渦潮島

「旦那。伊澤の旦那。起きてくだせえ」


 船長の弥八の声に起こされ、主水は目を覚ました。


 そのやり取りだけで、近くで寝ていた弓彦も目を覚ます。


「何があった?」


「上がってくだせえ。海の様子がおかしいんでさ」


 弥八の様子に緊張を感じた主水は、鎖帷子くさりかたびらを着込み手早く籠手を付けると太刀を履いて短い梯子を上がる。

 長弓に弦を番え、革の胸当てを付けて矢筒を背負った弓彦がそれに続いた。


「なんだ……これは」


 主水は目を見張った。


 夜明け前の全く風のない静かな海。

 だとしても異様であった。

 うねり一つ波一つない海原は、ただ濃い灰色の空を鏡のように写している。


 まるで灰一色の世界に、一文字に線を引っ張ったような、無機質で一切動くもののない、悪い夢そのものの光景だった。


「四半刻ほど前からこの有様で」


「この辺りはいつもこうなのか?」


「まさか。この海に出て三十年になりやすが、こんなのは初めてでさあ」


「夜明けまでは?」


「それも妙でして。いつもならもう水際からお天道様が覗く刻限なんですがね。

 四半刻の間、この暗くも明るくもない様子が続いとりやす。

 そのまま明るくなる様子も暗くなる様子もねえ。

 風も吹かねえ鳥も飛ばねえ魚一匹跳ねやしねえ。

 気味が悪いったら」


 主水は懐から路銀の小銭を取り出すと、一枚を水面に投げてみた。


 とぽん、と滴を跳ねた小銭は鏡のような海原に沈み、小さな紋を作った。


「船は進めぬのか?」


「一応、かいは積んどりやすんで動けなくはないですがね。


 ただ船足には期待しないでくだせえ。昨日が十なら今日は二、出ればいい方で」

 

「見張りを立てて船を進めてくれ。漕ぎ手には二割を増して給金を払う。この一帯を抜けてしまおう」


「舵はどちらへ」


「舵はこのまま。進路は渦潮島だ」



***



 丸一刻が過ぎた。


 だが状況は全く変わらない。


 漕ぎ手の船夫たちに疲れが見え始め、流石の主水も焦りの為に額に汗を浮かべていた。


 弥八が近づいて来て小声で言った。


「幾らなんでもおかしいでさ。旦那。まるで同じ場所をぐるぐると回ってるみてえだ」


 弓彦は少し前から、帆柱の上から船の後ろを眺めている。


「何か気になるものでも見えるのか? 弓彦」


「登っておいでになれますか? 主水様」


 主水は巨躯に似合わず軽々とした身のこなしで帆柱をするすると登ると、弓彦の腰掛ける桁に立った。


「何を見つけた?」


「あそこです。船尾の先、十尺程後ろ、やや左」


 弓彦の示す場所に目をこらす。


「水面から五寸ばかり上。何か浮いてませんか?」


 なるほど確かに、黒い点のようなものが二つ、空中に浮いている。


「最初は虫かと思ったんです。でも、二つの点の間の距離も、水からの高さも、船からの距離もずっとあのままで。虫にしてはおかしいと思いませんか?」


「……試してみるか。弓の支度だ」


「弓……何を射れば?」


「あの二つの点だ。それも二つ同時に。射れるか? 弓彦」


 弓彦は嬉しそうに笑みを作ると、彼の君主に答えた。


「主水様。何度もご自身でお呼びの、私の名の由来をお忘れですか?」



***



 事の次第は静かに何気なく船夫たちに伝えられた。

 船を捕える物の怪を見破ったかも知れないこと。

 その物の怪を矢で射ること。

 射った後は何があるか分からず、何が起きても落ち着いて船長の指示を忠実に行うこと。


 船夫たちに通達が行き渡ると、弥八は主水と弓彦に


「おねげえします」


と頭を下げた。


 表向き、主水も弓彦も船夫たちも、凪の海からの脱出に焦る哀れな遭難者を装い続けた。


 弓彦は一度船室に入ると、ムシロを被り、甲板の上に這い出した。


 弓と矢筒を携え、船縁から頭を出さぬよう、這ったまま船尾まで移動する。


 弓彦は配置に付いた。


 その目の合図に、主水は頷く。

 主水は弥八と視線を交わし、またお互いに頷いた。


「射よ‼︎」


 鋭い合図にムシロを跳ね上げて弓彦が立ち上がる。


 二本番えの矢が、ひょうと空を切って真っ直ぐに怪しき二つの黒点に向かって飛んだ。



 どっっ!



