新しい日々
エオースに設けられた新しい船長室は、以前の僕の私室と比べると若干広めになっていた。
とはいえ執務用のデスクなども置かれているため、どちらかというとむしろ手狭になった感がある。
「よし、今日の日報はこんなとこかな……」
端末上の報告書を閉じて、僕は大きく身体を伸ばす。
人工重力装置は切られているが、メインエンジンによる加速によって身体には若干の疑似重力が感じられる。具体的には地球標準重力のおよそ二〇パーセント程度だ。身体に掛かる負荷は小さいので、身体が重く感じるのは心理的なものだろう。
僕達がアストリアを出発して今日でちょうど三〇日になる。加速はあと八〇日ほど掛けて行う予定でその後は長い長い慣性航行に入る。
もっとも、あと十日ほどで僕は冷凍睡眠に入ることになっているため、加速の終了を見届けることはない。
「さて、様子はどうかな……」
僕は端末上にシャーロットのメディカルデータを表示させる。
シャーロットは二日前に冷凍睡眠ポッドに入った。彼女にとっては初の冷凍睡眠ではあるが、状態は極めて安定している。
そんな彼女は、やれ初めての冷凍睡眠が怖いだの、やれ今生の別れかも知れないだのと言って、土壇場まで散々僕にハグしろだのキスしろだのねだってきた。まあいつも通りの笑顔で言うものだから全く真剣味はなかったのだが。
だいたい、遺伝子レベルで設計されたデザイナーベビーであるシャーロットは、冷凍睡眠に対する適応度も高い。もし何かトラブルがあっても一番生存率が高いのは彼女だろう。
とはいえ、この二日ほどはシャーロットがいなくなったせいで、船の中の騒がしさが八割は減じた感があり、つまりだいぶ船が寂しくはなった。
「失礼します。ライル様、夕食の用意ができたそうです」
「ああ、ありがとう。今行くよ」
そんなこんなで船長代理の執務に励んでいるとレイシーが呼びに来た。
僕がドアの方に振り向くと、すっかりエオースの制服を着慣れた様子のレイシーが立っている。ただそのぎこちない表情を見るに、笑顔はまだ苦手のようだ。
夕食と言っても、既に冷凍睡眠の準備のために食事制限が掛かっているため、固形食ではなく液状の栄養食だ。僕はレイシーの後なのだが食事は前倒しで彼女に合わせている。というか、シャーロットに合わせて全員で食事を切り替えたため、僕だけ妙に長く栄養食を食べる羽目になってしまった。少々後悔している。
端末をスリープにして席を立ちレイシーのそばに行くと、彼女は何やら言いたげな様子で僕の方を見つめてきた。
「どうしたの?」
「いえ、その……」
僕の問いにレイシーが口ごもる。
これでもだいぶましになった方がではあるのだが、相変わらず彼女は自分の気持ちを口に出すのが上手くない。
だがしばらく待ってやると、彼女はためらいがちに言葉を続けた。
「シャーロットは大丈夫でしょうか……」
「ん? 大丈夫だと思うよ」
全く心配がないといえば嘘になる。シャーロットの適応度でも、数百回に一回くらいは後遺症が残るかもしれない、という程度のリスクはある。
そして心配しても仕方ない話でもある。今更やめるわけにもいかないし、そもそも僕達は宇宙で生きるということ自体に相応のリスクを負っているのだから。
「そんなに心配?」
「いえ……ただ、シャーロットが言っていたことが気になって……」
言いながらレイシーは俯き、僕の方に手を伸ばそうとしたかと思ったら引っ込めたり、しばらく指を所在なげにふらふらさせたかと思うと、再び顔を上げた。
彼女は言葉を続ける。
「今まで、冷凍睡眠に入るのが怖いと思ったことはありませんでした。もし私に何かあっても、アイラが新しいのを作ってライル様にお仕えすればいいだけでしたから。でも今は……」
「死ぬのが怖い?」
「……はい」
冗談めかして言っていたシャーロットと違い、レイシーは本気で不安を感じているようだ。
死を恐れるのは実に人間的な感情と言える。
ロボットにも自己保存を求める第三原則は存在するが、それはあくまで人間に仕えるロボットを減らさないということが主眼にある。だがレイシーが感じているものはそうではなく、恐らくもっと根源的で人間的な
僕の前で不安げに視線を彷徨わせるレイシーが、むしろ僕には好ましく思える。それは彼女が人間として生きることに少しでも慣れてきたということなのだから。
