ネクストステップ

 部屋に置かれたベッドの隅っこの方に、シャーロットがちんまりと座っている。

 彼女は何やらぼんやりと物思いにふけっていたようだが、僕が部屋に入ってきたことに気付き、すっとこちらに視線を向けた。

 その目がまるで見たことのないものを見るかのようなきょとんとしたものだったので、僕の心にざわざわとしたものが広がる。

 シャーロットはしばらくそのまま不思議そうに首を傾げていたが、数回首を傾げ直したあたりで「あ」と口を開いた。


「ライルだわ」

「……そうだよ」

「そうみたい」


 見た目はいつもの彼女だ。声も。おかしな様子はない。

 リザはシャーロットのことを『情緒が不安定になっている』と言っていた。だが、今見た限りではどちらかというと落ち着いている。

 むしろシャーロットらしからぬほどに落ち着いているのが不気味なほどだ。

 今この部屋には僕と彼女しかいない。リザもモニタリングさせていない。

 ――少しだけ、不安を覚える。

 そんな僕の心情をよそに、シャーロットは僕の頭のてっぺんからつま先まで視線を走らせ、そして再び口を開く。


「ライル、身体はもう大丈夫?」

「うん、君のおかげでもうなんともないよ」

「そう、無駄にならなくて良かった」


 やはり、どこか様子がおかしい。

 なにかこう、言葉で表しにくい奇妙な違和感があった。

 シャーロットのことを怪訝に見つめる僕を、彼女もじっと見つめている。ややあって、彼女は少し困ったように息をつき、話し始めた。


「ごめんね。なんだか色々おかしいの。目とか耳とか、見え方も聞こえ方も今までと違ってて。何もかも変な風に見えるし、うるさいし、臭いし、ごはんは変な味するし、もう大変」

「だから、僕のこともすぐに分からなかった?」

「ちょっと違和感あったけど、もう大丈夫よ。ご主人様のことが分からないなんてロボット失格よね」


 脳へのダメージで感覚に異常が発生している、ということだろうか。

 リザは非破壊検査で分かる範囲では脳に異常は見当たらなかったと言っていたが、そうは言っても生体脳は非常に複雑かつ繊細である。目に見えないごく小さな損傷でも重大な異常を来すことはある。

 より軽度なものとしては心因性という可能性もある。

 だが物理的に軽度だとしても、問題が軽度かどうかは話が別だ。

 そんなことに思いを巡らせる僕の表情が、それほど深刻そうに見えたのだろうか、シャーロットは「そうじゃないの」と小さく首を振った。


「元々シミュラントの感覚はニューロチップが制限を掛けてたの。情報量が多すぎて混乱しないように。リザが言うには、それが利かなくなったせいで情報が多すぎて処理しきれなくなってるんじゃないか、って。だからどっちかと言うと、正常になったっていうか」


 彼女は僕の方を見つめたかと思うと、いつもの見慣れたはにかんだような笑みを浮かべた。

 ほんの少しだけ、僕の胸の中に安堵が広がる。

 恋愛対象からはほど遠いにしても、彼女の笑顔は今や僕の大切な日常の一部なのだ。

 そんな僕の心情を知ってか知らずか、シャーロットは軽く身を乗り出すようにして僕の顔を覗く。


「ライルの顔とか声とかってあんまり意識したことはなかったけど、本当はこんな感じだったのね。もうちょっとハンサムな気がしてたけど、まあこんなものかな?」

「シャーロット、君は、つまり、ニューロチップが……」


 シャーロットの言葉からは悲壮な雰囲気は全くない。

 だが、もし三原則に少しでも異常があれば、シャーロットはのだ。

 そして言うまでもなく、彼女の三原則の根拠となっているのは、その脳に埋め込まれたニューロチップである。

 僕が眉を寄せて苦悩していると、シャーロットは軽く首を傾げて僕に微笑む。


「ねえ、ライル。そんなとこに突っ立ってないでこっち来ない? イヤ?」


 そう言いながら自分の座るベッドをぽふぽふと叩く。隣に座れということのようだ。

 笑顔を浮かべながら僕の様子を覗う彼女だが、改めて見るとその瞳には不安がはっきりと浮かんでいる。そもそも彼女の変化を一番強く感じているのは彼女自身のはずだ。

 ――彼女から危険は感じない。

 大丈夫だ。彼女は僕の知っているシャーロットだ。

 僕は小さく頷くと、結局一人分くらいの間を開けてシャーロットの隣に座ることにした。


「む……」


 僕が座った場所を見て、シャーロットが不満げに唇を尖らせる。

 ……かと思うと「えい」などと言いながら僕のそばに寄ってきて座り直す。


「……えへへ」


 彼女は肩が当たるくらいの距離まで近づいて僕の方をチラチラと見ている。

 ここ最近のパターンだとこのあたりで唐突に抱きついてきたりするのだが、そうする様子はとりあえず見られない。

 ……もし仮に彼女のニューロチップが正常に動作しなくなっているのなら、僕に言い寄る必要もないわけだし、もはやそうする理由もないだろう。

 そんな風に考えながら彼女の行動を観察していると、シャーロットは唐突にしゅんと落ち込むようにして視線を下げた。

 そしてピクピクと鼻を動かす。


「……もしかしてあたし、臭いのかな……」

「え? 急に何?」

「これまで生身の身体が臭いなんて考えたこともなかったの。でも、レイシーも微妙に変な匂いするし、それ言ったらレイシーにすっごく凹まれたし、もしかしてあたしも臭いからライルに嫌われてるのかなって……」


 突然変なことを言い出した……

 どうも感覚が正常化し、嗅覚も以前より鋭敏になった結果、妙ちきりんな悩みも沸いてしまったらしい。

 しかし、実際のところ……どうなのだろう。

 そもそも僕は他人の体臭について一家言あったりするような人種ではないので、コメントを求められても困る。

 まあ、とはいえ、強いて言えば――


「シャーロットからは変な匂いはしないと思うよ。ちょっとミルクっぽい甘い匂いがする」

「……本当?」

「少なくとも僕は嫌いな匂いじゃないよ」

「……そっか」


 僕の言葉に彼女は少しだけほっとしたように表情を和らげた。

 黎明期と比べれば比較にならないほど改善されているとはいえ、宇宙船というのは比較的空調の制限された閉鎖空間である。つまり、体臭の問題が人的トラブルの原因になることも別段珍しくない。

 その点に関してはシャーロットは合格点と言っていいだろう。

 そして今度は何を思ったのか、僕の首元に顔を近づけてクンクンと鼻を動かし始める。

 ……可愛い女の子にこんなことをされたら少しくらいはどきどきしそうなものだが、相変わらずこの子にはピンとこない。猫にじゃれつかれている気分だ……


「ライルもちょっと変な匂いがする……」

「三日寝たきりだったけど一応シャワーは浴びてきたよ。イヤならそんなにくっつかなくても」

「……嫌いな匂いじゃないわ」


 シャーロットの意図が分からない。

 彼女のニューロチップが少なくとも何らかの異常を来していることは確かだ。そのことが例えば彼女の嗅覚などに影響を与えているらしい。

 だが、三原則にまで異常が及んでいるのかどうかは、今の段階では判断できない。もちろん、三原則だけが運良く完全な機能を保っていると期待できるかというと、極めて厳しいのが現実ではある。

 もしも三原則が既に機能していないのであれば、彼女はこんな風に好きでもない男に媚びるような真似はしなくて良いはずだ。

 ならば、もしや、シャーロットの三原則は奇跡的にいまでも機能している……?

 シャーロットは殺されなくても良い……?


 ――違う。そうじゃない。


 僕は自分自身の頭をぶん殴りたくなった。

 不安げに僕の表情を覗うこの少女を見ても何とも思わないなら、僕は本当にどうかしている。


「シャーロット、いいんだ」


 シャーロットの三原則が機能していないとリザが判断したら、シャーロットは殺されてしまう。

 だから、彼女が生き延びるためには、どうあれ三原則がまだ機能しているとリザに思わせる必要がある。

 そう、彼女は自らの意思で自らの尊厳をかなぐり捨ててでも、生きようとしているのだ。

 わざとらしく僕の腕にしなだれかかろうとする彼女を、ぐいと押し返しながら僕は繰り返す。


「いいんだ。今この部屋はリザも見てないから、無理にそんなことしなくていいんだよ」

「む-……むー……」


 押し返す僕にシャーロットは何故か抵抗しようとしているが、しばらくそうしてるうちに諦めたようで、大きくため息をついて肩を落とした。

 そして、何やら恨めしそうな目でこちらを見ながらぽつりと言う。


「……べつに、リザは、思ってたより意地悪じゃなかったわ」

「そりゃそうだけど、君のニューロチップのこと、リザに知られるわけにはいかないじゃないか」

「わたしのニューロチップが壊れたこと、リザは知ってるわよ」

「うん、だから、今だけは無理しなくても……え?」


 シャーロットがあまりに由々しきことをさらりと言おうとしたので、思わずそのまま聞き流しそうになった。

 ……んん?

 リザが……シャーロットのニューロチップが破損していることを、知っている?

 そういえばさっき、シャーロットの感覚がおかしくなったのは、ニューロチップの制限がなくなったせいで、それを指摘したのはリザだと言っていたような……?


「ちょっと待って。リザが君のニューロチップのことを知っているなら、つまり三原則のことも?」

「そうね。だからリザが私のお願いを聞いてくれたのって、すっごい譲歩だと思うし、意外だったわ。お願いってのは、つまり……」


 そのあたりで、困惑する僕に隙を見いだしたのだろう。シャーロットは不意に「えい」などと言いながら僕の腕をかいくぐり、ぴょんと僕の胴に抱きついた。

 そして僕の胸元に頬をくっつけながら小さく呟くように言う。


「最後にライルと二人っきりで過ごしたい、とか……」

「……そうか……そうだったんだ……」


 最初からだったのだ。

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