 低い音を立てて、矢は狙い違わず同時に二つの黒い点を射抜いた。



「ぎぇえぇえ……ッッ!!!」


 恐ろしい悲鳴をその場の全員が聞いた。

 

 矢の立った空中から血飛沫ちしぶきが上がった。


 どぶん、水面がひるがえったかと思うと、そこに魚に手足が生えたような奇怪な生き物が浮かび上がった。

 灰色一色だった水面に赤い染みが広がって行く。


「やはり物の怪の眼か!」


 空の灰色が軋みを上げて、一面にヒビの稲妻がほとばしった。


 陶器の割れる音がして全ての灰色は砕け散り、強い風と共に青空が天に輝いた。


 唸りを上げて吹き込んだ風は横薙ぎで、大きく船は傾いた。


「左の二の帆綱を切れ! 面舵一杯! 動けるもんは右舷に寄れ!」


 弥八からの指示がに浅黒い屈強な男たちが素早く動く。


 船は大きな弧の航跡を描く。


 振り落とされそうになった船夫たち、主水、弓彦は手近な物に掴まった。

 

 ぺたり。


 主水のすぐ近くの船縁に、海原から水かきの付いた青白い手が吸い付いた。


「敵だ! 上がってくるぞ!」


 抜きざまの太刀で腕を両断する。生臭い血を吹き出しながら、何かが海に落ちて行く。


 だが、その正体はすぐに明らかとなった。


 船縁を乗り越え、そこかしこから不気味な怪物が次々と甲板に上がって来たのだ。


 魚の顔。

 大柄な人間ほどの身体。

 ぱくぱくと呼吸する鰓蓋。

 湿った青白い手足が生えて、その手には三つ叉の穂先の槍を携えていた。


「柱を登れ弓彦! 俺はいい! 船夫たちを守ってくれ!」


 敵に飛び道具がないことを見て取った主水は弓彦に高所からの援護を命じると、自分は甲板を縦に駆け抜けながら次々と魚人たちに手傷を負わせた。


「大将首はここだ! さあ、来るなら来い! 万平らげ方、伊澤主水! 推して参る‼︎」


 魚人たちは雄叫びを上げながら主水に殺到する。


 血風を巻きながら主水は斬撃の竜巻と化す。

 深海の魔物の腕や足が、血の尾を曳いて宙を舞う。


 ちらりと周囲を見渡せば、船夫達も弓彦の援護を支えによく戦っていた。

 

 主水は目の前の敵に集中して、一匹、また一匹と海の怪物を討ち倒して行った。



「そいつはアタシがやる! あんた達には荷が勝ちすぎだ」


 その時、よく通る声が魚人たちの動きを制した。


(女の声……!)


 主水は驚いたが、太刀筋には一縷いちるの乱れもなかった。


 主水に群がっていた魚人たちはさわさわと退き、彼らを制した何者かに場を譲った。


 そうして割れた魔物の群れの間から主水の前に現れたのは、上半身は髪の長い若い女、下半身はのたうつ蛇のような姿の魚人の長だった。


「アタシはエラブの御前。

 人間にしちゃ中々やるようだね。

 アタシが相手だよ。

 仲間の礼はたっぷりさせてもらう!」

 

