代償

 全身がずきずきと痛む。

 気を失っていたのはほんの一瞬だっただろう。

 見上げるとぐしゃぐしゃに引き裂かれた樹脂製の天井……いやあれが先ほど僕達がいた床なのだろう。今いる場所の深さは三メートルほどだろうか。ここは恐らく床下の配線スペースか何かだ。そこに僕は仰向けに転がっている。

 少し首を動かすと僕のヘルメットの投光器が動いて、引きちぎられた配線が視界に入った。船外服は極めて絶縁性の高い素材でできているとはいえ、万が一というものがある。あれが通電してなくて良かった。

 そこまで把握するのにだいたい数秒くらいだったろうか。

 そこでようやく僕は自分の腕の中に縮こまってすっぽり収まっているものに気付いた。


「……シャーロット」

「うん……」


 彼女が僕の腕の中からこちらを見上げている。ひどく怯えた目をしているが、特に大きな怪我などはしていなさそうだ。

 落下の瞬間、咄嗟に彼女に手を伸ばし捕まえたのだが、どうやら無事だったようだ。

 痛い思いをして僕がクッションになった甲斐があったというものである。

 が、流石にそろそろ重い。


「……どいてくれるかな」

「あ、ごめんなさい」


 シャーロットがのそのそと僕から身を離した。

 ようやく息がつける。

 あの高さから落っこちて、しかも小柄な女の子とはいえ人間一人の下敷きになって、これだ。僕も運が良い方だったのだろう。

 両手を少し動かしてみる。ひどく痛むし指先も震えているが、動く。

 背中もしたたかに打ったようだ。全身に軋むように鈍痛が走っている。だが脊椎などに深刻な損傷はなさそう……だろうか。

 あの大量のケーブル類がクッションになってくれたのかもしれない。


 ――リザの言うことを聞いておくんだったな。


 リザは大人しくしていろと言ったし、足場が良くないことも指摘していた。

 それをろくに聞かずにほっつき歩いたのは僕だ。

 シャーロットが、なんてのは言い訳にはならない。彼女は素人で、僕は駆け出しとはいえプロフェッショナルなのだから。


 ――右足が随分痛むな……


 自身の心臓の鼓動に合わせるように、右足にずきんずきんと鈍痛が走る。

 暗くて見えないが、右足のふくらはぎのあたりが、何かに挟まっているように見える。

 負傷しているのだろうか。全身の痛みでなんだかどこが痛いのかよく分からないありさまで、足の怪我がどの程度なのかよく分からない。船外服は頑丈だが限度があるし衝撃にはあまり強くない。足が折れているのかもしれない。

 ヘルメットの中で警報が鳴りまくっているが、何の警報か一つ一つ確認している余裕はない。


「……動かせるかな」


 足はがっつりと挟まれているという様子ではない。右足をちょっと左に動かせば自由になりそうだ。

 さっさとこんなところとはおさらばして、リザと合流しなくては。

 僕はそれから、ろくすっぽ考えずに、無造作に、本当に軽率に、手で右足を右側から押すようにして、右足を解放しようした。

 そして――


「――!」


 次の瞬間、僕は脳髄を貫くような凄まじい激痛とともに、声にならない絶叫を上げることになった。


 ただ挟まっていただけではない。

 いたのだ。


 今や僕の右足が自由になった代わりに、その金属板だかなんだかが食い込んでいた部分、長さ一〇センチ深さ三センチほどの部分が、そのまま傷口として開くことになった。

 しかも周囲はだ。

 僕のふくらはぎの傷つけられた血管から、そして穴の空いた船外服から、まるで噴水か何かみたいに勢いよく血が噴き出した。


「ライル!」


 二秒ほど遅れて、ようやくシャーロットが悲鳴を上げるのが聞こえた。

 我ながらぞっとするようなペースで血液が失われつつあるのが目に見える。一刻の猶予もない。

 即座に訓練通りに手が動いたのは我ながら少しは褒められてもいいと思う。

 僕は片手で太ももの止血点を押さえながら、もう片方の手でポケットに仕舞われている救急キットに手を突っ込み、伸縮性の繊維でできた止血帯を取り出した。

 そして、震える手でそれを太ももに巻き付けると、バックルの横に付いたピンを引き抜く。

 すると、すぐに圧縮空気によって止血帯が膨らみ太ももの血管を圧迫し始めた。この間、ほんの数秒。


「ライル……」


 シャーロットが怯えきった目でその様子を見ている。

 彼女はこのような状況に適応できるような慣熟訓練は受けていない。ましてや、『人間である僕が彼女を庇って重傷を負ったという事実』は、ロボットにとって極めて危険だ。

 一度どこか離れたところにやった方がいい。


「シャーロット、『命令』だ。


 この状況下でそれだけ言えたのは我ながらなかなか大したものだと思う。

 だがシャーロットへの気配りができるのはそこまでだ。僕も彼女のことを気にしているどころではない。

 足からの出血がいまだに止まってくれていないのだ。

 救急キットに入っている止血帯は簡単に使える代わりに、患部の壊死などの二次的な事故を避けるため、血流を完全には止めないように設計されている。そのため、勢いよく吹き出すことはなくなったものの、いまだ出血は少なからぬ勢いで続いている。

