かぐや姫
「通る」
「なりませぬ」
かぐや姫が何かに怯えているという讃岐造の訴えを聞き入れた帝が遣わした兵であった。
旅から帰ったその足なのだろう。血と泥に汚れたぼろをまとい、切り傷と打ち身と火傷だらけの巨漢の侍は姫の遣いから戻ったから姫に合わせろとの一点張り。
だが門兵を束ねる
「あそこに羽虫がおろう」
侍は急に話題を変えて、門扉に止まる一匹の虫を指差した。
「……それが?」
びん、ひう、どっ!
話す二人の間の空気を割いて、一本の矢が飛ぶと、門扉の虫を一息に貫いた。
たちまち辺りの兵がざわめき、各々の武器を抜く。
「我らを脅そうというのか!」
「勘違いめさるな。我が配下の狙いは俺よ。俺が狼藉を働けば、俺の首を射抜くよう申しつけてござる」
言いながら侍は履いていた太刀を鞘ごと帯から抜くと、兵頭に渡した。
「俺が屋敷を出るまで預かってくれ」
その長さと重さに、兵頭は太刀を取り落としそうになり、慌てて両手でそれを抱えた。
次の瞬間、慌てる兵頭の肩に足を駆けると、侍は一気に跳躍し、塀を飛び越えて屋敷に入って行った。
少し離れた松の木の枝から様子を見ていた弓彦は自分の膝に頬杖すると、一つ溜息をついた。
「塀を越えて人の屋敷に入るのは、普通は狼藉と申すのですよ。主水様」
***
かぐや姫はいつか聴いた笛の音に誘われて、月明かり冴える庭に歩み出て来た。
「夜分に御免」
「伊澤様……」
かぐや姫はその男を覚えていた。
半月程前に会った時とはだが、随分と様子が違う。
彼は汚れ、傷付き、そして静かに怒っていた。
「よくぞ……ご無事で」
「あなたは非道な方だ。なよ竹のかぐや姫」
主水をねぎらうかぐや姫に、主水はきっぱりと言った。
「あなたは知っていた筈だ。龍の五色の珠がなんであるのか」
「…………」
「何故このような真似をなさる? 言い寄る者を死に至らしめるのがあなたの本意か?」
「……龍の五色の珠は?」
「罪もない龍の仔の命を奪ってなんとする?」
「私の秘めたる次第を明かしたいのでは?」
「興味も失せ申した。
あなたは見目は麗しいが性根は魔性だ。
しかし本当の魔物ではない。
自らの手を汚さぬそのやり方は、汚い人間そのものだからだ」
「罵倒は甘んじて受けましょう」
「度々お騒がせ致した。
これで失礼つかまつる。
そして私は、二度とあなたの前に現れることはないとお約束する。
兵を配したのは賢明にござったな。徒らに脅そうと言うのではないが、身辺に気を付けられよ。そなたは沢山の恨みを買っておられる」
「承知しているつもりです」
「では。なよ竹のかぐや姫。よい夜を」
「伊澤様」
「何か?」
「……ありがとう、ございました」
「何の礼か分かりませぬな。結局私はあなたの頼まれ事を果たせなかった」
「私と、真剣に向き合ってくださって」
「……御免」
主水は場を辞した。
最後にもう一度かぐや姫を振り向くと、彼女は別れた時と同じ場所に佇んだまま、微動だにせずに夜空の月を見上げていた。
***
エラブの御前は見知らぬ部屋で目を覚ました。
「ここは……?」
「目が覚めたか?」
聞き覚えのある男の声。
この声は、確か……。
「伊澤主水!」
叫んだ御前は蒲団を跳ね上げ勢い良く起き上がった。
途端にまた目の前が暗くなり、御前は強い
「急に動くな。血を大量に失ったんだ。二月は大人しくしておれ、と言うのが
「南方……?」
「蘭学のお医者様よ。そなたの治癒力に驚いておったぞ。それにその足、乾くと人の足になるんだな。これには俺も驚いた」
「……あたしゃ魚人の中でもヒトの血が濃いからね。
何故助けた?」
「色々に理由はあるが、一言で言えば、俺がそなたに惚れたからだ」
「……からかうんじゃないよ」
「俺は本気だ。俺の嫁になれエラブ。手伝って貰いたいことがある」
主水は雨戸を開けた。
日差しに煌めく青い海が、視界一杯に広がった。
「庭から海に出られる屋敷を買い取ったのだ。すぐ下には小さな祠と洞窟がある。どうだ? 好都合だと思わんか?」
「な、何にだい?」
「龍神の残した御子を育てるのだ。我々で」
「……正気かい?」
「止むを得ぬ事情で龍神は倒したが、仔龍に罪はない。
龍神の忘れ形見を育てるのは、親を倒した俺の責だ」
「…………」
「ま、返事を急ぐことはない。明日からまた留守をするが、そなたのことは弓彦が守り世話をするから安心してくれ」
「どこ行くんだい?」
「渦潮島だ。仔龍たちを迎える準備がようやくできたのでな」
「なら、あたしも……」
「その体では無理だ。そなたは、まずはゆっくり休め」
「あ、りがとう」
言ったエラブは、何故か急に気恥ずかしくなって俯いて黙り込んだ。
体温が上昇するのを感じたが、御することはできなかった。
「どうした? 大丈夫か?」
気付くとすぐ眼の前に、心配そうな主水の端正な顔があり、エラブはどぎまぎした。
「……手伝うよ」
「本当か!」
主水は子供のように笑った。
「かっ、勘違いするんじゃないよっ! まだあんたの嫁になるってのを決めたわけじゃあないからね!」
「ああ、いいさ。ゆっくり考えたら。庭の向こうは海だ。左の小さな鳥居。あそこに下に降りる階段がある。そなたがここが嫌になったら、いつでも海に帰っていい」
そう言った主水はエラブを見ると、本当に嬉しそうに声を上げて笑った。
海蛇女を娶り、龍の仔を育てると言って笑う若い侍の背中を見つめながら、エラブはいずれその二つの言葉は本当の事になるだろうな、と確信を伴った予感を抱いた。
風がエラブの髪をなでる。
縁側の向こうに広がる海は、どこまでも広く、何よりも青く、そして限りなく優しく、穏やかだった。
*** 終幕 ***
偽説 竹取物語 木船田ヒロマル @hiromaru712
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