 女は言いながら薙刀を構えた。


 隙のない構えだった。


「止むをえん! 本気で行くぞ!」


「来な! 二本足!」


 撃剣の火花。

 たちまち巻き起こる剣戟けんげきの狂想曲。

 技と技、力と力、意地と意地のぶつかり合いは、野生の獣同士が争うような荒々しい斬打の応酬で始まった。


 二人の実力は拮抗していた。


 力は僅かに主水が強い。だが御前の切っ先は僅かに巧みなようだった。


 撃ち、流し、斬り、受け、叩き、回し、躱してまた撃つ。


 雄叫びと唸りは少しずつ鳴りを潜め、鋼が鋼を撃つ音と二人の弾む息だけがその場に聴こえる全てとなった。


 いつの間にか周囲の魚人も船夫たちも戦いを止めて、自分たちの中で疑いなく最強の二人の戦いに見入っていた。


 主水と御前、敵と味方、男と女、ヒトと魚人。

 斬撃を重ねる毎に二人の間からは二人を縛るくびきが一つずつ消えてゆき、今や二人の間には奇妙に純粋な、どこか爽やかな空気さえ漂い始めていた。


 そこに在るのはもはや醜い殺し合いではなく、良く研鑽けんさんされた二人舞踊そのものだった。


 ふと主水は、この戦いを終わらせたくないと感じている自分を意識した。

 そしてその瞬間、不思議と相手が……エラブの御前が同じ気持ちでいるのだと理解した。


 お互いがお互いに、この戦いをいつまでも続けていたいのだと確かに理解し合ったのだ。


 そしてそれは周囲の観覧者たちも同じだった。


 力と技、美と緊張が同居する二人の壮絶な戦いをいつまでも見ていたいと、その場にいる誰もが願っていた。


 だが、彼らの願いとは裏腹に、終演は唐突に訪れた。


 ほんの僅かの、本当にほんの僅かの御前の刀の返しの遅れ。

 主水の鍛え上げられた身体は無意識のままにその隙に深く踏み込んだ。


 きぃぃ……ん


 夏の午後の風鈴のような澄んだ音が響き渡った。


 撃ち上げられ、御前の手を離れた薙刀は宙をくるくると回転しながら飛ぶと、とっ、と音を立てて離れた場所の甲板に突き立った。


 主水は斬り上げた姿勢のまま肩で息をする。


 御前は何も持たない自分の手を見つめて少しの間呆然としていたが、ふ、と頬を緩めると言った。


「アタシの負けだ。こう言っちゃなんだが楽しかったよ。


 ……殺せ」


「勝負は付いた……無用な殺生はせん」


 戦いの最中なら、或いは勢いで斬り伏せることもできたかも知れない。


 だが、果てしなく続くかと思われた剣技の応酬の中で、誰よりもお互いを理解した感覚が確かにあった。

 心通じた相手が例え人外であっても、斬って捨てて寝覚めが良いほど、主水は冷酷な性分ではなかった。


「集中が切れたな。船に上がったのがお前の不手際だ。


 水の中であったなら、勝ったのはお前だったろう」


 それは主水の本心だった。


「……借りができたね」


「斬り合いが楽しかったのは初めてだ。借りと思うなら瓦町の道場に来い。またやろう」


「おかしな人間だね。名を訊いといてやるよ」


「主水だ。伊澤主水」


「渦潮島に行くなら気を付けな主水。龍神様は人間がお嫌いだ」


「心得ているつもりだ」


「借りは必ず返す。それまでくたばるんじゃないよ」


「さてな。俺が死ぬ前に借りを返しに来い」


「フ……またな。二本足の太刀使い」


 言い残したエラブの御前は背後に倒れ込むように海面に飛び込んだ。


 他の魚人たちも傷付いた仲間を連れて、次々と海の中に消えた。


 主水は大きく息を吐いた。


 そこに弓彦と弥八が駆け寄る。


「ご無事で。主水様。お怪我は?」


 我がことのように勝負の行く末を見守っていたのだろう。

 弓彦の顔は蒼白で、主水をいたわる声は震えていた。


「大事ない。心配を掛けたな」


「いえ。お見事な戦いぶりでございました」


「いや全くだ侍の旦那!」


 弥八は興奮した様子でばんばんと主水の肩を叩いた。


八面六臂はちめんろっぴとは正にこのこと! えれえもん見せて貰ったぜ」


「無事だったか弥八。皆は?」


「平左の奴が死んじまった。銛を喉に受けてな。


 だが他の奴は大したこたぁねえ。


 渦潮島の魔物に襲われて生き残ったのは俺の知る限り俺のこの船ただ一隻よ。それも大将。あんたのお陰だ」


「いや。そもそも俺の仕事で船を危険に晒したんだ。

 船代は倍を払う。平左の家族には別に手当てが行くように手配しよう」


 弥八は一瞬ぽかんとした顔をしたが、すぐ我に返って高らかに笑った。


「あんたはいいお人だ旦那。気前が良くて腕っ節も強え。それに俺ら船乗りを下に見てぞんざいをしたりしねえ。

 

 渦潮島にはもうすぐ着くが、どうか無駄死にはしねえでくだせえよ」


***


 渦潮島は小さな島に見えた。


 白骨のような白茶けた岩肌に覆われた切り立った山が紺碧こんぺきの海に、ぽんと置かれたような島だ。


 弥八によれば、今海面上に見えているのは島の一部で、海面下にはかなり大きな島が沈んでおり、潮目で島の大きさは変わるらしい。


 今見えている山の五合目辺りに先人が設けたやしろがあり、その裏が洞となっていて、伝説ではその先に龍神が住まうという話だった。


 弥八は丸一日の駐留を固く約束し、島近海の遠浅に錨を打った。

 

