聖なる天蓋

 トーマスによって差し出された本は、紙の本だった。

 ……紙の本?

 全く予想しなかったものが出てきて、僕は少々困惑する。

 黒い表紙はタイトルらしきものはなく、代わりにエンボス加工されたエンブレムのようなものが刻まれている。

 サイズは多少無理をすればポケットにも収まる程度で厚さもさほどではない。見たところ保存状態は良好のようだがいつの時代のものかはぱっと見には分からない。

 現代において本といえば電子化されたものが普通だ。数百年単位で新品同様を保つような紙素材は存在しているし、製本技術も進歩はしているのだが、やはり物理的にかさばるものは宇宙では敬遠されがちなのだ。

 それでもなお紙の本をとなると、ある種のステータスとしての所有を意味することが多い。


「トーマスさん、この本は?」

「以前お話しした例の遺体が持っていたものでございます」


 例の遺体?

 何のことだろうかと首を傾げてから膝を打つ。アトリエで話を聞いた、トーマスの作風が変わった原因になったというアレのことか。

 その遺体を回収した時に、遺品を失敬しておいたということなのだろう。引き継ぐ遺族がいようはずもなく、単にまとめて廃棄物処理プラントに送るだけのものなので、トーマスがそれを貰い受けること自体には別段問題はない。

 つまりこの本はシミュラント達が誕生してから作られたものではなく、アストリアで人間が健在だったころの、人間の持ち物だということになる。


「拝見しても?」

「ええ、どうぞ」


 触った途端にいきなり崩れたりすることもあるまいが、念のため慎重に手に取る。

 実のところ僕自身、紙の本を手にしたことは太陽系にいた頃から数えてもほとんどない。本の扱い方なんてよく知らないので、おっかなびっくりだ。

 その本は見た目通り軽く、黒い表紙は少しざらざらとしている。幸い保存状態は良く痛みはほとんどない。

 恐る恐る一ページ目を開くと、そこにはまず何やら奇妙な図がびっしりと描かれていた。

 とりあえず疑問点は後でまとめて解消するとして、ゆっくりとページを繰って読み進めていく。

 そして半分近くまで流し読みしたところで首を傾げた。


 ――何だこれ?


 僕は当初、その本を小説か何かだと思ったのだがどうやらそうではないようだ。

 これは小説ではない。

 ページをめくっていくと、創造者が宇宙を作り、人間を作り、人間以外の全てのものを人間に従うべしと定め、人間に律法と道徳を授け……そのような物語が続いている。

 つまりこれは恐らく、何らかの教義を語る、聖典なのだ。

 僕が真っ先に思いついたのは、アストリアを滅亡へと導いたという反地球主義者にしてアストリア最後の指導者、ウィリアム・ホーキンスのことだった。

 曰く、アストリアこそが創造主によって選ばれた神の箱船であり、今こそ地球との関係を絶って神の信徒だけの世界を作るのだ、とかなんとか言って船を自滅させたあの狂人だ。

 そして、この聖典は、まさにそれだった。


「ホーキンス氏の教団の……」

「左様でございます」

「……なるほど」


 聖典によるとアストリアは、神の意思が宿る神の箱船であり、神を忘れた邪悪なる地球に代わり、新たなる約束の地となるよう定められたものなのだという。

 ホーキンスはそれを光輝く神の代理人と邂逅することで知り、この聖典の文書を与えられたのだ、と。

 ――頭が痛くなってきた。とりあえずアストリアの破滅に関して誰が悪いかはともかく、ホーキンスなる人物の精神状態がおよそ健全でなかったことくらいは認めても良さそうだ。

 僕は小さく嘆息しつつ、トーマスに向き直る。


「それで、一体これが何の――」


 と聞き返そうとして、僕ははたと思い至った。

 光?

 神?

 ちょっと前にそういう話をした気がする。

 というか、気がするではない。目の前の男が言ったことではないか。


「あー、つまり……これを回収した時に、トーマスさんも……その光の人影に、会った?」

「……ええ」


 もちろん彼が冗談を言っている様子は全く無い。ロボットである彼が、人間である僕を必要もなく惑わせるようなジョークを言うはずがない。

 トーマスはいたって真剣に、それを言っている。

 僕が更に聖典のページをめくる傍で、トーマスが続ける。


「以前お話した時には、申し上げることができませんでした。私はロボットです。ロボットの体験にしてはあまりに尋常ならざることです。恐らく突然聞かされても、ライル様は私が狂ったとしか思われなかったでしょう」

「それはまぁ、そうかもしれませんね」


 今この瞬間もトーマスが発狂したのではないかと疑っているくらいだ。

 どう考えても、ホーキンスとトーマスはともに気が触れているという方が合理的な解釈だし理にかなっている。僕なら迷わずこちらに一票を投じたいところだ。

 だが一応考えてみようではないか。

 この船には本当に、人間とは違う何らかの知的存在がいる、もしくは接触を受けている?


