浜湊

 浜湊に向かう街道は街道とは名ばかりの野道である。


 結局根負けした主水は道行きの厳しさに泣き言を言わぬ事を条件に、弓彦の同道を許した。


 踊り出すような様で瞬く間に支度を終えた弓彦に、引き回されるように旅立って一日半。


 馬水場の宿で泊を取り、夜明け前に立って雉落としの峠を越えればもう日も高い。


「主水様、お早く。雲行きが怪しゅうございます。降り出す前に石渡の茶屋まで行き着いてしまいましょう」


 誰からどうやって手に入れたものか、何かの手帳の書き付けを見ながら弓彦が言う。どうやら道中の手引きか何かのようだった。

 泣き言どころの話ではない。

 彼の従者は重い荷物を抱え文句一つ言わず、主人の為に先行して道の具合を確かめながら、先行きを正確な知識で案内してくれている。


 主水は大きな荷籠と当人の身の丈に程近い長弓を背負った小さな背中を頼もしく見つめた。 




 弓彦の本当の名は堤由比彦つつみゆいひこである。


 主水との初めての出会いは、二年前。

 領主である父、帯刀たてわきと主水たち兄弟三人、また代々の臣下である堤の親子とで繰り出した年中行事の鴨狩の時である。


 上の兄、氏直うじなおは荷物持ちに来ていた由比彦に戯れに弓と三本の矢を与え、好機あらば鴨を射てみよと命じた。


 半刻の後、由比彦は三羽の鴨を持参したが、その鴨の様子が尋常ではなかった。


 全ての鴨が目から頭を射抜かれて仕留められていたのだ。


 氏直が由比彦を質すと由比彦は言った。


「胴を射抜けば羽毛が破れ、肉の傷みも早くなると思いましたゆえ、そのように射ました」


 氏直はそれを聴くと怒り、由比彦を叱りつけた。


 偶さかの出来事を自らの腕前のように誇るとは何事か、と言うのだ。


 だが主水には、この少年が嘘を言うようには見えなかった。


 そこで主水は少年を庇い、更に三本の矢を与え、半刻待つから物言いが誠であると示して見よと機会を与えた。


「ありがとうございます。主水様。矢さえ頂けたら半刻も要りません」


 恭しい態度で頭を下げた由比彦は、当たり前のような自然な所作で矢を弓につがえると、続け様に二本の矢を天に向かって放った。


 全員の見ている前で、二本目の矢は最初の矢を真っ二つに射抜いた。


 以来彼は、家中では「弓彦」と呼ばれるに至ったのである。

 