 引き綱で小舟を降ろし、その小舟で主水と弓彦は、ついに渦潮島に上陸を果たした。


 

「ここが……渦潮島」


 主水は足元の濡れた岩をじり、と踏み確かめた。


 その瞬間、激しい動作で主水は後ろを振り返った。


「も、主水様⁉︎」


 隣で驚いた弓彦が矢を抜いて弓に番えた。


 しかしそこには何もなく、ただ寄せては返す波が、磯の岩を繰り返し洗っているだけだった。

 

「気のせい、か。すまん弓彦、驚かせたな」


「どうされたのです?」


「何者かに見られていると感じた」


「魚人、でしょうか?」


「いや……。まあいい。先を急ごう。明るい内に洞まで行き着きたい」


 主水が感じた視線の主は今まで感じた事のない何か巨大な気配で、正確には、感じたそれは上陸した二人を刺し貫くような強烈な殺気だった。


***


 それは社というよりは小さなほこらだった。

 石造りの鳥居と石造りの祠。


 その裏には確かに洞穴の入り口がぽっかりと口を開けていた。

 洞窟を構成する岩の成分の為か、波による浸食の為か、入り口の縁は巨大な怪物の口そのもののように長い棘状の突起が無数に突き出していた。


 弓彦がごくり、と喉を鳴らした。


「ここで待っていてもいいんだぞ」


 それは主水の本心だった。


「ご冗談を。お供致します。最後まで」


 それもまた、弓彦の本心だった。


 弓彦は荷物から松明たいまつを出すと主水の分と自分の分を手際良く火をつけた。



***



 洞窟の中は濡れた岩肌の下り坂が続いていた。


 磨かれたように滑らかに光を跳ね返し右へ左へ上へ下へのたうつように長く長く続くそれは正に何かの生き物の臓腑のように思えて、主水は足元を蹴ってその硬さを確かめた。

 下った長さを考えると、今はとっくに海の下にいると思えた。


 主水は頬を伝う汗を手拭いで拭った。



***


 永劫に続くかと思われた長い長い地下道にも終わりが訪れた。



「おお……」



 主水は思わず声を漏らした。


 そこは広大な空間だった。


 城一つが丸々入りそうな大きな椀を伏せたような形の空間のそこかしこに緑色に光る石が配され、辺りを幻のように照らし出していた。


 そしてそのど真ん中に、ぽつりと小さな人影があった。


 他に当てもない二人は、その人影を目指して歩く。


 近付いて見ると、それは小さな老婆であった。


 手に杖を持ち、石に腰掛け、老婆はにこにこと笑っている。


「失礼、御老体。龍神様のゆかりの方とお見受け致す。


 それがしは伊澤主水と申すもの。


 龍神様に御目通り願いたい。


 五色の御珠みたまをお借りしたいのだ。暫しの後、必ずお返しにまた参上仕る。


 どうか偉大にして聡明なる龍神様にお取次ぎ願えぬか?」



 老婆はにこにこと笑った顔のまま微動だにしない。


 その時、周囲の灯りが、か、と輝いた。


 主水は思わず目を細める。


 その光に照らされ、老婆の影が、ゆら、と立ち上がり大きく洞穴の壁面に張り付く。


 しかしその影の形は老婆のそれではなく、大きく口を開けた巨大な龍の姿そのものだった。


 老婆は広がる自分の影にとぷん、と沈んだ。


 途端に今まで岩肌に張り付く平たい影だった黒い龍は、焼き菓子が膨らむように厚みを帯び、岩の床や壁から、ぬるり、と離れて地響きを立てて地に立った。


 幾重にも折り重なるように体表を覆う鱗。

 赤熱した鉄のように燃える眼。

 一個の山ような巨躯はそれでもまだ小さくうずくまっていたらしい。

 伸び上がるように頭をもたげた猛る海の神は大きく裂けた口を天に開くと洞窟全体を揺るがすような声で一声鳴いた。

 