「いいことだと思うよ。死にたくないって考えるのは、ロボットにとっては三番目だけど、人間にとっては一番目だ。つまりそれはレイシーが人間らしくなってきた証拠だと思う」
「はい、それは……そうだと思います。ただ……」
そう言うと再びレイシーは指をふらふらと彷徨わせはじめ、そしてしばらくしてからちょこんと僕の袖口を摘まんできた。
何だろう。今までに無い反応だ。
僕は首を傾げつつ訊ねる。
「……何?」
「ハグとかキスとかすれば怖くなくなりますか?」
「ぶっ……」
むせた。
いきなり何を言うのだ。
一体誰の入れ知恵だ……ってそりゃあシャーロット以外あり得ないが、シャーロットが言うのとレイシーが言うのでは、なんというか、その、深刻度が違いすぎる。
まあシャーロットに関してはあまりにしつこかったので、抱きついてきても邪険に払わないことまでは、僕が折れた。
だがそれは友達とか妹とかそういうのに対してのものであって、レイシーはなんというか、そういうのではない……のだ。
「あー、あのさ、シャーロットのは多分冗談で言ってただけだし、別に、そういうことで、怖くなくったりは、あんまり、しない……んじゃないかな……」
僕はなんだかしどろもどろで言い訳だかなんだかよく分からない言い訳をする。
いやだって、そりゃあ僕だって、レイシーのことをこう、両手で抱きしめて、大丈夫だよとか、その、うん……
……駄目だ。それはまずい。歯止めが利く自信が無い。
そんなことをぐるぐると考える僕はよほど変な顔をしていたのだろう、レイシーは少し落ち込んだようなすねたような様子で首を振る。
「……やっぱり、もういいです」
「そ、そう……」
僕としてはほっとすると同時に少し残念でもある。
レイシーはやれやれという風に息をついて、そして再び顔を上げた。
「ですが、あの、ライル様は怖くないのですか?」
「ん? 僕?」
いきなり話題を返されて僕はうーんと首を捻る。
冷凍睡眠は、怖いだろうか?
理論上リスクのあるものだというのは、もちろん知っている。二度と目覚めないかもしれないというのも、同様。
では恐怖を覚えるかというと、そんな記憶がない。これから数日後には僕も冷凍睡眠に入るのだが、怖いとは全く思っていない。
「全然、怖いと思ったことないな」
「それはどうしてですか?」
「うん? そりゃあまあ……」
その答えは明白だ。
今までこれといって意識していたわけではないが、訊ねられればすぐに答えられる。
だから僕は思いついた通りのことを答えた。
「楽しみだったから、次に目覚めるのが」
「楽しみ、ですか」
「だって目覚めたら何十年も時間が経っていて、宇宙を何光年も進んでいて、地球からは新しい小説とか映画とか音楽とかが届いてさ。それに――」
――ミス・ウィットフォードからのビデオレターが届くのも楽しみだったし、という言葉は流石に飲み込んだ。
その程度の分別は僕にだってある。
「――それに、目覚める度に少しずつ僕達のミッションは成功に近づくことになる。だから冷凍睡眠に入るときはいつも結構わくわくしてる」
「わくわく……」
「まあレイシーは僕が無理矢理連れてきちゃった感じだから、あんまり楽しくないかもしれないけどさ」
協力的であるとはいえ、元々レイシーは僕のように熱望してミッションに参加したというわけではない。
それに彼女は古典的な映像作品の鑑賞を趣味としているので、地球から最新の作品が届いても大して嬉しいわけではないだろう。
そう指摘する僕に、レイシーは小さく首を横に振った。
「私もライル様と一緒に新しい星に行くのはとても楽しみですよ。だって……」
そこまで言って、レイシーは唐突に言葉を濁した。
そのままふらふらと視線を彷徨わせ、なんだか耳まで顔を真っ赤にしたかと思うと、俯いてしまう。
「……だって、何?」
僕が怪訝に訊ねても彼女は顔を上げない。
俯いたまま答えてくる。
「……なんでもないです。でも、怖くはなくなりました」
「そう? それならいいけど……」
「……先に行ってます」
そう言い残すと、レイシーはそのまま僕の返事も待たずにとてとてと食堂の方に駆け出していった。
いや、彼女がミッションを楽しみにしているというのも、恐怖心が紛れたというのも、僕にとっても朗報なのだが。
……夕食、呼びに来たのではなかったのか。
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