「あー、トーマスさん。つまりそれは、いわゆる、神だか神の代理人だかであると?」

「荒唐無稽な話であろうとは私も存じております。あれが何だったのか、私に断ずることは致しかねます。ですが、何かがいたのです」

「例の絵の人物ですね。彼から……一応仮に彼としておきますが……何かを伝えられたのですか?」


 トーマスのアトリエで見せられた絵を思い出す。

 キャンバスの真ん中で両手を広げ、何かを訴えかけている白い人影。形だけなら、人間にも人型ロボットにも見える。性別は……分からなかった。

 とりあえず地球の多くの宗教では、造物主とやらを男性神としているので、今はそれを踏襲して『彼』と呼んでおこう。

 そして、『彼』から何か『預言』を受けたのかという僕の問いに対し、トーマスはしばらく考え込んだ後、小さく首を横に振った。


「いえ、彼は無言でした。ただ、彼がいなくなった後に、遺体の手元にこの聖典が落ちていることに気付いたのです。後で内容をアイラに確認させたところ、聖典はホーキンス氏の教団のものであることが分かりました」

「……なるほど。アイラも彼の存在を認識していたのでしょうか? もしそうなら記録を確認したいところですが」

「いえ、アイラには『見えて』おりませんでした。アイラからは私がただぼんやりと立っていたように見えたそうです」


 ――参ったな。

 『預言』はなかったが、代わりにこの本がそこに残されていた。トーマスはそのことに意味を見いだしているようだ。

 僕にはこれをどう判断していのか分からない。


 第一候補。トーマスは本当に神に邂逅した。なんてこった。だいたい神ってなんだ? 宇宙を作った造物主とかそういうのか?

 第二候補。トーマスは遺体を目撃した混乱のあまり幻覚を見ていた。これが一番話が早いのでこれだと僕としても助かる。

 第三候補。それ以外。例えばまぁ宇宙人がファーストコンタクトを求めてきているのだとか。アイラも知らないうちに開発されたロボットが彷徨っているとか。色々ある。可能性だけなら無限に思いつく。


 だが真実がどうあれ、目下の問題は明白だ。

 つまりトーマスはそれが実在すると信じている。だから約束の地であるアストリアを捨てるなど以ての外であると考えている。

 僕にとって問題なのは要するにそこだ。

 眉を寄せつつ僕は更にページをめくり、別のやや些細な新しい違和感に思い至った。疑問のページをトーマスに見せながら言う。


「うーん、この聖典によると、ホーキンス氏の会った神の代理人というのは、光り輝く炎の剣と、六枚の翼を持っていた、と書いてあります。あの絵には、そんなものはなかった気がしますね」

「剣と翼……ですか。ふむ……? ああ、なるほど……そう読み取れることが書いてありますね……。あの絵は私が記憶のままに描いたものですから、その辺りは何とも。剣と……翼……?」

「相手によって姿を変えるとか、ホーキンス氏が見たものとは別個体だったとか?」

「さあ、そこまでは……」


 僕の開いたページを見つめながら、トーマスは首を傾げている。そもそも彼が作られてからのアストリアの環境では、剣とか翼とか言われてもぴんと来るイメージがないのかもしれない。

 ホーキンスの見たものと、トーマスの見たものは、本当に同じものだったのだろうか?

 いや、そもそも実在するとしての話ではあるが……

 まあ、これも予断を行うべき問題ではないだろう。

 目の前の問題を脳内で整理してみるも、どうにも判断に困る話である。僕は他人の信仰を否定するほど狭量な人間であるつもりはないが、だからといって他人の信仰で僕の判断を変えるつもりもないのだ。


「トーマスさん。僕としては、僕が直接見ていないし記録もないものに対して、『はいそうですか』とは言いづらいです。今のところエオースのミッションを続けるという僕の意思に変更はありません」

「……左様でございますか」


 僕の言葉にトーマスははっきりと落胆の表情を見せていた。

 正直なところ、今の話だけだとやはり、ホーキンスは狂っていて、トーマスは混乱と動揺のあまり幻覚を見ただけ、というだけでも説明が付いてしまう。これだけでは弱いと言わざるを得ない。

 だが一方で『何か』がある可能性も否定もできない。少なくともトーマスが意図的に僕にウソをついているとは思えない。

 だから僕は付け加える。


「ですが、今後その存在について、何か気付いたことがあれば報告して下さい。僕自身が直接確認できれば話は別ですから」


 僕は内心「本当にそれが友好的な存在かも分からないので」と付け足したが、口にはしなかった。

 ともかく、それで多少は気を取り直したのか、トーマスは少しだけ表情を和らげて頷く。


「……承知致しました」

「それから――」


 もう一つ、これは極めて重要なことだ。

 慎重さを要する質問ではあるが確認しておかなければならない。


「――トーマスさん、もしその『神』の言葉と三原則が矛盾したら、あなたはどうしますか?」

「それは……私はロボットです。ライル様の身を危険に晒すことは決して致しません」

「それが確認できれば結構です」


 そこさえ守られているのであれば、多少不条理な話が出てきても何とかなる。

 しかし、困った。これでますますアストリアを共食い修理に使う話を切り出しづらくなってしまったではないか。

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