「話は通ぜぬか……」


 主水は太刀を抜いた。


 その時、振りかぶった龍神の前足が轟音を上げながら空を裂いて二人に急迫した。


 弓彦は完全に硬直し、主水は固まった弓彦を抱えて跳躍した。


 家屋ほどはありそうな青黒い塊が、一瞬前まで二人が立っていた岩盤を叩き、それを粉塵と大穴に変えた。

 雷鳴のような轟きが耳をつんざく。

 

 主水は戦慄した。

 だが心が折れた訳ではない。


 龍神は強大だが、動きは思いの他遅かった。


「弓彦!」


 弓彦は龍神を見据えたまま、口を半開きにして震えていた。


「しっかり致せ堤由比彦! それでもこの伊澤主水の一の家臣か!」


「……主水様」


 主水が軽く弓彦の頬を張ると、弓彦は我に返った。


「私は……今……?」


「敵の大きさに我を失っていたのだ。しっかりせよ。ここからは一瞬の隙が文字通り命取りだ。逃げれば隙になる。やるぞ弓彦」


 弓彦は真剣な面持ちで頷いた。


「策は?」


「お前の弓が頼りだ。


 俺があいつを引き付ける。


 お前は弓撃ちに具合のいい所で備えて、龍神の眼を撃て」


「眼を?」


「両の眼を同時にだ。


 奴の首を見よ」


 岩陰に隠れる二人を探す龍神の首は柔らかく自在に動いて岩の洞穴の中を見回していた。


「自由に動かす為か奴の首の下面半分は鱗が薄い。

 眼を無くした奴の隙を突いて、俺があの喉笛を狙う」


「しかし! もし私がしくじったら……!」


「それはお互い様よ。お前が上首尾じょうしゅびでも、俺が仕損じるかも知れん」


「ですが……!」


「死中に活。もはやこの場では選べる策は他にない。


 こんなことになって済まないが弓彦。


 我ら主従、生きるも死ぬも一蓮托生いちれんたくしょうだ」


「……お供致します。最後まで」


「人間を小虫のように侮っている龍神に一泡吹かせてやろう。


 帰ったら元服だ。

 鎧と太刀をこしらええてやる。


 龍を倒して帰れば、気難しいお前の父君も文句は言うまい」


「父は鎧を大きく作れと言う筈。主水様。体に合ったものをと話を付けてくださいましね」


 二人は顔を見合わせて、ふ、と笑うと、弾かれたように互いの戦場へと駆け出した。



***



 龍神の気を弓彦から逸らす為、主水は弓彦の駆けた先とは反対に向かって駆けた。


 弓彦は洞穴の壁の中程に飛び出した岩を足場と見定めたらしく、弓を襷に掛けて身軽に岩壁を登り始めた。


 主水はその様子を確かめながら、龍の前足や尾の攻撃をすんでの所で躱し続けていた。


 目と鼻の先を圧倒的質量の重量物が高速で行き過ぎる。

 一撃躱す度に寿命が縮まる思いで、また龍が破砕した岩の大小の岩の破片は絶え間なく主水を襲い、重症こそ負っていないものの、主水はたちまち身も心もぼろぼろになって行った。


 その時、小さく口笛が聞こえた。


 見れば弓彦は目当ての足場に陣取り弓を構えている。


 彼は力強く主水に頷いた。


「うおおおおおおおお!」


 主水は吠えると、力一杯大地を蹴って海の王の股下を潜り抜けた。


 龍神を振り向かせ、顔を弓彦の方に向けさせねばならない。


 巨獣を支える四肢が、主水を踏みつぶそうと次々に襲い掛かる。


 その全てを躱し、最後の尾の一撃も躱した主水はついに弓彦の真下の壁に辿り着いた。

 主水は背中を岩壁に貼り付けて大の字になった。


 意識して大きく呼吸して、血に気を存分に送り込む。


 瞬きもせず、主水の眼は彼の敵を見据えている。


 巨大な生きた伝説は、彼の視線の先でゆっくりと頭を回して振り向こうとしていた。

 主水を探しているのだ。


 完全に振り向いたその顔の両の眼が、真っ直ぐに主水を視た。


「放て!!!」


 びん、という弦の音、ひう、という矢が空を切る音、どっ、というやじりが突き刺さる音が瞬くほどの間に重なった。


(当たった!)

(……外した!)


 主水は喜び、弓彦は悔しさに唇を噛んだ。


 弓彦が二本つがえで放った二本の矢の内の一本は確かに龍の右眼を射抜いた。

 しかし僅かに遅れて飛んだもう一本の矢は、龍の閉じ掛けた瞼に当たりその動きで力を削がれて、瞼を傷付けただけでくるくると回ってあらぬ方向へ飛んで行った。


 失敗だ。


 だが、主水は太刀を抜いて駆け出していた。


 千載一遇せんざいいちぐうの好機。弓彦は充分な仕事をした。彼の矢は確かに海の主の瞳を射抜いて、大きな隙を生んだのだ。


 次は自分の番だ。


 眼を失った驚きとその痛み、怒りに悶える龍神の元へ、主水は一気に距離を詰める。


 主水の意図を汲んだ弓彦は、次々に矢をつがえると、横薙ぎに降る雨のようにそれを放つ。


 主水は悶える龍神の首が下がる瞬間に間を合わせ、岩を一つ踏み台に高く跳躍した。


「おりゃあああああっ!」


 気合い一閃、振るった切っ先は確かに柔らかな龍神の喉元を捉えた。


 束ねた布団を切るような重い手応え。裂けた傷口からは小さな滝のように湯気を立てる鮮血がほとばしる。


(やった……!)

(浅い……!)


 弓彦は喜び、主水は自分の未熟に歯噛みした。


 彼の太刀先は確かに龍の喉の皮膚を裂きはしたが、気管や動脈などの重要な器官を断裂するには至らなかった。


 失敗だ。


 龍は片眼に矢を立てたまま、真っ直ぐに首を立て、天井の天辺に向かって高い声で吠えた。


 地鳴り。空気の渦巻き。地響き。それに続いてそこかしこの穴や亀裂から怒涛どとうの勢いで海水が噴き出した。

 たちまち洞穴は渦巻く水の地獄と化して、主水も弓彦も息を吸い込む間もあらばこそ、その乱流の只中に飲み込まれた。


「主水様……」


「弓彦!」


 だがその中で二人は、互いを呼んでなんとか手を取り合った。


 逆巻く激流の中、二人はお互いを掴んで息を詰めた。


 だが人の息はそう長く続くものではない。


 まず弓彦が玉のような泡を吐いて体から力を無くした。

 続いて主水も、肺腑の中の空気を辺りの水と入れ替えた。


 意識が遠のく中、主水は彼の忠実な臣下を最後まで離すまいと腕に力を込めた。


『主水!……伊澤主水!』


 生を諦め掛けた主水を呼び止める声があった。


 水中に確かな女の声を聴いた主水はそれを幻聴だと思った。


『飲め! 早く!』


 朦朧もうろうとする中で、口元に何かが当てがわれ、微かに鉄の味が舌に滲んだ。


 主水は殆ど消え掛けた意識の中で命じられるままにそれを飲み下した。


 途端に息が楽になり、闇に落ち掛けていた意識は澄み渡って、主水は自分を取り戻した。


 目の前では、長い髪が流れる水流に揺れている。


 どうやら女が一人、主水に背を向けて、彼にしたのと同じ手当てを弓彦に施しているようだった。


『お前は……』


 思わず声を出した主水は、水中にも関わらず、自分が陸と同じに話せたことに驚いた。

 だがその驚きはすぐに、更に大きな驚きの前に掻き消えた。


『……エラブの御前!』


『意外とすぐに会ったね。二本足の太刀使い』


『ここで何を⁉︎』


『ご挨拶だねぇ。借りは返すと言ったろ。ほら。可愛い御家来も無事だよ』


『主水、様……』


『弓彦!』


『武具を出しな。矢も、弓もね。

 海の中で陸と同じに動くにはそれなりの手順がいるんだよ』


 御前は水の中にモヤのようなものを漂わせながら、それを主水の太刀や弓彦の弓や矢に塗り込めた。


『これで……いい。 龍神様の首の鱗の繋ぎ目……一列だけ連なった逆向きの鱗の列がある。その鱗だけは薄皮のように柔らかい……狙うなら、そこを……』


『どうした、エラブの御前。顔色が悪いぞ』


『……死ぬんじゃ、ないよ』


 そう言うとエラブの御前は力を失い、ふわ、と海中に漂った。


『主水様! この方の手首!』


 見れば御前の手首は深く切り裂かれ、弱々しく赤い血を吐き出している。


『止血だ、弓彦』

『はい!』


 弓彦が御前を支え、主水が手拭いをきつく縛る。だが、水中ではその血を完全に止める事は叶わなそうだった。


 主水たちが口にし、武具に塗ったもの。

 それは間違いなく、エラブの御前の生き血そのものだった。


『弓彦……』


『はい、主水様』


『エラブの御前を連れて島まで上がれ。船に一度帰って、傷を縫い乾いた布で手当てするのだ』


『しかし、主水様は?』


『俺は奴との決着を付ける。エラブの御前が命懸けで作ってくれたこの好機。無にはできん』


『いけません! 龍と一人で戦うなどと……!』


『聞き分けてくれ弓彦!』


 主水は珍しく、弓彦に対して大きな声を出した。


『彼女には……時がない』


 主水の抱き抱えるエラブの御前の手首からは、じわじわと赤い血が滲み続けている。


『……分かりました』


 弓彦は主水の思い詰めたような表情に、反駁はんばくの言を持たなかった。


『ですが約束なさってくださいまし主水様。必ず戻る、と』


『ああ約束だ弓彦。そして伊澤の男児は約束を違えない』


 主水は笑みを作った。

 その笑みに弓彦もにっこりと微笑み返す。


『元服祝いの兜は、弓じるしの前立てを付けて頂きとうございます』

『ああ、半田の細工師に命じて黄金の弓矢を造らせよう』


 二人はお互いの瞳の中にそれぞれの使命への決意を見て取ると、頷きあって二手に分かれた。



***



 龍神は片目を失った痛みと怒りに荒れ狂い、主水たちを探して洞穴の中を暴れ回っていた。



 そこに、高らかな笑い声が響き渡った。


「ハッハッハッハッハ……」


 主水だ。


「愉快や愉快! 七つの海の荒くれたちに音に聞こえた龍神ともあろう者が、目一つ失って狼狽の限り。とんだ噂倒れの図体だけの海トカゲよ」


 龍神は声の方向を見た。

 突き出した岩の突端に立つ、長身の若者の不敵な笑みを。


「改めてお相手願おう。龍神殿。我が名は伊澤主水。私怨はないが故あってそなたを、斬る!」


 怒りの雄叫びを上げた龍神は、残った片方の目を真っ赤に燃やすと身ぶるいしてその口を主水に向けた。


 薄く開いた牙と牙の間から、激しく泡が噴き出したのを主水は認めた。


 飛び道具か⁉︎


 主水の直感が危機を告げる。

 そしてその直感に身を委ね、大きく左に跳躍した。

 

 相手の武器の正体判らぬ時は、皆大砲の筒先と思うべし。


 戦上手で知られた父から学んだ兵法は、その時確かに主水の命を救った。


 水の中で燃え盛る炎を主水は初めて目の当たりにした。


 それは龍神の牙の間から溢れると鍛えられた槍の一撃に似て、主水が一瞬前まで立っていた岩塊に突き刺さる。


 轟音。熱。乱流に弾ける真っ白な気泡。

 洞内は再び嵐のように荒れ狂った。


 主水は肝を冷やしながら、岩のくぼみに身を押し付けて全身を叩く熱水の連撃を耐えた。


「海の神と言いながら炎とは……食えぬ奴よ。弓彦を返したのは早計であったか」


 主水は太刀を抜くと、一振りして具合を確かめる。

 太刀はいつもより軽く、いつもより鋭く疾った。


「どうせ誰でも一度は死ぬのだ。南無八幡大菩薩なむはちまんだいぼさつ!」


 主水は信じてもいない仏の名を型通り唱えると岩陰を飛び出し、龍の潰れた右眼側に回り込むように走った。


 思惑通り龍は主水の接近を許し、主水はまずはその右脚に斬りつけた。


 かんっ


 海水を断って閃いた主水の渾身の太刀はしかし厚い南蛮鉄が如き鱗に傷も付けずに跳ね返された。


(……駄目か!)


 流石にその一撃で主水に気づかぬ龍神ではない。


 僅かに右脚を引くと主水目掛けて軽く振り抜く。

 咄嗟に刃を立て刀身でそれを受け止めた主水であったが、それでも身体は火見櫓ひのみやぐらから落ちたような衝撃をまともに受け、軋んだ肋骨の内の何本かは音を立てて折れて、主水は咳き込むように血を吐いた。


(やはり首の逆鱗を狙うより他ない……だが、どうすれば……!)


 地面を転がり血塗れでよろよろと立ち上がった主水は、手の太刀が折れなかったことを仏に感謝した。


 龍神は地響きを立てながら後ろに下がる。


 牙の間からはまた無数の気泡がぼこぼこと不気味な音を立てて溢れ出す。


(火炎でとどめを刺すつもりか……)


 主水は襟元から腕を抜いて上半身をはだけた。


 凛花の構えから呼吸を整える。


 瞬きの後には地獄の火焔がその身を焼き骨も残らぬだろう。


 だが主水は太刀を支える腕が動く内は最後まで抗うつもりでいた。


 供として自分を支えた弓彦への、命懸けで好機へ導いてくれたエラブの御前へのそれが、主水が示す矜持であった。


「勝負だ! 龍神!」


 駆け出した主水は死を覚悟しながら、不思議と爽やかな満たされた心持ちであった。


 龍神は主水を真っ直ぐに見据えると、刹那、憐れむような表情を見せた。


 鬨の声を上げながらその足元へ駆ける主水はそれを見上げ、なんだか愉快な気持ちになった自分に驚いた。


(お前が、その炎が、俺の死……か)


 地獄の入り口のような龍の顎が自分目掛けてやけにゆっくりと開いて行くのを見上げながら、主水はそんなことを思った。


 溢れる気泡は小さな炎の飛沫に変わり、龍の口から溢れるその炎の泡沫は光と熱を撒き散らしながら爆発するように増加する。


 せめて一撃を振るって絶命しようと主水が太刀を振り上げたその時。


 びん、ひう、どっ!


 龍の残った左眼に一本の矢が突き立った。


「今です! 主水様!」

「弓彦!」


 驚く暇もない。

 視力を失った龍神は動揺し滅茶苦茶に炎を吹きながら、のたうつように首を振り回す。


 絶好の機会。

 だが機会は一度。


「南無三!」


 主水は再び念仏を唱えると、龍神の右の前足を駆け上り、膝頭を足掛かりに跳躍し、狙いすました一撃を龍の首の逆向きの鱗の列に見舞った。


 すとっ


 よく研ぎ澄ました包丁で豆腐を斬ったような音がした。


 刹那遅れて、炸裂するように大量の血が噴き出した。


 首は半ば以上両断され、妙な角度に回転した頭の口がぱくぱくと動き、やがて開いたまま閉じなくなった。




「しぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!!!」



 その口から島全体を揺さぶるような極大の断末魔が迸る。


 主水と弓彦はそれぞれ思わず耳を塞いだ。


 二人の見ている前で龍神は一歩、二歩と歩くと崩れるように膝を折り、地響きを立てて伏せると小山のような巨躯を海底の洞窟に据え置いて、完全に動きを止めた。



「やった……!」


 そう言ったのは弓彦だった。


「やりましたよ主水様! 龍神を、龍神を倒したのです!」


 主水は肩で息をしながら、まず龍神のむくろを見、自分の太刀を見、そして太刀を持つ手をまじまじと見た。


「すごいです! 龍神を倒すなんて! 領内どころか国中の語り草ですよ!」


 弓彦は興奮冷めやらぬ様子で主水に駆け寄って来た。


「酷いお怪我ですが、龍と戦ってこの程度なら寧ろ幸運です。さあ! 龍の五色の御珠を探しましょう!」


 程なく更に洞の奥へと進む細い支道が見つかり、ぼろぼろの主従は支え合うようにしてその先へと進んだ。


***


「これが……龍の五色の珠……!」

 

 小さな洞だった。


 弓彦は自分の寝屋程だな、と思った。


 溢れる色とりどりの光。

 その根源。

 そこに確かに五つの輝く珠はあった。


 だが、珠だけがあったのではない。


 そこでは、仔犬程の大きさの五匹の龍の仔が寝息を立てており、五つの珠は、その仔龍の額に煌々と輝いていた。


「龍の仔の額の珠……!」


 そう言った弓彦は絶句した。


「龍神が怒るも道理、という訳か」


 主水は静かに言葉を絞り出した。


「これでは珠を取るには、この仔らを殺さねばならぬ」


 主水の言葉は静かであったが、だが強い怒りに満ちていた。

 

「弓彦よ」


 主水は口元に笑みを浮かべながら弓彦を振り返った。


「我らは何を倒したのだ?」


 弓彦は答えられない。

 主水の笑みは楽しさやいたわりではない心で満たされていた。


 興奮から一転、水を浴びたような心地の弓彦は黙することしかできなった。


 そんな弓彦に、主水はもう一度問いかけた。


「我らは、何を倒したのだ?」


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