言うので、取ってきて手渡すと、ネクタイを外してシャツの袖を捲くった健司は、それで頭を包んだ。
そっか。お兄ちゃんみたいに坊主ならいいけど、前髪長いもんね。
何だか本格的だ。花子も真似をしようかと思ったが、今日は髪を後ろで束ねているから、問題ないだろうと、そのままでいくことにした。ヤマケンと家の台所で一緒にお料理できるなんて夢みたい。
うきうきしながら、米びつを探し、四合量った。ボタンを押すだけだからカンタンだ。あとはそれをお釜に入れて、それから――。
と、その時、隣にいた健司にいきなり右腕をつかまれた。
え?
「こんなに、身近にいたなんて……」
真剣な表情で見つめられ、顔がかあっと熱くなった。
こんなに可愛い子が、ってこと? それとも“運命の女性”?
ああ、超人ヤマケンがやっとわたしの魅力に気付いてくれた!
「世の中に存在するとは、聞いてたけど」
健司が嘆くように言って手を離し、花子の手から洗剤のボトルをそっと取り上げると、はああ、と大きなため息をついた。
え? 何だろう。どうも失望させてしまったらしい。見ていたら、あのさ、と少し怒ったような顔で言われた。
「米は研ぐんだ。洗うんじゃなくて」
しかも洗剤使おうとするなんて信じられない、と頭を抱えている。
「ごめんなさい」
「もういいよ。あとは俺がやるから」
好きなことやってて、と突き放すように言われてしまった。
わたし、また間違っちゃったんだ。恥ずかしい。それにヤマケンの役に立てなかったことが、とっても哀しい。
女優やモデルになれば、周りの人が何でもやってくれるんだから、家のことなんてやんなくていいと思ってたけど、何も知らない、できないってやっぱり恥ずかしい。
ヤマケンに嫌われちゃったかなあ。いつもの泣き虫がすぐに現れて、鼻の奥がつんと痛くなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます