旅立ち
その日の夕刻。
主水の姿は竹取の翁、
兎に角一度自分の目でそのカグヤとやらを確かめようと、兄の家からその足で姫に会いに来たのだ。
だが門は閉ざされ、訪ねる声に応えはなかった。
そこで諦める主水ではなかった。
屋敷の塀を回り込んでそれをひょい、と乗り越えると広い庭に入った。
そして池の縁に据えられた大岩に腰掛けると袖から笛を取り出し、得意の月影の楽を吹き始めた。
空は夕焼けに赤く燃え、そこに静かに名月を讃える笛の調べが響く。
「お上手にございますね」
鈴を転がしたような声が、主水の笛を褒めた。
「しかし今はまだ
主水は岩から降りると、立ったまま声の主に礼をした。
「無作法な訪問をお許しください。
私は
世に噂高い美しき姫の御姿を一目でも確かめたく参上しました」
頭を下げたまま、声の主を待つ。
「お頭をお上げください伊澤様」
顔を上げた主水は、初めてカグヤ姫を見、おお、と嘆息を漏らした。
「私は
家人の不在でお持てなしもできず面目次第もございません」
黒く艶やかな長い髪。透き通るように白い肌。そして何処か憂いを
輝くようなという名に恥じない妖艶とも言える美しさだった。
「失礼ながら、本当の御用向きは?」
姫は変わらぬ様子で鋭い質問を投げかけて来た。
「どなた様からかの御指図で?」
主水はフ、と笑った。
「美しいだけではないようで。気に入りました、と言えば無作法を重ねますかな?」
「私を調べにおいでなら噂もご存知でしょう。
少しお話すれば分かります。伊澤様こそ強く賢く、将来を約束されたご立派な方とお見受け致します。
私は不幸を呼ぶ女。貴方様とは釣り合いに掛けるまでもない」
そう言ってカグヤは哀しそうに微笑んだ。
「……
主水は本題を切り出した。
「大伴様……はい。覚えております」
「行方知れずになり、私がその捜索を申しつかりました。聞くところによれば大納言はカグヤ殿の言に従い、宝物を求めて海に出た。それが最後の足取りです」
「……」
「何故あのような無茶を」
「……」
「あなたこそ、高慢愚劣な女子とも思えません。
訳があればお教え願いたい。
私の役目は御領内の
次第によっては力になれるかも知れませぬ」
「……条件がございます」
「条件……?」
「
一瞬、腹立たしい気持ちが主水の胸に膨らんだ。
だが、彼女の表情は苦しげで、今にも泣き出しそうだった。
そんな彼女を鞭打つ言葉を投げかけるような真似は、主水にはできなかった。
「分かりました。私が大納言が探した宝を持参致します。
それと引き換えに、お話をお聞かせ願いたい」
カグヤの花のような唇が何かを言いたげに動いた。
だが、その震えはなんの言葉も紡がなかった。
「今日の所は帰ります。
必ずやいずれまた」
「伊澤様」
帰り掛けた主水の背中に、カグヤが声を掛けた。
「この件からは手を引いて頂けませんか。御身の為に」
「できませぬな。役目ゆえ」
「ならせめて……お命をお大事に。無理は……なさられませんよう……」
「……御免」
いつの間にか日はとっぷりと暮れて、竹林の笹の葉の間から糸のように細い月が、
***
旅支度の為、屋敷に帰った主水を待っていたのは、側仕えの少年、堤弓彦のかまびすしい説教であった。
弓彦の堤家は、代を重ねて伊澤家に仕える御用仕えの家系である。
御用仕えとは、幼くは当主の身の周りの世話や家事、牛馬の給餌や手入れなどの雑事をしながら文武を学び、成人してからは言わば秘書兼ボディーガードのような立場として当主を陰日向に支える、日雇いの使用人とは異なる要職であった。
弓彦は齢十四。元服はまだだ。
だが主水は彼を一人前として扱い、その利発さや肝の据わり具合に一目以上を置いて、禄もきちんと支払っていた。
若いながら咄嗟の沙汰が正しく、正直で礼節を尊ぶその性格は、下手な地侍や下級士族より清廉で、友としても部下としても信の置ける人柄であった。
「また脱いだお着物をそのままになさって!」
弓彦は開口一番、怒れる母親の如き剣幕で主水に食って掛かった。
「特に泥汚れの物は、乾くと砂が落ちてお屋敷が汚れるだけでなく敷き布や床板が傷むからお籠にお入れ下さいと、何度申し上げれば宜しいのですか!」
「すまぬ……失念しておった」
主水は素直に頭を下げた。だが、少年は頬を上気させなが更に怒りの言を紡いだ。
「主水様は二言目には失念した失念したと仰せですが、耄碌されるには早いかと存じます。
思いますに主水様は、領民の苦楽程に家人の苦楽を重く見ては頂けていないようで。
床板をお磨きになられたことは?
脱いだ物を籠に入れる。
畏くも武門の誉れ高い伊澤の三男様ともあろう方が、児子にも当たり前の作法を嗜んでおられずしてなんとします。
このお話、何度させて頂いたか覚えておいでですか⁉︎」
「十四回だ」
「そ……その通りです。
覚えておいでなら何故きちんとなさって……」
「訊きたいか?」
「え……」
弓彦はどきりとした。
彼の主君が、す、と真剣な空気を
寛容な主水に甘え、日頃言葉こそ丁寧だが遠慮なくズケズケと
「俺が何故、十四回も着物を脱ぎ、そのままにしたか。その理由を本当に知りたいか?」
ずい、と主水は弓彦に近付いた。弓彦は気圧されて、思わず一歩後退った。
「え、えと……その……」
謝ってしまおうか。しかし彼の主君は賢い。それがその場凌ぎで口から出ただけの謝罪であれば必ず見抜かれ、今度はその場凌ぎをしようとした
だが、遅かったかも知れない。
主水は腰に履いた太刀に手を掛けていた。
弓彦は死を覚悟した。
「理由。それはお前の怒った顔が可愛いからさ」
そう言って主水は帯から太刀を抜くと、いつものように弓彦に渡して自分はさっさと奥座敷に向かおうとする。
弓彦は渡された太刀を落とさぬように両手で抱えながら、へなへなとその場に座り込んだ。
「それにな」
奥の間への戸口で主水は立ち止まり、彼にしては小さな声で話を継いだ。
「お前に一人前の禄を出している事を快く思わぬ者もいる。
俺が余りに清く正しく在り過ぎれば、御用人の子供など要らぬと言い出す輩もおるかも知れん。
俺がお前の主人である内はそんな輩の好きにはさせんが、嫉妬ややっかみは人の常。
無能に見合わぬ尊大な卑劣漢がお前に悪さをせんとも限らん。
お前がきちんと俺の世話を焼き、俺を
伊澤主水に諫言できるは、堤弓彦だけ、伊澤主水には堤弓彦が必要だと、皆に納得して貰わねばならん。俺はお前程に世間に通じておらんし目端も効かん。弓の腕は、戦の折には兵力になるとあてにしてさえいる。
つまり実際俺には、お前が必要だしな」
弓彦は目が覚めたような気分だった。
自分が着物一つに頭に血を昇らせている間も、彼の主君は粗忽のそしりを怖れず、彼の立場を
賢君であり、仁君である主水が自分の主であることの喜びと自分の未熟な卑小さに、弓彦は震えた。
そして一生、この賢くて優しい主君について行くのだと決意を新たにした。
「弓彦。旅の支度だ。此度は武具も要る。着込みと
「畏まりました主水様」
弓彦はいつもより少しだけ元気に返事をした。
***
「ならぬ」
「参ります」
都合二十二回目となる問答だった。
問題なのは、弓彦が
「弓彦。
先程も申した通り、此度の任は危険や戦いがあるやもしれぬ。
お前を連れては行けん」
「鍛錬はしております。足手まといにはなりません。それに私の弓の腕前は、主水様もあてにしていると仰っていたではありませんか」
「それは……そうだが」
「旅の先々の宿や食事のご手配はどうなさいます。
浜湊の宿、船が要るなら船、その先ほかの地を訪ねるならそちらでの宿。
主水様はお一人でそれらのお支度ができましょうや」
「……」
「できなくはなさそうだが面倒だなというお腹積もりかとお察し致します」
主水は苦笑した。
弓彦の洞察は正鵠を射ていた。
「先程も申しました通り、私は自分の身は守れます。いざとなれば素早く小さな身の上、逃げ隠れも得意にございます。
旅先でもご不便なきよう御身の周りのお世話はさせて頂きますし」
弓彦は胸を張ると、真っ直ぐに主水の眼を見つめた。
「敵に弓の遣い手があらば、私が主水様をお守りいたします」
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