***


「主水様。あちらを」


 嶋川の下流に掛かる石造りの橋、石渡近くにある茶屋まで後一刻と言った所、先を行っていた弓彦が主水に声を掛けた。


 そのたおやかな手が示す先に目を凝らせば、どうやら人が道端に座り込んでいる様子だ。


「物乞いでしょうか。野盗のようには見えませんが」


「こんな野の真ん中で物乞いもなかろう。さりとてお前の言う通り野盗とも思えん。とにかく近付いて確かめよう」


 二人は用心しながら道を進む。


 近付くにつれて様子が分かるようになると、それはどうやら老婆のようで、目を閉じ黙って道の端の平たい石に座り込んでいるようだった。


「怪しいですね……老婆の振りをして旅人を喰らう山姥という鬼がいると聴きますが……」


 素知らぬ振りをしながら、弓彦が小声でそう言った。


「人を易く物の扱いするもんじゃない」


 主水は笑った。


「それに何かの事情で動けなくなった気の毒な年寄りかも知れん。声を掛けてみよう」


 主水はすたすたと老婆に近づき、親しい友にするように声を掛けた。


「いい陽気だね、婆さん。だが、連れが言うにはじきに一雨来そうだぜ。

 傘かみのはあるのかい?」


「旅のお方か……」


 老婆は苦しそうに言った。


「実は持病のしゃくが酷く、薬を飲んでも収まらず、どうにも動けずに難儀しております」


「そりゃいけねえな。


 どうだい婆さん。取り敢えず石渡の茶屋までおぶってやるよ。

 そこで雨を凌いで、なんなら籠か医者を呼んで貰えばいい」


「そのような……見ず知らずお方にそこまでして頂く訳には……」


 主水はかっかと笑うと、老婆を軽々と持ち上げ、背中に背負った。


「なるべく静かに歩くようにするが、生来大股だから揺れるかも知れん。辛かったら遠慮なく言ってくれ」


「お武家様……」


「万平らげ方、伊澤主水だ。人助けが役目なれば気遣い無用よ」


***


 浜湊は領内最大の港町である。


 平素山郷に暮らす二人は、そこに立ち並ぶ家屋や商店の多さ、行き交う人々の多さ、馬や牛、荷車の多さに圧倒された。


「まずは宿ですね」


 物見高さをグッと堪えた様子で弓彦が言う。

 平静を装ってはいるが、渦巻く好奇心を抑え付けているのは一目瞭然だった。


竜胆りんどう屋と言う宿が部屋や布団が綺麗で用心も良く、安心して泊まれるようです」


「その竜胆屋とやら探すとしよう。どうやら本当に一雨来そうだ」


 弓彦は返事をしたが、どこか疲れた声だった。


「だが雨の一雫目までが落ちるまでは、珍しい物を見、美味い物でも食うとしよう」



***



「申し訳ございませんお武家様。実は部屋が一杯でございまして」


 狐を思わせる細面ほそおもての番頭が、申し訳なさそうに言った。


「なんとかなりませんか。我が主人一人の部屋だけでも。私は軒さえ借りられればどこでも寝られますがゆえ」


 弓彦は食い下がる。

 主水が割って入る。


「そんな事はさせられん。無理を言ってすまんが、押入れでも物置でも借りられんか? 宿代は二人分を払うから」

「いけません! 恐れ多くも伊澤の家の三男様をそのような場所に寝かせたとあっては、側仕えの私は表を歩けなくなります」


 外は大雨で、道は既に川のようになっていた。

 野宿には泥水の中で眠る覚悟が必要だ。


「困りましたね……」


 番頭は途方に暮れていた。

 商いの都合でではなく、心から同情し、なんとかしたいが出来ない様子だ。

 

 主水はこれ以上は徒らに番頭を辛い目に合わせるだけだと判断した。


「済まない。炊事時に手間を掛けた。他の宿を当たるとするよ」

「主水様……」

「良い。お前のせいではない。こういう難事も旅の醍醐味だいごみよ。

道中記に書いておけ。俺が後から曲を付けて唄にしよう」


「そこな御仁。今お名前をなんと申されました?」


 宿を出ようとしていた二人に奥から声が掛かった。

 宿の主人と思しき恰幅のいい男が商い所からとことこと出て来て、二人にお辞儀をした。


「私めの聞き違いでなければ、今お名前をモンド様と。


 もしやあなた様は万平らげ方、イサワモンド様では?」


「いかにも。俺は伊澤主水だが」


 主水は訝しげに答えた。


「申し遅れました。私この竜胆屋の主人。竜胆屋呉兵衛りんどうやごへえと申します」

 

***


「奇縁ですね」


「ああ。情けは人の為ならず、とはこのことだ」


「に、しても広過ぎて落ち着きませんね」


「全くだ。勿論、雨の野端で寝るよりは天地の差だがな」


 二人は竜胆屋の大広間、今夜は使われない宴会の間の真ん中にぽつんぽつんと座り食後の熱い茶を飲んでいた。


 話は半刻程遡る。



***



「伊澤様。失礼ながら本日の昼、街道で老婆を一人お助けになられたでしょう」


 竜胆屋は二人を私室に上げると、茶と菓子を振舞って話し始めた。


「あれは私の実の母親、桔梗にございます。癪が重く、苦しんでおった所をそれは立派なお侍様にお助け頂いたと涙を流して感謝しておりまして。

 是が非にもお礼をしたいと、人をやって泊まりを端からお探ししておりました所でした。

 部屋はなんとか致しますゆえ、どうか今宵は当宿でお過ごしくださいませ」


「かたじけない。御母堂ごぼどうの具合は?」


「は。籠にて帰りてはすぐ掛かりつけの医師から高麗の薬湯を頂き、今は落ち着いてございます」


「役目あっての旅なれば、最後まで面倒を見れずに気に掛かっておった。

 こちらまでお送りできればそれに越したことはなかったのだが」


「勿体なきお言葉。

 母には出掛けには人を伴うよう口を酸っぱく申してはおるのですが、世話を嫌って隙を打っては一人出掛けてしまうのです。

 家人で探しておりましたがまさか街道まで出ていたとは……。


 重ねてこの荒天。

 伊澤様に助けて頂いていなければ、母は悲惨な最期を遂げていたこと疑いありません。

 誠に、誠に……」


 竜胆屋は平伏した。


「頭を上げられよ、ご主人。

 御母堂にも申し上げたが、俺の役目は領の万平らげ。役に立ったなら幸いだが、禄の分の務めを果たしたに過ぎぬ。

 部屋は助かるから心変わりなくばお願いしたいが、宿代は定めの通り払わせてくれ」


「とんでもございません!


 母の命の恩人を銭を取って泊めたとあっては、この竜胆屋の沽券こけんに関わります。

 狭い宿場ゆえ、その噂はたちまち万人の知る所となりまする。

 評判が何よりの看板の宿屋に取っては、命綱が切れるが如きことなれば、どうか助けると思って当方の御節介をお受け取りくださいまし」


「……分かった。そこまで言うなら世話になろう」


「ありがとうございます。


 時に伊澤様は、何かのお役目でこちらにおいでに?」


「ああ。この浜湊から船を出し、不帰となったさる貴人をお探し申し上げておる。


 竜胆屋。船、港に詳しいものに知り合いはおらぬか?」


「港は海坊主の親分さんが取り仕切ってなさるので……直接は」


「そうか……」


「ただ、昔世話をした人足が、今は港の親分の下で働いております。その者なら、取り敢えずは海坊主の親分に渡りを付けることはできましょう。

 お会いになるのは明日の夜でも宜しかったでしょうか」


「願ってもない」


「かしこまりました。この件はお任せを。


 お部屋に夕餉ゆうげの仕度が整っております。

 下男に案内させましょう」


「そう言えば。腹が空っぽだ」


 主水は腹をさすりながら情けない声でそう言うと、かっかと高らかに笑った。


***


 なるほど、海坊主か。


 網元、と呼ばれる港の親分と対面した主水と弓彦は、口にこそ出さなかったが同じ感想を抱いた。


 竜胆屋の口利きと弓彦が気を利かせて持参した銘酒の土産は鮮やかに効果を発揮し、話はトントン拍子に進んだ。

 

 大納言が目指したのが浜湊から順風で三日の距離にある「渦潮島」と呼ばれる岩石島であり、その船の生存者と思われる気狂いが漂着し、船頭長屋で保護されていることも分かった。


 だが。


「悪いこたぁ言わねェよお武家さん。あそこはやめといた方がいい」


「何故だ? 物の怪が出るからか?」


 海坊主の網元は溜息をついた。


「お武家さんには伝んねェかも知れねえですがね。


 船乗りってのは生来信心深い。

 潮目一つ。風一つで暮らしが潤ったり干上がったりする。

 そこで頼れるのは己の腕と、気紛れなお天道様だけって塩梅でして。

 神や仏と名のつくものは、そりゃあァ畏れて大事にする。

 

 渦潮島は龍神の住処すみか。しかもつい最近、渦潮島に舵を切った船が気狂い一人残して沈んじまってる。


 竜胆屋さんからの頼みで、おぜぜも充分頂けるから船は出しやすが……海の上では、背中にもお気を付けくださいやし」


「脅す気ですか……?」


 静かに怒気を孕んだ声を出したのは弓彦だった。


「滅相もねぇ。


 船頭も人の子。龍神様とひといくさ交えるくらいなら、お侍一人海に落としちまった方が長生きできらァ、と考える奴もいるかも知れねえって話でさ。


 あっしからは重々言い含めますがね、何が起きるか分からねェのが海の上だ。


 ゆめゆめ御用心忘れなさいますな」


***


「大納言殿……」


 粗末な長屋でムシロにくるまり、虚ろな目で涎を垂らして震えている人物を見た主水は、その人物にそう言った切り言葉を失った。


 髪は乱れ、髭は伸び放題にのび、全く物乞いか行き倒れの屍のようで、兄と笑い合い国の将来を語っていた若き皇子の面影はそこにはなかった。


 視線は定まらず、終始何事かをぶつぶつと呟く狂った人の有様を、弓彦は嫌悪しつつ、だが目が離せないでいた。


「何があったのです大伴様。


 私が、私がお判りですか?


 あなた様の友、伊澤直定が弟、主水です!


 大伴様!」


「ウ、ゥゥ〜」


「弓彦。竜胆屋まで戻って飛脚の手配を頼んでくれ。


 兄者に報せ、大伴の家人を迎えに寄越してもらうのだ」


「……」


「弓彦!」


「あ、は……はい!」


「文は俺がしたためる。


 竜胆屋に飛脚を手配するように頼むんだ。

 いいな?」


「はい。かしこまりました。主水様」


 そう返事をした弓彦は既にいつもの卒のない従者だった。


 弓彦を送り出した主水は、大納言を宿に連れ帰る為、抱き起こそうとした。


 汗と尿の混じった悪臭が鼻をついた。


「大伴様、帰りますぞ。歩けますか?」


「ゥゥウ〜……と……か……」


 主水の耳は、大納言の呻き声に混じる、何かの言葉を聞き取った。


「なんと仰せです大伴様、よく聞こえません」


「ゥゥ〜……フカ………ヒト……ンナ……」



「フカ、ヒト……オンナ?」


「フカ……ゥゥヒト……オンナ……ああ……アアァァァ」



 大納言は呻き声の他は、その三つの言葉を虚しく繰り返すばかりであった。


***


 吹き抜ける潮風に乗って、白い海鳥が帆柱の上を追い抜いて行く。


 海鳥の鳴く声。綱と甲板の軋む音。船夫たちの掛け合う合図の叫び。


 昨日までの大雨が嘘のように、空は一点の曇りなく澄み渡り、船は順風を帆布一杯に受けて穏やかな海原を滑るように走って行く。


 弥八と名乗った四十路の船の長は、船乗り達を簡単に紹介すると、主水たちの幸運を笑いながら悔しがった。


「お侍さんに、荒れた海の楽しさを味わって頂くよい機会かと思ったんですがね、あんたたちは海の神様に好かれなさっているようだ」




 顔合わせの後、主水ら二人は出港前の荷運びや綱張りを船夫たちに混じって手伝い、船が出る頃には彼らにすっかり仲間と認められていた。


 弓彦は士族でありながら下々に混じってすぐに友となってしまう主水の人柄の大らかさに、従者として誇らしい気持ちになった。

 


 出港前。主水は彼らに、渦潮島が見えるところまで船を出してくれれば、あとは小舟で自分たちだけで上陸することと、一日経って戻らなければ勝手に帰って良いこと、道中に何かあれば自分たちが全力で皆を守ることを予め約束した。


 また、ここでも弓彦は如才にょさいないところを見せて、船夫達と、船そのものへの振る舞い酒を手配していた。


 特に船の舳先へさきに差す神酒があったのを船夫たちは大変に喜び、その様をにこにこと見ている弓彦の人心への洞察に、主水は舌を巻いた。



 かくて海の男たちは、噂通りの気っぷの良さと豪胆さとで道中の尽力を請け負い、また主水は全てが上手く運んだ後の報酬と酒宴を請け負った。


 彼らの航海の一日目は、思った以上に順調であった。



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