 船外服の気密が破れたことと、周囲が真空であることが実にまずい。


 ……あまり時間がないな……


 止血帯だけでは間に合わないことを悟った僕は、腰のポーチから別のものを取り出した。

 救急キットにはバンデージなども含まれてはいたが、長さ一〇センチもの傷を咄嗟に塞げるようなものはない。

 だから取り出したのは、船外服を切ることのできる特殊鋼で作られたハサミと……ダクトテープだ。

 数百年以上に渡ってマイナーチェンジされ続けながらも、あらゆるものの応急修理に使われてきたベストセラーの粘着テープである。

 現代においては現場での出番もめっきり減った骨董品のごとき道具ではあるが、僕の父親代わりであり師でもあったベイカー船長が男の道具だからと僕らに持たせていた代物だ。


 船外服の穴をハサミで広げて、傷口を無理矢理貼り合わせ、船外服の穴を塞ぎ、何なら止血帯の上からもう一重縛り上げて、そうすればしばらくは持つ……はずなのだ……


 だが……無理だった。


 我ながら止血帯の使用までは最速の処置だったとは思うのだが、それでも最初のほんの数秒で急激に血液を失ったのは良くなかった。既に意識が朦朧としていて指先にも力が入らない。

 僕の手からダクトテープが落ちる。

 音もなくその辺を転がっていくダクトテープを僕は半ば諦め気味に見送ることになった。


 ――参ったなぁ


 与圧下であれば止血帯だけで十分に持ちこたえる程度の負傷だが、この真空下ではまるで傷口からポンプで血液を吸い出されているに等しい。

 ヘルメット内の与圧は保たれているため酸欠で即座に昏倒する事態だけは免れてはいるが、どちらにしても長くは持つまい。

 今の出血のペースであと何分持つだろうか。それまでに上にいるリザが助けに来てくれるかどうか。救難信号は出ているはずなので、僕に問題が発生したことにリザも気付いてはいるはずだ。


「ラ……イル……」


 シャーロットがか細い声で僕の名を呼ぶのが聞こえた。

 ――あっち向いてろって言ったのに……

 僕のそんな心の声は彼女には届かなかったようで、あろうことか彼女が足下に転がったダクトテープを手に取り、僕を見る。

 ――ダメだ、違う、そうじゃない……


「シャーロット……リザを呼んできて……」

「でも……」


 僕がどうにか絞り出した言葉に、彼女は反論する。。

 シャーロットのヘルメットはあちこち塗料を塗りたくったように赤く染まっていた。

 最初に見た時は僕の血が飛んだものだと思ったのだが、そうではなかった。

 それは彼女自身の血だった。

 彼女の目と鼻から流れ出した血だった。

 シャーロットの目と鼻からぼたぼたと赤黒い血が流れ出している。


「これを……使えばいい……のね……?」


 彼女はヘルメットの内側を真っ赤に塗らしながら、ダクトテープを手に僕に向き直る。

 ぐったりとした僕の手元からハサミを取り出した彼女の目は、圧倒的な決意に満ちている。

 ――ダメだ

 三原則による彼女へのストレスは既に限界に達していた。

 いや、とっくに限界を大きく超えているのだろう。目や鼻の毛細血管に目に見えるダメージがあるほどなのだ。可愛らしい少女の顔は今や血まみれになっている。

 彼女が卒倒していないのは、目の前で僕の危機がまだ終わっていないからに過ぎない。

 これ以上彼女を、僕の負傷という現実に向き合わせたら、僕の危機という緊張の糸が途切れた瞬間に、彼女は破滅的に


「……リザを……呼ぶんだ……」

「……あたしがやる」


 この場合、最も良いのはシャーロットがリザを呼びに行くことだ。

 僕はリザが来るまで持てばよく、そしてシャーロットは一刻も早く僕から離さなければ危険だ。つまり二人とも助かるための最も勝算の良いプランは、シャーロットがリザを呼びに行くことなのだ。

 停電してリザ本体との通信が途絶しているとはいえ、上にはリトル・リザがいる。

 リザ本体はもとより、リトル・リザの量子頭脳も第一原則ストレスに耐えて行動するための慣熟訓練は受けており、このような場合でも動じることなく医療処置を行うことができる。その圧倒的な膂力で僕を運び出すことも容易だ。


 だがシャーロットはそれを選択しなかった。

 僕の命令に従わなかった。


 リトル・リザが救難信号で僕の異常に気付いているなら、シャーロットが呼びに行こうが行くまいが、リザがここまで来る時間は大して変わらない。

 だから、僕の救命を考えるなら、今ここでシャーロットが僕を手当するのがベストに決まっている。

 それは僕だって分かっている。

 だから彼女だって分かっていたのだろう。

 ――でも、それじゃあ、シャーロットは……


 だが、その後がどうなったか見届けることなく、僕の意識はゆっくりと暗転した。

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